今年も宜しくお願いいたします

とりあえず、生存報告させていただきます。去年はたぶん、今まででもっとも際どいエリアに近づいた一年でした。

  • 年末
  • 元旦
    • 謎の嘔吐と下痢で6日まで入院

と年末年始は入院で潰した伊藤です。皆さんの年末年始は如何お過ごしでしょうか。上記の事情により年賀状を一通も出すことが出来なかったので、これを読まれた方におかれましては、これを新年の挨拶代りにさせていただければ幸いです。現在は家でゆっくり静養中で、ぶっちゃけ暇をもてあましています。「虐殺〜」のあともそうだったのですが、「ハーモニー」を仕上げたあと何もする気がおこらないのです。チャージ期間、ということなのでしょうか。今年は何とか病を治して、社会復帰できればいいなあ、と思います。

今月は「ヘルボーイ/ゴールデン・アーミー」と「慰めの報酬」あたりですか。「ヘルボーイ」はよりファンタジックな方向に舵を切っているようなので、愉しみ。ヨハンも出るみたいだしね。

やっとまともに役が付いたよ,という話

たまたま飯を食いながらテレビを観ていたら「相棒」というドラマがやっていて、実はそんなに観たことはなかったのだけれど、いきなりバイオハザードだのP4(劇中では『レベル4』という言い方をしていましたが)施設だのNBC部隊だのが出てきて、こんなドラマだったっけ、金かかってんな〜、と思いながらみていたのだが、そのウィルス事件の黒幕が陸自だったので驚いた。おお、日本でもこんなお話ができるようになったのね、と。

ところがmixiの日記を検索してみると、やれテロ朝だの朝日の自衛隊批判に萎えただのといったコメントが幅をきかせているではありませんか。えええ?これってやっと自衛隊がフィクションの道具としてパブリックに認められた瞬間じゃないの?と思ったのだが、どうやらネット右な人たちの目にはそう映らないらしい。

ええ、確かに「ガメラ」は自衛隊を大フィーチャーしてましたよ。でもそれは興行成績が示すとおり、多分にオタクのものでありました。翻ってアメリカ映画を見てご覧なさい、アメリカ軍が大活躍する映画から軍がとんでもない陰謀を企んでいる映画まで色とりどりでございます。わたしは今回の「相棒」に「やっと自衛隊も気軽にフィクションの道具として扱われるような一人前として認められたんだな」という感慨を抱きました。なにせいままで自衛隊の活躍する映画といったら腫れ物を触るように慎重だったものですから、メジャーなテレビドラマで悪役として扱われるってことは、世間的には「自衛隊を気軽に語っていい」という風潮が出てきたことじゃないのかしら。フィクションの道具として認められるって事は重要ですよ。軍隊が悪役だったりするアメリカ映画を見て「左だ」と政治的なことを突っこむ野暮な人は(それほど)いないでしょ。なにせエリア51なる場所があるように、アメリカ軍と来たらエイリアンと秘密協定を結んでいるなんて物語をやっても誰も文句は(ツッコミはあるかもしらんが)いわんでしょ。それはアメリカ軍という軍隊それ自体がフィクショナルなものとして認められているってことなのね。

つまりですね、政治談義とは無縁のところでフィクションで「細菌兵器を開発していた」なんて描かれるまでに自衛隊(とか防衛省)もなったのだなあ、ということです。ここでテレ朝云々言う人はフィクションというものを視る目が無いのでは。今回自衛隊が悪役として扱われたってことはむしろ自衛隊の地位向上なのではないかと思うのですがねえ。

まあ、そのドラマ自体はどうでもよい話なんですが。

貧血な俺の仕事

最近、退院してから自分が貧血であることを自覚させられている。

5分も歩けば心臓ばくばく、息切れが激しく、血が少ないというか薄いぶん鼓動の数で補っているらしく脈拍は正常でも100は行くのだが、血圧となると上90下50という低血圧をさらけ出す。立ち上がるとくらっとするときもある。

というなか、「ハーモニー」の他にもう一本お仕事をしました。

http://www.tsogen.co.jp/np/detail.do?goods_id=3944

わたしはともかく、円城塔氏の一部の人間は名前だけは知っていたけれど未発表だった短編が収録。新人の他にも超豪華な執筆陣ですので、こちらもよろしければどうぞ。わたしのはSFマガジンに載った少年兵の物語「The Indifference Engine」が収録されております。19日発売予定らしいですよ。

ではなぜ

ガメラそれ自体のフィクショナルな存在にツッコむ人がおらず、ダークナイトバットマンに違和感を覚える人がいるのかというと、実は単に慣れの問題である、となってしまう。日本には「怪獣文化」があり、アメリカには「ヒーロー文化」がある。実は単にそれだけのことなのだろう。

リアル漫画映画としての「ダークナイト」

ダークナイト」がリアルであればあるほど、バットマンの金持ちっぷりや秘密兵器やジョーカーの手際の良すぎさに違和感を感じる、という人がいる。ぼくはその意見にもっともだ、と受け入れつつも、なぜ自分はそのような違和感を感じなかったのかをひたすら考えていたのだった。で、いま唐突に気がついたのだけれども、

ダークナイト」はつまり、ぼくにとっての「平成ガメラ」だったのだ。

オタクなら誰でも夢見ているのではないだろうか。大金を掛けて、自衛隊などのリアルな軍隊が出てくる怪獣映画や、現実に仮面ライダーが存在したら、とかそういう「リアルさを持った漫画映像」を。それらは実際にはちっともリアルではない、というか怪獣とかその能力とか(オタク文化に対して愛のない「空想科学読本」によればそもそも怪獣やウルトラマンは立っていられない)、多分にフィクショナルな部分は保留しつつ、その外堀はガンガン現実の事物で埋めていく。それはオタクだったら多くの人が理解してくれると思う「願望」だ。そして平成ガメラに対する評価とはまさにそれであった。「防衛軍」でなく、モノホンの自衛隊が短SAMや90式やペイトリオットで対応する。「もし本当に怪獣がいたら」という妄想の許に渋谷を火の海にしたとき、ヒーローであるガメラに「被災」してしまった少女というキャラクターが出てきたとき、全国のオタクは驚喜したはずだ(違う?俺はそうなんだけど)。

つまり、ぼくが「ダークナイト」をすんなり自然に受け入れるどころか驚喜したのは、そういう「オタクの願望」の傾向を体現した作品だったからなのね。「もし本当にバットマンというヒーローがいたら?」というテーマがあること。「バットマンやジョーカーの非現実感が際だってしまう」という批判はそもそもそうした作品の作り手が設定したテーマそのものの否定な訳ね。つまり「リアルなアレが観たい」という願望の否定な訳だ。それはあるリアルな世界に非現実的なものを放り込むオタク特有の願望を持ち合わせていない、極めて常識的な意見でもあるわけだ。

こう思ったのは監督のノーランが「バットマンと他のヒーローの競演はあり得ない」と語っていたことだ。すでに「ヒーローという概念」があったのなら、金持ちであるブルース・ウェインは他の方法をとっていただろう。ヒーローが存在しない世界だからこそ、ブルースはシンボルとしてのコウモリを思いつき、ヒーローという概念を自力で開発したのだと。これは「もしリアルな世界に○○がいたら?」という上の話を実証する話だ。ノーランは「ヒーローが本当にいるリアルな世界」を創造することに心血を注いだわけだ。繰り返しになるけれど、これは極めてオタクの願望的な方向性なわけで、「違和感」を感じた人間はこの映画の根本な所から受け入れられていないわけだ(繰り返すけれど、これはオタク的ではない、極めて常識的な意見でもある)。

「ハルク」や「アイアンマン」は単に漫画が実写になっただけだ。「実写になる」だけでもオタクはうれしがるけれど、それがさらに「リアルな世界で展開される」とまた別の快楽をオタクは覚える。前作の「ビギンズ」やこの「ダークナイト」は日本で言うと「平成ガメラ」に当る快楽を持ち合わせているわけだ。