金曜日

気がつけば既に年度が変わっている。書こう書こうと思っても、なかなか書けないものである。

昨年度は職場にとって暗黒の1年であった。過去の会計処理に不手際があったせいで会計検査員から審査が入り、外部からの研究資金が止まってしまったのだ。私が採択されていたさきがけの予算も例外ではなく、5年型予算の3年目が過ぎたところで、執行停止ということになってしまったのである。審査の結果次第では再開の可能性もあるものの、少なくとも4年目の予算はゼロ、というのが職場からの宣告であった。それどころか、最悪の場合さきがけは中途で辞退、さらに数年間の公的研究予算への申請資格も停止もあり得る、という通知である。

全身から血の気が引いた。ちょうどさきがけの中間審査の結果を受け取った直後で、私の研究が予想以上に高く評価されていてやる気に満ちていたときだったから、余計にショックは大きかった。どうしてこんなことに。契約の発注は事務方の言う通りにやってきたのに、その言われたやり方がルール違反だったとは。そしてそれが自分の責任として降りかかってくるとは。

その日の夜はもう物凄く悔しくて、哀しくて、腹が立って、悶えに悶えた。偉い人達はもう少しくらい私らを守るような対応を取れなかったのか。私はそんなにも悪いことをしたのだろうか。

翌朝、職場の人々はみんな、昨夜の私の頭のなかを駆け巡っていたことと同じことを口にした。もっと小さな傷でことを収めるやり方があったのではないかと。私はしかし、それを聞いてむしろ冷静になってしまった。仮に私が今の職場のトップにいたら、みんなが言うところの「もう少しマシなやり方」というものを、簡単に実行できただろうか。会計検査院からいきなり「あなたの研究所では○○億円の経理手続きが不正に行われている可能性がある」なんて言われて、パニックにならず、研究所と職員の利益を最大限に守るために最善の行動をし、それでも損害を免れない職員に対しては納得のいく説明ができる・・・いるのか、そんなヤツ? 前夜の私や、いま他の研究員が言ってることに正当性がないとは言わない。でも、正当な言葉を並べたところで、今のこの状況が好転するわけはない。

そもそも、人生は長い。その長い人生の中で、理不尽の一つや二つくらい、あって当然のことだろう。大切なのは、理不尽に見舞われたときに、「理不尽だ!」と叫ぶことよりも、これからどういう行動を取れば、私は明るい将来を思い描くことができるのか、ということではないか。少なくとも、今回の事態でやる気をなくし、10年経っても腐ったままで「今の私がこんな状態なのはあのときの理不尽な処分のせいだ、自分は悪くなかったんだ」なんて言い続けているような未来には、絶対にしたくない。

そしたら、久しぶりに思い出した。「人生は、度重なる偶然と、それに対する自らの態度で決まる。」という、若い頃によく読んでいた村上龍の言葉を。

ならば、私はどうすればいいのか。会計検査院の審査の結果が最悪だった場合、私は残り2年分のさきがけ予算を失い、3年間は研究費を申請できなくなる可能性もある。でも、だったら再び研究費を申請できるようになったその時に、大きな予算を獲得できるような準備を進めておくべきだろう。まずはこれまで出ていた結果を片っ端から論文にして、コツコツと研究材料を準備する。研究費が止まってしまった以上、論文の投稿料も足りなくなってしまうかも知れないが、だったら自腹を切ってでも投稿するまでのことだ(嫁には、今年のボーナスは期待しないでくれ、と頭を下げた)。

ということで、昨年度は復活への第一歩ということで、論文を書いて書いて書いて書きまくったのである。投稿本数11本。うちアクセプトまで辿り着いたのは7本。現在1本がリヴァイズ、2本がレビュー。残念ながら1本がリジェクトを食らってしまったが、追加の実験を手配して、もう一度チャレンジするつもりだ。

これが思わぬ効果を生んで、昨年度の僕の業績評価は予算が止まっていたのに「S」ということになってしまった。センター長曰く、「今年度は『お金がなくなったので業績もありません』という報告が相次ぐ中で、内藤さんの『お金がないから論文10本書きました』という報告を聞いたときは胸のすく思いがしました」だそうである。

そして年度が終わる間際に、不正経理に関する審査結果も出たわけである。内容は、「口頭注意」だった。つまり、さきがけの執行停止は解けて、申請資格が停止されることもない、ということである。しかも、さきがけの親元であるJSTが寛大な措置を取ってくれて、何と採用期間を一年先延ばしにしてくれたのである。つまり、昨年度分の計画を今年度に、そして今年度分の計画は来年度にやってください、ということになったのだ。ありがたいことである。

そして今年度は、連携大学院として提携している東大から学生が加わり、さらに東京理科大の学部生も預けてもらえることになった。予算が戻り、フレッシュな面々が加わって、心機一転、再出発である。

金曜日

今月2回目のブログ更新である。やるな私。

2016年はいきなり緊張させられる展開となった。去年の終わりに嫁が人間ドックを受けていたのだが、その結果が「要精密検査・乳がん」だったのである。精密検査の結果が陽性となる確率は3%ほどしかないらしいのだが、だからと言って楽観するわけにはいかない。本当に乳がんだということになったときのために、覚悟は決めておくべきだ。

・自分の職場がつくばであるため、治療や入院は首都圏の病院でということにするのが私にとっては都合がよい。

・が、京都の担当医が信じるに足る人であったなら、そのまま京都で治療を受けさせればいいだろう。嫁のケアが必要なら、休職でもすればよい。

・もし闘病生活が長くならざるを得ないなら、関西に職場を探す。

・最悪の場合は?義母の面倒もちゃんと見るから安心しろ、と言おう。

と、ここまでは心に決めておいた。

精密検査の結果が出た日、嫁から聞いた言葉は「陰性」であった。ほっと一息、である。そして嫁は嫁で、悪い事態を想定して色々考えていたようだ。

曰く、「あんたがつくばにいるから治療は東京の病院とかを探した方がいいかなと思ってた」

曰く、「最悪の事態になったらときは、お母さんの世話をあんたに任せるのは負担やろうから、私の生命保険を使ってお母さんを養護施設に入れてあげてと頼もうと思った」

曰く、「あと、あたしが死んだら半年は喪に服して欲しい、って言おうと思ってたわ(笑)」

なんだよそりゃ。さすがに嫁が死んですぐ誰かと付き合い始めるようなことはないって。そのうち次を探すだろうことは絶対に確かだけど。

というわけで、緊張はしたが、お互い相手のことを考えているんだということを再確認した出来事でもあった。

いやはやしかし、というかやっぱり、もう立派な中年である。お互い仕事で無理をするのは避けような。。。

月曜日

結局去年はイベントの告知を除くと3月以来日記を書いていなかったようだ。去年はほぼ一年中論文を書きまくっていたので、ブログまで書こうという気に全然ならなかったのだ。今年は去年よりはこのブログを書くと思う。

ちなみに、あと2ヶ月で38歳にもなってしまうので、さすがに一人称が「僕」というのは居心地も悪くなってきた。というわけで、今日から「私」に変更します。おっさんになっても「僕」を使い続けられるのは村上春樹くらいのもんだろう。

それにしても2015年は論文を書いているか、でなければ日本のどこかで講演してるか、という一年だった。昼間は雑用が多いので論文は夜中に自宅で書いていることが多かったのだが、春先は毎朝4時過ぎまでPCに向かっていたのが良くなかった。5月に左目が一部見えなくなってしまったのだ。慌てて眼科に駆け込むと、診断は網膜動脈閉塞。つまり網膜の動脈が詰まってしまったのだ。いわゆる脳梗塞心筋梗塞の網膜版だ。血管が詰まれば当然酸素が送られず、網膜の一部が機能を失い、その結果目は見えなくなる。幸い薬が効いて症状は3日ほどで改善したが、歳を取るというのはこういうことかと実感した。

そしてさらに追討ちもあった。眼科での診察で、網膜裂孔という別の疾患まで見つかってしまったのだ。網膜に丸く穴が空いてしまうことをいうのだが、これが網膜の中心付近で起こっていれば当然穴の空いたところが見えなくなってしまう。しかし私の場合は幸いにも端の方だったので視野にはほとんど影響がなく、だから自覚もなかった。とはいえ、放っておくと網膜剥離に発展し兼ねないということだったので、レーザー手術も受ける羽目になった。

あと2015年にはもう一つ試練があって、それは研究所の会計処理にルール違反があったせいで職場の研究予算が止まってしまったことだ。私にとっては1千万円以上の研究費が蒸発してしまったわけで、さすがにこの措置を聞かされたときには目の前が暗くなる思いだった。まあそのことについては後日詳しく書こう。

それで、実験するお金がないなら論文を書くしかないよな、というわけで過去の塩漬けになっていたデータも掘り返したりしてザクザクと書いたわけである。去年だけで10本投稿して6本通し、プレスリリースも出した。アズキの全ゲノム解読のニュースは、ネット上ではそこそこ流れたようである。一応朝日新聞と読売新聞の取材も受けているのだが、記事はまだ出ていない。最悪出ないこともあるってさ。論文投稿は今年も絶賛継続中で、早速1本投稿。これから書かなきゃいけないものもまだあと3、4本分くらいあるので、順次書き上げていこう。

予算が止まったということは当然出張費もなくなるので、去年は学会出張や外部講演も最低限で済まそうと思っていた。ところが、学会や大学やシンポジウムから講演依頼が大量に舞い込んできたのである。依頼出張なら旅費は先方負担だし、ということで気軽に引き受けていたらあっちこっちに20回以上出かけていた。逆に予算が止まっていなかったら、さすがにこんなに遠征する時間は持てなかっただろう。これもまた怪我の功名であろうか。

とりあえず、2015年を総括すると上記のような次第である。

嫁とは相変わらず離れ離れだが、仲良く楽しくやってることも相変わらずである。

農学中手の会やります

久々の更新であるが、あいにくイベント告知である。

突然だが、「農学中手の会」というものを立ち上げることにした。「中手の会」という名称は、僕がもうそれほど若くもなくなってしまったので、そうした。5年前なら堂々と若手の会にしたのだが。

「作物学会、育種学会、園芸学会、etc…と、農学系の学会は数あれど、お互いに開催時期が近すぎて複数の学会に参加することは難しい」と思ったことはないだろうか。僕はある。たまに他の学会に参加してみると興味深い研究発表が沢山あるし、自分の研究に応用してみたい研究手法に出会えることさえある。それでもやっぱり、毎年9月と3月に学会を2つも3つもハシゴするというのはお金も時間も続かない。。。そうは言っても、自分の周囲にも他の学会に参加してみることは推奨したいし、他の学会の人にも自分たちの学会に来て話して欲しい…それも、出来れば継続的に…というのが、このような会を立ち上げようと思った動機である。

「中手の会」の主な活動内容は二つある。一つは、「ローテーション式ワークショップ」だ。この2015年秋の育種学会では、作物学会・園芸学会・植物病理学会から一人ずつ演者を招待したワークショップを開いた。来年度には、作物学会で育種・園芸・植物病理の研究者が話し、再来年度には園芸学会で作物・育種・植物病理の研究者が話す…という流れにしていきたい。もう一つが、年会として行う「冬の研究集会」である。要は、温泉地で行う合宿である。とりあえずここに来れば他の学会の研究者と交流できる…そういう場所にしていきたいと思っている。

確かに、研究というのは1人で進める場面も多い。だが一方で、研究とは人脈によって活性化されるものでもあるだろう。僕はこの会を、人脈作りを触媒できる場所にしたいのである。

そのようなわけで、「農学系の研究者が互いに人脈を築く」ことを目的とした、第1回めの冬の研究集会を開催する。別に中手でなくとも、参加したい人は学生だろうが歳上の方だろうが構わない。とにかく横方向のコネを作りたい人が来ればよいのである。

日時と場所、参加費用は以下のとおり。

2015年12月12日(土)〜13日(日)、小田原箱根商工会議所にて
http://www.city.odawara.kanagawa.jp/public-i/facilities/siminnkaikan/
参加費:7,500円

なお、今回はスペシャルゲストとして名古屋大学の北野英巳教授に来て頂くことになった。

参加を希望される方は東京大学農学研究科の藤本優(amfujiあっとmail.ecc.u-tokyo.ac.jp)まで連絡されたい。

世話人
内藤健(生物研・主任研究員)knaitoあっとaffrc.go.jp
藤本優(東大・特任准教授)amfujiあっとmail.ecc.u-tokyo.ac.jp
山内卓樹(名大・博士研究員)atkyamaあっとagr.nagoya-u.ac.jp

なお、宣伝用のポスターは↓からDL可能。参加者募集に協力してくれる人は自由に使って欲しい。
https://drive.google.com/open?id=0BweNsYBAMJoWUWdzMUx2cDd3Nmc

火曜日

イベント告知(http://d.hatena.ne.jp/KEN_NAITO/20151211)をしたついでに書いてみよう。

このところとんでもなく忙しいのである。忙し過ぎて、春には網膜動脈閉塞という、脳梗塞心筋梗塞の網膜版を発症して左目の視野が一部欠落するという事態に陥った。今年はちょっとした不運に見舞われてあまり実験ができない分、むしろ時間はある方だと思っていたのに、研究室総出で論文を書きまくった結果、目にキテしまったようである。まあ、目を酷使したというよりは寝不足が最大の原因だと思うが。ハードワーカーが突然くも膜下出血で亡くなってしまったりするのはこういうことか、、、と背筋の寒い思いをしたわけである。周囲はまだ若いでしょ、と言ってくれるものの、全然、もう若くはないのである。歳相応、という言葉もあるわけで。

なわけで、さすがに夏以降は論文執筆のペースを落としたんだけれども、結局あちこちの学会や大学からセミナーや講演の依頼が飛び込んできて、それを全部引き受けていたらまたもやどえらく多忙になってしまった。

しかしあっちこっちに顔を出した結果、色んな人と新たに出会ったり、顔見知り程度だった人と仲良くなったりできたことは非常に大きな収穫である。おかげで大きな計画の具体的案イメージがはっきり見えるようになったし、しかもこのメンツなら大きな予算も取れてしまうんじゃないかと思えるくらい。来年度書く予定の予算申請に向けて、じっくりと温めていこう。大御所なんかに負けやしねえぞ。

日曜日

3月は16-18日が植物生理学会、21・22日が育種学会、27・28日に園芸学会と作物学会をハシゴするという結構忙しいことになっていた。合間には入試説明会に向けてのチラシを作ったり、東大のWebサイト掲載用の自己紹介動画の準備をしたり。

植物生理学会は英語でシンポジウムなのでハードル高かったんだけど、多分英語でもちゃんと伝わっていたはず。翌日の懇親会で女子学生に囲まれて「昨日の講演凄かったです!ワイルド&セクシー!!」という事態になったのは流石に初めての経験だったので驚いた。学会発表でそんなことあるんや。。。と心のどこかで思いつつも、「え、マジで?よっしゃーー!!」とその場でガッツポーズをしながら叫んでいたことは内緒だ。

育種学会ではまた違う話をしたのだけど、これは今まで何となくOKとされてきたことの盲点を暴いて、さらに自分たちのイイ仕事ぶりを見せつける形の発表をしたので話してて死ぬほど気持ち良かった(笑)。聴衆全員に自分の熱が伝わったことがハッキリと感じられる会心のプレゼン。

育種学会はウチのポスドク3人もそれぞれ発表したのだが、1人は文句なし、もう1人は(本人にとって)一番肝心なところが伝わらないどころか完全に誤解される形の発表だった。ま、失敗するのも教育のうちってね。3人目については、敢えて言及しないでおく。

あと、育種学会は自分がこれまで幹事をしていた若手の会を次の世代に譲ったのだけど、期待以上にいい仕事をしてた。で、僕自身は若手の会を抜けてもまた定期的に集まれる何かをやりたいと考えていたのだけど、育種学会中に具体的なアイデアを思い付いた。周囲に話してみると非常にウケも良かったので、今度の秋の学会で立ち上げることにする。学会の垣根を超えるための継続的な活動だと思うと、何かワクワクしてくる。

園芸学会と作物学会をハシゴしたのは、目ぼしい連中を誘い込むことも目的の一つだったわけで。で、話し掛けた全員が快諾してくれた。思った通り、ニーズはあったわけだ。

ちなみに園芸学会では、ビッグな後輩が更にビッグになっていた。作物学会では、ウチのポスドクが再び文句なしの発表を(エラそーに)して、発表後に「え、君まだポスドクなの!?」と突っ込まれていた。まあでも、プレゼンするんならあれくらい自信満々に話すのがいい。他には、京大のダイズの仕事が面白かったな。

その後、知り合いが作物学会の奨励賞を受賞の祝賀会に参加。受賞講演は園芸学会に行ってたせいで聞けなかったのだけど、凄くいいプレゼンだったらしい。というか、「内藤さんの影響がそこらじゅうに見受けられるプレゼンでしたよ(笑)」という感想がそちこちから聞こえてくる。飲み会で問い質したら、本人曰く「そりゃもう内藤さんのプレゼンを頭に思い浮かべながら準備しましたから」ですってよ。いやー、嬉しいねえ。

そしてこの飲み会に作物学会長も出席してて、このブログをチェックされていることが発覚したのだった。マジかー。

そんなこんなで、平成26年度最後の2週間が過ぎて行ったのでした。