ぴーちくぱーちく

うるさーーーい!

アニー・ホール

家の前の道路を使って、長なわとびをしている小学生くらいの男女。なわとびの片端を鉄柵に結びつけて、もう片端を男の子が持ち、女の子が入ってきやすいようにゆっくりと縄を回し始める。スピードがないぶん安定感に欠け、持ち上げられたロープは空中でたゆたゆと震えているが、その冗長性がある感じが「大丈夫だよ、怖くないよ」とやさしく語りかけてくるようでもある。ひゅういん、ひゅういん、ひょういん、ひゅういん……回る紐を見つめタイミングをうかがっていた少女は、決心して回転する縄の中に飛び込む。瞬間、ロープを持つ男の子がニヤッと笑い、回転音が「ひゅういん」から「ひゅん」に変わる。突然のテンポアップに女の子の足はついていけず、バシンと紐がぶつかり、痛い!と彼女は叫ぶ。

 

なんて意地悪をするんだ、とそれを眺めていた僕は思った。けれど、イタズラが成功したことに満足した男の子は嫌味のない笑い声をあげ、女の子のほうも「やられちゃったわ」というふうに一緒に笑っている。そこに陰湿な雰囲気はなく、2人の間には信頼関係のようなものがあることが見て取れた。男の子のほうに彼女を傷つけようという思いはなく、遊びの中にサプライズの要素を入れ、その変化を一緒に楽しみたいという意図が彼の中にあり、何も言わなくとも女の子にそれが伝わっている。まるで「アニー・ホール」だ、と僕は思う。

 

ウディ・アレン(関係ないが文字で表記するときはウディ・アレンと書くが、声に出して言うときはウッディ・アレンと僕は言う)の「アニー・ホール」で、主人公のアルビー・シンガーとヒロインのアニー・ホールがまだ仲良く暮らしていた時代の回想として、台所で一緒に料理をしているシーンがある。床に落っこちたロブスターをアニーが拾い上げて、アルビーのほうに向けると彼は嫌がって冷蔵庫の影に逃げる。その様子を見たアニーは大爆笑。アルビーはそのエビをはやくどうにかしろと急かすが、彼がおびえるのがおかしくてたまらないアニーはまったくとりあわず、アルビーはいやいやながらもロブスターを彼女から奪って鍋の中に放り込む。彼の情けない姿が面白くて、ついついからかってしまう彼女のちょっとした意地悪な気持ち。ロブスターに触るのは本当に嫌なのだけど、彼女が笑ってくれるならちょっとがんばってしまう彼。そのあと彼らは破局に向かい、仲がよかったころはファニーに思えたアルビーの臆病な部分を、アニーは嫌で嫌でたまらないと非難するようになる。だけれど、ふたりにはたしかに幸せだったときがあり、あのロブスターではしゃいでいた時間は心が通じ合っていたことを僕は知っている。

 

 

なわとびする男女の横を通り過ぎて、家に帰る。いま息子は小学3年生で、まだ歩くとき手を繋いでくれるけれど、あと何年かしたらもうこうやって一緒に遊ぶこともなくなってしまう。自分には反抗期のようなものはなかったけれど、それでも中学生のとき親にどんな態度を取っていたか考えれば、想像がつく。いま感じている親密さは、いつか失われてしまうものなのかもしれない。けれども、たしかにそこに親密さはあったということを、忘れないでいたい。アニー・ホールに嫌われても、たしかにアニー・ホールと過ごした幸せな時間はあったのだと、僕が見てそれを知っているように。

のんびりとした空気の中をウイルス入りの風が吹き抜けていく

今年の冬は短かったように思う。12月のギリギリまであまり本格的な寒さを感じず、2月の後半には20度超えをする日が現れ、3月になって逆に雪の降る日があったりもしたが、全体的に見て凍えるような冬の雰囲気を味わう時間は短かった。暖かい日差しの中を隣の駅まで歩いていこうと、息子と緑道を散歩する。木を見上げれば桜が散り、地面からも黄色や白の花が咲き、それをひとつひとつ眺めながら「なんていう名前だろうね」「写真に撮っておいて、あとで調べてみようか」なんて話す。遊歩道に落ちているものとしては異例の長さの枝(僕の身長近く、160cmはあった)を見つけた息子は、大喜びでそれを拾い、あちこちに突き刺して回っている。「人にぶつかると危ないから、駅が近づいてきたら捨てるんだよ」と注意すると、聞いているのだかいないのだか、ぶんっと枝を一振りして声をあげずに返事をされた。まあいい、どうせあまり人など歩いていないのだから。

 

f:id:IIYAN:20200406134202j:plain

 

平日の昼間に、子供と一緒にこんなふうな時間を過ごすことがあるなんて。電車で行けば2分の道を、たっぷり30分以上かけて歩く。それだけのことなのだが、この10年くらい時間が余っているなんていうことはほとんどなかったものだから、ずいぶんと贅沢をしているように感じる。休みの日となると「たまの休みなんだから」と家事をしたり、どこかに出かけたり、本当の意味で休むことなんて少なかった。それが今では平日、しかも仕事の合間に軽く外に出ただけのタイミングなのだが、自分のペースで息抜きをすることができる。会社で決まった時間を過ごす仕事のやり方をしているときには、考えられなかったことだ。

 

のんびりとした空気の中をウイルス入りの風が吹き抜けていく。

 

-

コロナのあれこれで外出自粛が騒がれている。自粛というのは自主的にするから自粛なのであって要請されてするものではないとか、それはそうなんだけども、それはそうとして感染を避けるためには外出は控えるべきというのは変わらない事実としてあって。昨日ついに緊急事態宣言の話が出て、でも「緊急事態宣言が出ても、日本では外出を禁止する強制力はないから自粛要請と大差ない」みたいな話もみんなしている。でも僕はあんまそう思っていなくて。「土日の外出を自粛をしろ」って言われたら、なんか結構みんな真剣に外に出ちゃいけないみたいな雰囲気を出して、スーパーでは買い占めのため品切れみたいなことが起きている。人はムードに流されるので「緊急事態宣言」が出たら、やっぱり緊急事態として動かなくてはという気持ちに多少はなると思う。そうなってくると、外に出るなって言われているのに外出してる人間を非常識だと攻撃してくるやつが現れる。大事なのは感染しないために他人に近づかないということで、なぜ外出を自粛しているかということを考えず「外出しているやつはバカ」ということに、緊急事態宣言下ではなってしまう可能性がある。実際に、すでにそういうことを言う人間は現れている。

 

僕は仕事は変わらずあるけれど、テレワークになった影響で殆どの時間を自宅で過ごしている。息子も学校が休校になってしまったのでずっと家にいて、本屋で購入したドリルなんかを日中はやりつつ、ずっと閉じこもっているとなまってしまうので、僕の仕事の空き時間を狙って一緒に公園に行って鬼ごっこをしたり体を動かすようにしている。ゲームやマンガが好きでインドア派な息子は「外に行くよ」というと面倒臭がって用意することをしぶるのだけれど、一度外に出てしまえば気持ちがいいのか「もう帰るよ」と声をかけてもまだもう少し遊びたいと駄々をこねたりもする。そんなとき、じゃあもうちょっとだけ遊んでおいでといって息子を野に放し、僕はベンチに座ってそれをぼんやり眺めていたりする。

 

ちょっと前までは考えられないくらい、ゆったりとした時間の過ごし方をしている。けれども「外出自粛」を「絶対に外に出るな!」という意味に受け止めている人からすると、なんてやつらだ!と思われるのかも知れない。実際には、こんなちょっとでも外に出ないで家に閉じこもっているほうが感染のリスクは抑えられるのだろうけれど、動きたい盛りの小学生を縛り付けておくのもむずかしい。どうするのが正解かわからない。

 

かえる目細馬宏通さん(https://twitter.com/kaerusan)が先週からツイキャスhttps://twitcasting.tv/kaerusan/show/)を始めて、それをたまに聞いている。その中で外出の是非について持論を述べていて「今日、古本屋に一件行って本屋に一件行った」「そういうのはいかんという人もいるでしょうが、私は、これからはこういうのが毎日試されるんだと思っています」「いま古本屋に行くのが現在の状況に照らし合わせて正しいかというのは、やはり出かけるにあたりちょっとは考える」と喋っていて、淡々と話しているのを聞いていると当たり前のことを言ってるように感じてしまうのだけど。その「ちょっと考える」ことを「非常事態なんだから」とやめてしまうことが僕は恐ろしい。細馬さんがどんなことをちょっと考えたのかは、4月4日のツイキャスhttps://twitcasting.tv/kaerusan/movie/603595958)を見て確かめてほしい。トークだけじゃなくギターの弾き語りも聞けて、気分転換にとてもいいですよ。

ズルをして得をすることよりも、自分がイヤなやつになってしまうことのほうが恐ろしい

f:id:IIYAN:20200401011813j:plain

富安陽子(著)/大庭賢哉 (イラスト)

「樹のことばと石の封印」

風のことばを聞きとる「風の耳」を持つ長女ユイ、過去や未来のできごとを視る「時の目」を持つ弟・タクミ、生き物の言葉を伝える「魂よせの口」を持つ妹・モエ、人間のパパと狐のママが結婚して生まれた、不思議な能力を持つ信田家の子供たちを描くシノダ!シリーズ。2冊目「樹のことばと石の封印」では、次元を越えて不思議な森に迷い込んだ3人が村のお館様と協力し、人間を石に変えてしまう恐ろしい怪物・オロチと対決!

 

ユイたちは、オロチから逃げるため洞窟を走っている。ここは自分が食い止めると、お館様はユイたちを逃しオロチを迎え撃つ準備をした。だけれど、見たものを石化してしまう恐ろしい目を持っているオロチが相手では、勝算はないだろう。お館様はきっと負け、石になってしまう。追いかけてくるオロチから少しでも遠くへ行こうと焦る、ユイの足が止まる。いまここで振り返らず、走って逃げれば自分たちは助かるのかもしれない。けれども、恐怖を他人に押し付けた、みっともない自分から逃げることはできなくなるだろう。「おねえちゃん!」と弟のタクミが叫び、引き止める。けれどもユイは止まらなかった。オロチに石にされるよりも、もっと恐ろしいことを彼女は知っていたからだ。

 

-

 

なんでそんな話になったのかは忘れたが、バーで友人とお酒を飲んでいるときに「浮気をしたいと思うか」というような話になった。僕は結婚しているけれども、妻以外の女の子のことも魅力的に感じているし、そういう相手とセックスをしたいという気持ちを持っていないわけではない。気を抜いたら浮気をしてしまうんじゃないかという恐怖を持って生活している。つまり「浮気をしたい」という気持ちを理性で制して「浮気をしない」でいるわけだ。

 

じゃあなぜ「浮気をしない」のか。浮気をするという行為は、バレなければ嘘をついてもいいというズルさがあり、自分が得をするために約束をやぶったり不正を働く人間になるということと繋がっている。そういう、周りにいたら嫌だなと思う、信用ならないくだらないやつに自分がなってしまい、一生「浮気をする人間」として生きていくことを考えると、ちょっと耐えられない。だから僕は浮気をしないです、という話をした。そうしたら目の前にいた女の子たちは「え、ちょっと気持ち悪いんだけど」とひいた感じで、グラスに入ったお酒を口に入れた。

 

-

 「樹のことばと石の封印」で長女のユイは、自分が助かるために他人を犠牲にすることのほうが、危険な目に遭うことよりももっと恐ろしいことだと考え、勇気を振り絞ってオロチに立ち向かう。そのシーンを読みながら僕は、彼女に強く共感した。

 

オロチなんて恐ろしいやつがいなくても、日常のちょっとした場面で、ちょっとくらいのズルならいいさ、そんな風な気持ちを持ってしまうことはよくある。ズルをして得をすることよりも、自分がイヤなやつになってしまうことのほうが恐ろしい。そのことを忘れずにいたい。

それはすこし、死ぬことを考えることに似ていた

ラクラっとして、全身がだるさに支配される。なにもできない、なにもしたくないという脱力感を味わっていると、あんなに熱く火照っていた体がスーッと軽くなり、感覚領域が自分の外へと広がっていくような錯覚に襲われる。遠くに見える木の葉の色や、小屋の屋根に当たる雨粒の音など、普段ならば気にならないものが妙にくっきりと繊細に知覚され、でたらめに回していたダイヤルが合いチャンネルが繋がるように、その事象に対して自分が釘付けになる。

 

ドクンドクンとこめかみが脈打ち、体に負担がかかっていることを感じる。

心臓の鼓動の早さや、息づかいの荒さに対してやけに心だけは落ち着いており、頭が真っ白になっていく。

 

それはすこし、死ぬことを考えることに似ていた。

 

-

この数年サウナが世間的にブームになっており、周りでもちらほらハマっている人間がいる。そんなブームの立役者というか、サウナにハマっているみんなが口を揃えていう「整った」という言葉がある。これは要するにサウナで温まった体を水風呂で冷やすという工程を繰り返すとスピリチュアルな気分が味わえるという遊びで、血圧を狂わせ、体に負担をかけることでハイな状態を作り出す行為なのだけど、それがなんでか身体にいいっぽい売り文句で広まってて「サウナで健康に!」みたいになってるのが、少し気になってる。別に僕は専門家じゃないので本当に健康にいいのかもしれないけど。僕が最初に「整う」って言葉を見たのはタナカカツキさんの「サ道」で、あの中では別に健康にいいみたいなノリではなく「合法的にスピれるやべー遊び見つけた」みたいなノリで描かれてたと思う。なんか「整う」っていう言葉のイメージだけが独り歩きしているんじゃないかという気持ち悪さをずっと感じている。

 

僕はサウナが苦手というか、あんまりその「整う」という感覚を味わったことがなくて、温泉や銭湯にくっついてるサウナに気まぐれに入っては「熱いなー息苦しいなー」と思って、それで終わっているのだけど、もしかするとあれが「整う」だったんじゃないかという体験を過去にしたことはある。

 

まだ二十歳ぐらいの頃(というとわりと最近の話のような気もしてしまうけど、今36歳なのでもう16年も前だ)京王線調布駅に住んでいて、当時一緒にテクノユニットをやっていたドシーくんが近所に住んでいたので、暇だった僕らはたまによみうりランド駅にあるスーパー銭湯の「丘の湯」に行き、お風呂に入って食事処でダラダラとビールを飲んだりしていた。「丘の湯」には室内風呂のほかに屋外風呂があって、僕は寝転び湯という背中をお湯に浸しながらクールダウンできる場所が好きだった。

 

その日は、あまり天気がよくなかった。風呂に入っている間に小雨が降ってきて、あーあ…という気分を抱えながらも、別に湯からあがるでなく濡れるに任せて外風呂に入りつづけていた。雨で少し濡れていたからか、いつもだったらすぐにあがりたくなるのに少し長く湯に浸かっていられて、立ち上がったときにちょっと体が火照っていると感じた。だから僕は脱衣所にすぐ向かうのじゃなく、休んでからあがろうと、寝転び湯に体を預けて、ぼーっと上を眺めていた。

 

ラクラっとして、全身がだるさに支配される。なにもできない、なにもしたくないという脱力感を味わっていると、あんなに熱く火照っていた体がスーッと軽くなり、感覚領域が自分の外へと広がっていくような錯覚に襲われる。遠くに見える木の葉の色や、小屋の屋根に当たる雨粒の音など、普段ならば気にならないものが妙にくっきりと繊細に知覚され、でたらめに回していたダイヤルが合いチャンネルが繋がるように、その事象に対して自分が釘付けになる。

 

ドクンドクンとこめかみが脈打ち、体に負担がかかっていることを感じる。

心臓の鼓動の早さや、息づかいの荒さに対してやけに心だけは落ち着いており、頭が真っ白になっていく。

 

-

あのとき味わった感覚が、もしかすると「整う」だったのかもしれないと、サウナの話を聞くたびに思い出す。

サウナは気持ちがいい、体が楽になる、いろんな感想を耳にする。

 

僕にとって

それはすこし、死ぬことを考えることに似ていた。

瞳子

「何が嫌いかより何が好きかで自分を語れよ!!!」がほんそれ名言として時流を席巻しているけれど、自分は吉野朔実の「瞳子」で出てきた「好きなものが同じより、嫌いなものが同じほうがいいような気がするんだ」という言葉が忘れられない。もしかすると、この2つは別に対立する考え方ではないのかもしれないけれど。嫌いなものが好きな人と仲良くできるのだろうかと、最近はよく考える。

f:id:IIYAN:20191226132420j:plain

 

ワワフラミンゴ「くも行き」を観て

ワワフラミンゴの公演「くも行き」を観てきた。

 

f:id:IIYAN:20191219020155j:plain

 

初日はアフタートークがついていて、トークゲストで来ていた橋龍さん(ウンゲツィーファ)は「1時間以上あったのに、なにも思い出せない。なにもなかったなって思っちゃうのが逆にすごい」、山内晶さん(キリグス)は「話の意味とかを破壊している」という感想を出し、それに対して劇団代表の鳥山フキさんが「話をしているとき人は必ずしもそのことだけを考えているわけじゃない」「いまこうして観ているあなたたちも、目の前のものを観ながら、わりかしいろんなことを考えてると思いますよ」と、今回の公演(もしくは自分の作ろうとしているもの)について語っていたのが印象的だった。

 

いきなり劇そのものではなくアフタートークの話を始めてしまったけれども、そもそも「くも行き」という舞台は筋道を立てて語れるような物語や出来事はなくて、観ている間はずっと狐につままれているような気分だった。例えばおじさんと青年が会話をしていると、突然に青年が透明人間になってしまっておじさんは困る。そこに大量の雪が降ってきて舞台を散らかし、青年とおじさんは雪の片付けを始め、青年が透明人間になったことは解決しないまま話は一区切りし、次のシーンに移ってしまう。ひとつひとつの会話が軽妙だったり“突然に透明人間になる”“大量の雪が降ってくる”みたいなイベントは豊富だから観ていて別に飽きないのだけど「え、今の場面はなにを観せられていたの?どうなったの?」という事態の連続を味わうことになる。

 

そこで舞台を読み解く鍵となるのが、アフタートークで鳥山さんが言っていた「人間は常に別のことを考えてる」という話。何か大事な話をしているときに、うわのそらで別のことを考えている状態ってあって、その「うわのそら」の部分って面白そうだよねってことなんじゃないか。

 

さっきの大量の雪が降ってくる場面では、観客がビクッとするくらいの量の白い塊が天井から落ちてくるわけだけど、その場面でおじさんが言うセリフが「雪のおかげでちょっと見えたよ(透明人間だけど)」というもので。異常事態が起きているときこの人は「あ、ちょっと見えた」ってことが一番気になっていたんだってことが、このセリフからわかる。そういう観客の視点から少しずれた感想が差し込まれるのは、ちょっとうわのそら感があった。

 

そもそも雪が降って来る前には、人が透明になるっていう大変なことが起きていて、それについて話し合ってたのに雪が降ってきたせいでうやむやになって、とにかく話がずらされ続けている。そういう1つの物事に思考をフォーカスさせない「ずっと気が散りっぱなし」の状態を、ワワフラミンゴは作ろうとしているのかもしれない。

 

このあいだ、わりかし舞台を観に行っている友達と飲んだとき、僕は普段あまり演劇を観ないので、ほかの娯楽と比べて演劇の面白いところってどこなのかってことを訊いたら「舞台の上でいろんなことが起きていて、いろんな観方ができるところがいい。観方が固定されている映画のような作りのものは、あまり演劇でやる意味を感じない」という説明をされ、わかるようなわからないようなと思っていた。でもワワフラミンゴの舞台を観て、ちょっとその「観方が固定されていない」という考え方がわかった気がする。

 

長々書いたけど、人の感想とか「ふーん」って感じでしょう。僕もそう思うので、観て自分で考えてください。

 

ワワフラミンゴ「くも行き」見逃すな!まだ間に合う!

2019年12月18日(水)~22日(日)

東京芸術劇場 シアターイース

http://wawaflamingo.com/next