死を看取る中学二年生

末の娘がこの夏、猫を看取った。
生まれて数ヶ月の野良猫が3匹幼稚園の物置のひさしにちょこんと現れた。娘たちが見てかわいさに声をあげ、ちょっと弱ってるので医者に連れて行きたがったが、祝日だったのでできなかった。その翌日1匹だけがぐしゃりとした姿でその場に残っていた。寺の盆ちょうちん付けで慌ただしい最中、娘が泣いて来た。前日の思いがあるので悔しさもあって号泣している。たかが出会って二日ほどの関係でもそこまでの悲しみを覚えるのだ。死んでいると思って見ているとまだ微かな息がある。娘が膝に抱える。時折びくんと体が動く。時折かーっと息が漏れる。死ぬのには時間がかかるのだ。すみやかに、でもゆっくりゆっくり死んでいくのだ。死につつあるその姿を前に、ぼくは祖母の最期を思い出していた。そして娘に言った。よく見ておくんやで、父さんもこと(娘の名)もこうやって死んでいくんだからね。
そのあと数時間後に娘が伝えに来た。そして彼女は穴を掘り花を手向け埋葬までした。望んでも得難い、人ではなかなか経験できない大切なことを中二の娘は経験した。
今日、三年ほど飼っていたハリネズミが亡くなった。またその娘の膝のうえで息絶えた。猫の時と同じだと娘は言った。僕も居合わせて、そのふり絞るような体の突発的な動き、虚空に返すような最後の息を見て聞いて、瞑目し、硬直していくのに立ち会った。ちいさい生き物は死んでいく速度が速いように思えた。
このハリネズミは二代目で、じつは三年前のいまごろ一代目を飼ってひと月もしないで死んでしまうということがあった。その悲痛な経験から、また飼うのか否かを、家族中で激論した。飼いたいけど飼わない。飼いたいからちゃんと飼う。買うこと自体いのちへの侮蔑ではないか。死んだから飼わない。死んだから飼う等々、侃侃諤諤の議論が数日つづいた。この議論自体で十分意味があったと僕には思えるほどだった。
結果としては、飼うことになった。いろいろ本で調べ、毎日畳の上を走らせたりして、前の子のか細さとは対局的なほど、過保護にされてよく肥えた。「でかッ」とかいうと女の子に向かって酷いとか言われながら、ここまででかくなればそう簡単には死ぬまい、と安心してた。安定的によく育ってくれたが、悪くなると早かった。まだ動いて餌もかすかに食べようともしていた今日、もう死ぬんじゃないかとおそれた数分後に、またしても、末の娘に抱かれながら亡くなった。

ライブ(ゼミ)のお知らせ第2回―キーワード篇―

前回のブログでお伝えしましたゼミの1回目まで1と月もなくなり、日々準備をしています。というのは、ウソで、日々の仕事に追われてるので、こういう媒体でも使って想定しています。
興味ありそうなワードがあったら、どうぞお越しください。

第1回
西谷啓治宗教哲学 序論」『宗教とは何か』
MR.CHILDREN「マシンガンをぶっとばせ」
近代とポストモダン、「近代の超克」
ニイチェ「愉しい学問(悦ばしき学知die floerich Wissenschaft)」
「神は死んだ」ニヒリズム、世俗化、

第2回
道元正法眼蔵』、「十牛図」、まどみちお
アイデンティティーのありか、鈴木大拙「般若即非の論理」
死の、どこが問題か。死はどこにあるか。高見順
「創世記」アダムとイブの神話、「空―風―いのち」

第3回
ニヒリズムを通してのニヒリズムの超克」
小沢健二「流動体について」、コトリンゴ「かなしくてやりきれない」
聖なるものが閃く場所
宗教と倫理、宗教と教育(幼児教育)、
浄土真宗」の「解体新書」
「創世記」言葉による世界創造、「名を呼ぶことの不思議」

ライヴのお知らせ(ゼミ)

先日あったシンポジウムは打ち上げ花火でそれっきり、ではなく、フォロー研修がある企画なのです。なかなか面白い企画ですよね。おかげで、もう3回、京都で話をする機会をもらいました。形式はゼミ。「とも生きゼミナール」の銘打たれております。先のシンポジウムのテーマが「ともに生きる力」だったので。
日時
第1回2017.9.15(金)19:00〜20:30
第2回2017.12.15(金)19:00〜20:30
第3回2018.2.9(金)19:00〜20:30
場所
キャンパスプラザ京都2階第1会議室
あ、主催者側の案内が出てました。
https://j-soken.jp/join/8955

で、話の内容ですが、ドラマなんかで記憶喪失の人なんかが言う紋切り型のセリフがありますね。
「ここはどこ、私は誰」
それでいこうかな、と。
第1回は「ここはどこ!?」
「ここはどこ」と尋ねられれば何なりと答えられるでしょう。その答えに、その人の在所が写っています。
そして、意識しようがしまいが私たちは歴史の子であり、意識できないところまで存在は根を張っています。
われわれのいる時代が持っている制約や前提を照射したいと思います。そうしないとどんな素晴らしい宗教の言葉や思想も、空疎に響くからです。
そしてその時代とは「神は死んだ」時代、マイルドに言えば「世俗化」の時代、そしてニヒリズムが基調をなす時代であるとぼくは思っています。
第2回は「私はだれ!?」
自分の居場所はわかった、ということにして、それではそこにいる自分ってなんだ!?私ってなんだ!?自分探しってのが流行ったことがありましたが、その不毛と必要を述べた上で、私といううものの核に迫っていきます。そのことは死とはいかなることかという問いとも繋がっています。死の問題は結局、私の死であってこそ問題なのであり、私ってなんなのって問いと不可避的に絡んでくるのです。
第3回は「ここから、私は何になっていくの!?」
2回なら「ここはどこ、私は誰」ですむけど、3回なので、あえていうなら、私はその居場所から立ち上がって、どうなっていくのか。ニヒリズムの今、聖なるものの閃きはどこに見出せるのか、その具体相としての個別的な課題を見ていくということになります。手を使い足を踏み出す時にかかわってくるのが他者であり、倫理であり、歴史や社会です。
ニヒリズムを通してのニヒリズムの超克」というところまで行けるといいなと思います。

ま、ざっとこんなことを思い浮かべてはいますが、ゼミなので参加の方々との議論も入るでしょうし、こんなに話はできないかな。でも、こんなようなことに興味が沸く方は、どうぞ時間を作ってお越しください。お待ちしてます。
同じ思惟の海の中で、泳いだり溺れたりいたしましょう。

ありがとうとありがたいの差異

「ありがとう」という言葉を説明する時、とかく(とくに坊さんは)「有ること難し」を持ち出す人がいる。
なんか違和感
存在の秩序を人情の秩序に越境ずり落ち
ありがとうは誰かにいう
ありがたいは無限定的なものを呼び起こされる感情あるいはそれに呼び起こされる感情

ライヴのおしらせ(シンポジウム)

イベントのお知らせです。
京都であるシンポジウムに呼ばれて、久々の京都ライヴです。メインゲストはすげー人だし。たのしみ。どうぞお誘い合わせの上、ふるってご参加ください。
子育て中の親さん、教育関係者をターゲットにしたいようなのですが、まあテーマが脳科学✖仏教✖教育なので、そういったことに興味を持っている方は気軽どーぞ。


開催日
平成29年7月29日(土)14:00〜17:00(13:30開場)
内 容 
第一部〈講 演〉(60分)
テーマ:「脳は出会いで育つ」
講 師:小泉英明
第二部〈パネルディスカッション〉(90分)
テーマ:「ともに生きる力とは?」
パネリスト:小泉英明氏・寺本知正氏・西元和夫氏
コーディネーター:丘山願海 総合研究所長

会 場 
龍谷大学大宮学舎 清和館3F
京都市下京区七条通大宮東入大工町125番地の1

受講料 
無料
申込み 
不要(どなたでもご参加いただけます)
定 員 
200名
講 師 
小泉英明
脳科学者。公益社団法人日本工学アカデミー上級副会長。株式会社日立製作所名誉フェロー。理学博士。
脳の働きを視覚的に計測できる光トポグラフィと呼ばれる装置など、脳科学の急速な発展を可能にする技術開発や製品化に多くの業績を持つ。また脳の計測をするなかで「脳を育む」という視点で教育を考えることの重要性に着目し、「脳科学と教育」という研究プロジェクトを立ち上げて多くの成果を残す。
著書に『脳は出会いで育つ 「脳科学と教育」入門』(青灯社)、『脳の科学史 フロイトから脳地図、MRIへ』(角川新書)『アインシュタインの逆オメガ 脳の進化から教育を考える』(文藝春秋)など。
パネリスト 
寺本知正氏
龍谷大学非常勤講師・中央仏教学院非常勤講師
日本キリスト教協議会NCC宗教研究所研究員
大阪教区西成組極楽寺衆徒
西元和夫氏
認定こども園美哉(びさい)幼稚園 園長

コーディネーター 
丘山願海
浄土真宗本願寺派総合研究所長

主催者のページはこちら。
http://j-soken.jp/join/8895

子どもの言葉ー頭が悪いと感じない

高一娘が食卓で昔を語る。京都にいた頃の話である。2歳頃であろう。2階の部屋にテレビがあり、夜電気を消してテレビの青い光だけが灯っている状況が想定される。「トムソーヤの冒険」はファンが多いアニメであろう。ぼくも大好きだが、娘はそれ以上に好きであり、アニメの中で最高だという位置付けで、一体何度見たのだろうと思えるほど見ている。
その中の名シーンで、インジャンジョーが墓場で殺人をするけっこう怖いシーンがあるのである。そのシーンを2歳の自分が京都の家で見ていた時のことを語り出したのである。
「インジャンの、グサっていうのを一人で見てた。そん時は頭が悪かったから怖いなんて感覚がなかった。とーさんはとなりでグースカ寝てた。」
という証言だが、面白いと思ったのは、「頭が悪い」ということと「感覚」や「心情」との関係である。「頭がいい」人が感情に乏しいとか道徳的に難があるというのはよく指摘され、それを以て「頭がいい」ことを貶めるための言説としてよく使われる。お勉強ができること・知的に頭をぐるぐる回す速度が速いってことと、行為や体を通して生じる人間関係の諸々のことは全く別物だから、当たり前のことなのだが、人はいいものをいいと認めるのが苦手で、いいものにはすぐ妬みが絡みついて、なんとかあらを探して引きずり降ろそうとする、そういう心根が多くの人に巣食っているのであろう。しかし、彼女の指摘はいわばその逆で、知的な分化が行われていないところでは情意も未発達だというような指摘である。面白いなあ。今度脳科学者の先生にお会いする機会があるので、聞いてみようかな。

パクチー

世はパクチーブームであると聞く。そこで、数年前に書いて日の目を見なかった記事を上げようと思う。パクチーが普通に売っているようになって、当時と状況は変わった。それどころか、「パクチーキャンディー」なるものまで出ている。確かにパクチーの味がする。でも、その味だけを楽しむものぢゃ、そもそも、ないでしょ。ブームに乗って一儲けということ以外の何物でもなく、2年後にはあるとは思えない代物ですね。ただ、この頃量産されるようになったパクチーは香りが薄い気がする。以下がその記事。



余はパクチーが好きだ。どこにでも売ってるというものではない。京都にいた頃は《明治屋》で買うのが常だった。なかなかないので、栽培しようと苗も買ったことがあるが、なかなかうまくいかない。なので、売ってるとこに出くわすと喜んでしまう。
先日、境港の大型スーパーの野菜売り場で、パクチーと出くわした。うれしさに軽い声が漏れたほど。境港に来て10年ほどたったろうか。この田舎でもとうとうパクチーが買えるようになったのかと思うとたいそううれしかった。
その後、なかなか私はそのスーパーへ行く機会もなかったが、気になっていた。僕が買わなかったら、誰も買わないんぢゃないか。いや、ちかくにアジアン料理の店があるから、そこがいつも買っているに違いないなどと思いながら。
ひと月ほどののち、そこへ行ったがあの姿はもうなかった。
ところで、そこで買ったパクチーの頓珍漢なパッケージをごらんあれ。見えるかなあ、ワンちゃん。