小料理屋さつき

かつて「はてなダイアリー」にあった「小料理屋さつき」をインポートしたもの+細々と。

本当に危険なのは

 ある記事の事で宇宙の戦士に出てきたシーンを思い出し読み返していたら、機動歩兵訓練パートの中のこの文章とその前後でハッとなった。

 ロバート・A・ハインライン 宇宙の戦士(矢野徹 訳) p133

「そうか? おまえは、現在の段階における新兵たちが、野獣のような状態だということを、おれよりもよく知っているはずだ。やつらに背を向けていても安全な場合と、そうでない場合のけじめも、ちゃんと心得ているはずだぞ。おまえは、第九〇八〇条の言っていることをはっきり心に刻みつけてあるのか……この条文を犯す隙など、絶対に兵隊どもに与えてはいかん。機会さえあればと狙っている兵隊もなきにしもあらずだからな……また、それぐらい攻撃的でなければ、ロクな機動歩兵にもなれんはずだ。やつらは基地では御しやすい。やつらが、食事をしていたり、眠っていたり、疲れて腰をおろしていたり、講義を聞いているあいだは、背中を向けていても安全だ。だがひとたび戦闘訓練か、これに類した演習に入った場合は、やつらはとてつもなく興奮しアドレナリンをいっぱい出し、鉄帽いっぱいに入れたニトログリセリンみたいに爆発しやすくなる。おまえたち教育係は、それぐらいのことはわきまえているはずだ……そしておまえたちは、そういった徴候を監視し、そんなことが起こる以前に嗅ぎわけるように訓練されているはずだ。どうしてあんな青くさい新兵に黒あざなんか眼につけられたのか説明してほしいもんだ。あんなやつに手をかけさせては絶対にいけなかった。あいつがそうしかけたとき、素早く察知してなぐりつけ、完全に気絶させてしまうべきだったのだ。(略)」
 (中略)
「あの兵隊を、安全な連中のひとりと盲信していたのかもしれません」
「安全な兵隊などというものが、あってたまるものか」

 このシーンは 訓練中に「凝固(フリーズ)」の命令を下されたが、ある新兵の一人がその命令が下された時伏せたのが噛みつく蟻の巣の上だったのだ。耐えきれなかったその新兵は凝固を破り、破った後に出された再び凝固せよという命令に服従しなかった。教育係の軍曹は新兵を手で殴った。何故そういう事が許されるのかはこの作品の世界観ゆえである。詳細を知りたい方は一読してとしか言いようがなく申し訳ない。さて、蟻の巣から逃れようとして殴られた新兵は軍曹を殴り返してしまう。
 当初は命令不服従による隊内処分の流れだったが、軍曹を殴り返した事を新兵が口にしたことで軍法会議の流れとなる。
 引用部分は軍法会議が終わった後で、軍曹の上官が軍曹と会話するシーンである。

 

 2023年06月中旬、岐阜にある陸自の射撃場で起きた発砲事件。
 これを書いている07/02にこの事件の動機についてググったら「「弾薬を奪うために邪魔な人を撃った。銃と弾薬を持って、外に出たかった」と供述していた」という話が記事にあった。
 
 「安全な兵隊などというものが、あってたまるものか」
 という軍曹の上官である大尉の言葉。この作品が出版されたのは1959年。何より小説の中の台詞なのだが、2023年の現実世界でも、軍の教育機関で語られている事ではないだろうかと、ペラッペラの素人だが想像するのだ。
 軍だけではないかもとも思う。操作を誤れば人を殺傷する可能性がある道具を使うことを学ぶ場所でも語られているかも知れない。
 
 先日の事件のような事を100%防ぐ事は難しいかもしれない。でも、悲劇が二度と起きないよう対策をと祈ると同時に、人材育成を担当する事は本当に難しいと深く思う。

 

死を希む前に、どうか各種相談窓口利用を // 福祉支援制度への個人的な願い

 ◆厚生労働省の電話相談窓口案内URL
 電話相談窓口|困った時の相談方法・窓口|まもろうよ こころ|厚生労働省
 https://www.mhlw.go.jp/mamorouyokokoro/soudan/tel/

 朝方にTwitterで「#国は安楽死を認めてください」というタグを見つけ読んでみると、21世紀に入ってからの市民生活に関する諸問題──毒家族や周囲からのハラスメント、生活費困窮、子供達の保護と教育、高齢になってからの生活不安定や孤独死などからの逃亡先として「自死」を願う人の声があると感じた。
 20世紀までは社会に向けて発信しにくかった「個」の問題がインターネットの普及によって、特にスマホの普及によって発信出来るようになり、時折こういうタグによって一斉に発信されるように思う。まるで大潮のように定期的にワッと起きると感じる。
 
 自分は精神病や精神障害を抱えており、30代から少しずつ福祉支援を受けてきている。詳しい内容については自分のプライバシー詳細非開示主義なので書かないが、福祉支援制度に深く感謝している。制度だけでなく多くの、とてもとても多くの方々にも。
 以前からネットで「福祉に頼りたい時は、辛い人自身が、サメのように貪欲に自分を支援してくれる福祉支援窓口を探し、たらい回しにされてもメゲず、かじりつき、書類申請し、面談を重ねて受理されるまで粘らなければならない」と書いている。それは自分が身をもって感じた経験からの事だ。
 
 30代の時に障害年金受給を考えて当時の担当医に相談したが、甘っちょろいことを考えるなと一蹴された。その後しばらく諦めて暮らしていたがどうにもならなくなり、その時お世話になっていた担当医が社会福祉協議会(以下、社福協)の方を紹介して下さった。それが最初の福祉支援との本格的な「繋がり」だ。
 それまでは障害者手帳や自立支援制度(精神科の医療減額)だけだったが、社福協の担当者から「いつでも相談に来て下さい」と温かい言葉を頂いた。障害年金の受給を勧められ、担当医も同意して下さり手続きを始めた。
 離婚して大阪に来た後、独居が続いた先の事に不安を覚え、また引きこもりも酷くなった為に何かサポートしてもらえる所はないだろうかと思い、区の福祉課や社福協に相談した。そこからあちこち相談に行き、現在は外出支援や定期的な相談支援を受けている。
 
 自分は精神障害者という前提があったために福祉支援との「繋がり」を若い内に受ける事が出来た。
 しかし、障害者や難病患者、被介護者ではないまあまあ健康な方であれば、育児関係以外で福祉課窓口に行くことはあまりないと思う。自治体広報誌や自治体HPを見る事も同様だと思う。
 そうなると何度も自治体窓口を回る気力がある間に福祉制度の「繋がり」を作る事ができないケースが多いのではないだろうか。また、自分が福祉支援対象ではないから窓口に行くだけ無駄だと勝手に思い込んでいたり、「福祉の世話になるのはまっぴらだ! 恥ずかしい事だ!」と思ってる方もいるだろう。
 上記の方々が福祉支援の「繋がり」を得る機会は本当ににっちもさっちも行かなくなってからかもと想像する。被支援者本人の心の準備が出来ないまま、いきなり知らない人達が色々訪問してあれこれ質問して混乱したり、自分のものを勝手に触らないでとパニックになるケースもあるのではないだろうか。
 「福祉は市民ひとりひとりの直ぐ隣にある」という事を元気なうちから認識し、福祉行政や支援内容についてアンテナをピンと立て、自治体の広報誌は1部だけでも部屋に確保し、困った事があったら相談会がないか見てみるなどして欲しいと個人的に思う。法律や福祉、悩み事相談など様々な相談会を各自治体が開催している。月ごとに違ったりするが、広報誌が1部あればおおまかな感じと申し込み窓口の電話番号等書いてあるので参考になる。 
 
 今回特に強調したい事は未成年者への福祉支援だ。
 未成年者が自治体窓口で福祉支援を求める事が現状では難しいと個人的に思っている。
 毒家族から逃亡したい、いじめ環境から離れたいと願っても保護者監督下にあるため逃れられない、苦しい、助けてという声を行政がもっと受け止めて欲しいと願う。
 
 28日にこちらの記事を見た。
 ◆怠けているように見える生活保護受給者は「虐待サバイバー」かもしれない|ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト
https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2023/01/post-100720_1.php
 この記事の中で、小学5年生の時に児童養護施設に入所した人の話があった。
 以前も児童養護施設の記事を読んだことがあったが、公共機関の利用方法など日常の雑事について教えてもらえる機会が少なく、退所した後いきなり社会の喧噪に放置されるような感じで戸惑い、アフターフォローを受けることが出来ず困窮しているという話を読んだ事があった。この記事でも類似した話があった。 
 未成年の間に福祉支援を受けても支援が終了して社会に出る迄に「生きていく為の土台」となる知識などを受ける事ができなければ衣食住に困らず精神的に安定した日々を送る事が出来ないと自分は思う。
 
 「年齢性別問わず国民の衣食住が安定して維持される状態に」。これが福祉だと個人的に思う。
 自分は福祉支援を受けることで衣食住が安定し療養の日々を送る事が出来ている。障害年金受給、つまり収入維持だけでは安定しないと思う。福祉スタッフの方々が介助や訪問面談、メールや電話での相談にのってくださるおかげで自分の療養生活が成立している。このことを深く深く感謝している。
 一定期間(1年間~数年間)毎に継続の為の書類申請手続き等しなくてはならないが、受理されればこれからも、つまり、年齢等の制限なく続くと思う。
 福祉と「繋がる」ことが出来て本当に良かったと思っている。そして福祉と繋がる事が可能なのは自分だけではない。現在様々な悩みに向けた相談窓口がある。窓口面談や電話だけでなくメールを受け付けてくれる所もある。悩んでいる方は上の厚生労働省のHPを見たりWEB検索して相談して欲しいと自分は思う。自分が以前お世話になった担当者は「生活に困ったら、どの支援を受けるかどうかは後の話だから、とにかく悩み事を話しに来て」とおっしゃっている。時折メディアで相談窓口で冷たい対応をされて辛かったといった悲しい話題があがるが、相談窓口の方々全てが相談者を蹴落とすような方では無いと自分の経験から伝えたい。

 児童養護施設の所で触れた「生きていく為の土台となる知識と知恵」をプライバシーを保ちつつ様々な資格を持つ複数人のスタッフ含めて共同生活を送りながら学べる福祉集合住宅があればいいのにと思う。学生寮に近い形の集合住宅だろうか。
 社会で生きる為の知識や知恵は沢山ある。食材や着衣をどう選ぶかといった買い物方法から料理と片付け。洗濯や掃除、ゴミの分別。生活に必要な物品と不要物品の仕分けと粗大ゴミの出し方。電気代や健康保険、税金など公共料金の支払いや契約についての知識。急病時入院費や家具の買い換えなど高額出費の為の資金貯蓄。高額商品を購入する時に必要な知識。役所や図書館や公共交通機関の利用方法。病院の利用や心身の悩みの相談窓口、盗難や詐欺の被害など犯罪被害に合わないための防犯知識……書いていたらきりがない。
 スタッフとの暮らしでそういう知識等を学びつつ、職業訓練をしながら高校や大学卒業資格取得が可能だとその住宅を離れた後の生活安定に繋がるだろう。 
 そして、できるだけ広範囲の年齢に門戸を開けて欲しいと思う。
 例えば高校中退の30代の人が親の住む住宅からこちらに入居し高校と大学の卒業資格を働きながら取得したいとか、児童養護施設から転居した方が職業訓練校に通いつつ生活知識や資金という基盤を作り落ち着いたら独立、熟年離婚で独居不安の方が独居生活慣らしに、などなど。
 家賃については既存の公営住宅や福祉目的住宅のように、収入等で賃貸等諸費用に公的援助が降りる仕組みであって欲しい。
 
 最後に「悩み事相談電話番号カード」について書く。
 大阪に来てから時折「あっ、あの人大丈夫かな……」という人を見かけている。だが今の時代、どうしたのだろうとジロジロ見るのは失礼だし、その方の状態によっては長々話しかけてはまずい状態もある。実際経験した。
 ドナーカードのようなサイズで1枚ないしは折りたたみで、主な悩み事別に相談電話番号やHPのQRコードがあればいいなと思う。
 個人で作るには流石に限界があり、なにより「公的機関が発行したもの」である事が重要だ。
 
 長くなってきたので箇条書きでまとめてみる。
 
 1)「年齢性別問わず国民の衣食住が安定して維持される状態」の重要性をもっと市民が認識して欲しいと願う。
 2)福祉制度利用は恥ずかしい事ではない。衣食住を安定させるのは大切な事。
 3)世帯内のハラスメントを受けている未成年が世帯から干渉されず安定した生活を送ることができる施設とその施設への入居手続きが「子供の手に届きやすい」ものになることを深く願う。
 4)「生きていく土台」となる諸知識を学べる「生活安定集合住宅」というような制度を願う。
 5)「悩み事があったらここに電話してねカード」のようなものを自治体が作成し、市民に複数枚配り、困っていそうな方を見かけたらカードを渡してあげるという仕組みを願う。
 6)土日や夜間でも予約限定で福祉相談や書類受付をして欲しい。 

 久々に長い文章になった。
 
 精神病患者、精神障害者として25年以上生きて、福祉に対する関心が深いために福祉について思う事もまた深い。ただ、福祉関係の資格を持っていない人間が書いているので間違いも多いと思う。その点については申し訳ない。
 30代から被支援者の立場で色々blogやTwitterで書いてきた。これからも書いていくと思う。

高橋幸宏さんの訃報。モーニングワーク。

 高橋幸宏さんの訃報を知って1日以上過ぎました。 
 高橋幸宏さん……幸ちゃんは家族親族友人知人ではありませんが、10代の頃からずーっと追いかけています。
 だから喪失の悲しみが大きいのは自然の事だと感じています。
 そしてモーニングワーク(喪の作業)を意識しなきゃねと感じています。

 1月15日の夜明け前からかなり泣きました。50代になってから段々両親の喪失を思い返して泣く事はなくなっていったのですが、久々に喪失の悲しみで泣きました。
 泣くことは悪い事ではないと自分は思っています。泣いたり、悲しみについて話したり書いたりする事で、心の中に生まれた「悲しみの氷塊」を少しずつ削り、外へ出していく……氷塊を小さくしていけると思うのです。
 自分は悲しみの氷塊を小さくする作業がうまくできず悩んだ時期がありました。今でも時々作業が出来ない時があります。
 静かにポロポロ涙がこぼれることはしょっちゅうあります。でも号泣して感情をばーっと外に出すという事が出来ないので、悲しみや辛さがドロドロと心の中に滞留し、重荷になっていました。 
 でも、1月15日にあれほど号泣できたのは、昨年転院した精神科での治療が上手くいっているからなのではと今思います。
 
 まだ、手足の力が抜けている感覚がありますが、味わうとか楽しむ事はさておき水分や食事は摂れているので大丈夫。睡眠はいつも不安定なのですが、まあ大丈夫だと思います。
 
 訃報を知ってしばらくは、小料理屋さつきのまかない飯に書いたように、Saravah! Saravah!を聞いたりTwitterのタグで色々な方のpostを見て、添えられた動画を見たりしていましたが、今は何も曲をかけず静かにしています。
 けど……だらだらネットサーフしてちゃダメだな、本を読もうと感じ、手に取ったのがエルヴェ・ギベール「憐れみの処方箋」です。https://www.amazon.co.jp/dp/408773160X/
 「ぼくの命を救ってくれなかった友へ」の続編であるこの本は、エルヴェの体調がかなり厳しい状態にある所から始まります。そこを読んでふと「ああ、幸ちゃんももしかしてこのような感じで身体が辛くて……」とか感じ、モーニングワークの一つに出会ったような気持ちになりました。
 
 自分は今年で55歳。これから、幸ちゃんだけでなく、憧れているアーティストから身近な人まで見送る事が増えると思います。
 幸ちゃんからの最後のPresentは「上手に泣いて、ゆるやかに悲しんでいく」事かもとぼんやり思っています。
 ありがとう幸ちゃん。これからも幸ちゃんの音楽を聴いて、贈り物を大事にしていきます。

1 月。母。教授。

 母が亡くなったのは1月で、その時雪が多かった。
 12月の半ばに病室であったときは、雑誌サライを渡しつつ「ここに載ってるような美味しいもの食べに行こうね」など話したり、雑談したと思う。でももうその頃は針を持てなかったかもしれない。病院から持ち帰った荷物の中に千羽鶴と小さな千代紙があった。
 
 年が明けてすぐ兄弟から連絡があった。母の症状が急変し意識混濁などありこの後分からないという。
 ウツが酷かったがさすがに行かねばと思い、面会時間の間に兄弟で交代しながらつきそった。
 母と自分だけの時、何故かわからないが教授の「裏BTTB」をCDウォークマンに入れ、イヤフォンを母の耳そばに置い聞かせてあげていた。
 何故裏BTTBを選んだのか覚えていない。収録曲がやさしい印象の曲だからだろう。
 だから今でも教授のピアノ曲を聴くと母の枕元にいた時を思い出す。

 教授の2022年12月のオンラインコンサートについてのメッセージ動画をYoutubeで見たら泣いてしまった。
 病気の事は知っていたけれど、詳しい事は調べてなかった。そもそも今の自分の記憶力は悲しい位なので調べても忘れていただろう。病気の事より、曲のことを覚えていたいし。
 1曲1曲分けて収録していることや病気のこと。何よりその姿。
 でも教授は最後に"enjoy" と言う。うん、それがいいよね。大事だよね。
 
 ぐだぐだ悩んでいる間にチケット販売時間が終わってしまった。1月に発売される新譜は予約した。
 そしてぐだぐだとまた悩みながらYoutubeをみていたら、サジェストにそのコンサートから公式配信された戦メリのテーマがあった。
 
 いのちのしずく。
 
 10代の頃から何度も聞いてきた。表情豊かな曲だと思う。やさしいタッチから始まるけど強いタッチになって、鳥が一斉に飛び去るように終わる。
 その、最初のやさしいタッチが本当に命の雫のように感じられた。音符のひとつひとつが。
 元々すらりとしてる教授の指。モノクロのせいかなおさら影を感じて辛い。
 
 コンサートが終わって数日だったろうか。記事を見かけた。そこではコンサート告知の写真と違い、微笑んだ教授の顔があった。
 自分が一番好きな教授の表情は、照れ笑いと苦笑いが混じってるような笑顔。どんな人でも笑顔が一番だけど、笑顔にも色々あるから、ね。
 また、新譜「12」についてのサイトにある画像で、器材のある部屋で音楽の仕事中ちょっと一休みという感じの画像。ゆったりしたシートを倒して休んでる教授。休んでるけれど呼吸を意識してるなぁって感じたり。眠るとか休むというより、安定や調息、平穏を感じる。

 人間、いつどうなるか分からない。一寸先は不明。光か闇か。流されるか逆転するか、誰にも分からない。
 教授が今でも持っているだろう「やんちゃ魂」がガン細胞をとっちめて、教授も医師もびっくりするような嬉しい展開になるかもしれない。
 人生には限りがあるけれど、最後の最後まであがきたい。自分が知る人達に逆転満塁打がありますようにと祈らずにいられない。
 
 母の話に戻る。
 母の余命について具体的な話を担当医から聞いたかどうかはもう分からない。あったのかなかったのか不明だ。
 でも母はあがいたと思う。針が持てなくても鶴を折り、最後まで手指を使うことを諦めなかった事から感じる。 
 その次に思うのは、自分はあがけるだろうか、だ。
 死ぬ、つまり、自分がなくなってしまう事が怖い。自分愛しさのもがきならあるだろう。でも、何かを残すためにあがけるだろうか。死にゆく自分の心身を見つめながら文章が書けるだろうか。
 母は鶴を折った。教授は今も音符を綴っているだろう。
 アンサーとしてでなく、自分愛しさでもなく、ただ、このblogを見に来て下さる方のために書けるだろうか。
 まあ、今まで自分が書いてきた事はほぼ自分の記録であり、この記事だってそう。自分愛しさがカケラもない記事があるかと問われればスミマセンと頭を下げるしかない。
 
 とにかく、とにかく。
 ネットの隅っこでぐねぐねしている自分の書き散らした事が、自分の知らない方のヒントになれば嬉しいなと思う。祈る。
 誰もが子供時代を持ち、大人になり、何らかを愛し、失い、悲しみ、苦しみ、人生を歩いて行く。
 自分の人生の道は銀河開闢より一つだけで、他の誰も歩く事は出来ない。独りの道。
 それでも先人が示してくださった様々な事は「一寸先の闇」を照らして行き先のヒントを与えてくれる。
 その一つ、砂粒でもいいから一つになったら、嬉しいな。
 
 メリークリスマスの、その先、1月に。

silent talk

 ニュースサイトで学校での黙食に関する記事を読んだ。確かに話ながら食事するのは楽しい。だがCOVID-19事態の今、感染リスクは極力減らしたいし、何より「学校で感染した」となったらおおごとになる。学校側は避けたいだろう。
 
 自分が学生時代にお世話になった寮は公団のもので様々な方が暮らしていた。また風呂は銭湯のように広い風呂場があり、トイレもキッチンも共用だった。
 ある時、湯船につかってぼんやりしていたら、蛇口前に並んで座ってるふたりが手話で会話しているのを見た。ド近眼だが今ほどではなかったのでまあ分かった。
 それを当時の自分は"silent talk"と感じた。後に手話ボランティアをされている方と出会い「手話は便利ですよ」と色々教えて頂いた。年老いてしゃべることが辛くなっても手話を覚えていればコミュニケーションは取れるよと。ある時その方がお母様を迎えにいくからちょっと寄り道となり、ある公共施設に到着した後、その方とその方のお母様が窓越しに手話で会話されているのを見て感動してしまった。
 手話とは手で話すことであって、障害があるから手話を使わざるをえないのではなく、手話を覚えることで伝達手段が増えるのか、と。
 
 思い出す。昭和時代の株取引。人々が背伸びして手で何やらジェスチャーしている。市場でも様々なジェスチャーで取引がされている。
 皆が一斉に声を上げたら混乱するが、市場なら帽子についた記号とジェスチャーで誰がどの値段を示しているか分かる(と、素人なので想像する)。
 
 黙食を機会に手話を学んでいる人達もいるのではと個人的に想像する。
 リコーダーやハーモニカが教育現場で今でも使われているのか子供がいない自分には分からないが、感染リスクを減らすためにそれらを止めて打楽器など違う方向を模索している所もあるかもしれない。違う楽器を学ぶように、違うコミュニケーション手段を覚えるのも面白いのではないかと思う。
 
 残念ながら自分はボッチであり、引きこもりだ。やはりリアルでコミュニケーションを取る楽しみがないとコミュニケーション手段を覚える楽しみが皆無かなと背中を向けてしまう。
 独りって、色々寂しいな。

ひきこもり。発達障害。転倒。抜歯。一歩を踏み出したい。

 今年は去年に引き続き世界中で色々な事がありました。自分も色々な事がありました。

 居室内での事ですが、それ程飲んだ覚えはないのにいつのまにか記憶がなくなってて、最終的にどうなったかというと転倒して下唇を噛みきり、床に直径30センチ以上の血の跡があってゾッとしたり。
 それより前には正式に発達障害のテストを受けてADHDASD両方あるという診断を受けたり。他にも色々ありました。
 前歯も痛んでおり、お世話になってる歯科担当医によれば横方向に微細なクラックがはいってるとのこと。骨折とまではいかないけれど、それに近い状態で、1年位定期的に経過観察とのこと。転倒から3ヶ月以上経っても、グラグラはしていないのですが前歯のうち唇を噛み切ったであろう1本の根元をトントンと指で叩くと痛みがまだうっすらあります。
 唇は最初グロテスクな傷口でしたが、傷口を小まめに水で洗い、清潔をこころがけていたらいつのまにか傷口は閉じて今では跡にしこりがのこるだけです。食事時に不便とまではいかないので、経過を見つつ、気になるようであれば形成外科にお世話になるかもしれません。
 
 転倒した後しばらくは、とにかく傷など見てもらったりでバタバタ動けたのですが、それが一段落して振り返ると「もし、あと少し位置がずれていたら柱に激突して額を切っていたりとか、顎の骨折や脳にダメージがあったかもしれない」と感じて……心が青ざめるという状態になり、へなへなと心身がへたりこんでしまって深く引きこもっていました。
 
 高齢者が転倒したという話はメディア等で触れて「頭では」知っていたものの、自分が体験することになるとはみじんも思っていませんでした。しかし今回はこれだけで済みましたが、次は……次は簡単に済まないだろうとビビっています。ビビリなので。
 また、若い頃から精神科の薬を飲み、今の処方になってから5年近く経っており「精神科の薬を飲んだらアルコールはほぼ厳禁」という原則が消えてしまっていたと反省しています。
 若い頃からウオッカが好きです。ジンは苦手で、ウイスキーはおっかなびっくり頂くか、角瓶ハイボール程度。ワインも大好きですが必ず食事と共に飲む習慣なので、自分が「飲んでる」というのは大抵ウオッカです。昔はライムロックでしたが、氷結が出、近年はストロング系で色々なフレーバーが出てきたので、それにグオオォンとかまして飲んでます。
 銘柄はあまりこだわりはないのですが、ストリチナヤやスミノフが多かったと思います。SKYやアブソリュートはあまり記憶にありません。ロードサイド酒店に置いてある謎銘柄が一番お世話になったかも。さておき、今回しでかした時はそれらがなくてギルビーを飲んでました。ギルビーはジンのイメージが強いです。スーパーの酒売り場にスミノフが無く……というかウオッカがギルビーしかなかったので。 
 そもそも大阪に転居して数年経って治療も安定し、酒量自体減っていたんですね。そして今の居所に転居してからはハイボールがマイブームとなり、角瓶でハイボールを作って飲んでました。
 自分は飽きっぽく気まぐれです。いつしかハイボールブームが終わりストロング系に手を出してしまったのがあかんかったんでしょう。
 「……足りない」
 そう。足りなかったのです。足りなかったら足せばいいじゃないのと。
 アイタタタタタ
 
 こうしていろいろ考えながら書きだしていると本当に「アイタタタタタ」としか思えない行動です。
 でも、苦しい言い訳、書きます。

 20代でウツ病と診断されて、30代半ばでBPDと診断されました。BPDと診断を受けた時ショックでしたが、その時は前夫と生活していて家計がバババンバババンいってたのとまだ他の事で気を紛らわせる事が出来ましたし、何より話せる相手がいましたから……
 54歳。親父が亡くなった歳にもう少しで到達します。未来への希望より、過去を懐かしむ事が多くなりました。社会生活もしていません。
 発達障害と診断されて、じゃあこの後どう生きていけばいいのか。手がかりを探していますが、ネットはあまりにも情報が多すぎなのと、成人の発達障害は勤労者を対象に書かれている記事等が多く、静かな療養生活という引きこもりな自分が発達障害を抱えての独り暮らしをどう生きていけば良いのか分からないのです。
 転院して現在の担当医とお会いしてから半年位大体月に1度お話していますが、まだ担当医にどういう風に話していけば良いのか分かっていません。
 
 五里霧中……いや、ひきこもりなので居室内霧中であります。
 精神科の薬でも解消しきれない所を酒にに逃げちゃったのかなぁと思います。
 吾妻ひでお先生の「失踪日記」などを読んでいますしそれ以前から精神病についての記事など見かけたら目を通すようにしていましたから、アルコール依存症の恐ろしさ、一日の酒量より、ぶっちゃけ酒に逃げてたらやばいよというのは頭で分かってるのに。
 
 「ほどほどで、ほどよく付き合う感じで」
 転倒後間を置かず診察予約日だったので担当医に転倒した事、その原因等隠さず話し、大目玉を食らうだろうと身を縮こまらせていましたが、担当医は初めてお会いした時同様の穏やかな口調でそうお話されただけでした。
 歯科担当医にはしこたま怒られました。
 
 左の奥歯2本を先年抜歯して部分入れ歯を作ったのですが殆ど使っておらず、そこに前歯を痛めて今でも前歯で噛みちぎる事が難しいです。そのため右奥歯を酷使してしまい、元々ぐらぐらだったのが炎症も起こして大変な事に。
 昨日抜歯。
 
 昔見た夢占いに「歯が抜けたり、歯を抜く夢は変化の兆しまたは変化の望みの現れ」というのを読み、それ以来歯が抜ける夢を見ては「変化があったかな」とぼんやり思うようになりました。
 昨日リアルで抜歯しましたが……精神周期的に「少しだけ動けそうな期」に移行しつつあるせいか、色々天から降りてきてTwitterに書いたりしています。この投稿もまたその勢いのせいでしょう。
 リアルで歯を抜いたことで運気の流れが変わり、発達障害診断を下されてからのもやもやした状態から一歩踏み出せると……踏み出したいと思います。
 
 独居でボッチの自分。褒めるのも発破を掛けるのも自分しかいません。
 2022年W杯日本代表監督森保氏は、手帳に奮起するフレーズなどを書いて、それを見てらしたそうです。それにあやかって、反省をまじえつつ、独居ひきこもり54歳発達障害者が、せめて通院など定期的に行かねばならぬ所へしっかり行ったり、身の回りのことを無理しない程度に出来るよう、まあちょっとがんばろうじゃないの、という気持ちを込めて書きだしてみました。

彼らの後ろには

 両親共に昭和ヒトケタ生まれで、でも戦前から戦後にかけてどうだったか語ることなく両親は亡くなってしまった。
 その代わりに、毎日新聞社刊の「一億人の昭和史」シリーズの内の戦中~戦後の巻が置いてあったのかなと思う。
 2022年の今は、当人が語らなくてもSNS等であちこちで撮影された画像や動画が流れる。もう十分だ、見たくないという程のデータが流れている。
 
 今はどうしてもウクライナ侵攻の報道が良く流れるが、戦争から内紛、弾圧で住み慣れた場所を追われた市民は世界のあちこちにいる。
 そしてそんな状況にある子供達へのインタビューで「将来どんな職業に?」という質問に「医師や弁護士に」という回答があったりする。
 そう答える子供達の背後に第二次大戦やそれ以前の大きな戦争で若くして亡くなった兵士達のカゲロウが見えたりする。
 
 「一億人の昭和史」に、雨の中を行進する大学生達の写真が載ったページがある。 
 彼らが戦地へ行かなければ彼らはどういう未来を歩んでいただろう。
 彼らだけでなく、古今東西あちこちの戦場で斃れた若者……若者だけでなく老若男女がもし無事であったならば。
 
 今後も、未来も、戦争は起きるだろう。
 そして夢半ばにして斃れる人々は今後もいるだろう。
 
 歴史は、そういった人々の血と肉が染みこんだ土の上で積み重なってきたのだ。未来の歴史も同じようにして築かれるだろうと自分は想像する。
 自分はそれを忘れたくないし、折節こういう風に語っていきたいと思う。