才能は開花する。無能は言い訳する。
by ウォルト・ディズニー
久保利明 九段の名言
・相手が誰とか、羽生さんとか藤井くんとか意識しない、自分は考えない
・相手が四段だろうが名人だろうが、結局は自分の力を出しきれるかどうかが大事
・出し切って仮に負けてもそれは仕方ない
・100%の実力を80%しか出せなくて負けると悔いが残る
・自分は100%出し切ろうとする戦い方を目指しているので、相手がどうのこうは無い
・勝ちたい勝ちたいと思っていた時期もあったが結果は出ない
・相手ではなく自分
・勝負の世界は100%実力を出しても100%勝てるわけがないので割り切っている
・相手と戦っていない、どの対局でも自分と戦っている
・例えば研究会で飛車得くらいになるとこんな大差でそれ以上やっても意味がないとか思ってしまうと、もう勝負には勝てなくなる
・将棋は大差になろうが最後までやって価値があるし、それが頑張り
・他人と違うことをしたくて将棋の世界に入った
・将棋は結局は中盤終盤の勝負になるので、振り飛車で序盤ソフトの価値が低いなんて全く気にしていない
・他人と同じ事をやってもつまらない
・人と違うことをやっていく好奇心は子供の頃から変わらない
・将棋の勉強はプロにとっては当たり前なので、努力だとは思わない、楽しい趣味みたいなもの
・嫌なことや苦手なことをやることが努力、将棋の勉強を苦にしたことは一度もない
・師匠からは君には将棋の才のはないが努力する才能はあったと言われた
・将棋にはこうすれば強くなるというマニュアルはない
一回転して全肯定
ポストモダニズムは「直線的な物語としての歴史」や「普遍的で、超越的なメタな物語」を「西欧中心主義」としてまとめてゴミ箱に放り込んでしまった。歴史解釈における西欧の自民族中心主義を痛烈に批判したのは間違いなくポストモダニズムの偉業である。
しかし、「自分が見ているものの真正性を懐疑せよ」というきびしい知的緊張に人々は長くは耐えられない。人々は「自分が見ているものには主観的なバイアスがかかっている」という自己懐疑にとどまることに疲れて、「この世のすべての人が見ているものには主観的なバイアスがかかっている」というふうに話を拡大することで知的ストレスを解消することにしたのである。彼らはこういうふうに推論した。
「人間の行うすべての認識は階級や性差や人種や宗教のバイアスがかかっている。人間の知覚から独立して存在する客観的実在は存在しない。すべての知見は煎じ詰めれば自民族中心主義的偏見であり、その限りで等価である 」
こうして、ポストモダニズムが全否定した自民族中心主義がみごとに一回転して全肯定されることになった。これが「ポスト真実の時代」の実相である。気の滅入る話だが、ほんとうなのだから仕方がない。