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  映像研究

新しい

・新しい仕事をしているなと思う水曜日。準備をして話す仕事。何度か同じ仕事を繰り返す。芝居の公演のようでもある。前回時間通りに進行することができずこれが次回の課題と思っていたが、時間通りに進行できた今日は全然伝わっている感じが薄かった。時間通りの進行を意識した結果、平坦に読み上げてしまったのかもしれない。強調すべきポイントと自分の実感がシンクロしないままに進めてしまったと反省する。総合的に50点の感触。

 

・夕方に友人と待ち合わせて飲食する。途中で家族も合流した。JRと私鉄を乗り換える道の焼き鳥屋は平日にもかかわらず賑やかだった。授業についての相談をする。卒業した大学の専門はその後の思考や活動に影響しているといういつもの話題。看板に掛けられた語が己の地図の基点となり範囲を描くと言えるだろうか。あらためて自分が「デザイン」でも「アート」でもなく、または「メディア」でもない、「映像」というぼんやりした語が掲げられた寺子屋に通っていた、そのことを思う。

 

・人は何気なくあるいは偶然にその門をひらき、しかしときどきにその看板に掛けられた語を概念として問う。「映像とは何か」と真夜中にひとりつぶやいたり、友人が集う場で議論したりする。その途中で。

・午前は少し仕事。引き続き読書。午後に数年ぶりの鍼。皮膚のかたさをおしえていただく。自分の身体のありようについて自分では知覚していないことが多くある。鍼の場で「みる」ことは目だけでなく、手によって、触れることでなされる。自分の心身が気持ちよく動くことが望みではあるが、同時に自分以外の生き物の様子をもっとよくみることができるようになりたい。そう思いながら色々ときく。

 

・明日からはしばし慌ただしくなる。備える体勢。眠気にのまれる。

横になり本を読む

・自分の心身の観察。去年の春の波のような不調(押し寄せるものとしての)に学び、今年はうまくやり過ごそうと気をつけていて、これは乗り切れたかと思っていたが、実際には先延ばしにしていただけだったかもしれない。「やり過ごす」や「乗り切る」とは異なる態勢とはどのようなものか。押し寄せるのは不調ではなく季節の変化。その波に乗るように。

 

・椅子に座ることが必ずしも休息ではないと知り、可能な限り横になり本を読む月曜日。少し前にタイムラインに流れてきた「おうち入院」というものを実践してみたかった。可能な限りスクリーンを見ない。ゆっくり食事する。業務に関わる一切をしない。眠くなれば目を閉じる。少し体操する。

 

・読みたい本を枕元に積む。読み切れていなかった岡真里『ガザとは何か』を読み、思い出して小沢健二『うさぎ!』15話も読む。2008年は少し昔でしかし現在と繋がっていると思える。Amazonで関連する何冊か本を買い足し、この夏までの期間にもう少し学びたい。

 

・数日前に職場でときどき一緒に仕事する方から「『アワー・ミュージック』のDVD持ってないですか?」と声を掛けられて、偶然に職場の棚にあったので手渡す。確かにいまこの時に見返したいと思っていた。年表の出来事を背骨のように考え、その骨に沿って作品で描かれたイメージや言葉を肉づけすれば、もう一歩見通しがひらけるだろうか。

 

・並行して、三井さよ『はじめてのケア論』も読み始めた。学校の時間割のように、異なる学びを並行させればふと「なぜ同じ星にこんなにも年齢の分布が異なる社会が同時にあるのか」と思う。日本に生きていると平均年齢にもなかなか追いつかない。まだもう少し逃げていく。全然別の事であり、しかし全然別の事であるようにも思わない。

 

・中断して夕食。家族が餃子を買ってきてくれた。餃子ならばビール。少しだけ。

映像の幸福と

・日曜日は一日業務。9:00から21:00近くまでちょうど12時間くらい職場で過ごしていた。教室をカメラ・オブスクラにするというワークショップ。自分と同僚たち企画している側が誰よりも楽しんでいたけれども、まだ寒い時期に打ち合わせした今年のカリキュラムの(裏)テーマは「感動させる」だったから、少しでもうっとりしたり不思議に思ったりしたら、その狙いが実現されたように思う。準備と共有と新しいことに踏み出してみることで現実がひらかれる。

 

・そういえば、自分がカメラ・オブスクラに魅せられて、卒業制作をつくったりして、20年ほどが過ぎた。偶然にも、今年は複数の場所で映像の原理について話をして、カメラ・オブスクラを話題にして、工作したり実演したりしている。何か一周したような感じもある。原理は自分の原点でもあった。

 

・複数の人たちで、ひとつの現象を起こし、観察して、驚き、感想を共有することも、いつでも予想を超える。それはほとんど幸福そのものと思う。たとえば桜が咲く様子を見て、あと何回見ることができるだろうかと思うように、あとどれだけ映像の幸福の中で時間を過ごすことができるだろうかと考えている。

 

・帰宅して夕食。すぐに意識を失いそうになる。失いかけた意識で明日を思う。腰痛をかばいながら工作していて、最中は興奮しているから、身の不自由を忘れていた。明日は可能な限り、椅子に座らず、ノートPCに触れず、スマートフォンを見ることも減らして、横になって本を読むことに挑戦してみたい。本を読み学びたいことがたくさんある。幸福の外に。

立ち止まる(らざるをえない)

・晴れて午後から強風の予報だった土曜日。早めに起床してコーヒーを淹れて飲み家族に誕生日のギフトを渡して一日の計画を立てるところまでは順調だった。

 

・外出するタイミングで不気味な腰痛に心身を乗っ取られる。一旦帰宅。結果的に一日を家で過ごす。夕方よろよろと近くの整体院に行ってみるが当然のことながら劇的な改善はない。その過程を踏まえて検索してみて、あてはまる症状から、仙腸関節障害(仙腸関節炎)というものの疑いが浮かぶ。疑いを疑いのまま、身体を動かし確かめる。

 

・対策としてどのページにも、安静に、と書いてあるが夜は在宅での業務が必要だった。明日は誰よりも自分が楽しみにしているワークショップもある。母の日のギフト準備、来週末の移動の準備、そして授業の準備(および確認)もしたかった。失意のなか立ち止まる。立ち止まって休みながら考えれば。

 

・このような出来事によってこそ、健康についての考えが更新される。椅子に座ることは必ずしも安静ではなかった。