”Transitory Garden” は「仮の庭園」

いろいろあって、このblogは閉じることになりました。そのうち消えると思います。(アンテナ登録は削除ください。あと、ROM(こちらのアンテナ)は続行します。)
 
もしかして1年くらいでまた再開されるかも知れませんが、そのときは異なるハンドルやblogで。
それでは、アデユー!

斜めから見ると(関連リンク)

http://d.hatena.ne.jp/bmp/20041031#1099179137

情報分析も識別能力も無い奴が自分の意志で
政治メッセージを流すなんて、話になんねぇ

小泉のあれは意図的なパフォーマンスじゃなくて
馬鹿の一つ覚えなのか

自衛隊イラクの復興支援の為に活動し
米軍支援ではないなら
「人質に危害を加えた場合、日本は自衛隊を撤退させる」
と政治メッセージを出すべきだろ

たしかに、そう言われてみたらそのとおりだと思う。 ていうか、言われなくてもそう思え、かも。それと「テロに屈することはできない」なんてのも、まるでケンカの売り文句みたいなものだ。
 
http://d.hatena.ne.jp/moonlightmile/20041031

彼は自分探しのために世界を旅していたようだ
自分自身が進むべき道がもう見えてる人ならば
何を馬鹿なことやっているんだと思えばすんでしまうかもしれない
でも僕自身もバックパッカーとして当時相当危険であったインドへ行った
何がしたくて行ったかはわからない
ただ自分を見つめなおす機会になりえるかもしれないし、
日本人というものを強く認識するために行ったのかもしれない
彼を責める人もいるが、僕は彼を擁護したい
同じバックパッカーとして、同じ日本人として
そして、自分探しというのは使い古されているような気がするから
言葉を変えて、同じ「道」が見えない者として
本当に生きていて欲しかった

う〜ん、言葉もない。
 

無垢の非力(人質の香田証生さん死亡)

イラクでの香田さん人質事件について、書きかけのをまとめようとしているうちに、最悪の結果になってしまった。
いろいろblogを見ていて、成城トランスカレッジ id:seijotcpのchikiさんが 「香田証生、イラク、人質事件」キーワードめぐり」で書かれていたことにまったく同感、というかそこまで考えが至ってなかったのだけど、いろいろ考えさせられた。
 
いくつかのblogで見られるように、香田さんという人を馬鹿な奴だと非難するのは確かに簡単だろう。でも経緯はなんであれ、実際に命が失われるかどうかという境目にいて、テレビカメラの前で「助けてください」と懇願している者の表情や声を見聞きして、死んでも当然とか自分には関係ないと捨てておけるものだろうかという疑問を感じた。*1 彼はまさに死に最も近い者という意味で、レヴィナスのいう「他者」(寡婦、孤児、異邦人などと同列の大文字の他者)だったのではないだろうか。そうした者を前にして、高見に立って侮蔑したり、出来事と自分との切り離しに懸命な人間というのは、正直あまり信用できないと思ってる。もしも殺されるかもしれない立場に置かれた者に、同情や憐憫の気持ちが湧かないとしたら、少なくとも黙ってるのが作法というものでしょう。*2
とはいっても実際は、人を「他者」として見るというのは、なかなか出来るものではない。ものごとや人をあるがままに見ることを妨げる心理的なバイアスがかかるし、また共感能力というのも必要になってくる。私にしてもとくに共感たっぷりというわけではなく、実はchikiさんの視点をブースターにしたところもあったりする。共感というのはたしかに政治的に利用されることがあり、じっさい今回の悲劇を自分たちの政治主張にリンクさせようとする綱引きもすでに始まっている。*3 だけど共感はたんなる同意や馴れ合いとは違うし、何よりも「他者」認知がそこから始まる入口でもあると思う。
 
香田さんという人は無垢な人だったのだと思う。そうでなければ今のイラクで自分探しをするなどという発想などしないだろうし。もしかして無辜(innocence)といってもいいかもしれない。*4 無垢や無辜といった面を強調するのもなんだけど、ふつう人は憎悪とか敵意とかを心のなかに持つことがあり、したがって他人もそれを持つものだと認識する。だけど、そういう考えを持ち合わせていない人も世の中にはけっこういるのだ。いわゆる人を疑うということをしないというタイプだ。人それぞれ、頭や要領の良し悪しとか、注意深さに違いがあったり、それに運不運も重なったりして、人生には間違いやドジやミスというのはザラにあるものだ。だけど、だからといって他人からどうこう言われる筋合いなんかない。そして無垢な人というのは、けっこうドジで世渡りもヘタなので、たいていはいつも世界の端っこにいる。そしてたまたま人質とかになって注目を浴びたりすると世界の中心近くに引っぱり上げられ、そうするとこんどは妬まれて叩かれるというパターン。(無垢な人の考えることってよく分からないところがあるけど、嫉妬に駆られる自己愛人間の考えることって分かりやすくてツマラナイ。)
知らない土地に行けば、そしてとくに土地事情に疎ければ、災難や悲劇に見舞われることもあったりする。私も昔まだウブだったころ、ヨーロッパを旅行していたとき、話し掛けてきた二人組に睡眠薬入りのジュースを飲まされたことがあって、けっきょく被害は時間だけだったけど(一日分余計にベッドで寝てた)、あれでもし薬の量がずっと多ければ、貨物便で日本に帰って来てた可能性もまったくないわけではない。ほんとバカみたい話だけど、他人にとやかく言われる筋合いはない。バックパックはやったことがないけれど、経験豊富な人なら危ない目に会ってないことのほうが少ないと思うし、経験に応じて危険回避のノウハウも蓄積されてくるものだろう。つまり、人生いろいろあるってこと。
どこかのblogで「24歳にもなってまだ自分探しなんて」と書いてたのがあった。そう書いてた本人は自分というものが見つかったのだろうか。単に就職先や進路が決まったというのでは、自分が探せたことにはならない。そもそも人間は自己の中心に空を抱えているものなので、そうだとしたらいくら自分を掘り下げていっても、自分というものに到達することはできない。自分探しや自己ナントカというのをやると、たいていそこで躓いてしまう。<わたし>というのは、それこそ様々な「他者」や「われわれ」から抽出されてくるものなのだろうから。彼の場合は可哀想に、悲劇で24年の人生が終わってしまったけれど。
無垢や無辜な人間ならなおさらだろうけど、そうでなくとも一般民間人に対する攻撃じたい罪が重いし、殺人となると最大の罪だろう。もちろんアルカイダが下手人で一番重罪だけど、きたない戦争の尻馬に乗って内乱状態のイラク自衛隊を送った政府も、決して罪を免れるものではない。それと、開戦以来のイラクの死者が10万人と推計され、そのなかに無辜の子供もたくさんいるという事実からも目をそむけてはいけないですね。政府もそうだけど、保守系のメディアなんかも、なんかモラルハザードを起こしてるんじゃないの。
 
無垢というのは何かの欠如だ。欠如(という否定)が否定神学的に肯定に、さらには「他者」につながるというのは、レヴィナスラカンバフチンの論理だった(と思う)。内田樹の新しい著書『他者と死者-ラカンによるレヴィナス』は、ラカンレヴィナスとの接点についても言及している作田啓一『生の欲動』を下敷きにしてるっぽい感じもするけど、時間とお金の余裕が出来たら読んでみたい。
内田樹氏はレヴィナスの「他者」を死者(たち)としているけど、香田さんは「死に近い者」から世界の彼岸の「他者」になってしまった。今回の事件に関しては、相も変わらず政治的立場に依拠したスローガンや記号を使いまわして、固定した意味・価値体系のなかでの自閉的反復も繰り返されているけど、数多くの人間にあらためて何かを考える機会をもたらしたという意味では、決して無駄な死というわけではなかったと思う。 (合掌)
 

*1:おそらく捨て置くために、そして相対的な価値を下げるために、ほんらい関係のない新潟地震が持ち出されたりするのだろう。いろいろなやり方で「切断操作」をしているが散見され、なかには「自殺願望」などといった無茶苦茶なものもあった。

*2:誰もが香田さんという人に愚かさやナイーブさ感じるとは思うけど、自己尊大感をくすぐられたのか、わざわざ香田は愚かな奴だという侮蔑を得意満面に書いている愚かな人間が何人もいた。「語るに落ちる」とは気づかず、自分は愚かではないということをわざわざ主張したいわけだ。

*3:こっちでは昨日、社民系の自衛隊撤退のデモがあったみたいだ。

*4:無辜さというのは、四月の人質事件の高遠さんについても同様に言えると思ってる。彼女も俗世間の常識からするとヘンな人なのだ。個人的には、ボランティアが良いことだとか偽善だとかいうのはどーでもいい話で興味はないし、彼女もそんな水準を超えてると思っている。
基本的には、自分で「これが自分のミッションだ」と思ったことは、(悪行や他人に危害を及ぼすものなどは別として)好きなところに行って自由にやったらいいと思う。評価はまた別の話。そして、世界を見たいというバックパックにしろ、アラスカでオーロラやグリズリーをぜひ見てみたいという旅行にしろ、その人なりのミッションと言えないこともないと思うのだけど。前回の人質3人+2人と今回のは、基本的に変わりはないと思っている。

スポ根主義の消滅

中日のリーグ優勝はスポ根主義の消滅につながる。落合監督のやってきたことは、次のようなことに要約できるのではないだろうか。つまり、プロとして選手のモチベーションをアップさせることを優先させ、仕事の実質を求め、「やってる振り」はさせない。各選手をフェアに扱い、同時に目配りや気配りは欠かさない、といったことだ。
じつは最初にそういうのをやったのは、1995年にそれまで9年間Bクラスだった千葉ロッテ・マリーンズを2位まで引き上げたバレンタイン監督ではないだろうか。当時のロッテの広岡ゼネラルマネジャー v.s. バレンタイン監督の対立というのは、<管理野球精神主義・質より量の練習> v.s. <チーム内競争原理の導入・質の高い練習と休養を重視したコンディショニングつくり、選手の自主性とモチベーションの向上>という野球コンセプトの根本からの対立でもあった。
言い換えるならバレンタイン監督(と落合監督も)の方針は、「仕事してます」という振りは、自らもしないし、選手にもさせないということだと思う。概して日本のスポーツ指導者は、選手にうるさく何か言っていれば指導したことになるとでも思ってるふしがあり、選手もそれに合わせて「練習を一生懸命やってまーす」という振り――それは長いあいだ世間的に期待されていた役割でもあった――をしていれば評価されるという面があったのではないだろうか。仕事してますという振りしていればいいというのは、まるで役人みたいなものだ。役人のチームが優勝できるわけがない。
今シーズン、千葉ロッテがいい成績を上げられなかったのは残念だけど、パリーグの各チームは95年とバレンタイン解任以降のロッテの凋落を見て、きっとバレンタイン流を学習してたのだと思う。ロッテにとっては、他のチームがそうやって競争力をつけてしまっていたという不運さがあったのかもしれない。
落合やバレンタインといった監督の対極にあるのが、強面(こわもて)の監督だ。そういう監督は選手にとってはコワイから言うことを聞くので、短期的には(1年とか)いいかもしれないけど、長続きはしない。選手も、必死の形相で「練習を一生懸命やってまーす」という振りを見せればいいというところに戻ってしまう。またそういう監督は自分のプライドが何よりもの関心事だったりするので、おべんちゃらに弱く、選手をえこひいきしがちになる。
いい監督になるかそうでないかは、野球解説を聞いてたらだいたい分かる。頭が堅かったり悪かったりするのはもちろん話にならないけど、言うことがエラそうで中味がちっとも面白くない解説者や、選手のことをボロくそに言う傾向のある解説者もダメ。聞いていてイヤな感じのする解説者は概ねダメです。(落合は解説者としても、選手の心理を読んだりして面白かった。)
事情はサッカーでも同じだ。フランス・ワールドカップのときの日本チームの岡田監督は、一生懸命な姿を見せる選手を代表として採用し、必死になって型にはまったフォーメーションを見せようとしていた。そして一生懸命な振りは見せない(どころか監督にフンという感じだったのかな?)型破りなカズや北澤を除外し、けっきょく惨敗した。次期の日本代表の監督はホントに岡田でいいのかな。(ジーコなんかも、トルシエとは違って選手はプロなんだからという前提から始めてるところからすると、落合−バレンタイン・タイプの監督なのだと思う。それにしても外野がうるさい。)
スポ根に代表される今までの日本のスポーツ指導は、「指導」に名を借りた支配−服従関係をつくることを目的としてるようなところがあって、それによって才能がつぶされてきたということも多かったのではないだろうか。スポ根が要らないのは少年スポーツでも同じだ。必死になるのは、ボールが来たときにバットで打ち返したりグローブで捕球するときだけでいい。
ところでイチローは、小さいときから年に360日厳しい練習をしたからイチローになれたのかな? 右投げの左打ちって、(こんなこと言ったら石を投げられそうだけど)私の場合も右打ちするよりもずっとバットによく当たるし、良く飛ぶのだ。(まあ、バッティング・センターでの話ですが。) イチローのケースはスポ根というより、無類の野球センスと野球好きの成果じゃないだろうか。べつに三歳から野球を始めなくてもイチローになれたと思う。
人間は、子供でもそうだけど、何か(根性とか教育など)を注入される生き物じゃない。ゴム風船みたいに、空気を注入したら膨らみましたというわけにはいかない。喩えでいうなら、月並みだけど、やはり花などの植物になるだろうか。それぞれに必要な養分や日射量や土壌のPHなどが違う。最もふさわしい環境条件を提供して、花が開くのを助けるということが大事なのではないだろうか。 …などと、最後はお行儀良くまとめてみました。

世界の中心と世界の頂点

INCOGNITO2004-10-22

政党のタイプは二つ。
A.世界の中心系(フィクサー型)自民党社民党民主党
特定の利権と結びついた相互依存のネットワークが基本。官僚組織、各種業界団体(土建屋歯科医師会、農業関係など)、労働組合、その他票に結びつく組織の利権を代表する。
B.世界の頂点系(ハイアラーキー型)共産党創価-公明党
党中央や教組がピラミッドの頂上に位置する。党や宗教団体のヒモつきの下部組織が存在。(党組織とのつながりが明確なものと、それを隠蔽しているものがある。) 今どきこんなのあり?という一枚岩的組織。
 
つまり、利権のネットワークを温存拡大する政党か、政治的・宗教的イデオロギーによる組織拡大を計る政党しかないということで、残念ながら市民政党といえるものがない。いまだに自民・社会の五十五年体制が少しだけ形を変えて続いているという感じ。こうしてみると、かって過半数割れしていた自民党を助け、自社連立(村山内閣)を受け入れた社会党(現社民党)の果たした負の貢献は大きい。社民党は次の選挙あたりで消滅して欲しい。
例えば水俣病の問題なども、特定の利権を優先させた思惑や政策によって、被害が生れ、また拡大されたといえるのではないだろうか。これからは技術や生命と結びついた倫理の確立がますます必要となると思うけど、それは利権よりも優先順位が高くなければならないはずだ。そしてそれはどういうかたちで現実の政策に反映されるのだろうか。
選挙に行かないと利権政党やカルト政党がのさばる。ということで前回の参議院選挙は久しぶりに投票に行ってきたけど、「第三の道」はまだ遠いか。

 

子ブタのおうち

blogって、三匹の子ブタが作ってる家みたいなものだ。いろいろ違いがあるというだけでなく、作ろうとしてる家と実際とのギャップがあったり。また、狼に壊されない家を作ろうとして、かなり防衛的な面を見せてるところも多いので、みんな傷つきたくないんだなあという感想を持ったりする。防衛的というのには、もちろん攻撃的な姿勢やシニカルな態度も含む。傷つけられないためには、子ブタではなく狼になればいいというわけだ。
で、子ブタが作っている家とは、実は自我のことだという話をどこかで聞いたような(聞かなかったような)気がする。でもそれだと、「頑強なレンガの家(自我)を作れば狼に侵入されることはありません. v」って自我マンセーの話で終わってしまいそうだ。う〜ん、子ブタの家=自我という話は、思い違いだったか。でもblog=子ブタの家って感じはするなあ。ちなみに、私んとこは家でなく庭(garden)です。閉じて入れない庭だけど。(と、自分のことは埒外に置いてみたり。まあ、私も子ブタです、ブーブー。)
ところで、せっせと藁で家を作ってる人のところに行って風を吹き付けるというのはイクナイですね。でも藁の家なのにレンガの壁紙を貼って立派な邸宅に見せようとしてるところには、「それは藁の家だろ(藁」とか言ってみたくなる。でもそんなことは言わないけど。その人が信じたがってるコトやモノ(思想信条とか、それこそ心理的な動機とか幻想とか)に、それは違うといっても始まらないと思うし。
ていうか、心や無意識とそれが入る箱(家)というメタファーこそ、心理学に典型の考え方だったような……。『思想史のなかの臨床心理学』、ちゃんと読んでみよっと。

(臨床)心理学はどこからやってきたのか?

實川幹朗 『思想史のなかの臨床心理学―心を囲い込む近代講談社メチエ)
心理学や精神分析的言説への批判というより、その成立根拠じたいを問う内容の本。
 [裏表紙に記載されている内容紹介]
「心」を「個人の内面」と同一とする発想が生まれた近代。意識の重視、言葉と意識の結びつきへの信頼を軸とする理論は、歴史の中で初めて生まれた心の捉え方であった。西洋近代文明の申し子・臨床心理学の「意識」観が、中世の「認識」観に較べていかに際立つかを検証する。
メモ

  • 臨床心理学は諸事情から19世紀末に作り出されたものであるということ。
  • 無意識というのは何もフロイトによって発見されたものではなく、それ以前から知られており、フロイトと同時代にもすでに無意識に言及していた研究者がいたということ。
  • 無意識というより意識を問題にする学問であるということ。
  • 科学的な装いをこらしているが、臨床心理学の成立と現状が宗教的・党派的側面を持っているということ。

などなど。実はところどころをパラパラと見た感じを書いたもの。読み終えたらあらためて感想を書いてみたい。