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ひさしぶりに日記を更新します。
最近ネットの知り合いのある女の人によく長文メールを書くので、
真剣に他人に伝えたいことはそっちに吸収されてしまうらしい。
あまり日記に書きたいことというのがないんです。
具体的に人格のある人に対して発言することができるのは幸せだな、と思います。
著作などでも、一般読者からいかに多くの支持を受けるかといった著作より、
ある特定の友人や批評家などに自分の考えを問うスタイルの著作のほうが
面白いと思うようになってきました。
だから、対話や書簡などが面白い。たとえば、ゲーテやランボーの対話や書簡などです。
日本の出版界では小説やエッセイが中心になっているので、
対話集や書簡集などは全集のような限られた形態でしか読めないのが非常に残念です。
いま目にふれた新聞記事。
とんでもない傲慢さだ。ある政党が潰れたら国家全体が潰れるというのは
旧ソ連やナチスのような全体主義国家の宿命だろう。
この政治家は日本もそうだとでも言うつもりなのだろうか。
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さっきテレビでネット・カウンセリングのことを放送していた。
それは僕をひどく不快にした。
僕は自分が異常な人間であると昔から思っていた。
それをなんとか糊塗しようとして勉強することによって文化の衣装を身につけ化粧をしてきた。
その防衛機制の心理の醜さを、そのテレビニュースによってあらためて自分に見せつけられたと思ったのだ。
そのニュース自体はさほど過激なことは語っていなかった。
しかし、人間の暗黒面、とりわけ僕自身のトラウマと重なり合う部分が
社会的公共的な場所の代表のようなNHKの放送に流された時、
自分のおぞましい隠しておきたいものが大勢の人のまえで暴露されたような気分になったのだ。
昨日ひさしぶりに渋谷のマンガ喫茶に行き、昔読んだ吉田秋生の『バナナフィッシュ』をざっと読み返した。
そこには一見おぞましいテーマが描かれている。幼児売春、レイプ、ストリート・ギャングの抗争、麻薬・・・
そして、それを読んだ僕は安心する。「人間とはなんとかわいいものだろう」
スタイリッシュな絵によって化粧された、人間の暗黒面。
これほど人間が単純だったら僕はどれだけ気が楽になることだろう。
人間が作り出した文化とは、生き物のように動く人間の心理のおぞましさ、暴力的な多様さから
人間を守る盾にすぎないと強く感じた。
こうした考えは、僕をひどく憂鬱にさせる。
文化とは、人間に内在している暴力性、それこそが人間の本性であるようなおぞましさから
人間を守るための防衛機制にすぎない、というニーチェの真理が僕の自我に突きつけられるからだ。
そして無論、こうした自分の心理をコモン・プレイスに書くこと自体が
セルフ・カウンセリングの役割をしか果たしていないことも、僕は意識している。
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人間の醜さに吐き気しか感じない。
あと何年生きていればいいのだろう。
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↓僕より年齢がやや上の人らしいが、いま読んで共感を覚えた日記
民主主義の無力
最近、民主主義の無力を感じる。うまく機能していないように思えるのだ。
僕は東京都内に住んでいるので今度の知事選にはそれなりの関心があったが、
投票に行くことにも投票結果をニュースで見ることにも徒労感があった。
大衆が投票行為をすることが合理的ではないと思ったのだ。
普段新聞やニュースなどまったく見ない人でも成人して税金を納めていれば一票の権利を与えられる。
日常的に政治に関心を持ち、多くの資料を読み分析していても一票の権利しか与えられない。
これはおかしいと思う。
たとえば公務員の試験ならば勉強の成果の度合いに応じて階級が分けられ、
より能力のある人間がより大きな権限を持つ。これは基本的に合理的なシステムだ。
それと同じように、投票の前に試験を受けさせるべきだと思う。
その点数に応じて各人の票数を割り当てる。現知事の名前も知らないような人には投票権を与えるべきではない。
民主主義が衆愚政治にならないためには、そうした試験制度を各所で設けるべきではないか。