裁判員候補暴露について簡単に・・・

 巷では裁判員候補に選ばれた人がブログで発表してしまうという事態が起こっているらしい。
法律で禁止されているにも関わらずそのような犯罪が起こってしまうのはなんでだろうか、1分くらい考えてみた。

 多分、自分が裁判員候補者であることを公表することから派生する不都合性について想像する力が欠如しているのだ、と結論付けてみた。
「公表したところで誰にも迷惑はかからないだろう、というかそもそもなんで公表しちゃいけないの?」という感覚なのだろう。
 裁判員(候補)であることを回りにバラしてはいけない理由は主に2つある、と記憶している。
一つには自分のプライバシーもろもろの安全確保にある。
これだけならば、自分のプライバシーなんだし、自分の身体の安全の問題なのだからその利益を自ら放棄しても構わないといえる。
しかし、もう一つの理由としてはいわゆる守秘義務の発生、である。
法曹には裁判に関する情報についての守秘義務というものが課される。
したがって裁判に関係する者にも当然守秘義務は発生するものだ。
しかし、一般の人に守秘義務を徹底させるというのは難しい。
どこまでなら話せるのか、という点だけでも説明しきれないものであろう。
だから根っこの部分、つまり自分が裁判に関係しているという所からシークレットにしてしまおう、ということだろう。(しかしそうしたところで実際、どこまでなら知らせてもいいのかという疑問が出てきたということからもなかなか難しいもんである。)

 だが、一般国民にそのような義務を課すというのは到底無理な話。
誰から見たって悪いことならほとんどの人はやらないし、小さい頃からやらないように教育されるので話は簡単。
なんで守秘義務を負わされるのか、バラしたらどのように悪いのか、ということは抽象的な問題を多く含むので軽い気持ちで破ってしまうものである。
飲酒運転でさえ規制しきれていない社会では尚更である。
 といっても、こんな事態ちょっと考えれば想像できることなので裁判員制度を構成したメンバにとっては想定内なのであろう。
ということはこれから守秘義務についてどのような規制をかけていくのか、楽しみである。

過失認定と結果回避可能性

 杏林大学病院で、医師が男の子の喉に刺さっていた割り箸に気づかなかった、という事件がありました。


 刑事裁判では「過失はあるけど、気づいたとしても助からなかったので無罪」という判決を下しました。(一審)
「えっ、過失があるのなら業務上過失致死罪じゃないの?」と思うかもしれませんが、刑法において過失認定には結果回避可能性というものが重要な役割を果たします。
簡単に言えば、ほぼ絶対防げなかったのであれば罪に問わないということです。
 刑法の趣旨は社会の秩序維持である、という立場なら妥当な判断基準です。
国家の強制力によって個人の財産や自由、生命を侵害するものですから、謙抑的に適用すべきです。
 今回の事件で絶対に防げなかったかどうかは知りませんが、本当に防げなかったとしたらこの判決は妥当だと思います。


 問題は民事裁判。
 民法は謙抑的に働かせる必要はありません。対等な個人と個人というものを想定していますから。
むしろ当事者の公平を積極的に追求、事件に介入していくべきものです。
とすれば過失があった以上結果がどうであれ当事者の公平の観点から一定の不法行為、若しくは債務不履行責任を負うべきである、と考えることも充分に可能です。
 なら民事裁判では原告勝訴で損害賠償してもらえたのか、というと結果は反対、原告の敗訴です。
どうも病院側に過失はなかったと判断したそうです。
より慎重に、謙抑的でなければいけない刑事事件では過失が認定されたのにどうして民事裁判で過失認定されなかったのでしょうか。


 思うに、刑事裁判の過失認定って一種のリップサービスだったんじゃないでしょうか。
結局無罪にするんだから最大限に譲歩したカタチで判決を下す。
「あとは民事で考えて」と丸投げ。
過失について考えなくても結果回避可能性がないのだから結論は妥当、という立場。
 で、民事裁判でしっかり吟味して「過失なし」と判断したのかもしれない。


 だとしたら・・・残酷・・・。
刑事で期待させといて民事で落とす。
また考えすぎかもしれませんねぇ。


 でも純粋に考えて「過失なし」とは言えないと思う。
「プロ」が気づかなかったってのは過失推定働くだろ。
 民事の判決はせめて、過失を認めた上で請求棄却して欲しかった、というか棄却するならそういう方法で納得させて欲しかったです。

The Whoのライブに行ってきた!

 70年代ロック、モッズの象徴ともいえるThe Whoの初来日ライブに行ってきた。
 全盛期に一度も来日しなかったバンド。
そんなバンドがようやく来日すると言われれば、いくら歳をとっていたとしても行かないわけにはいかない。
ドラムのキース・ムーン、ベースのジョン・エントウィッスルがもうこの世にはいなくたって観に行かない理由にはならない。(僕がエレキベースを始めたきっかけを作ったジョン・エントウィッスルがいかに素晴らしいプレイヤーだったかについて書くと終わりが見えないのと涙が止まらなくなってしまうので省略しよう)
 とはいえ、二人の天才を失ってしまったThe Who
あの頃のパフォーマンスは絶対に期待できない。
The Who」という一つの歴史をこの目に刻むことだけでもできれば良い、なんて思いながらライブに行ったのである・・・


 行って良かった!!


 歳なんて関係ない。彼らのパワーとパフォーマンスはすごかった!
ジョン・エントウィッスルの名曲"Heaven And Hell"こそ聴けなかったが”I Can't Explain”から始まった2時間。
あんなに大きなステージが小さく思えてしまうくらいの迫力があった。
 音楽の形態がロックだのなんだのではない、音楽を通じてリスナーの心に突き刺さってくるものがロックなのだと感じた。
今回のライブは間違いなく僕の心にロックの精神が突き刺さったと言えよう。
 (・・・70年代に青春を謳歌したかったなぁ)

僕が高校三年間毎日のように聞き続けたCD↓
Live at Leeds -Deluxe Edition

Live at Leeds -Deluxe Edition

表現の自由と公人

こんな記事を読みました。


言論弾圧を愉しむマスコミとはてな村民(kentultra1の日記)


 政治的な問題が強く関連していることについては公務員は言論統制されているのが日本の常識です。
 正当化の根拠として、公務員の独立性、政治的中立性なんて言葉があります。
 有名な事件としては猿払事件というものがあります。
郵便局員が就業時間外(私的な時間)に、選挙のポスターを掲示した行為が国家公務員法(政治的行為の制限)違反となった事件です。
 公的な立場の人間は言いたいことも言えないこんな世の中じゃPoison!!ということなんですね。


 まず、僕なりの批判。「あなたの立場でそんなことやったら更迭されるであろう事はわかっていたはずでしょ」というもの。
 なんで更迭されないといけないのか、については上記の通りです。(ちなみに「猿払事件判決」についてはとても批判が強いです。)
 ただ、少なくともそういう措置を受けるであろうことは普通に生活していれば予見できるにもかかわらず、そんな事をしてしまったことに対する「愚かだね・・・」という批判。
 いや、むしろ確信犯かもしれないですが。
 あの立場でああいう事をすれば必ずと言っていいほど問題になる。
 そうすれば自分の意見が世間に知れ渡る、ということです。
 確かに、僕がどれだけ自分のいいたいことをココで叫ぼうが何万人という方に読んでもらえるわけではありません。
 そうやって自分の意見を普及させた上に、最悪でも退職金6000万円が入ってくるのですからウハウハです。
 そもそも政府の見解と意見が違っていたのですからそういう点では職に未練もないかもしれません。


考えすぎでしょうか。


 さて、kentultra1さんが書いていらっしゃる点について、思想そのものの批判についてです。
 それは日本人の「太平洋戦争観」に起因するものではないでしょうか。
 日本人は憲法改正という言葉を聞くとまず「9条問題」を思い浮かべます。
 そして、あたかも自衛隊が軍隊になったら戦争が起こるような意見が出ます。
 教育によって日本人はそう思うように矯正されています。
 いや、正確に言うと戦後教育の裏の側面がそのような形で表出している、というべきでしょうか。
 つまり、日本人は軍隊恐怖症なのです。
 そうすると国防(自衛隊)の人間が戦争についてちょっとでも肯定的に捉えられるようなことを言えば、過剰に反応してしまうのでしょう。
 そうしたらもう「表現の自由」なんてあったもんじゃない。「危ない!!コワい!!」ですからね。
 緊急避難的心理状況というか、パブロフの犬的心理状況というか。


 ただ、そろそろそうやって戦争から目をそらして「悪い!悪い!」と言うのはやめなくてはいけないと思います。
 kentultra1さんの「公正な歴史観を求める姿勢を持っているなら、意見の異なる者についても公正な判断を行えるよう、自覚的にあるべきだろう。」に尽きるのではないでしょうか。
 締めの言葉を自分の締めの言葉に引用してしまうのはあまりにも失礼でしょうかw
ということで、


 最初に戻るけど、本当に計画的に為されたものだとしたらカッコいいですよねー。絶対ラノベ読みすぎですよねー。(締め!)

取調べ録画のコワいところ

「相棒」の再放送で裁判員制度について触れている回をやっていた。
裁判員の方々が「被告人=犯人」と決めつけて評議している、という演出はかなり興味深かった。
「疑わしきは被告人の利益」が危険に晒される可能性が高いですね。
まぁ、従来の裁判制度だってそんな利益はないといっても過言じゃないかもしれませんが。
裁判官だって「被告人=犯人」と決めつけたりしてる方はいるかもしれませんものね。
確実に有罪になる事件だけを起訴する今の検察ってのもなかなか手強い。
なぜなら検察が有罪事件を持ってきて、裁判ではその量刑を決めるだけという流れになりやすいからである。
だからといって証拠不十分にもかかわらずとりあえず起訴、って考え方も困り者。
裁判費用もバカにならない上、被告人を無駄に拘束する危険性がある。
ニュートラルな視点から、お互いの弁論だけで判断する能力・・・難しいですね。


ところで最近取調べの録画が行われているらしい。
一件につき20分程度の録画だと。
録画するのであれば取調べ全てを録画するべきだと思っている。
編集は絶対にしないといっているが、何も積極的に編集なんかしなくても録画の場面を選ぶ事だってある意味で編集作業と同様の「改ざん」はできるだろう。
任意性を疑わせるような取調べの後、ビデオを回して自白させる、なんてことができるのではないか。
こんなやり方では検察側の立証が容易になるだけで、弁護側に有利になることはないのでは?
もちろん立証が容易になるのは良いことであるが、そもそも取り調べの可視化は被告人の保護の観点を大いに含んでいるものである。
ちゃんと全て録画して弁護側も取り調べの違法を指摘できるようにすべきである。
以前も言及したと思うが、中途半端な取調べの可視化は虚偽の自白に信用を持たせてしまう。
そしてその可能性がある限り、何をしようが自白の任意性を争う時間は短縮できない。
まぁ、今は途上段階にあるだろうし、これから様々な試行錯誤をして公正な裁判を実現していくことに期待しよう。

ホームページを作ってみようかと・・・

ふとホームページ作ろうと思った。
以前も一度挑戦してみたのだが、HTMLとサーバにフルボッコ状態。
メモ帳になんやら意味不明な文字列を残し、僕のホームページ計画は幕を閉じた。


じゃあなんでまた?
プラモデルが作りたくなったから。
骨組み作って、こういうのどうか、ああいうのどうかってゆっくり自分のペースで肉付けしていく作業が恋しくなったのです。
しかも今まで全く触れてこなかった世界だから、可能性が無限大に広がっていくような気持ちになれる。


何がしたい、という明確な目的はないのだ。
いや、むしろ作ることが目的、ある意味明確。
HTMLなんて怖くない、CSSだって使いこなしてやるぜ。


わぁ楽しみ楽しみ。
どんなものができるのかな。
どんなものが・・・。
・。
・・・。
・・・・・。


まぁあれですよ、僕はどこに向かって行ってるんでしょうか。

「法律の穴」に対する誤解

法律には穴がある。
こんな言葉をたまに聞きます。
結論から言えば、穴はあります。
でもそれは法律を勉強していない人にはとてもわかりにくい穴ですので、安易に抜けようとしない方が良いです。
どういうことかと言うと・・・
つまり、「法律に書いてない」=「法律の穴」ではないということです。


法解釈には「縮小解釈」「拡大解釈」「類推解釈」というものがあります。
これらが曲者で、一見法律に書いていないように見えてもこれらの解釈を使うことで補ってしまいます。
考えてみれば当たり前、だって社会を文章で規定しきれるはずないんですから。


法律を勉強するときに、最初に習うのは条文ではありません。
法律の趣旨、つまり「この法律はなんのために作ったの?」の理解です。
大雑把に言ってしまうと、民法の趣旨は「当事者の公平」、刑法の趣旨は「社会秩序の維持」、憲法の趣旨は「基本的人権の保護、調整」、商法の趣旨は「経済活動の活性化」という風に。
だから、一見法律に規定されてなくても「民法の趣旨から〜」「刑法の趣旨から〜」などというように修正をかけていきます。
極端な話、「これでは不公平だから」や「これでは社会秩序が維持できないから」や「これでは経済活動がストップしてしまう恐れがあるから」という理由で判断するということです。


なんでもありじゃないか、と感じるかもしれませんが、80%正解です。
間違っている20%の部分は「解釈の限界」という問題です。
一応「法律」解釈ですからいくらなんでも、あまりに条文からかけ離れている解釈は許されないのです。


では限界ってどうやって決まるのか。
それは事例の中身によって変わります。
「明らかにおかしい(つまり、不公平すぎるとか、人権が全く保障されないとか)」場合には解釈の幅が限りなく広がります。
「微妙・・・(不公平とまではいえないとか、相手の権利も保護しないといけない)」という場合の解釈にはかなりの制約がかかります。
(そのほかに政治的な理由など、本音の部分での解釈の限界もありますが・・・今回は触れません)


お分かりの通り法律の穴は後者の場合に発生します。
明らかに法に触れそうなことは、わりと法に触れてしまうのでむやみに「法律の穴」をかいくぐろうとしない方が良いです。