出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話1503 藤澤省吾『詩集我れ汝の足を洗はずば』と竹内てるよ『海のオルゴール』

 かつて浜松の時代舎で見つけた無名の詩集に関して一文を草したことがあった。それは「廣太萬壽夫の詩集『異邦児』をめぐって」(『古本探究Ⅱ』所収で、この詩集が鳥羽茂のボン書店の前身である鳥羽印刷所で刷られ、花畑社から昭和四年に刊行されたこと、花畑社は詩誌『花畑』を発行し、廣田がその同人であり、銀座の弥生商会に勤めていたことまではたどってみた。ところが探索はそこで途切れてしまい、『異邦児』を読んだことによって、廣田の詩と時代のコアを浮かび上がらせることを試みるしかなかったのである。

古本探究 2

 しかし『異邦児』の場合、わずかな手がかりをたどって、昭和初年の無名の詩集と詩人と出版社をトレースしていくことは可能だったのだが、かなり長きにわたって手元においても、藤澤省吾『詩集我れ汝の足を洗はずば』はそのアリアドネの糸がまったくつかめない。しかもそれが第一書房から昭和十三年に出された一冊であるにもかかわらず。

(『詩集我れ汝の足を洗はずば』)

 この詩集は新四六判上製三七六ページ、奥付には所刷千部、定価一円五十銭とあり、検印紙には藤澤の押印も認められているので、自費出版ではなく、印税が生じる企画だったと考えられる。ただ第一書房は大正末の創業時代に『佐藤春夫詩集』『上田敏詩集』、堀口大学『月下の一群』、日夏耿之介『黒衣聖母』などの豪華版美本詩集で名をはせ、それは昭和に入っても続いていたけれど、昭和十年代には「戦時体制版」などの印象が強くなっていたと思われる。

(『佐藤春夫詩集』) 堀口大学訳 月下の一群 1926年(大正15年)第一書房刊 函入り、背金箔押し革装、天金  

 そのような時代にあって、長谷川は「詩人の美くしさ」(『第一書房長谷川巳之吉』所収)で、『セルパン』に掲載された竹内てるよの詩を見て引きつけられ、その未知の詩稿を編んだことにふれている。おそらくそれが昭和十五年の竹内の『詩集静かなる愛』『悲哀あるときに』、翌年の『生命の歌』の三冊の出版として結実していったのであろう。

  第一書房長谷川巳之吉 

 竹内は『日本近代文学大事典』において、明治三十七年札幌生まれ、詩人、児童文学者とあり、昭和に入ってから病気と貧困の中で詩作を続け、草野心平の『銅羅』『学校』、秋山清の『弾道』などのアナキズム系詩誌に寄稿し、昭和四年には渓文社を創設し、印刷と出版を手がけたとされる。初期の詩はアナキスチックな思考に立ち、現実への抵抗を歌い上げたが、その後は感傷的ヒューマニズムが表面化し、平明な人生論的詩風に移行したと評されている。確かに渓文社はフランシス・フェレル『近代学校』(遠藤斌訳、昭和八年)が発禁処分を受け、昭和五十五年に創樹社から遠藤による改訳が出された。

近代学校―その起源と理想 (1980年) (創樹選書〈7〉) (創樹社版)

 竹内の第一書房版の三冊の詩集は未見だけれど、時代的にいえば、叛逆の詩から主として平明な人生論風に移行した詩集となっているのではないだろうか。そうした竹内の軌跡もあってか、彼女は『日本アナキズム運動人名事典』『日本児童文学大事典』にも立項されているのだが、戦後になって中原淳一の少女雑誌『ひまわり』の投稿詩欄の選者を務めていたようで、それらも相俟って、人生論の書き手になっていったと推測される。

日本アナキズム運動人名事典  

 それを象徴するのは竹内の自叙伝ともいえる『海のオルゴール』(家の光協会、昭和五十二年)で、藤田弓子主演でテレビドラマ化されている。これは「子にささげる愛と死」とあるように、彼女の多くの人生詩が挿入され、生き別れした息子との再会と死に至る物語に他ならず、叛逆の詩やアナキズムの影はすでに消滅している。だが何気なく「私の好きな作家、アイルランドのシングの『海へゆく騎り手』という作品」、もしくは「私の作品は次第に認められ」、第一書房から刊行された二冊は「総合して『生命の歌』という、戦時体制版というのが、七十八銭でベストセラーとなり」、「苦しかった生活の中の、情けある印税はどんなに助けになったこと」かと記しているのは、かつての彼女の痕跡を伝えているかのようだ。

海のオルゴール 新装版: 子にささげる愛と詩 (新装版)

 詩集を入手していない竹内のほうはこうして戦後までその経路をたどれるのに、藤澤のほうは『我れ汝の足を洗はずば』の一冊を残しただけで、その行方をたどれない。この詩集はこの一冊全体からタイトルの長詩と見なせよう。それは愛人が彼の家を訪れ、その病気も思いので、母親から面会を拒否される会話から始まり、次のように続いていく。

 彼は夢の中で
  彼の愛人に逢ひうつくしい花の
 香りをかいだ そして
  笑つた

 このような夢想的モノローグが一〇七ページまで続き、一〇八ページからはアフォリズム的散文へと移行していく。それも二七八ページまで続き、次からは歌と対話が始まり、『聖書』や『神曲』を彷彿とさせる。藤澤は「あとがき」において、「人の思いは、現実より浪漫へ、浪漫より象徴への道を辿るもののごとくである」と述べているが、それこそはこの詩集の回路を物語っているものであろう。


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古本夜話1502 土田杏村、アルス、『日本児童文庫』

 『土田杏村全集』第十五巻所収の四十四年という短い「土田杏村年譜」をたどってみると、昭和二年に入って、『日本児童文庫』に関する言及を見出せる。それを順に追ってみる。
 
  (『日本児童文庫』)

 二月/アルス『児童文庫』の案を立てる。
 三月/この頃『児童文庫』に関する用事多し。
 五月/『児童文庫』の少年少女大会岡崎公会堂で開催。講師白秋氏、未明氏、草平氏。
 八月/『源平盛衰記物語』(アルス児童文庫の一冊)執筆にかかる。
 九月/『盛衰記』七月に書き終る。本文四百二十三枚。巻末文十四枚。
 十一月/児童文庫の『源平盛衰記物語』出来。

 これを読んで、あらためて杏村も『児童文庫』の著者の一人であり、彼の昭和二年の多くが『児童文庫』のために費やされたことを教えられた。それに彼の旺盛な執筆活動も昭和円本時代と併走していたいことにも気づかされた。

 アルスの『日本児童文庫』は端本を数冊拾っているだけなので、『日本近代文学大事典』第六巻所収の全七十六巻の明細リストを確認してみた。すると杏村は35の『源平盛衰記物語』だけでなく、74の訳『八犬伝物語』も担っていたとわかる。確かに昭和五年五、六月には『八犬伝物語』の執筆と送稿が記されている。アルスと杏村の関係は大正十二年の『女性の黎明』を機としていると察せられるが、『日本児童文庫』に至る詳細は定かでない。

(『源平盛衰記物語』) 

 ただここではこの二冊は入手していないこともあり、児童文学の分野における円本合戦と称された同じ昭和二年の興文社、文藝春秋社の『小学生全集』にもふれてみたい。それはやはり『日本近代文学大事典』『小学生全集』の明細も挙がっているし、『出版広告の歴史』にも、円本合戦を象徴するように、「日本児童文庫、小学生全集」が一章立てになっているからでもある。

 

 この円本合戦の起因はアルスの『日本児童文庫』企画案が興文社にもれ、文藝春秋社とタイアップして『小学生全集』へと盗用されたというものだった。アルス側には北原鐵雄の兄の北原白秋、興文社、文藝春秋社側には菊池寛が立ち、それは次第に北原白秋と菊池寛の広告批判合戦にまでエスカレートしていた。私は拙稿「芥川龍之介と丸善」「円本・作家・書店」(いずれも『書店の近代』所収)において、芥川の自死が昭和二年であることから、こうした円本時代のトラブルや販売促進のキャンペーンに駆り出されたことも、そのひとつの要因だったのではないかと述べておいた。杏村にしても、先述したように「この頃『児童文庫』に関する用事多し」とか、販売促進のために岡崎の少年少女大会に、白秋、小川未明、森田草平とともに出席しているのである。

 (『日本児童文庫』、白秋編『日本童謡集』)

 それらはともかく、『日本児童文庫』全七十六巻、『小学生全集』全八十八巻のすべてに目を通しているわけではないけれど、現在から見てどちらに軍配を上げるかと問われれば、著者と内容の多彩さは前者、装幀とビジュアルの楽しさは後者にあるように思える。「日本児童文庫、小学生全集」において、尾崎秀樹が『日本児童文庫』と比較して、「子どもたちらはむしろ『小学生全集』を愛読する者が多いらしく、どこの家でも『小学生全集』のほうが手垢で汚れていた記憶がある」と記しているのはそのことを伝えているのでではないだろうか。

 それは最近、浜松の時代舎で入手した『小学生全集』86の『面白絵本』、同48『日本童謡集上級用』にも明らかだ。前者の小学生全集編輯部編著は赤と黄色を基調とするシンメトリカルな武井武雄による装幀で、見返しも同様である。口絵・扉は海野精光が描いたところの「初級生の図書」と「上級生の図画」などで、それに岡田なみぢ、太田勝二、川上千里、江森盛八郎、道岡敏、宮崎ミサヲ、志田嘉明、杉雄二の挿絵が続き、そのまま一冊が瀟洒なイラスト、挿絵、漫画、カリカチュア集ともなっている。

(『面白絵本』)(『日本童謡集』)

 後者の西條八十編は初山滋によるエレガントな装幀・口絵、それに見開き二ページに三十五人の詩人による童謡、及び海野精光と川上千里を除いて『面白絵本』とは異なる十余人の挿絵・カットが配置されている。その例はやはり西條の童謡を挙げるべきだろう。よく知られた「唄を忘れた金糸雀(かなりや)は、/後の山に棄てましよか、/いえ、いえ、それはなりませぬ。」と始まる「かなりや」である。その右ページには母娘の姿が描かれ、娘がかなりやを手にし、母に問いかけているシーンが迫ってくる。この挿絵は誰によるのだろうか。

 このようにして、ひとつの童謡が挿絵とともに見開き二ページに掲載され、それらはいずれも異なる趣を呈しながらも、そこはかとないノスタルジアを喚起させ、大正に始まり、昭和に至った所謂「童謡の運動」のエトスを伝えているかのようだ。だが西條が「はしがき」において、「北原白秋氏の作品のみは、氏の都合上掲載を遠慮せざるを得なかつた」と付記していることはおかしい。これはもはや説明するまでもないだろう。


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古本夜話1501 『亀井勝一郎全集』と『土田杏村全集』

 戦前に全集が出されていても、もはや忘れ去られてしまった文学者や思想家は数え切れないほどだし、それは戦後も同様である。二十年ほど前に、ブックオフで『亀井勝一郎全集』(講談社、全二十一巻、昭和四十六年)を見つけ、一冊百円だったので、気まぐれに購入してしまった。私などの戦後世代にとって、亀井は人生論の著者の印象が強いのだが、戦前は日本浪曼派との深い関係もあり、この全集でしか読めないものが収録されていると思ったからだ。

亀井勝一郎全集〈第12巻〉 (1972年)

 念のためにこの一文を書くに際して、『日本近代文学大事典』(昭和五十二年)で亀井を引いてみると、三ページに及ぶ立項があり、彼はすでに昭和四十一年に死去していたが、この時代までは著名な文学者だったことになろう。ただ残念なことに一度は通巻してみようと思っているうちに時は流れ、積ん読状態も変わっていない。

 確か同じ頃だったはずだが、やはり古本屋で第一書房の『土田杏村全集』を買い求めている。これは全十五巻のうちの十三冊で、不揃いでもあり、安かったからだ。土田も亀井以上に忘れられ思想家といえるだろう。こちらも『日本近代文学大事典』を繰ってみると、三段にわたる立項を見出されるので、それを要約補足してみる。

 

 明治二十四年新潟県佐渡生まれの思想家、評論家で、日本画家の土田麦僊の弟。それで『土田杏村全集』の見返しに麦僊の絵が使われているとわかる。新潟師範から東京高師に進み、生物学を専攻する。『近代出版史探索Ⅳ』634の丘浅次郎の影響を受け、在学中に『同Ⅵ』1198の廣文堂から『文明思潮と新哲学』(大正三年)を刊行し、京大哲学科に入り、西田幾太郎の影響下に多くの哲学、論文、詩、評論を発表し、引き続き大学院に六年間在籍する。その一方で、個人誌『文化』を刊行し、上田市に民衆のための成人教育機関自由大学を創設している。それは上木敏郎の『土田杏村と自由大学運動』(誠文堂新光社)に詳しい。彼はこの教壇に立った以外は在野のままで、喉頭結核と肺患に苦しみながらも、多岐にわたる分野の六十数冊の単行本を残し、昭和九年の死後、刊行の『土田杏村全集』としても、全著作の三分の一の収録にすぎないとされる。

土田杏村と自由大学運動: 教育者としての生涯と業績

 それらの中でも、国文学研究は評価が高く、新短歌運動の先頭にも立ち、社会科学書は発禁処分を受けて危険思想家と目され、左翼陣営からは反動的扱いを受けながら、最晩年は日本美術史研究に心血を注いでいたとされる。だがこのようなラフスケッチでは杏村の大正から昭和初期にかけての活躍のリアリティは伝えることができないように思う。しかしこれらの主著が第一書房から刊行されていることからすれば、長谷川巳之吉とずっと併走してきたと考えられる。

 ところが『第一書房長谷川巳之吉』において、春山行夫がこの全集は『近代出版史探索Ⅵ』1034の三浦逸雄の担当だったけれど、編集や校正は外部で行われ、彼は主としてその連絡事務に携わっていたと証言している。それもあってか、三浦は何も記していないし、長谷川自身にしても大きな出版プロジェクトのはずだったのに何も語っておらず、すでに『土田杏村全集』のことは第一書房史においても希薄なのである。

  第一書房長谷川巳之吉  

 それゆえに『土田杏村全集』そのものに出版の在り処を見出さなければならない。幸いにして第一巻には長谷川の「刊行の辞」や編纂者の「編纂の辞」も掲載されているので、それらをたどってみる。そこで長谷川は杏村のプロフィルと業績に関して、次のように述べている。少し長くなるが、近傍にいた出版者の描いたものなので、省略せずに引いてみる。

 一個の哲学者及び現代哲学史家として、杏村は独自の業績を残した。一個の文明批評家・社会思想家として、杏村は押しも押されぬ一大権威であつた。一個の教育者として、杏村は高貴の使命を果たした。一個の倫理道徳の学徒として、杏村は力強い進歩的な実践哲学を示した。一個の経済学徒として、杏村は眼光を特色ある経済理論に向けた。一個の宗教学者として杏村は聖なる贈物を忘れなかつた。一個の国文学者として、杏村は驚異的な研究を成し遂げた。一個の文芸批評家及び文学者として、杏村は巨きな足跡をのこした。一個の美術研究の学徒として、杏村は目ざましい研究を着々として遂行した。総じて吾が杏村は、かくの如く十に余る文化学の殆んど全部門に渉つて、各々専門学者としてそれぞれ立派な業績をのこしたのである。この事自身全く超人的といつてよいのであるが、しかも更に驚くべき事には、それらの多様性が所謂専門家流に格別に割拠分裂する事なしに、互いに相寄り相助けてここに全体的教養となつて広く深く統合され、つひに上田学といふべきそれ自身生きた大きな一文化大系を組織する観があるのである。

 そうした杏村を長谷川は今こそ「日本精神文化の若き父」と呼び、「人類教師」の列に加えるべきだとも付記している。

 編纂顧問は森岡常蔵、西田幾太郎、長谷川如是閑、高田保馬、吉澤義則、新村出、「編三の辞」は恒藤恭、務台理作、加藤仁平、山根徳太郎、土田千代連名でしたためられている。編纂顧問明からは杏村の京大における研究環境、編纂者名からは土田夫人もふくんだ、杏村の「文明批評家」「文化学研究者」を見守り、近傍にいたことを示し、それらの人々が実質的編纂者だったことを伝えている。

 編纂者のすべてにふれられないけれど、最も多い第二、三、七、八、九巻という五冊の編纂者である恒藤恭に言及しておけば、杏村の京大時代の同窓と思われ、国際法などの法哲学者としても知られている。芥川龍之介との親交もあり、ゲーテの翻訳も刊行し、杏村と相通じる多面的な存在といえるし、それが五冊の編纂へとリンクしていったのであろう。

 また最終巻の第十五巻には山根徳太郎による「跋 土田杏村全集の後に」が置かれている。そこで山根は全集の経緯と予約出版、関係者にもふれ、そこには由良哲次の名前も挙がっている。彼は由良君美の父である。なお編纂実務は三浦、人文雑誌広告文は春山、営業は『近代出版史探索Ⅵ』1137の伊藤禱一が担い、校正は岡田正三によったことも記されている。それらはこれが一大全集プロジェクトであったことをよく伝えていよう。


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古本夜話1500 第一書房と『古事類苑』の挫折

 ずっと見てきたように、第一書房はモダニズム出版に携わってきたが、その一方で古典籍の出版にも執着を示していた。『近代出版史探索Ⅵ』1107で、『古事類苑』の流通と販売にふれておいた。それを簡略にトレースすれば、『古事類苑』出版企画は明治十二年に文部省大書記官にして、明六社の西村茂樹によって提出された。それは日本最大の百科事典を想定したものであった。その編纂に一貫して寄り添ったのは国学者の佐藤誠美で、明治二十九年の第一冊『帝王部』刊行から大正三年の『索引』を含めた完結まで、企画以来三十五年を閲したことなる。

 それらの編纂史は第一期の明治十二年から二十三年までだが、文部省編輯局、第二期の二十三年から二十八年は皇典講究所(国学院)、第三期の二十八年から大正三年は神宮司庁が担うところとなった。明治二十九年からの『古事類苑』出版は、前年に編纂を引き受けた神宮司庁が兼ね、流通と販売も同様であった。しかし編纂終了後、同所処に古事類苑出版事務所が開かれて発行所、三十五年から四十一年までは吉川弘文館と明治書院、四十二年から大正二年の完結までは東京築地活版製造所が発売所となった。

 これが初版『古事類苑』の編纂、流通、販売の推移だが、円本時代の昭和二年の複刻版『古事類苑』は発行所、表現社内古事類苑刊行会、発売所は吉川弘文館、取次は六合館と国際美術社となっている。表現社の代表者は後藤亮一で、彼は京都帝大哲学科出身の僧侶にして立憲民政塔の代議士だった。こうした出版状況を経てきた『古事類苑』は、昭和六年には内外書籍を発売所として、第三版の刊行に取りかかるのである。これらの推移は先の拙稿に記しておいたとおりだ。

 だがこの第三版刊行をめぐって、登場するのは第一書房であり、それは長谷川巳之吉によって「『古事類苑』中止の径路」(『第一書房長谷川巳之吉』所収)として書き残されている。昭和六年に長谷川は印刷会社の専務から『古事類苑』廉価版の出版をもちかけられ、ただちに承諾し、『セルパン』の前身『伴侶』に「東洋第一の大著述『古事類苑』を予約出版」との宣言を掲載している。それは彼にとって感激に足るもので、「世界の学界に誇り得る日本唯一の大著、名実ともに東洋第一の出版」を引き受けることは「茲に於いて初めて大出版社たり得る 資格を与へられる」ことを意味していたからである。

  第一書房長谷川巳之吉   

 そして採算のことなど考えずに、第一書房が倒れてもかまわないという思いで、「契約権利金五千円、印税責任部数最低一千部」として、「神宮司庁編纂古事類苑ヲ発行認可所有後藤亮一氏カ複刻発行スルニ付本人ト発行及販売ノ実務ヲ引受クル第一書房長谷川巳之吉」との間に昭和五年十二月付の契約書が交わされた。長谷川は万全の手配をし、内容見本の印刷に取りかかろうとしていた。ところが後藤から来信があり、神宮司庁として発行所変更は許されず、第一書房は発売所だけにしてほしとの知らせだった。

 長谷川にとってその契約は『古事類苑』の発行と発売所を兼ねるものであり、そこに引き受ける意味を見出していたので、その手紙はまさに唖然とするものだった。それに後藤の対応ぶりを考え、これは神宮司庁をたてにして契約を破棄するつもりだと判断した。それに後藤が『古事類苑』を売り歩いているということも伝わってきた。そこに後藤からの「此際断然中止して解約した方が過ち少なからん」との申し出も届いた。情報によれば、後藤は長谷川より条件のいい二千部責任部数で希望者を見つけていたようなのである。それは私が拙稿で示した内外書籍の川俣馨一のことだったはずだ。

 そうした経緯もあって、長谷川は後藤と会見を持つ。それは長谷川の言によれば、「後藤にはやめなければならない事情について私の了解を求め、私はやめられない事情について後藤氏の了解を得ようとする」もので、「これは何時間話し合つてゐても無駄な事」だった。その問題は三ページ以上にわたって報告されている。結局のところ、その問題は仲介の印刷会社の専務に一任され、契約書は破棄されたのだが、後藤は「契約書を破棄すると恰も手の平をかへすが如く、前の契約の倍の条件を出す」に至る。長谷川は涙を飲んで『古事類苑』の刊行を諦めるしかなかったのである。

 この『古事類苑』の例から見てとれるのは、公私の長期間に及ぶ協力によって、「国家的宝典」にしても、完結後はもて余され、昭和を迎え、「一国の代議士であり、而も妙心寺の総理大臣ともいふべき幹事長の職にある」後藤のような政治家に払い下げられたと見なすこともできよう。それを後藤はブローカーのような立場で、売り歩いていたことなる。それも「世界の学界に誇り得る日本唯一の大著、名実ともに東洋第一の出版」の実情であったのだ。


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古本夜話1499 第一書房『パンテオン』の直接販売

 前回、城左門の詩集を取り上げたばかりだが、浜松の時代舎で『PAMTHÈON (汎天苑)』Ⅳを見つけた。以下『パンテオン』と表記する。B4判をひと回り小さくした判型で、表紙にはフランス語表記でタイトルと発行年月日が記されている 。確か城もこの詩誌の同人だったはずだと繰ってみると、彼の「月光」「草の賦」というふたつの詩が寄せられていた。これらは城の「第三期」の詩に当たるのだろうし、「第四期」の『終の栖』とまったく異なる詩であり、「月光」(An extravaganza)の第一連を引いてみる。

 (『PAMTHÈON (汎天苑)』Ⅳ)  (『終の栖』)

 白銀の 月魂石の彩(あいろ)に
 街衢(まち)は冷えびえと蒼く沈下(しづ)み
 大理石(ないし)の舗道に陰影(かげ)を落とす
 僧形(そうぎやう)のものがふたり 五人

 そして「僧形のもの」たちが夜の月の白光に包まれた街路を「青い神々の古(あや)怪い彌撒(みさ)」を求めて彷徨っている姿とイメージが提出されていくのである。この「月光」に北原白秋の『邪宗門』(易風社、明治四十二年)の影響をうかがうこともできる。だがそれだけでなく、日夏耿之介をメインとする『パンテオン』という特異な詩誌によるところも大きいと思われる。

(『邪宗門』)

 『パンテオン』『日本近代文学大事典』第五巻に解題があるので、まずそれを要約してみる。同誌は昭和三年四月に創刊され、翌年の十月までに全十冊が刊行された。裏表紙に第一書房刊行、編輯責任者長谷川巳之吉との記載が見えるが、実際には日夏耿之介、堀口大学、西條八十の三人による合同編輯だった。それは全体を四つのセクションに分け、日夏は「ヘルメスの領分」、堀口は「エロスの領分」、西條は「サントオルの領分」を受け持ち、もうひとつの「テゼウスの領分」は三つの領分に属さない詩人たちの寄稿によるものだった。
 
 手元にあるⅣを見てみると、確かに「ヘルメスの領分」「エロスの領分」「テゼウスの領分」はそのままだが、「サントオルの領分」はすでになく、これは西條が編集者を降りてしまったことを示しているのではないだろうか。先の城の詩は「ヘルメスの領分」に発表され、彼が日夏門下でにあったことを伝えている。それゆえに先の「月光」にしても、日夏の影響下で書かれたと考えられるし、思いがけないことに、『近代出版史探索』82の大槻憲二がクローチェの「詩歌の形式に就いて」という翻訳も寄せ、彼も日夏門下だったことを伝えていよう。

 それに「エロスの領分」には『近代出版史探索』54の西谷操が詩「括弧」、同57の矢野目源一が翻訳と思われる「紫摩黄金上人伝」を寄せ、また他の号には同63の平井功も寄稿している。先の編集者や執筆者たちのことを考えると、『パンテオン』は大正十三年に創刊され、昭和二年までに十三冊出された『奢灞都』の後継誌というべきであろう。したがってゴシック・ロマン主義の色彩が強かった。『奢灞都』ほどではないにしても、『パンテオン』も城の詩にうかがえるように、高踏的な詩誌であったことは言うまでもないだろう。だがⅩ号を出したところで、日夏と堀口の間に意見の相違が生じ、突然廃刊となってしまった。そのために堀口は『オルフェオン』、日夏は『近代出版史探索』62の『游牧記』、西條は『蠟人形』を創刊することになる。『游牧記』の一冊は親切な読者からコピーを恵送され、それが印刷造本において、『パンテオン』以上に画期的なものであったことを実感しているし、『蠟人形』に関しては後に取り上げるつもりでいる。

 日夏耿之介監修/平井功編 游牧記 全4冊揃 木炭紙刷本限定618のうち貮百捌拾漆(287)番(同番号揃い) 蔵印 (『游牧記』)

 第一書房が『パンテオン』の制作と発売を引き受けたのは、この時期に三人の詩集を刊行していたからであろう。ただ『パンテオン』は仔細に見てみると、表紙裏に小さく「此の雑誌は書店の店頭に出さず直接予約の愛好者にだけ配布いたします。従つて広告をしないので、内容の充実に努めたいと思ひます。どうぞ同好の方々に御伝へを希ひます」との文言が記されている。おそらく発行部数が千部に充たないであろう高等仕立て詩誌にもかわらず、表裏の片隅に小さく「第三種郵便物認可」との記載があるのはそのためだろう。

 簡略にいえば、「第三種郵便物」とは定期雑誌などの配送に通常より安い郵便料金が適用されるもので、なかなか「認可」されないはずだが、それが『パンテオン』に「認可」されたのは何らかの事情があったように思える。ちなみにやはり第一書房の昭和六年五月創刊の『セルパン』にはその記載が見当たらないのである。また『パンテオン』裏表紙には売価一円とされているのだが、「直接年ぎめの方に限り五十銭」という表示が見つかるし、これは『パンテオン』が先の文言に明らかなように、書店市場ではなく、「第三種郵便物認可」を得たことによって、読者への直販を意図していたことになろう。それは『パンテオン』本誌だけでなく、巻末には本探索1478の「野口米次郎ブックレット」も同様で、その全冊に近い三十一冊が挙げられ、「パンテオンの読者に限り/左の書籍定価半額特売」とのキャッチコピーが打たれている。

(「ブックレット」『愛蘭情調』)

 長谷川巳之吉のことであるから、『パンテオン』の発行と編輯責任者を任じた反面には「第三種郵便物」制度を利用した読者への直接販売と既刊書の半額セールの試みも意図されていたことになろう。


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