幼少期の外国語教育について

レポートの題名。私の考えを以下に示した。駄文だが興味の有る方は見ていただきたい。
 まず幼少期の英語教育は自分の経験をもとにして考えると、余り薦められない。私の場合は英語教育を受けた。そのおかげで英語は生活していくには不便が無いぐらいは話せるし、アメリカ文化やアメリカの人の政治に対する考え方に関してはそれなりに詳しい。ヨーロッパ文化を学ぶことに関しても人よりは苦労が少ないと思う。
 ただ、自分が根無し草のように感じることがある。例えば帰国子女という基準を満たしている人は、仮に日本ではアブノーマルであったとしても、きちんと’帰国子女’としての教育なり扱いを受けることが出来る。日本文化に関して無知で有ったとしても、少しずつ学べば良いという猶予を与えられる。そして帰国子女であることをアイデンティティとすることができる。だが、私のような中途半端者にはそれがない。日本文化や日本語は出来て当たり前で、出来ないと相当の報い(いじめとか)を受ける羽目になる。そして生粋の日本人で英語ができるようになりたい、という人のうらみの的になる。このような環境に長いこといると、紙上の国籍はあっても精神的には無国籍状態に近くなる。その状態を中立の立場に立って冷静に判断出来るというのは大事なことだよ、と言ってくれる人が多ければ良いが、そういう人はまれにしかいない。だから、生きづらいところがある。
 子供に英才教育を!と願っている保護者の方には是非考えて頂きたい。子供は、自分にとって馴染みのあるもの(=興味を抱けるもの)を吸収しようとする力が強い。私の場合はそれが英語でありアメリカであった。ただ、そのように生活をしていくと日本社会に不適応を起こすことがある。そのことも含めて責任を持てるのであれば問題は無いが、覚悟が無いのであればまず日本語教育・日本文化教育を行うべきだ。

大学

まさにモルモットのような生活を送っている。誰かに被験者をしてと言われればそちらに、あちらにと渡り歩いている。実際、先輩の実験の被験者をやることによって実験計画などが学べるのが嬉しい。若干、大変な時があるけれど。しかし、他学科専攻の人にとってはまさに苦行その物だろうな、と感じた。慣れてしまえばそんなこともないが。何故なら①時間が取られる②顎額固定器を時々使う③精神的に疲れる(こともある)、④何をやっているのか意味がわからない(実験者にとっては嬉しい限り)等が理由としてあげられるだろう。来年は私も実験者になる。少しでも参加しやすい環境を作らなければと思った。

大学

休みなのだが、ゼミの人と今度自主授業(もとい勉強会)をする。何故か、私は幹事。なんだかんだ言ってはりきっている。院試用に国1の心理学史と基礎心理学の問題集を買った。認知分野(専門のはず)でも、興味の無い部分はやはりできなかった。プルキンエ現象とか。*1まだ、要素主義や機能主義のほうがなじみがある。しかも、覚えなければいけないものの名前が似通っている。無心像思考*2がおもしろい。しかし、いかんせん世界史の到来のようで頭が痛い。

*1:プルキンエ現象=昼間は長波長の色が鮮やかに見え、夜間は短波長のものが良く見える

*2:根拠は無いのだが、知っている気がするという思考のこと。これまで、心理学では思考はきちんと感覚情報に基づく要素,もしくは心像によって成り立っているとかんがえられていた

夏休み

 高校生はもう夏休みも終わりなのか。大学に入って休みが長くなったけど、バイトやらなんやらでその気配がしない。親元に帰った友達は家族と仲良く観劇などをしているらしい。私はバイトの人や学校(通学組)の友達と仲良く過ごしている。でも、未だに大学の長い休みには慣れない。

最近読んでいる本

・認知革命(H・ガードナー)・・一人で書いているとは思えない程内容が濃い・賢くて先見の明があるというのはまさにこのことなのだろう
・視覚の情報処理(K.T.スペアー)・・ゼミの先生のお薦め本。何故、前期のテキストが是でなかったのか謎。見たことはあったけど、名前は知らない効果が結構あった。オブリック効果とか。コントラストが低いと弁別域が垂直方向のグレーティング<斜め方向のものと高くなるというものだった。
・視覚の文法(カニッツァ)・・ゲシュタルト心理学の王道。運動視などが興味深い。現代主流のアメリカ心理学(新行動主義的)ではないのが新鮮。ただ、錯視図形などを作ることで本当に視覚に関することが分かるのか謎。廃れてきたそうだ。(もう少し部分にかんすることが分かってから、その知見もふまえてゲシュタルト的に分析すると新しい発見があるかも)

あとは、テスト対策の為に、公務員試験用のものをかじっている。臨床と違い市販されている
問題集がないので、唯一使える物はこの類になってしまう。今現在は、心理学史と格闘中。思想の部分だと、似たり寄ったりで覚えづらい。しかし、歴史を概観することで如何に視覚心理学(精神物理学等も含む)の問題が古くから議論されてきたか、が分かる。しかし、実際はあまり進歩していないように思う。どんどん分節化されてしまっていて、個々のことは分かり欠けてきたけれど、そのおかげ(せいで?)全体が見えなくなってきている気がする。確かに、物理学的手法により科学は進歩してきたが、それに依存仕切らない手法も見つけるべき時期がきたのではないか。データだけが全てではない。
 それとも、所詮は人間は自分たちのことを理解出来ないのだろうか。そそうだとしたら、そこにこそ神が存在するのだろう。