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出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話1511 石川啄木『一握の砂』と『ローマ字日記』

 室生犀星の『蒼白き巣窟』を読みながら連想されたのは、石川啄木の桑原武夫編訳『ローマ字日記』(岩波文庫)であった。

   啄木・ロ-マ字日記 (岩波文庫 緑 54-4)

 これは磯田光一の『萩原朔太郎』(講談社)において、あらためて教えられたのだが、朔太郎と啄木がともに明治十九年生まれであり、朔太郎が四十三年に出され啄木の『一握の砂』(東雲堂書店)を強く意識していたということである。そしてそこには次の一首が含まれていた。

 荻原朔太郎  (『一握の砂』)

わが泣(な)くを少女等(をとめら)きかば
病犬(やまいぬ)の
月(つき)に吠(ほ)ゆるに似(に)たりといふらむ

 近代文学館の複刻版を確認してみると、最初の「我を愛する歌」のセクション、すなわち十一ページ、十八首目にそれを見出せる。「東海の小島の磯の白砂に」や「いたく錆びしピストル出でぬ」といった著名なフレーズに紛れて、記憶に残っていなかったものだ。しかしその巻末広告を見ると、やはり同年に若山牧水の『別離』、北原白秋の『思ひ出』も出されていたとわかる。それに前者は拙稿「西村陽吉と東雲堂書店」(『古本探究』所収)で言及しているし、後者はこれもまた日本図書センターによって複刻されているので、容易に参照できる。

近代文学館〈〔48〕〉一握の砂―名著複刻全集 (1968年) (複刻版) 思ひ出 (愛蔵版詩集シリーズ) (複刻版) 

 それらはともかく、磯田は続けて四十四年のニーチェの生田長江訳『ツアラトウストラ』(新潮社)に見える月光のもとでの野犬の存在を示し、大正六年の『月に吠える』のタイトルとイメージの起源がこれらによっているのではないかと指摘していた。そうした事実を通じて、啄木、朔太郎、犀星、白秋が同時代人で、それぞれの詩集が相互影響していたことを示唆してくれる。それに『月に吠える』も『愛の詩集』も、「序」に当たる一文は白秋によって書かれていたし、犀星や朔太郎と同様に、啄木にとっても、白秋の『邪宗門』はインパクトをもたらしたはずで、実際に献本されていたのである。それらを『ローマ字日記』から抽出してみる。いずれも1909年=明治四十二年のものだ。

 (『月に吠える』)(『愛の詩集』)(『邪宗門』)

[4月3日]
  キタハラ君のおばさんがきた。そしてかれの新詩集“邪宗門”を1冊もらった。(中略)
  夜2時まで“邪宗門”を 読んだ。美しい、そして特色のある本だ。キタハラは幸福な人だ!
  ぼくも なんだか詩を書きたいような心持になって ねた。

[4月6日]
  (前略)
  キタハラ君を たずねようかと思ったが、そのうちに12時ちかくになったので、こぶさたの おわびをかねて 『邪宗門』についての手紙をやった。――“邪宗門”には まったく新しい ふたつの特長がある:そのひとつは“邪宗門”ということばの有する連想 といったようなもので もうひとつは この詩集にあふれている 新しい感覚と情緒だ。そして、前者は 詩人ハクシュウを解するに もっとも必要な特色で、後者は 今後の新しい詩の基礎とをなるべきものだ・・・・・・。

 それから啄木は手元不如意となり、5月8日から13日の間に「キタハラからおくられた“邪宗門”も売ってしまった」のである。
 犀星の場合、前々回記しておいたように、明治四十二年の金沢にあって、同じ頃啄木とは逆に、『邪宗門』を取り寄せ、買い求めていたのである。そのようにして二人は同時代に白秋の『邪宗門』の読者だったわけだが、共通するのはそれだけでなく、啄木もまた同じく十二階下の「蒼白き巣窟」の探訪者だったのだ。彼は4月10日付で記している。「いくらかの金のあるとき、予は なんのためろうことなく、かの、みだらな声にみちた、狭い、汚い町に行った。(中略)そして10人ばかりの、インバイフを買った」と。そしてこの後によく知られた具体的なフィストファッキングの実際が語られていくのである。それはヨーロッパ世紀末のミソジニーの系譜に連なる男には「女を殺す権利がある!」という告白を伴いながら。

 5月1日にも「また行くのか?」と自問しながら浅草に出かけている。

 “行くな! 行くな!”と思いながら 足はセンゾクマチへ向かった。ヒタチ屋の前を ソッとすぎて、キンカ亭という 新しい角のうちの前へ行くと 白い手がコウシのあいだから出て 予のソデをとらえた。フラフラとして入った。
 ああ、その女は! 名はハナコ、年は17。ひと目見て 予はすぐそう思った。
 “ああ! コヤッコだ! コヤッコをふたつみつ若くした顔だ!”

 「コヤッコ」とは啄木が北海道時代に馴染んだ芸者小奴のことである。また「センゾクマチ」とは槌田満文編『東京文学地名辞典』(東京堂)によれば、浅草区千束町のことで、浅草公園から吉原へ向かう通路に当たり、二丁目が最もにぎやかで、よく知られた牛店米久を始めとして、料理や、貸席、芸妓家、待合、銘酒屋などが多かった。また「十二階」と俗称された凌雲閣がそびえていたのも二丁目だった。その周辺は私娼が多く、「十二階下」と呼ばれていたのである。

 『ローマ字日記』には「十二階」なる言葉は使われていないが、『蒼白き巣窟』には復元された部分に「十二階の塔が、六角に創り上げた尖端を深い暗い空につきぬけて聳立している」との一文が見えていた。啄木の時代は前述したように明治四十二年、『蒼白き巣窟』は明治四十五年とあるので、ほぼ同時代の「十二階下」に啄木も犀星も出没していたことになろう。


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古本夜話1510 室生犀星『蒼白き巣窟』の削除と復元

 室生犀星は『性に目覚める頃』に続いて、大正九年にやはり新潮社から『結婚者の手記』『蒼白き巣窟』と三冊の小説を上梓している。これらの二冊は未見だが、昭和十一年に『近代出版史探索Ⅲ』436の非凡閣から『室生犀星全集』が刊行され、その第七巻がそれらのタイトル作を含めた初期作品集として編まれている。

     (非凡閣)

 ここで取り上げたいのは短編集『蒼白き巣窟』で、いくつかの犀星の「年譜」にはこの「青白き巣窟」が講談社の『雄弁』に掲載予定だったが、目次にタイトルが残されただけで、全文が削除されたとある。しかし犀星としても、愛着があったようで、そのまま捨ておけず、内務省の検閲を経て、短編集のタイトルとすることで収録し、新潮社から刊行に至ったことになる。おそらく非凡閣版『室生犀星全集』第七巻所収の「蒼白き巣窟」はこの新潮社版をそのまま踏襲していると思われた。

 だが戦後になって、犀星の死後、昭和三十九年から新潮社の二回目の『室生犀星全集』が刊行され始め、その第二巻に「蒼白き巣窟」が収録されたのである。それは「私はいつも其処の路次へ這入ると、あちこちの暗い穴のやうな取り抜けや・・・・・・(初版本五千五百字削除)・・・・・・」と始まっていて、非凡閣版はこの冒頭の部分を全文カットし、「おすゑの家もその燐火箱の奥まった一軒で」を冒頭としていることがわかった。また新潮社の第二次全集は自社の初版本に依拠していることも。しかしこれだけでは削除された部分を想像することは難しかった。

 ところが昭和五十二年に新潮社版の恩地孝四郎装幀をそのまま復元して、冬樹社から『蒼白き巣窟』が刊行され、しかも削除された全文が初めて公開されたのである。娘の室生朝子の「あとがき」によれば、城市郎の『発禁本百年』(桃源社「桃源選書」、昭和四十四年)をあらためて読み、城が『蒼白き巣窟』の生原稿を所持していることを知り、それを拝借し、生原稿をそのまま編集し、単行本化したとある。

(冬樹社)

 城の『発禁本百年』を探すと、幸いにも出てきたので見てみると、大正九年のところに『蒼白き巣窟』の生原稿と新潮社版が写真入りで紹介され、一万字近い削除があると述べられていた。かつて読んだはずだが、すっかり失念していたことになる。冬樹社版はそれらの写真に加え、見開きの生原稿や『雄弁』の大正九年三月号の表紙や目次も示した上で、その削除部分を赤字で復元している。この小説は浅草十二階下の私娼窟を生々しく描いたことによって、発表を禁じられ、戦後も削除されたままで読まれてきたのである。

 前述した新潮社版の先の書き出しに続く部分を引いてみる。

 墨汁のやうな泥濘の小路から吐き出される種々な階級の人々を見た。職工、学生、安官吏、または異体(ママ)の知れない様々な人々が、みんな酔つぱらつて口々に何かしら怒鳴つたり喚いたりしながら、同じ路次から路次を蠅のやうにぞろぞろと群をつくつて、熱心な眼つきで、その路次の家々の障子硝子の内に、ほんのりと浮いてゐる白い顔を見詰めてあるいてゐた。家々の軒燈はあまり明るくないため、燐寸箱を積み重ねたやうにぎつしり詰つた路次は、昼間も日光がとと(ママ)かないので、いつも湿々してゐる溝ぎわの方から、晩方の家々の炊事の煙が靄とも霧とも分らない一種の茫とした調子で、そこらの板囲ひや勝手口の風通しのわるいあたりをうす暗くしたばかりでなく、障子硝子の窓ぐちに座つてゐる女等の顔をも暈して見せてゐた。ちやうど路次を通る人々はすこし背をかがめるやうにすると、内部から硝子窓にぴつたりと顔を押しつけるやうにして座つてゐる女等の眼が何よりも最初に眺められるやうになつてゐた。かういふ巣窟にありがちな家々の藍ばんだ何だか埃つぽい薄暗さは、仮面のやうに濃く白い顔をくつきりと浮き上らせ、ことに魚族のやうな深い澄んだ光をひそませた女等の眼が、じつと、わいわい騒いだり悪口をついたりしながら行く人々の上に注がれてゐた。それはまるで眼ばかりで働くやうに利巧で艶々しく、その上、それ自身が微笑をふくんで、くらい暗のなかにほんのりと漂ふてゐるやうな、しづかな誘惑の味深い光をもつてゐた。

 長い引用になってしまったが、当時の内務省検閲の実態の一例であろうから、省略を回避したことによるし、このイントロダクションはまさに「蒼白き巣窟」へのチチェローネになっているからでもある。それにまだ復元部分は五ページにわたって続いていくのだ。しかもこの冬樹社版は同じ赤字復元が他にも三カ所、二十二ページに及ぶし、当時の削除の意図も浮かび上がってくる。そのためにふたつの『室生犀星全集』版とはまったく異なる作品のような感触をもたらす。それは引用文からも察せられるだろう。

 この『蒼白き巣窟』は犀星の浅草十二階下の体験をベースにしているし、娼婦のおすゑにしてもモデルが存在すると思われる。彼女は『自叙伝的な風景』において、「お末は有りふれた淫売婦の中の一人だった。千九百十年代の文明を代表した、廃頽的な上に、さまざまな優しい最後の日本的な女を標準化した」存在として描かれている。そして彼女は『蒼白き巣窟』におけるように、自分の木綿の襦袢を縫ってくれたり、餅を食わせてくれたり、また何度も姿を隠したり、現われたりしていた。さらに犀星は姿を隠した彼女を訪ねてもいるのだ。これらは『蒼白き巣窟』とまったく重なるものである。ただ小説と異なるのは、それから二年後に本郷動坂の通りで邂逅した際に、彼女は丸髷を結っていたことだ。これは彼女が結婚したことを意味していて、何か救われたような気になる。それは犀星も同様で、それゆえに彼も最後にそのことを書きつけたと考えられる。

 かつて吉本隆明は『吉本隆明歳時記』(日本エディタースクール出版部、昭和五十三年)において、正宗白鳥の「微光」(『微光』所収、籾山書店、明治四十四年)の囲い者のお国にふれ、彼女が白鳥のかかわった女性をモデルと見なし、次のように続けている。「お国のような女の存在は、若い日の白鳥のような存在なしにもありえた。けれど若い日の白鳥が形成されるには、お国のような存在が不可欠であった」と。それをもじるならば、若い日の犀星が形成されるには、おすゑ=お末のような存在が不可欠であったともいえるであろう。

   


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古本夜話1509 室生犀星『性に目覚める頃』と北原白秋『邪宗門』

 室生犀星の『性に目覚める頃』所収の「抒情詩時代」と「性に目覚める頃」には明治末期の金沢の貸本屋や書店事情が描かれ、言及されているので、それらもトレースしてみよう。

 

 犀星は十五歳のころから俳句を作り、また小品を書き、博文館の『少年世界』を読む一方で、俗悪な雑誌や講談本の女たちの口絵などに魅せられ、それらを写すために貸本屋によく出入りしていた。その店の光景は次のようなものだ。

 そこには毒毒々しいまでに彩描された侠客伝や、盗賊物や、お家騒動ものなど、その表紙の美しさを競うてならんでゐた。私はそれらを眺めるとき、心がおのづから躍ることを感じた。美しい口許が鋭い銀箔をつかつた短刀を咥へた女や、またはかひがひしく、薙刀をつかつて敵と切り合つてゐる仇討物の、その襷をかけた為めに絞られた袖口から出た繊い美しい腕などを、私はあかず眺めるのであつた。または、裾短な足許、美しい細細した足の指など、私はいつもいたいたしく見るのであつた。

 ここで「私」が感応しているエロチシズムこそは当時の旅芝居やその女形が体現していたものであり、後に「私」は女形の役者に魅せられ、金をとられてしまうのである。しかしここに描かれた女性の原型は時代劇映画などに確実に継承されていったし、現在であれば、コミックやアニメにおける「戦う美少女」(斉藤環『戦闘美少女の精神分析』所収、ちくま文庫)というコンセプトも付け加えることができよう。

戦闘美少女の精神分析 (ちくま文庫 さ 29-1)

 このような時期を過ぎると、「私」は東京の雑誌に投稿するようになり、その賞牌として美しい銀メダルを受け取ったりしていた。その雑誌のひとつは『新声』だった。

 そのころ私は詩の雑誌である「新声」をとつてゐて、はじめて詩を投書すると、すぐに採られた。K・K氏の選であつた。私はよく発行の遅れるこの雑誌を毎日片町の本屋へ見に行つた。こ「新声」の詩壇に詩が載ることは、ことに私のやうな地方に居るものにとつては困難なことであつたし、実力以外では殆んど不可能なことであつた。そのかはりそこに掲載されれば、疑ひもなく一個の詩人としての存在が、わけても地方にあつては確実に獲得できるのであつた。(後略)

 ちなみにこの後に掲載された「いろ青き魚はなにを悲しみ/ひねもすそらを仰ぐや。」と始まる詩は「明治三十七年七月処女作」とある。この事実からすると、佐藤義亮が明治二十九年に創刊した『新声』は同三十六年に新声社が破綻したことで、正岡芸陽の第二期『新声』に移っている。選者の「K・K氏」とは児玉花外であり、犀星のこの詩が掲載されたのはこちらの『新声』においてだった。これらの経緯と事情に関しては『近代出版史探索Ⅶ』1206でふれたとおりだ。

 

 『新声』に前述の詩が掲載されたことで、「私」は同じ街にいて、やはり詩を書いている表という十七歳の同年の友を得た。彼は「麦の穂は衣へだてておん肌を刺すまで伸びぬいざや別れむ」といった美しく巧みな歌を詠んでいて、「私」を驚かせたし、「ラバア」の存在を感じさせた。実際に彼は絶えず女に手紙を書き、幾人もの女から手紙をもらっていた。「表は女性にたいしては無造作であるやうでいつも深い計算の底まで見ぬく力を持つてゐる」のだった。

 だがそれゆえにこそ、表の評判は悪く、不良少年としてその名前が知られ、警察に調べられたりしていたけれど、公園の掛茶屋の娘と深い交際をしていた。

 その表が肺を病み、寝つくようになり、わずかの間にやせ衰えてしまった。「私」が見舞いにいくと、すでに彼は死の想念に捉われ、淋しいから明日も来てくれと頼む。「私」は急に明日も来なければと思い、次のようにいう。

  「きつと来るよ。それに『邪宗門』が著いたから持つてくるよ。」
  「あ、『邪宗門』が来たのか。見たいなあ。今夜来てくれたまへ。」
 表は興奮して熱を含んで言つた。

 『邪宗門』が『近代出版史探索Ⅴ』836の易風社から刊行されたのは明治四十二年三月のことだから、この会話が交わされたのはおそらくその年の四月だったのではないだろうか。明治末期に書店は三千を数えるまでになり、出版社・取次・書店という近代出版流通システムは大正時代においてさらなる発展を遂げることを約束されていた。

 

 『邪宗門』も日本近代文学館によって複刻され、手元にある。石井柏亭の装幀、四六判函入、三五〇ページ、一二〇篇が収録され、定価一円。それらの異国情調的象徴詩と南蛮趣味は日本近代詩上に一画期をもたらし、白秋の詩人的位置を定めたとされる。関東の「邪宗門秘曲」は右ページに柏亭による三人の切支丹神父を描いた挿画「澆季」を描き、「われは思ふ、末世の邪宗、切支丹でうすの魔法。」と始まり、この『邪宗門』が北国の二人の少年に与えた影響は現在からは想像できないほどのものだったと考えられる。

 (複刻)

 「私」は『邪宗門』を持って、表を再訪し、それを出してみせる。

 「もう出たんだね。」
 表は手にとつて嬉しさうに見た。革刷のやうな羽二重をまぜ張つた燃ゆるやうなこの詩集は彼を慰めた。感覚と異国情調と新し官能との盛りあがつたこの書物の一ページ毎に起る高い鼓動は、友の頬を紅く上気せしめたのみならず、友に強い生きるちからを与へさへした。

 だがそれは二人の別れの書でもあり、「秋も半ばすぎにこの友は死んだ」と記されている。


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古本夜話1508 滝田樗陰と室生犀星「幼年時代」

 これまでに萩原朔太郎が大正十二年の『青猫』に続いて、同じ新潮社から『蝶を夢む』や『抒情小曲集』、また室生犀星のほうは十一年に『田舎の花』を刊行していることを既述しておいた。しかし犀星は朔太郎と異なり、それまでに大正九年の『性に目覚める頃』を始めとして、やはり新潮社から『結婚者の手記』『蒼白き巣窟』『美しい氷河』『走馬燈』といった小説集を出し、作家としてもデビューしていたのである。

     

 それは詩集の出版が朔太郎とのコラボレーションによっていたように、小説を書くことは『愛の詩集』の上梓をきっかけにして、芥川龍之介や谷崎潤一郎と知り合った影響も大きいと思われる。犀星は『自叙伝的な風景』において、最初の作品「幼年時代」を『中央公論』の滝田樗陰に送り、何の返事もなかったので、中央公論社を訪ねたが、滝田が不在だったと書いている。ところが数日後「幼年時代」の校正刷が届き、「自分は興奮と混乱に似た感激的な状態」となり、「つとめて平気で妻に作品が雑誌に掲載されることを告げた」のである。その翌日滝田が来訪し、「性に目覚める頃」「或る少女の死まで」の初期三部作が続けて大正八年の『中央公論』に掲載されるに至った。

 この三部作は大正九年に新潮社の『性に目覚める頃』に収録され、これも幸いなことに近代文学館により複刻されている。その出版事情を補足しておけば、これらの作品は『中央公論』に掲載されたわけだから、中央公論社から単行本として刊行されるのが当然だが、大正時代の中央公論社は書籍出版部を設けておらず、それは昭和四年を待たなければならなかった。そうした当時の出版事情は文藝春秋社も同様だった。

 

 この『性に目覚める頃』には「この貧しき最初の創作集を滝田哲太郎におくる」との献辞にあるように、滝田樗陰に捧げられている。大正時代の多くの作家が滝田によって発掘、育成され、『中央公論』に作品を発表し、文壇的地位を得ていたのだが、犀星もその一人だったのである。それは「序」においても語られ、滝田のよく知られた人力車訪問にはふれられていないけれど、滝田の存在と尽力により、「生れて初めて一人前になれたのだといふ気が、書いたもののなかから、いまは何よりはつきりと映り出した」と述べている。

 ここでは表題作に言及すべきかと考えていたが、滝田との関係からすれば、処女作「幼年時代」を取り上げておくべきだろう。そこには明治後年の金沢の民俗、おそらく加賀藩時代から続いている川漁や果実掠奪といった採集遊びが語られ、とても興味深いからでもある。

 まず「私」の姉の語る川漁のことを考えれば、加賀藩には手取川や犀川の有名な淵を泳ぎ入る「河師」というものがいて、「鮎の季節や、鱒の季節には、目の下一尺以上あるものを捕るための、特別の河川の漁師であつて、帯刀を許されてゐた」。その一人の堀が鞍が岳の池に潜ったのである。その池は古戦場で、かつて野武士が馬とともに飛びこみ、裏盆には鞍が浮かび上がったり、池の底鳴りがするとの伝説があった。その池は深く青藍色の静寂で神秘的な支配力を有し、人々の神経を震わせるとされた。

 堀はこの伝説を聞いて嗤い、池の底を探検するといって、何も持たず、池にもぐりこんだ。かなり長い間水面に浮かんでこなかったが、ようやく浮かび上がった彼は蒼白で、恐怖のために絶えず筋をふるわせていた。「そして何人にもその底の秘密を話さなかった。(中略)唯かれは河師としての生涯に、一番恐ろしい驚きをしたといふことのみを、あとで人人に話してゐた。それと同時になれた河師の職をやめてしまつた」。あたかも柳田国男の『遠野物語』の一節のようであり、また犀星と出身を同じくする泉鏡花の物語の背景にもこのような「伝説」が潜んでいるのだろうし、まだ明治が近世怪異譚の時代だったことを教えてくれる。

 また果実掠奪はどんな小さな家の庭にも果実のなる木があることから始まっていた。「私どもは殆ど公然とそれらの果実を石をもつて叩き落したり、塀に上つて採つたりした。さうした優し果実を掠奪してあるくためには、七八人づつ隊を組んで裏町へでかけるのであつた。それを『ガリマ』と言つてゐた」のである。だがそれらは道路の方に樹の枝がはみ出たところの果実に限られていたので、とがめられもせず、叱られることもなかった。「いつごろからそういふ風習があつたのか知らないが、それが決して不自然なところがなく、非常に悪びれたところが、見えなかつた」。それに加えて、高い樹の果実に対して、及び「ガリマ」隊の間で喧嘩に際し、「私」は飛礫打ちが得意だとの述懐は中沢厚の『つぶて』(法政大学出版局)を想起してしまう。

つぶて (ものと人間の文化史 44)

 それだけでなく、この「がリマ」の語源は不明だけれども、同じように果実の種子を集めて回る子供たちを描いた、ピエール・ガスカールの『種子』(青柳瑞穂訳、講談社)をも連想させる。考えてみれば、日本においても高度成長期以前の子供たちの遊びは魚や果実を対象とする採集で、それも必然的に飛礫打ちも伴っていた。しかしそのような遊びが終焉したのはテレビの普及によっていたことをあらためて思い出す。


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古本夜話1507 室生犀星『愛の詩集』と感情詩社

 前々回の新潮社の「現代詩人叢書」に室生犀星の『田舎の花』が含まれていることを示したばかりだが、これも犀星が萩原朔太郎と同じ詩話会で『日本詩人』の編集に携わっていたこととリンクしていよう。

 

 しかし犀星の処女詩集『愛の詩集』は朔太郎の『月に吠える』がそうだったように、大正七年に感情詩社から刊行されている。それらの経緯と事情を記せば、同五年に朔太郎と犀星は詩雑誌『感情』を創刊し、八年まで全三十二冊が出された。発行兼編輯人は室生照道=犀星で、感情詩社からの発行だった。それもあって、犀星の『抒情小曲集』と『第二愛の詩集』も続刊され、感情詩社は所謂プライベートプレスにすぎなかったけれど、これらの詩集を出版したことは近代詩史上において、特筆すべきだ。ちなみにこれらの詩集が自費出版だったことはいうまでもないだろう。

  (『月に吠える』)

 犀星の詩にあって、第二詩集『抒情小曲集』の冒頭の「小景異情」にみられる「白魚はさびしや/そのくろき瞳はなんといふ」、及び「ふるさとは遠きにありて思ふもの/そして悲しくうたふもの」といったフレーズはよく知られている。だがここではその複刻が出されていることもあり、『愛の詩集』のほうを取り上げることにする。

   愛の詩集―室生犀星第一詩集 (1981年) (名著複刻詩歌文学館―石楠花セット) (復刻)

 この詩集も朔太郎の『月に吠える』と同じく、犀星が満を持して刊行した処女詩集と見なすことができる。判型こそ『月に吠える』の一回り小さい四六判だが、やはり恩地孝四郎の装幀で、北原白秋の「愛の詩集のはじめに」という序がある。その巻頭には献辞として「みまかりたまひし/父上におくる」が掲げられ、その後に「私の室に一冊のよごれたバイブルがある」と始まる一文が引かれている。それは「わがなやみの日/みかほを蔽ひたまふなかれ/われは糧をくらふごとく灰をくらひ/わが飲みものに涙をまじへたり」とある。さらにドストエフスキイの言葉や萩原朔太郎の詩、自らの「序詩」、これらに白秋の序が続いていく。

 そこで白秋は「愛の詩集一巻。これは何といふ優しさだ、率直さだ、気高さ、清らかさだ。さうして何といふ悲しさ、愛らしさ、いぢらしさだ。おお、ここにはあらゆる人間の愛がある」とのオマージュを記し、「私たちは同じ神の声を同じ母胎の中で聴」くとも述べている。これらの白秋の言に至る様々な献辞や引用などは、まさに大正時代における詩の霊感的背景とでも称していいキリスト教と『聖書』、すなわち神と愛がポリフォニックに形成されていたことになるのだろうか。

 犀星もその「自序」で書きつけている。

 詩は単なる遊戯でも慰藉でも無く、又、感覚上の快楽でも無い。詩は詩を求める熱情あるよき魂を有つ人にのみ理解される囁きをもつて、恰も神を求め信じる者のみが理解する神の意識と同じい高さで、その人に迫つたり胸や心をかきむしつたり、新らしい初初しい力を与へたりするのである。はじめから詩について同感し得ない人や、疑義を有つ不信者らにとつて、詩は存在し得ないし永久に囁くことが無いであらう。

 ここでは詩が「恰も神を求め信じる者のみが理解する神」のような高みに位置し、大正時代を迎え、近代口語自由詩が一挙に臨界的状況へと達したことを暗示しているのかもしれない。それはさらに前々回もふれてきた詩話会と新潮社のコラボレーションによって加速していくだろうし、感情詩社による『月に吠える』と『愛の詩集』の出版は、その触媒の役割を果たしたようにも思える。

 やはりその発端は犀星の、北原白秋の『朱欒(さぼん)』への「小景異情」の発表、それに感激した手紙、及び犀星の翌年の前橋への朔太郎訪問にある。そして二人に山村暮鳥が加わり、人魚詩社から詩誌『卓上噴水』を創刊、続いて五年には朔太郎と犀星により、感情詩社が設立され、同じく詩誌『感情』も創刊されていく。そうした流れにあって、六年二月に朔太郎の『月に吠える』が上梓されたのである。その発行人は室生照道=犀星に他ならず、『月に吠える』の成功を目の当たりにして、彼もまた処女詩集の刊行を夢みていたにちがいない。

(『朱欒』)(『卓上噴水』) 

 それは「自序」にも示され、「自分は永い間これらの詩をまとめて世に送り出すことを絶えず考へてゐたけれど、まだ充分な力が無かつたり、これらに値する資力を欠いてゐたために」、上梓が遅延してしまったことにふれている。やはり何よりも問題だったのは「これらに値する資力」で、それが六年九月における養父の僧侶室生真乗の死によって家督相続することになり、翌年の『愛の詩集』五五〇部の自費出版用に恵まれたのである。このことが「みまかりたまひし/父上におくる」という献辞に表出しているといえよう。

 そして「桜咲くところ」から始まる五十二編を収録した『愛の詩集』の掉尾を飾るのは朔太郎の「愛の詩集の終わりに」で、二人の関係を「主として運命は我等を導いて行つた」と述べ、「私の友、室犀星は生れながらの愛の詩人である」と記している。『愛の詩集』のそれぞれの詩にふれられなかったけれど、ここに朔太郎の犀星へのあふれる真摯なオマージュは、二人の出会いとこれらの二冊の詩集によって、これまでと異なる口語自由詩の誕生の自負を秘めているように思われてならない。


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