出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話1513 江戸川乱歩「押絵と旅する男」

 前回の『十二階崩壊』に見られる今東光の「十二階」への否定的見解とは対照的な思いを描いていた同時代人もいたにちがいない。その一人は江戸川乱歩であり、「十二階」を舞台装置として昭和四年(『新青年』六月号)に「押絵と旅する男」を発表している。

 十二階崩壊

 米沢嘉博構成『乱歩の時代』(「別冊太陽」)において、「押絵」はカラー実物が示され、次のように定義されている。「厚紙で人物などを作り、綿などを入れてふくらみをつけ、布をかぶせて作る。武者人形など、歴史物語のヒーローが登場する。明治から大正にかけての子どもたちの玩具」だと。ここでの「押絵と旅する男」のテキストは『江戸川乱歩集』(『日本探偵小説全集』2、創元推理文庫)所収を参照しているのだが、念のために、本の友社復刻版『新青年』の当月号も見ている。それには竹中英太郎による「十二階」と押絵の挿画も掲載され、この巻頭の短編のリアルタイムでの読書体験の実際を伝えているかのようだ。またその編集後記に当たる「戸崎町だより」には「東京市内の某書店では毎号発売後旬日ならずして千部近い部数を売り尽くす程」だと述べられている。これは「一記者」とあって、編輯兼発行人の森下岩太郎=雨村の筆によるものではないけれど、昭和四年時の探偵小説ブームを示唆していよう。

 乱歩の時代: 昭和エロ・グロ・ナンセンス (別冊太陽 日本のこころ 88)  【古本】『日本探偵小説全集〈2〉江戸川乱歩集』(創元推理文庫)監修:中島河太郎

 「押絵と旅する男」は「この話が私の夢か私の一時的狂気の幻でなかったなら、あの押絵と旅していた男こそ狂人であったに違いない」と始まっている。「私」は魚津に蜃気楼を見に出かけた帰りの上野行の汽車で、西洋の魔術師のような風采の男が持っている額に興味を覚え、それを見せてくれと頼む。するとその額には歌舞伎芝居の御殿に似た背景の中で、押絵細工の二人の人物が浮き出て、黒ビロードの古風な洋服を着た白髪の老人と十七、八の結い綿の美少女が芝居の濡れ場に類する画面を形成していた。それに奇妙なことに二人は生きているようでもあった。さらに男は古風な双眼鏡を取り出し、これで見るようにと「私」に差し出すので、そうすると、押絵の娘は生気に満ち、一方で、老人は苦悶の相を現わし、別世界で奇妙な生活を営んでいるかのようだった。

 そして男の口から押絵の老人=兄の身の上話が語り出される。それは明治二十八年四月の浅草の十二階が出来たばかりの頃で、毎日のように兄は凌雲閣にあの遠眼鏡を手にして登っていたのである。

 「あなたは、十二階へお登りなすったことがおありですか。ああ、おありなさらない。それは残念ですね。あれは一体、どこの魔法使いが建てましたものか、実に途方もない変てこれんな代物でございましたよ。表面はイタリーの技師のバルトンと申すものが設計したことになっていましたがね。まあ考えてごらんなさい。その頃の浅草公園といえば、名物がまず蜘蛛男の見世物、娘剣劇に、玉乗り、源水のコマ廻しに、のぞきからくりなどで、せいぜい変ったところが、お富士さまの作りものに、メーズといって、八陣隠れ杉の見世物ぐらいでございましたからね。そこへあなた、ニョキニョキと、まあとんでもない高い煉瓦造りの塔ができちまったんですから、驚くじゃござんせんか。高さが四十六間と申しますから、一丁に少し足りないぐらいの、べらぼうな高さで、八角型の頂上が唐人の帽子みたいにとんがっていて、ちょっと高台へ登りさえすれば、東京中どこからでも、その赤いお化けが見られたものです。」

 乱歩が「押絵と旅する男」を発表したのは先述したように、昭和四年だったことからすれば、関東大震災による十二階崩壊からすでに六年が過ぎていた。そうした時の流れと過去の記憶は、凌雲閣の十二階をして、「魔法使いが建て」た「赤いお化け」と称されるファンタスティックな塔へと昇華させられていたことになる。

 それはともかく、兄の身の上話に戻れば、彼は遠眼鏡を手にして以来、毎日どこかに出かけるようになり、やつれて青ざめ、気でもちがったのではないかと心配された。そこで弟が兄のあとをつけると、兄は浅草に向かい、凌雲閣の十二階の中へ姿を消してしまった。当時は日清戦争の生々しい血みどろの油絵が壁に並べられていたので、「兄はこの十二階の化物に魅入られたんじゃないか」と弟は考えたりもした。しかしそれらの絵の中を上がっていくと頂上に達し、兄が遠眼鏡を目に当て、観音様の境内を眺め廻している姿を認め、弟は「兄さん何を見ていらっしゃいます」と声をかけた。

 すると兄はようやく胸のうちの秘密を打ち明けてくれた。一ヵ月前にこの十二階から遠眼鏡で観音様の境内を眺めていたら、「ひとりの娘の顔」、それも「この世のものとは思えない美しい人」を見た。ところがその娘にすっかり心を乱され、遠眼鏡を外してしまい、もう一度見ようとしても探し出せなかった。それから兄はこの美しい娘が忘れられず、毎日十二階に昇り、遠眼鏡をのぞいていたのである。 

 そこに何かの前兆のように、赤や青や紫の無数の風船が立ち登り、ちょうどその時、兄は娘を見つけたらしく、それは観音様の裏手の大きな松のところの広い座敷にいたという。だが娘の姿も影も形もなかった。そこで兄と別れて探し回ったが、兄は一軒の覗きからくり屋の覗きめがねを見て、夢を見ているかのように、「私たちが探していた娘さんはこの中にいるよ」といった。それは八百屋お七の覗きからくりで、お七が吉三にしなだれかかっている絵だった。その絵は光線をとるために上の方があけてあり、そのために十二階の頂上からに見えたにちがいない。からくり屋の夫婦がしわがれ声で「膝でつっつらついて、眼で知らせ」と歌っていた。

 兄はいう。「たとえこの娘さんがこしらえものの押絵だとわかっていても、私もどうもあきらめられない。(中略)たった一度でいい。私もあの吉三のように、押絵中の男になって、この娘さんと話がしてみたい」。そして兄はいつまでも立ちつくし、すっかり日も暮れてしまった。すると兄は突然遠眼鏡をさかさにして、「そこから私を見ておくれでないか」と頼む。そうすると、兄の姿が小さくなり、闇の中に消えてしまった。覗きめがねを見ると、兄は押絵となり、吉三の代わりに、「嬉しそうな顔をして、お七を抱きしめていた」のである。

 それから弟のほうはその覗き絵を手に入れ、兄と一緒に旅するようになった。だが娘は年をとらないけれど、兄は寿命のある人間ゆえに老人となり、悲しげで苦しそうな顔をさらすようになってきたのである。

 そして押絵の額を携えていた老人も、山間の小駅の闇の中に消えていったのだ。


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古本夜話1512 今東光『十二階崩壊』と谷崎潤一郎『痴人の愛』

 浅草の十二階といえば、ただちに今東光の『十二階崩壊』(中央公論社、昭和五十三年)が思い出される。それはその表紙に明治二十八年の浅草の百花堂発刊の彩色図絵「東京名所凌雲閣」を用いていたからだ。ただ残念なことに、『海』に連載中に今が急逝したことで、その「崩壊」までは描かれないままでの絶筆となってしまったのである。 

 十二階崩壊
 ここではまず槌田満文編『東京文学地名辞典』(東京堂)における凌雲閣の立項を抽出しておくべきだろう。それは図絵と共通する全体像の写真を伴い、凌雲閣は明治二十三年から大正十二年まで、浅草千束町二丁目にそびえ、俗に「十二階」と呼ばれていたとされる。この高塔は高さ二二〇尺、十階までは八角形の総煉瓦、その上の二階は木造の計十二階だったことによる。工科大学教師W・K・バルトンの設計で、明治二十三年に完成し、十一月に開業している。だが大正十二年の関東大震災によって六、七階から崩れ落ち、そのままでは危険なので、赤羽工科隊によって完全爆破された。ちなみに『同辞典』には明治四十四年の「浅草公園週辺」一ページ地図が掲載され、凌雲閣が国技館の近傍に接し、その周辺に動物園や植物園を兼ねた遊園地の花屋敷があるとわかる。

 

 『十二階崩壊』は大正時代の「悪魔主義者」である谷崎潤一郎の「非常勤無給の私設秘書」を自認していた今東光の回想録と見なせよう。ただそれは昭和五十年から五十二年にかけての連載なので、ほぼ半世紀後の回想となるのだが。回想の後半は今や谷崎が馴染んでいた浅草オペラ時代の隆盛や風俗、十二階下のラビリンスといわれた銘酒屋街と二千人を超える娼婦たちが描かれている。その今の記憶に残された「十二階」の回想を引いてみる。

 浅草に十二階というエッフェル塔まがいの赤煉瓦造りの塔が凌雲閣と名乗って出来上ると、はじめの頃こそ物見高い江戸っ児やお上りさんの赤毛布(あかげっと)が押しかけたものの、十二階の展望はわずかに富士山や品川の海が見え、頭をめぐらせば雲の下に筑波山が眺められるくらいのもの、その他は漠々たる坂東平野とあっては直ぐに飽きられて仕舞った。富士山なら、よく晴れた日の夕方など東京の横町から眺められたもので、ちっとも彼等にとっては興ある風景ではなかったのだ。十二階の経営者は苦しまぎれに各階を写真陳列室に当て、新橋芸者の写真を並べているうちに、洗髪のお妻の写真だけが聊か評判になったくらいのもので、エレベーターの上り下りも江戸っ児を惹きつけるほどのものではなかった。

 (中略)余程、花屋敷の方が面白かったのを覚えている。従って十二階は寂びれる一方だったが、その周囲に集って来た銘酒屋は、明治、大正、昭和と世を重ねて繁昌し、その東京の恥部は東都名所の一つとなったのだから驚くべきことだった。

 半世紀後といっても、戦後になってこのような十二階に関する証言がなされているのは貴重だし、あえて長い引用をしてみた。
 しかしこの引用からわかるように、今の眼差しは十二階ではなく、「その周囲に集って来た銘酒屋」「東京の恥部」に向けられているのは明瞭だろう。今によれば、銘酒屋とは酒は名目で、実際は売春がメインだったという。これは拙稿「マゾヒストと郊外の『お伽噺の家』」(『郊外の果てへの旅/混住社会論』所収)で言及しているけれど、谷崎潤一郎の『痴人の愛』(改造社、大正十四年)のヒロインのナオミは家が銘酒屋だったとされている。

 郊外の果てへの旅/混住社会論

 この作品の時代設定は大正半ばから末期にかけてなので、ちょうど『十二階崩壊』とクロスしていることは、そこに描かれた谷崎の浅草体験と重なっているのだろう。また『痴人の愛』の後半において、ナオミは郊外の「お伽噺」の家をマゾヒズムの帝国へと転化していくわけだが、図らずもそれが関東大震災後の凌雲閣の崩壊と多くの銘酒屋の玉の井への移転を背景としている事実からすれば、ナオミも「東京の恥部」であるふるさとを失った女だったことになろう。

 それらはひとまず置くにしても、今はその一方で菊池寛の反対にもかかわらず、川端康成、石浜金作たちの推薦により、帝大生でもないのに第六次『新思潮』同人となる。だが川端とは異なり、石浜は「アムンゼン金作」と称し、「夜な夜な浅草十二階下の銘酒屋街に出没し、二千に近い白首を眺めるのを楽しんでいた」のである。それは今も同様だったし、そうした石浜と「蒼白き巣窟」で話しながら、次のように思うのだった。

 僕は十二階の尖塔のあたり、傾いた月が蒼く輝くのを見ながら、文壇に出られるのもそんなに遠くないのではあるまいかとふと想ったりした。それはまさしく夢みたいな話だが、この十二階下の淫売窟から新しい文学が生まれるかもしれないではないか。

 だがここで『十二階崩壊』はほぼ終わってしまう。今がさらに十二階の崩壊とその実態、関東大震災後の状況まで書くに至らなかったことは残念というしかない。

 だが幸いなことに、『十二階崩壊』には十二階下だけでなく、同時代ももうひとつの悪所としての横浜のキヨ・ハウスというチャブ屋の実態も描かれている。このチャブ屋は谷崎家の隣にあり、近年風船舎古書目録第13号『特集都会交響楽』に「横浜チャブ屋『キヨホテル』経営者倉田治三郎・喜代子夫妻所蔵アルバム」13冊が出品されていた。これは横浜風俗文化や谷崎研究者にとっては垂涎の的ともいうべき資料だが、売れたであろうか。

(風船舎古書目録第13号)


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古本夜話1511 石川啄木『一握の砂』と『ローマ字日記』

 室生犀星の『蒼白き巣窟』を読みながら連想されたのは、石川啄木の桑原武夫編訳『ローマ字日記』(岩波文庫)であった。

   啄木・ロ-マ字日記 (岩波文庫 緑 54-4)

 これは磯田光一の『萩原朔太郎』(講談社)において、あらためて教えられたのだが、朔太郎と啄木がともに明治十九年生まれであり、朔太郎が四十三年に出され啄木の『一握の砂』(東雲堂書店)を強く意識していたということである。そしてそこには次の一首が含まれていた。

 荻原朔太郎  (『一握の砂』)

わが泣(な)くを少女等(をとめら)きかば
病犬(やまいぬ)の
月(つき)に吠(ほ)ゆるに似(に)たりといふらむ

 近代文学館の複刻版を確認してみると、最初の「我を愛する歌」のセクション、すなわち十一ページ、十八首目にそれを見出せる。「東海の小島の磯の白砂に」や「いたく錆びしピストル出でぬ」といった著名なフレーズに紛れて、記憶に残っていなかったものだ。しかしその巻末広告を見ると、やはり同年に若山牧水の『別離』、北原白秋の『思ひ出』も出されていたとわかる。それに前者は拙稿「西村陽吉と東雲堂書店」(『古本探究』所収)で言及しているし、後者はこれもまた日本図書センターによって複刻されているので、容易に参照できる。

近代文学館〈〔48〕〉一握の砂―名著複刻全集 (1968年) (複刻版) 思ひ出 (愛蔵版詩集シリーズ) (複刻版) 

 それらはともかく、磯田は続けて四十四年のニーチェの生田長江訳『ツアラトウストラ』(新潮社)に見える月光のもとでの野犬の存在を示し、大正六年の『月に吠える』のタイトルとイメージの起源がこれらによっているのではないかと指摘していた。そうした事実を通じて、啄木、朔太郎、犀星、白秋が同時代人で、それぞれの詩集が相互影響していたことを示唆してくれる。それに『月に吠える』も『愛の詩集』も、「序」に当たる一文は白秋によって書かれていたし、犀星や朔太郎と同様に、啄木にとっても、白秋の『邪宗門』はインパクトをもたらしたはずで、実際に献本されていたのである。それらを『ローマ字日記』から抽出してみる。いずれも1909年=明治四十二年のものだ。

 (『月に吠える』)(『愛の詩集』)(『邪宗門』)

[4月3日]
  キタハラ君のおばさんがきた。そしてかれの新詩集“邪宗門”を1冊もらった。(中略)
  夜2時まで“邪宗門”を 読んだ。美しい、そして特色のある本だ。キタハラは幸福な人だ!
  ぼくも なんだか詩を書きたいような心持になって ねた。

[4月6日]
  (前略)
  キタハラ君を たずねようかと思ったが、そのうちに12時ちかくになったので、こぶさたの おわびをかねて 『邪宗門』についての手紙をやった。――“邪宗門”には まったく新しい ふたつの特長がある:そのひとつは“邪宗門”ということばの有する連想 といったようなもので もうひとつは この詩集にあふれている 新しい感覚と情緒だ。そして、前者は 詩人ハクシュウを解するに もっとも必要な特色で、後者は 今後の新しい詩の基礎とをなるべきものだ・・・・・・。

 それから啄木は手元不如意となり、5月8日から13日の間に「キタハラからおくられた“邪宗門”も売ってしまった」のである。
 犀星の場合、前々回記しておいたように、明治四十二年の金沢にあって、同じ頃啄木とは逆に、『邪宗門』を取り寄せ、買い求めていたのである。そのようにして二人は同時代に白秋の『邪宗門』の読者だったわけだが、共通するのはそれだけでなく、啄木もまた同じく十二階下の「蒼白き巣窟」の探訪者だったのだ。彼は4月10日付で記している。「いくらかの金のあるとき、予は なんのためろうことなく、かの、みだらな声にみちた、狭い、汚い町に行った。(中略)そして10人ばかりの、インバイフを買った」と。そしてこの後によく知られた具体的なフィストファッキングの実際が語られていくのである。それはヨーロッパ世紀末のミソジニーの系譜に連なる男には「女を殺す権利がある!」という告白を伴いながら。

 5月1日にも「また行くのか?」と自問しながら浅草に出かけている。

 “行くな! 行くな!”と思いながら 足はセンゾクマチへ向かった。ヒタチ屋の前を ソッとすぎて、キンカ亭という 新しい角のうちの前へ行くと 白い手がコウシのあいだから出て 予のソデをとらえた。フラフラとして入った。
 ああ、その女は! 名はハナコ、年は17。ひと目見て 予はすぐそう思った。
 “ああ! コヤッコだ! コヤッコをふたつみつ若くした顔だ!”

 「コヤッコ」とは啄木が北海道時代に馴染んだ芸者小奴のことである。また「センゾクマチ」とは槌田満文編『東京文学地名辞典』(東京堂)によれば、浅草区千束町のことで、浅草公園から吉原へ向かう通路に当たり、二丁目が最もにぎやかで、よく知られた牛店米久を始めとして、料理や、貸席、芸妓家、待合、銘酒屋などが多かった。また「十二階」と俗称された凌雲閣がそびえていたのも二丁目だった。その周辺は私娼が多く、「十二階下」と呼ばれていたのである。

 『ローマ字日記』には「十二階」なる言葉は使われていないが、『蒼白き巣窟』には復元された部分に「十二階の塔が、六角に創り上げた尖端を深い暗い空につきぬけて聳立している」との一文が見えていた。啄木の時代は前述したように明治四十二年、『蒼白き巣窟』は明治四十五年とあるので、ほぼ同時代の「十二階下」に啄木も犀星も出没していたことになろう。


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古本夜話1510 室生犀星『蒼白き巣窟』の削除と復元

 室生犀星は『性に目覚める頃』に続いて、大正九年にやはり新潮社から『結婚者の手記』『蒼白き巣窟』と三冊の小説を上梓している。これらの二冊は未見だが、昭和十一年に『近代出版史探索Ⅲ』436の非凡閣から『室生犀星全集』が刊行され、その第七巻がそれらのタイトル作を含めた初期作品集として編まれている。

     (非凡閣)

 ここで取り上げたいのは短編集『蒼白き巣窟』で、いくつかの犀星の「年譜」にはこの「青白き巣窟」が講談社の『雄弁』に掲載予定だったが、目次にタイトルが残されただけで、全文が削除されたとある。しかし犀星としても、愛着があったようで、そのまま捨ておけず、内務省の検閲を経て、短編集のタイトルとすることで収録し、新潮社から刊行に至ったことになる。おそらく非凡閣版『室生犀星全集』第七巻所収の「蒼白き巣窟」はこの新潮社版をそのまま踏襲していると思われた。

 だが戦後になって、犀星の死後、昭和三十九年から新潮社の二回目の『室生犀星全集』が刊行され始め、その第二巻に「蒼白き巣窟」が収録されたのである。それは「私はいつも其処の路次へ這入ると、あちこちの暗い穴のやうな取り抜けや・・・・・・(初版本五千五百字削除)・・・・・・」と始まっていて、非凡閣版はこの冒頭の部分を全文カットし、「おすゑの家もその燐火箱の奥まった一軒で」を冒頭としていることがわかった。また新潮社の第二次全集は自社の初版本に依拠していることも。しかしこれだけでは削除された部分を想像することは難しかった。

 ところが昭和五十二年に新潮社版の恩地孝四郎装幀をそのまま復元して、冬樹社から『蒼白き巣窟』が刊行され、しかも削除された全文が初めて公開されたのである。娘の室生朝子の「あとがき」によれば、城市郎の『発禁本百年』(桃源社「桃源選書」、昭和四十四年)をあらためて読み、城が『蒼白き巣窟』の生原稿を所持していることを知り、それを拝借し、生原稿をそのまま編集し、単行本化したとある。

(冬樹社)

 城の『発禁本百年』を探すと、幸いにも出てきたので見てみると、大正九年のところに『蒼白き巣窟』の生原稿と新潮社版が写真入りで紹介され、一万字近い削除があると述べられていた。かつて読んだはずだが、すっかり失念していたことになる。冬樹社版はそれらの写真に加え、見開きの生原稿や『雄弁』の大正九年三月号の表紙や目次も示した上で、その削除部分を赤字で復元している。この小説は浅草十二階下の私娼窟を生々しく描いたことによって、発表を禁じられ、戦後も削除されたままで読まれてきたのである。

 前述した新潮社版の先の書き出しに続く部分を引いてみる。

 墨汁のやうな泥濘の小路から吐き出される種々な階級の人々を見た。職工、学生、安官吏、または異体(ママ)の知れない様々な人々が、みんな酔つぱらつて口々に何かしら怒鳴つたり喚いたりしながら、同じ路次から路次を蠅のやうにぞろぞろと群をつくつて、熱心な眼つきで、その路次の家々の障子硝子の内に、ほんのりと浮いてゐる白い顔を見詰めてあるいてゐた。家々の軒燈はあまり明るくないため、燐寸箱を積み重ねたやうにぎつしり詰つた路次は、昼間も日光がとと(ママ)かないので、いつも湿々してゐる溝ぎわの方から、晩方の家々の炊事の煙が靄とも霧とも分らない一種の茫とした調子で、そこらの板囲ひや勝手口の風通しのわるいあたりをうす暗くしたばかりでなく、障子硝子の窓ぐちに座つてゐる女等の顔をも暈して見せてゐた。ちやうど路次を通る人々はすこし背をかがめるやうにすると、内部から硝子窓にぴつたりと顔を押しつけるやうにして座つてゐる女等の眼が何よりも最初に眺められるやうになつてゐた。かういふ巣窟にありがちな家々の藍ばんだ何だか埃つぽい薄暗さは、仮面のやうに濃く白い顔をくつきりと浮き上らせ、ことに魚族のやうな深い澄んだ光をひそませた女等の眼が、じつと、わいわい騒いだり悪口をついたりしながら行く人々の上に注がれてゐた。それはまるで眼ばかりで働くやうに利巧で艶々しく、その上、それ自身が微笑をふくんで、くらい暗のなかにほんのりと漂ふてゐるやうな、しづかな誘惑の味深い光をもつてゐた。

 長い引用になってしまったが、当時の内務省検閲の実態の一例であろうから、省略を回避したことによるし、このイントロダクションはまさに「蒼白き巣窟」へのチチェローネになっているからでもある。それにまだ復元部分は五ページにわたって続いていくのだ。しかもこの冬樹社版は同じ赤字復元が他にも三カ所、二十二ページに及ぶし、当時の削除の意図も浮かび上がってくる。そのためにふたつの『室生犀星全集』版とはまったく異なる作品のような感触をもたらす。それは引用文からも察せられるだろう。

 この『蒼白き巣窟』は犀星の浅草十二階下の体験をベースにしているし、娼婦のおすゑにしてもモデルが存在すると思われる。彼女は『自叙伝的な風景』において、「お末は有りふれた淫売婦の中の一人だった。千九百十年代の文明を代表した、廃頽的な上に、さまざまな優しい最後の日本的な女を標準化した」存在として描かれている。そして彼女は『蒼白き巣窟』におけるように、自分の木綿の襦袢を縫ってくれたり、餅を食わせてくれたり、また何度も姿を隠したり、現われたりしていた。さらに犀星は姿を隠した彼女を訪ねてもいるのだ。これらは『蒼白き巣窟』とまったく重なるものである。ただ小説と異なるのは、それから二年後に本郷動坂の通りで邂逅した際に、彼女は丸髷を結っていたことだ。これは彼女が結婚したことを意味していて、何か救われたような気になる。それは犀星も同様で、それゆえに彼も最後にそのことを書きつけたと考えられる。

 かつて吉本隆明は『吉本隆明歳時記』(日本エディタースクール出版部、昭和五十三年)において、正宗白鳥の「微光」(『微光』所収、籾山書店、明治四十四年)の囲い者のお国にふれ、彼女が白鳥のかかわった女性をモデルと見なし、次のように続けている。「お国のような女の存在は、若い日の白鳥のような存在なしにもありえた。けれど若い日の白鳥が形成されるには、お国のような存在が不可欠であった」と。それをもじるならば、若い日の犀星が形成されるには、おすゑ=お末のような存在が不可欠であったともいえるであろう。

   


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古本夜話1509 室生犀星『性に目覚める頃』と北原白秋『邪宗門』

 室生犀星の『性に目覚める頃』所収の「抒情詩時代」と「性に目覚める頃」には明治末期の金沢の貸本屋や書店事情が描かれ、言及されているので、それらもトレースしてみよう。

 

 犀星は十五歳のころから俳句を作り、また小品を書き、博文館の『少年世界』を読む一方で、俗悪な雑誌や講談本の女たちの口絵などに魅せられ、それらを写すために貸本屋によく出入りしていた。その店の光景は次のようなものだ。

 そこには毒毒々しいまでに彩描された侠客伝や、盗賊物や、お家騒動ものなど、その表紙の美しさを競うてならんでゐた。私はそれらを眺めるとき、心がおのづから躍ることを感じた。美しい口許が鋭い銀箔をつかつた短刀を咥へた女や、またはかひがひしく、薙刀をつかつて敵と切り合つてゐる仇討物の、その襷をかけた為めに絞られた袖口から出た繊い美しい腕などを、私はあかず眺めるのであつた。または、裾短な足許、美しい細細した足の指など、私はいつもいたいたしく見るのであつた。

 ここで「私」が感応しているエロチシズムこそは当時の旅芝居やその女形が体現していたものであり、後に「私」は女形の役者に魅せられ、金をとられてしまうのである。しかしここに描かれた女性の原型は時代劇映画などに確実に継承されていったし、現在であれば、コミックやアニメにおける「戦う美少女」(斉藤環『戦闘美少女の精神分析』所収、ちくま文庫)というコンセプトも付け加えることができよう。

戦闘美少女の精神分析 (ちくま文庫 さ 29-1)

 このような時期を過ぎると、「私」は東京の雑誌に投稿するようになり、その賞牌として美しい銀メダルを受け取ったりしていた。その雑誌のひとつは『新声』だった。

 そのころ私は詩の雑誌である「新声」をとつてゐて、はじめて詩を投書すると、すぐに採られた。K・K氏の選であつた。私はよく発行の遅れるこの雑誌を毎日片町の本屋へ見に行つた。こ「新声」の詩壇に詩が載ることは、ことに私のやうな地方に居るものにとつては困難なことであつたし、実力以外では殆んど不可能なことであつた。そのかはりそこに掲載されれば、疑ひもなく一個の詩人としての存在が、わけても地方にあつては確実に獲得できるのであつた。(後略)

 ちなみにこの後に掲載された「いろ青き魚はなにを悲しみ/ひねもすそらを仰ぐや。」と始まる詩は「明治三十七年七月処女作」とある。この事実からすると、佐藤義亮が明治二十九年に創刊した『新声』は同三十六年に新声社が破綻したことで、正岡芸陽の第二期『新声』に移っている。選者の「K・K氏」とは児玉花外であり、犀星のこの詩が掲載されたのはこちらの『新声』においてだった。これらの経緯と事情に関しては『近代出版史探索Ⅶ』1206でふれたとおりだ。

 

 『新声』に前述の詩が掲載されたことで、「私」は同じ街にいて、やはり詩を書いている表という十七歳の同年の友を得た。彼は「麦の穂は衣へだてておん肌を刺すまで伸びぬいざや別れむ」といった美しく巧みな歌を詠んでいて、「私」を驚かせたし、「ラバア」の存在を感じさせた。実際に彼は絶えず女に手紙を書き、幾人もの女から手紙をもらっていた。「表は女性にたいしては無造作であるやうでいつも深い計算の底まで見ぬく力を持つてゐる」のだった。

 だがそれゆえにこそ、表の評判は悪く、不良少年としてその名前が知られ、警察に調べられたりしていたけれど、公園の掛茶屋の娘と深い交際をしていた。

 その表が肺を病み、寝つくようになり、わずかの間にやせ衰えてしまった。「私」が見舞いにいくと、すでに彼は死の想念に捉われ、淋しいから明日も来てくれと頼む。「私」は急に明日も来なければと思い、次のようにいう。

  「きつと来るよ。それに『邪宗門』が著いたから持つてくるよ。」
  「あ、『邪宗門』が来たのか。見たいなあ。今夜来てくれたまへ。」
 表は興奮して熱を含んで言つた。

 『邪宗門』が『近代出版史探索Ⅴ』836の易風社から刊行されたのは明治四十二年三月のことだから、この会話が交わされたのはおそらくその年の四月だったのではないだろうか。明治末期に書店は三千を数えるまでになり、出版社・取次・書店という近代出版流通システムは大正時代においてさらなる発展を遂げることを約束されていた。

 

 『邪宗門』も日本近代文学館によって複刻され、手元にある。石井柏亭の装幀、四六判函入、三五〇ページ、一二〇篇が収録され、定価一円。それらの異国情調的象徴詩と南蛮趣味は日本近代詩上に一画期をもたらし、白秋の詩人的位置を定めたとされる。関東の「邪宗門秘曲」は右ページに柏亭による三人の切支丹神父を描いた挿画「澆季」を描き、「われは思ふ、末世の邪宗、切支丹でうすの魔法。」と始まり、この『邪宗門』が北国の二人の少年に与えた影響は現在からは想像できないほどのものだったと考えられる。

 (複刻)

 「私」は『邪宗門』を持って、表を再訪し、それを出してみせる。

 「もう出たんだね。」
 表は手にとつて嬉しさうに見た。革刷のやうな羽二重をまぜ張つた燃ゆるやうなこの詩集は彼を慰めた。感覚と異国情調と新し官能との盛りあがつたこの書物の一ページ毎に起る高い鼓動は、友の頬を紅く上気せしめたのみならず、友に強い生きるちからを与へさへした。

 だがそれは二人の別れの書でもあり、「秋も半ばすぎにこの友は死んだ」と記されている。


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