出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話1509 室生犀星『性に目覚める頃』と北原白秋『邪宗門』

 室生犀星の『性に目覚める頃』所収の「抒情詩時代」と「性に目覚める頃」には明治末期の金沢の貸本屋や書店事情が描かれ、言及されているので、それらもトレースしてみよう。

 

 犀星は十五歳のころから俳句を作り、また小品を書き、博文館の『少年世界』を読む一方で、俗悪な雑誌や講談本の女たちの口絵などに魅せられ、それらを写すために貸本屋によく出入りしていた。その店の光景は次のようなものだ。

 そこには毒毒々しいまでに彩描された侠客伝や、盗賊物や、お家騒動ものなど、その表紙の美しさを競うてならんでゐた。私はそれらを眺めるとき、心がおのづから躍ることを感じた。美しい口許が鋭い銀箔をつかつた短刀を咥へた女や、またはかひがひしく、薙刀をつかつて敵と切り合つてゐる仇討物の、その襷をかけた為めに絞られた袖口から出た繊い美しい腕などを、私はあかず眺めるのであつた。または、裾短な足許、美しい細細した足の指など、私はいつもいたいたしく見るのであつた。

 ここで「私」が感応しているエロチシズムこそは当時の旅芝居やその女形が体現していたものであり、後に「私」は女形の役者に魅せられ、金をとられてしまうのである。しかしここに描かれた女性の原型は時代劇映画などに確実に継承されていったし、現在であれば、コミックやアニメにおける「戦う美少女」(斉藤環『戦闘美少女の精神分析』所収、ちくま文庫)というコンセプトも付け加えることができよう。

戦闘美少女の精神分析 (ちくま文庫 さ 29-1)

 このような時期を過ぎると、「私」は東京の雑誌に投稿するようになり、その賞牌として美しい銀メダルを受け取ったりしていた。その雑誌のひとつは『新声』だった。

 そのころ私は詩の雑誌である「新声」をとつてゐて、はじめて詩を投書すると、すぐに採られた。K・K氏の選であつた。私はよく発行の遅れるこの雑誌を毎日片町の本屋へ見に行つた。こ「新声」の詩壇に詩が載ることは、ことに私のやうな地方に居るものにとつては困難なことであつたし、実力以外では殆んど不可能なことであつた。そのかはりそこに掲載されれば、疑ひもなく一個の詩人としての存在が、わけても地方にあつては確実に獲得できるのであつた。(後略)

 ちなみにこの後に掲載された「いろ青き魚はなにを悲しみ/ひねもすそらを仰ぐや。」と始まる詩は「明治三十七年七月処女作」とある。この事実からすると、佐藤義亮が明治二十九年に創刊した『新声』は同三十六年に新声社が破綻したことで、正岡芸陽の第二期『新声』に移っている。選者の「K・K氏」とは児玉花外であり、犀星のこの詩が掲載されたのはこちらの『新声』においてだった。これらの経緯と事情に関しては『近代出版史探索Ⅶ』1206でふれたとおりだ。

 

 『新声』に前述の詩が掲載されたことで、「私」は同じ街にいて、やはり詩を書いている表という十七歳の同年の友を得た。彼は「麦の穂は衣へだてておん肌を刺すまで伸びぬいざや別れむ」といった美しく巧みな歌を詠んでいて、「私」を驚かせたし、「ラバア」の存在を感じさせた。実際に彼は絶えず女に手紙を書き、幾人もの女から手紙をもらっていた。「表は女性にたいしては無造作であるやうでいつも深い計算の底まで見ぬく力を持つてゐる」のだった。

 だがそれゆえにこそ、表の評判は悪く、不良少年としてその名前が知られ、警察に調べられたりしていたけれど、公園の掛茶屋の娘と深い交際をしていた。

 その表が肺を病み、寝つくようになり、わずかの間にやせ衰えてしまった。「私」が見舞いにいくと、すでに彼は死の想念に捉われ、淋しいから明日も来てくれと頼む。「私」は急に明日も来なければと思い、次のようにいう。

  「きつと来るよ。それに『邪宗門』が著いたから持つてくるよ。」
  「あ、『邪宗門』が来たのか。見たいなあ。今夜来てくれたまへ。」
 表は興奮して熱を含んで言つた。

 『邪宗門』が『近代出版史探索Ⅴ』836の易風社から刊行されたのは明治四十二年三月のことだから、この会話が交わされたのはおそらくその年の四月だったのではないだろうか。明治末期に書店は三千を数えるまでになり、出版社・取次・書店という近代出版流通システムは大正時代においてさらなる発展を遂げることを約束されていた。

 

 『邪宗門』も日本近代文学館によって複刻され、手元にある。石井柏亭の装幀、四六判函入、三五〇ページ、一二〇篇が収録され、定価一円。それらの異国情調的象徴詩と南蛮趣味は日本近代詩上に一画期をもたらし、白秋の詩人的位置を定めたとされる。関東の「邪宗門秘曲」は右ページに柏亭による三人の切支丹神父を描いた挿画「澆季」を描き、「われは思ふ、末世の邪宗、切支丹でうすの魔法。」と始まり、この『邪宗門』が北国の二人の少年に与えた影響は現在からは想像できないほどのものだったと考えられる。

 (複刻)

 「私」は『邪宗門』を持って、表を再訪し、それを出してみせる。

 「もう出たんだね。」
 表は手にとつて嬉しさうに見た。革刷のやうな羽二重をまぜ張つた燃ゆるやうなこの詩集は彼を慰めた。感覚と異国情調と新し官能との盛りあがつたこの書物の一ページ毎に起る高い鼓動は、友の頬を紅く上気せしめたのみならず、友に強い生きるちからを与へさへした。

 だがそれは二人の別れの書でもあり、「秋も半ばすぎにこの友は死んだ」と記されている。


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古本夜話1508 滝田樗陰と室生犀星「幼年時代」

 これまでに萩原朔太郎が大正十二年の『青猫』に続いて、同じ新潮社から『蝶を夢む』や『抒情小曲集』、また室生犀星のほうは十一年に『田舎の花』を刊行していることを既述しておいた。しかし犀星は朔太郎と異なり、それまでに大正九年の『性に目覚める頃』を始めとして、やはり新潮社から『結婚者の手記』『蒼白き巣窟』『美しい氷河』『走馬燈』といった小説集を出し、作家としてもデビューしていたのである。

     

 それは詩集の出版が朔太郎とのコラボレーションによっていたように、小説を書くことは『愛の詩集』の上梓をきっかけにして、芥川龍之介や谷崎潤一郎と知り合った影響も大きいと思われる。犀星は『自叙伝的な風景』において、最初の作品「幼年時代」を『中央公論』の滝田樗陰に送り、何の返事もなかったので、中央公論社を訪ねたが、滝田が不在だったと書いている。ところが数日後「幼年時代」の校正刷が届き、「自分は興奮と混乱に似た感激的な状態」となり、「つとめて平気で妻に作品が雑誌に掲載されることを告げた」のである。その翌日滝田が来訪し、「性に目覚める頃」「或る少女の死まで」の初期三部作が続けて大正八年の『中央公論』に掲載されるに至った。

 この三部作は大正九年に新潮社の『性に目覚める頃』に収録され、これも幸いなことに近代文学館により複刻されている。その出版事情を補足しておけば、これらの作品は『中央公論』に掲載されたわけだから、中央公論社から単行本として刊行されるのが当然だが、大正時代の中央公論社は書籍出版部を設けておらず、それは昭和四年を待たなければならなかった。そうした当時の出版事情は文藝春秋社も同様だった。

 

 この『性に目覚める頃』には「この貧しき最初の創作集を滝田哲太郎におくる」との献辞にあるように、滝田樗陰に捧げられている。大正時代の多くの作家が滝田によって発掘、育成され、『中央公論』に作品を発表し、文壇的地位を得ていたのだが、犀星もその一人だったのである。それは「序」においても語られ、滝田のよく知られた人力車訪問にはふれられていないけれど、滝田の存在と尽力により、「生れて初めて一人前になれたのだといふ気が、書いたもののなかから、いまは何よりはつきりと映り出した」と述べている。

 ここでは表題作に言及すべきかと考えていたが、滝田との関係からすれば、処女作「幼年時代」を取り上げておくべきだろう。そこには明治後年の金沢の民俗、おそらく加賀藩時代から続いている川漁や果実掠奪といった採集遊びが語られ、とても興味深いからでもある。

 まず「私」の姉の語る川漁のことを考えれば、加賀藩には手取川や犀川の有名な淵を泳ぎ入る「河師」というものがいて、「鮎の季節や、鱒の季節には、目の下一尺以上あるものを捕るための、特別の河川の漁師であつて、帯刀を許されてゐた」。その一人の堀が鞍が岳の池に潜ったのである。その池は古戦場で、かつて野武士が馬とともに飛びこみ、裏盆には鞍が浮かび上がったり、池の底鳴りがするとの伝説があった。その池は深く青藍色の静寂で神秘的な支配力を有し、人々の神経を震わせるとされた。

 堀はこの伝説を聞いて嗤い、池の底を探検するといって、何も持たず、池にもぐりこんだ。かなり長い間水面に浮かんでこなかったが、ようやく浮かび上がった彼は蒼白で、恐怖のために絶えず筋をふるわせていた。「そして何人にもその底の秘密を話さなかった。(中略)唯かれは河師としての生涯に、一番恐ろしい驚きをしたといふことのみを、あとで人人に話してゐた。それと同時になれた河師の職をやめてしまつた」。あたかも柳田国男の『遠野物語』の一節のようであり、また犀星と出身を同じくする泉鏡花の物語の背景にもこのような「伝説」が潜んでいるのだろうし、まだ明治が近世怪異譚の時代だったことを教えてくれる。

 また果実掠奪はどんな小さな家の庭にも果実のなる木があることから始まっていた。「私どもは殆ど公然とそれらの果実を石をもつて叩き落したり、塀に上つて採つたりした。さうした優し果実を掠奪してあるくためには、七八人づつ隊を組んで裏町へでかけるのであつた。それを『ガリマ』と言つてゐた」のである。だがそれらは道路の方に樹の枝がはみ出たところの果実に限られていたので、とがめられもせず、叱られることもなかった。「いつごろからそういふ風習があつたのか知らないが、それが決して不自然なところがなく、非常に悪びれたところが、見えなかつた」。それに加えて、高い樹の果実に対して、及び「ガリマ」隊の間で喧嘩に際し、「私」は飛礫打ちが得意だとの述懐は中沢厚の『つぶて』(法政大学出版局)を想起してしまう。

つぶて (ものと人間の文化史 44)

 それだけでなく、この「がリマ」の語源は不明だけれども、同じように果実の種子を集めて回る子供たちを描いた、ピエール・ガスカールの『種子』(青柳瑞穂訳、講談社)をも連想させる。考えてみれば、日本においても高度成長期以前の子供たちの遊びは魚や果実を対象とする採集で、それも必然的に飛礫打ちも伴っていた。しかしそのような遊びが終焉したのはテレビの普及によっていたことをあらためて思い出す。


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古本夜話1507 室生犀星『愛の詩集』と感情詩社

 前々回の新潮社の「現代詩人叢書」に室生犀星の『田舎の花』が含まれていることを示したばかりだが、これも犀星が萩原朔太郎と同じ詩話会で『日本詩人』の編集に携わっていたこととリンクしていよう。

 

 しかし犀星の処女詩集『愛の詩集』は朔太郎の『月に吠える』がそうだったように、大正七年に感情詩社から刊行されている。それらの経緯と事情を記せば、同五年に朔太郎と犀星は詩雑誌『感情』を創刊し、八年まで全三十二冊が出された。発行兼編輯人は室生照道=犀星で、感情詩社からの発行だった。それもあって、犀星の『抒情小曲集』と『第二愛の詩集』も続刊され、感情詩社は所謂プライベートプレスにすぎなかったけれど、これらの詩集を出版したことは近代詩史上において、特筆すべきだ。ちなみにこれらの詩集が自費出版だったことはいうまでもないだろう。

  (『月に吠える』)

 犀星の詩にあって、第二詩集『抒情小曲集』の冒頭の「小景異情」にみられる「白魚はさびしや/そのくろき瞳はなんといふ」、及び「ふるさとは遠きにありて思ふもの/そして悲しくうたふもの」といったフレーズはよく知られている。だがここではその複刻が出されていることもあり、『愛の詩集』のほうを取り上げることにする。

   愛の詩集―室生犀星第一詩集 (1981年) (名著複刻詩歌文学館―石楠花セット) (復刻)

 この詩集も朔太郎の『月に吠える』と同じく、犀星が満を持して刊行した処女詩集と見なすことができる。判型こそ『月に吠える』の一回り小さい四六判だが、やはり恩地孝四郎の装幀で、北原白秋の「愛の詩集のはじめに」という序がある。その巻頭には献辞として「みまかりたまひし/父上におくる」が掲げられ、その後に「私の室に一冊のよごれたバイブルがある」と始まる一文が引かれている。それは「わがなやみの日/みかほを蔽ひたまふなかれ/われは糧をくらふごとく灰をくらひ/わが飲みものに涙をまじへたり」とある。さらにドストエフスキイの言葉や萩原朔太郎の詩、自らの「序詩」、これらに白秋の序が続いていく。

 そこで白秋は「愛の詩集一巻。これは何といふ優しさだ、率直さだ、気高さ、清らかさだ。さうして何といふ悲しさ、愛らしさ、いぢらしさだ。おお、ここにはあらゆる人間の愛がある」とのオマージュを記し、「私たちは同じ神の声を同じ母胎の中で聴」くとも述べている。これらの白秋の言に至る様々な献辞や引用などは、まさに大正時代における詩の霊感的背景とでも称していいキリスト教と『聖書』、すなわち神と愛がポリフォニックに形成されていたことになるのだろうか。

 犀星もその「自序」で書きつけている。

 詩は単なる遊戯でも慰藉でも無く、又、感覚上の快楽でも無い。詩は詩を求める熱情あるよき魂を有つ人にのみ理解される囁きをもつて、恰も神を求め信じる者のみが理解する神の意識と同じい高さで、その人に迫つたり胸や心をかきむしつたり、新らしい初初しい力を与へたりするのである。はじめから詩について同感し得ない人や、疑義を有つ不信者らにとつて、詩は存在し得ないし永久に囁くことが無いであらう。

 ここでは詩が「恰も神を求め信じる者のみが理解する神」のような高みに位置し、大正時代を迎え、近代口語自由詩が一挙に臨界的状況へと達したことを暗示しているのかもしれない。それはさらに前々回もふれてきた詩話会と新潮社のコラボレーションによって加速していくだろうし、感情詩社による『月に吠える』と『愛の詩集』の出版は、その触媒の役割を果たしたようにも思える。

 やはりその発端は犀星の、北原白秋の『朱欒(さぼん)』への「小景異情」の発表、それに感激した手紙、及び犀星の翌年の前橋への朔太郎訪問にある。そして二人に山村暮鳥が加わり、人魚詩社から詩誌『卓上噴水』を創刊、続いて五年には朔太郎と犀星により、感情詩社が設立され、同じく詩誌『感情』も創刊されていく。そうした流れにあって、六年二月に朔太郎の『月に吠える』が上梓されたのである。その発行人は室生照道=犀星に他ならず、『月に吠える』の成功を目の当たりにして、彼もまた処女詩集の刊行を夢みていたにちがいない。

(『朱欒』)(『卓上噴水』) 

 それは「自序」にも示され、「自分は永い間これらの詩をまとめて世に送り出すことを絶えず考へてゐたけれど、まだ充分な力が無かつたり、これらに値する資力を欠いてゐたために」、上梓が遅延してしまったことにふれている。やはり何よりも問題だったのは「これらに値する資力」で、それが六年九月における養父の僧侶室生真乗の死によって家督相続することになり、翌年の『愛の詩集』五五〇部の自費出版用に恵まれたのである。このことが「みまかりたまひし/父上におくる」という献辞に表出しているといえよう。

 そして「桜咲くところ」から始まる五十二編を収録した『愛の詩集』の掉尾を飾るのは朔太郎の「愛の詩集の終わりに」で、二人の関係を「主として運命は我等を導いて行つた」と述べ、「私の友、室犀星は生れながらの愛の詩人である」と記している。『愛の詩集』のそれぞれの詩にふれられなかったけれど、ここに朔太郎の犀星へのあふれる真摯なオマージュは、二人の出会いとこれらの二冊の詩集によって、これまでと異なる口語自由詩の誕生の自負を秘めているように思われてならない。


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古本夜話1506 宝文館と山宮允『英米新詩選』

 以前から山宮允を取り上げなければならないと思っていたのだが、彼の主たる著作や翻訳を入手するに至らず、言及してこなかった。それらを古本屋で見出せなかったのもひとつの要因ではあるのだが。

 それでも前回、山宮と川路柳虹が詩話会の提唱者で、大正時代の詩のムーブメントに大きな役割を果たしていたこと、及び山宮の主著ではないが、『英米新詩選』という英米詩の対訳本を購入したばかりなので、ここで一編を草しておきたい。その前に『日本近代文学大事典』の山宮の立項の前半を挙げてみる。

 山宮允 さんぐうまこと 明治二五・四・一九~昭和四二・一・二二(1802~1967)詩人、英文学者。山形市の生れ。威一の三男。別名虚実庵主人。明治四二年九月一高理乙に入学、同級生の土屋文明を通じてアララギの月次歌会に出席、また豊島与志雄らとともに文芸部委員をつとめた。大正元年九月東京帝大文科大学英文科に入学、在学中三木露風らの未来社に参加、三年二月刊の機関誌「未来」第一集に詩とイェイツの評論の翻訳を発表、同年六月刊の第二集にブレイクの訳詩を発表した。また三年二月に創刊された第三次「新思潮」の同人となり、評論やイェイツ、ブレイクの翻訳を発表した。四年七月東大英文科を卒業。六年一一月川路柳紅らとはかって詩話会をおこし、七月一一日評論集『詩文研究』を建文館より刊行、八年五月六高教授となり岡山に赴任した。一一年三月アルス『泰西名詩選』の一冊として『ブレイク選集』を刊行、同月鈴蘭社同人とともに日本近代詩書展覧会ならびに講演会を東京朝日新聞社で開催、一一月『近代詩書総覧』を近代文明社より刊行した。一四年文部省在外研究員となり四月出発、一五年一一月帰任。(後略)
(『ブレイク選集』)

 山宮の立項はまだこの倍近くの二段に及び、彼が戦後にあっても、詩壇の重要人物だったことがうかがわれる。それは昭和二十年代から四十年代にかけての三次にわたる『日本現代詩大系』(全十巻、河出書房)の編纂に携わったことも大きく影響しているのだろう。また立項をその半分で終えたのは、取り上げる『英米新詩選』の刊行が六高赴任後の大正十二年二月で、文部省在外研究員として派遣直前に出版されているからである。その版元は宝文館で、裏表紙にも第六高教授編『評註沙翁四大悲劇物語』が掲載され、「高等学校の教科書及び高等英学生の自習用に適す」と謳われている。またその英文版も見え、宝文館もそのような英語書を手がけていたのである。

 これらのことからわかるように、山宮はイェイツやブレイクの翻訳、研究者としてのかたわらで、岡山の六高教授として中高の英語教科書、サブテキスト類を多く刊行したように思われる。しかも『英米新詩選』の場合、定価は二円五十銭で、十四年七月は重版の運びとなっているし、一括採用の他にも売れていたのである。そしてそれは昭和に入って東京府立高校教授、さらに法政大学教授となってからも継続し、詩の研究や翻訳などとの兼業がなされていたのではないだろうか。そのことが山宮のプロフィルの曖昧化とも結びついていたし、古本屋で彼の研究書や翻訳詩集を見出せず、『英米新詩選』のような教科書しか入手できなかったことともリンクしていよう。

 版元の宝文館は表紙に「大阪・東京」とあるように、全国的な教科書会社であり、すでに『近代出版史探索Ⅴ』930で、昭和七年の東北帝大教授たちによるデュルケム『自殺論』全訳、及び宝文館創業社の大葉久吉にふれているが、『英米新詩選』の発行兼印刷者は柏佐一郎なので、こちらも『出版人物事典』の立項を挙げてみる。

出版人物事典: 明治-平成物故出版人

柏佐一郎 かしわ・さいちろう]一八八一~一九五九(明治一四~昭和三四)大阪宝文館社長。広島県生れ。大阪吉岡宝文館神戸支店に入店、支店長になる。大正の初め同社整理の折、再建に努力、のち社長に就任。中等教科書・学参ならびに経済関係書を出版。業界人としても活躍、一九一四年(大正三)結成された大阪雑誌販売業組合の常任理事をはじめ、全国書籍雑誌商地方協会会長、大阪中等教科書販売協会、日本放送出版協会取締役などをつとめ関西の長老の一人であった。四一年(昭和十六)日本出版配給株式会社の設立発起人の一人となり、創立とともに監査役に就任した。

 この立項から類推すると、大正後半から昭和戦前にかけての宝文館は柏の全盛時代だったことになるし、山宮の対訳書も柏のもとで刊行されていたのである。

 さて最後になってしまったけれど、『英米新詩選』にもふれておくべきだろう。同書は英文タイトルを Shorter Poems of To-day : an Anthologyとあるように、三十人の英米詩人の詩の原文を左ページ、その翻訳を右ページに配した対訳アンソロジー集となっている。私の知らない詩人も多いけれど、三十人目にイェイツが選ばれ、「水の葉の凋落」を始めとする十九の短詩が選ばれ、ここで山宮が最も親しんでいたのがイェイツであることをあらためて想起することになった。イェイツの詩も一編は挙げるつもりでいたが、もはや紙幅も尽きたので、いずれ別稿を書くつもりだ。


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古本夜話1505 萩原朔太郎『青猫』と新潮社「現代詩人叢書」

 萩原朔太郎も昭和三年に第一書房から新菊判、総革金泥装の『萩原朔太郎詩集』を刊行している。これは前々回にふれた大正末の『上田敏詩集』や堀口大学訳『月下の一群』などの第一書房ならではの特装本で、萩原の『月に吠える』に始まる詩集の集成だった。それをきっかけとして、萩原は第一書房から『氷島』という詩集だけでなく、『詩の原理』『虚妄の正義』などの評論やアフォリズム集を刊行し続けていくことになる。大正時代には新潮社から詩集『青猫』や『純情小曲集』を上梓していたので、第一書房へと版元を移したといっていい。そこに至る詩集出版の系譜と変容を見てみたい。

  堀口大学訳 月下の一群 1926年(大正15年)第一書房刊 函入り、背金箔押し革装、天金    
 (新潮社版)

 萩原の『月に吠える』『青猫』も日本近代文学館によって複刻されている。大正六年刊行の萩原の処女詩集『月に吠える』が発行人を室生照道=犀星、発行所を感情詩社と白日社出版部とする定価九十銭を五百部、自費出版だったのに対し、第二詩集『青猫』は十二年に新潮社から定価二円で出され、奥付の検印からわかるように、印税収入をもたらしたことになる。ちなみにその前年にはアルスから『月に吠える』の再版が刊行になっている。

月に吠える―詩集 復元版 (1965年)(『月に吠える』、複刻) (複刻) (感情詩社版)(アルス版)

 こうした大正中期から後期にかけての詩に関する出版市場の変容は、『新潮社四十年』にも述べられているように、『日本詩集』と「現代詩人叢書」の刊行も大きく影響していると思われる。そうした事情は『新潮社七十年』にも見えているし、『近代出版史探索Ⅵ』1052でもふれているが、『新潮社四十年』のほうが簡潔なので、こちらを引いてみる。

   

 我が社の出版は文芸の各分野に亙つてゐるが、日本詩話会が詩壇の諸家によつて結成せらるゝや、その会の為に年刊「日本詩集」を刊行し大正八年より十五年に至つた。更にまた、「現代詩人叢書」を刊行し、第一編野口米次郎氏の「沈黙の血汐」以下二十巻に及んだ。又、詩話会編纂の雑誌「日本詩人」の刊行も引受けて、多少とも詩壇の興隆に貢献し得たと信じてゐる。

 これを少しばかり補足すれば、大正六年に川路柳紅と山宮允が主唱者となり、それぞれの詩誌によっていた詩人たちに呼びかけ、詩人憩談会が催され、それを母体として詩話会が設立された。そして第一集『日本詩集1919版』が出され、十年月刊『日本詩人』も創刊に至る。この時期における内紛には立ち入らないけれど、手元にある十二年刊行の『日本詩集1923版』の巻末を確認すると、その会員は朔太郎を始めとして三十七人に及んでいる。そこには十一項目の「詩話会規則」も掲載され、詩話会事務所を「牛込区矢来町新潮社内に置く」とあり、また「詩話会は日本詩壇の興隆を期し、檀人相互の交情を温め、檀の進歩発達を庶幾する団体」との一節も記されている。

 

 こうした新潮社と詩話会のコラボレーションによって、大正時代における詩はそれまでと異なる新たな出版の一分野として確立されていったように思えるし、その流れに寄り添っていた代表的詩人が朔太郎だったのではないだろうか。それを象徴するように、十二年の『青猫』に続き、同じく新潮社から同年に『蝶を夢む』、十四年に『純情小曲集』が刊行となる。『蝶を夢む』は「現代詩人叢書」の一冊としてで、これは『泰西名詩選集』と並んで、新潮社と詩話会の蜜月を物語るシリーズとみなせるので、その明細を示す。

1 野口米次郎 『沈黙の血汐』
2 西條八十 『蝋人形』
3 川路柳紅 『預言』
4 室生犀星 『田舎の花』
5 佐藤惣之助 『季節の馬車』
6 三木露風 『青き樹かげ』
7 千家元麿 『炎天』
8 生田春月 『澄める青空』
9 百田宗治 『風車』
10 日夏耿之介 『古風な月』
11 白鳥省吾 『愛慕』
12 野口雨情 『沙上の夢』
13 堀口大学 『遠き薔薇』
14 萩原朔太郎 『蝶を夢む』
15 福田正夫 『耕人の手』
16 王富汪洋 『世界の民衆に』
17 深尾須磨子 『斑猫』
18 大藤治郎 『西欧を行く』
19 多田不二 『夜の一部』
20 金子光晴 『水の流浪』

 (『蝶を夢む』) (『水の流浪』)

 この菊半截判、一六〇ページ前後の叢書は14の『蝶を夢む』を『萩原朔太郎』(「新潮日本文学アルバム」)でカラー書影を見ているだけで、入手に至っていないし、古本屋で見た記憶もない。だがこのラインナップから「現代詩壇の精華を集むる新叢書」と謳われていたことが了承されるし、20の金子の『水の流浪』は彼が『日本詩人』の編集に携わっていたことも関係しているのだろう。これらの刊行は大正十一年から十五年にかけてで、その十五年十月には、九年間にわたって存続してきた詩話会は権威団体の弊害が生じたとして解散声明が出され、『日本詩集』『日本詩人』も廃刊となっている。

萩原朔太郎 新潮日本文学アルバム〈15〉

 そのような大正時代における新潮社と詩話会の出版を考えてみると、朔太郎が『青猫』の「序」において、「詩はただ私への『悲しき慰安』にすぎない」としながらも、それに続けて書いた一文を想起してしまう。朔太郎はいっている。

 詩はいつも時流の先導に立つて、来るべき世紀の感情を最も鋭敏に蝕知するものである。されば詩集の真の評価は、すくなくとも出版後五年、十年を経て決せらるべきである。五年、十年の後、はじめて一般の俗衆は、詩の今現に居る位地に追ひつくであらう。即ち詩は、発表することのいよいよ早くして、理解されることのいよいよ遅きを普通とする。かの流行の思潮を追つて、一時代の浅薄なる好尚に適合する如きは、我等詩人の卑しみて能はないことである。

 だが「現代詩人叢書」の刊行に示されているように、新潮社の後援を得て、詩集の評価はリアルタイムで届くような出版状況を迎えつつあったのではないだろうか。それは戦後になっても続いていたけれど、私見によれば、昭和で終わってしまったように思われる。


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