緑眼輝くオニヤンマが巡回する店で土・炭など求め、器に配置し心臓の形で鈴音を響かせるものを放つ。人参と麦飯がよいようだ。途上澄んだ水色と漆黒の軸に、網貫入様の透き通る翅にて、中空を音なく進むものあり。南宋官窯の青磁輪花鉢を連想させるそれはシオカラトンボと呼ばれ、子らに追いかけられて尚典雅である。時期を過ぎ見かけた深山茜のたたたずまいもまた。

圧縮をかけた言葉の文字の並びから溢れる波動を瑞々しい鈴の音を介し届ける人あり。駅はあるが電車のない言葉通じぬ地での荒療治により一時回復。寸法ぴったりのお下がりを山ほどいただく。子らが食べるはエビばかり。 

放られて氷上に散るどんぐりを目掛けかけ寄り滑りながら次々と丸呑みしてまた一目散に池に戻って行く鴨。3匹の小さなぶたが福々と笑っている置物をいただく。製本のひどさを謳われながら内容で黙らせる方にお会いする。目を覚ました途端手当たり次第に物投げ笑う子に手を焼く親。

「しかし、どうして人間は放っておくと三代目になってしまうのか」ハンチング帽を三つ重ねて被っている三代目から1mmの100分の2についてうかがう。他のみなさんは「網走番外地」に集中している。「三代目の生き方は、資源浪費も環境破壊もしない、共存する安定平衡的な生き方です」


湾曲婉曲遠回しの建前尽くしで窒息寸前。世辞も世間話も一切なしのみもふたもない物言いを反射鏡に得てようやく息をつく。会話は大抵「お前あほか」で始まり「お前反動か」で終わる。内容は特になく、意見はまるで噛み合わない。犬猿そのもの。

動じず飛び込み我が道ゆく子。「どこに行ってもやっていける」の太鼓判で更に突進。終日けらけら笑ってる。思わぬ問い。「芸能人に1日なるとしたら誰?」昨今の芸能に疎い我、苦し紛れにいとしこいしの名をあげる。