インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

FOMO

台湾発のSNSで、基本的には大学生専用のプラットフォームとして人気のある「Dcard」(日本でも「Dtto」という名前でサービスが提供されています)。そのDcardのYoutubeチャンネル「Dcard Video」*1の動画で「FOMO」という言葉を知りました。


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FOMOは“fear of missing out(取り残されることへの恐れ)”の略で、ウィキペディアにはこんな解説が載っていました。

「自分が居ない間に他人が有益な体験をしているかもしれない」、と言う不安に襲われることを指す言葉である。 また、「自分が知らない間に何か楽しいことがあったのではないか」、「大きなニュースを見逃しているのではないか」と気になって落ち着かない状態も指すことから、 「見逃しの恐怖」とも言う。社会的関係がもたらすこの不安は、「他人がやっている事と絶え間なくつながっていたい欲求」と言う点で特徴づけられる。
FOMO - Wikipedia

もう20年以上も前からある言葉らしいので、いまさらながらに知って己の不明を恥じているところです。これはまさにSNSに耽溺していた頃の私をそのまま表しているような言葉だと思いました。ここ数年の間に私はSNSのような「常につながる」状態の仕組みから降り続けて今に至っていますが、それはそのままFOMOを乗り越えるための努力だったと言えるのかもしれません。

qianchong.hatenablog.com

FOMOの対義語で「JOMO(joy of missing out)」という言葉もあるそうです。ネットを検索してみると、ものすごくたくさんの方がFOMOあるいはJOMOについて論じています。私はこうした言葉をまったく知らずにいて、SNSから降りるのにかなりのエネルギーを使いましたが、ここまできちんと言語化された概念をもっとはやく知っていたら……と思ったのでした。

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*1:ちなみにこのチャンネルの動画で繰り広げられている、台湾のお若い方々の華語はとても聴きごたえがあります。

大肚腩

旅行における楽しみは人それぞれだと思いますが、私の場合は食べ歩きです。いえ「でした」と言うべきでしょうか。年を取って、若いときのように片っ端からおいしいもの、めずらしいものを食べてまわるということができなくなりました。ほんの少し食べただけでお腹いっぱいになってしまうのです。

これでも筋トレなどしていますから(旅行中もゲスト利用できるジムを探して行っています)、同年代の方に比べればまだ食べるほうかもしれません。それでもせっかく見知らぬ土地へきたのだから朝ご飯はこれ、昼ご飯にはこちらへ行って、夕飯はこんな感じで、あと甘いものもあれこれ……と考えていても、その半分も達成できないという体たらくです。

雲田はるこ氏と福田里香氏の『R先生のおやつ』というマンガ兼レシピ本があって、そのなかに初老のR先生の助手であるKくんという二十歳の学生が出てきます。この二人は最終章で食材を仕入れに台北まで出かけるのですが、そこでKくんは大食漢ぶりを発揮して同行のフォトグラファーがげんなりするほどに食い倒れるのです。あああ、同じ初老の私も、Kくんみたいな助手がほしいです。そしたらあれこれ少しずつご相伴に預かれるのに。あ、もちろん食事代は私が持ちますから。


R先生のおやつ

そんなよしなしごとを考えつつ、旅行中はすぐにいっぱいになるお腹をさすってため息をつくのです。少ししか食べられないくせに、中年ないしは初老にふさわしくポッコリとしたお腹を。ホント、お若い方々は、お若いうちにできるだけあちこちへ旅行したほうがいいです。どなたかにお金を借りてでも。年を取ってお金も時間も多少余裕ができてから思う存分……などと思っていても、体力(と、それにともなう「健啖」力)に余裕がなくなるのですから。

ことほどさように、中年になり、初老と呼ばれる年に差しかかって初めて分かるリアルというものがあるわけで。マレーシア系華人のシンガーソングライター阿牛(陳慶祥)に『大肚腩』という懐かしい曲があって、こう歌われています。

如果有一天我有了大肚腩 你對我是否意興闌珊
如果有一天你成了黃臉婆 我是否會嫌你又老又囉嗦


いつかぼくがポッコリお腹のオジサンになったら きみはぼくに見向きもしなくなるだろうか
いつかきみが化粧っ気のないオバサンになったら ぼくはきみを面倒なやつだと思うだろうか



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この歌はいつまでも一緒にいようねという気持ちを吐露する、きわめてお若いふたりの恋愛ソングですけど、どこか老成しているような雰囲気があります。いつかはぼくも太鼓腹になっちゃうんだろうなあという一種の諦念みたいなものが感じられるんです。その意味ではアイドルソングとして異色でした。いっぽうその「いつか」がやってきて、まさにその“大肚腩”になりつつある私としては、むかし聴いていた頃よりさらに好きになりました。

余談ですけど、阿牛には“對面的女孩看過來”という大ヒット曲があって、台湾の歌手・任賢齊リッチー・レン)にも提供されていました。彼らが出演した“夏日的麼麼茶”という映画があったのですが、ふたりが20年ぶりに映画のロケ地を再訪するという番組を、先日偶然Youtubeで見つけました。現在、阿牛氏は47歳、任賢齊氏にいたっては57歳だって。でもおふたりともあんまり変わっておらず、いまだ“大肚腩”でもないような(この番組自体は2020年の制作だそうです)。歲月“無”不饒人。びっくりしました。


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この映画のテーマソングである“浪花一朵朵”も、なかなか可愛くて楽しい曲です。


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三寶

中国語圏で“三寶(三宝)”という言葉が頭についているB級グルメのメニューがあります。三寶飯とか三寶牛肉麵とか、三種類の具材を盛り合わせてご飯や麺の上にのせました的なもので、三種類が一度に味わえるのでとても豪華で(しかしそこはB級グルメなので、お財布にやさしく)幸せな気分になれます。

街で見かける三寶飯は香港式の焼き物を盛り合わせたものが多いようで、たいていは鶏肉(油雞)、豚肉(叉燒)、鴨肉というかアヒル肉(燒鴨)の三種類がのっています。鶏肉が鹽水雞だったり、いずれかのかわりにソーセージ(臘腸)が入っていたりなどバリエーションもあるでしょうか。店頭のショーウインドウに吊るされた褐色に輝く肉たちが大きな包丁でばんばん切られてご飯にのっけられて……うおお、あと私はそこに煮卵(滷蛋)も加えたい。

三寶、つまり「三つの宝」というのはもともと仏教用語で、仏教徒が崇拝すべき三つの要素、仏(ブッダ)と法(ダルマ)と僧(サンガ)のことなんだそうです。敬虔な仏教徒ほど素食者、つまり肉を食べないベジタリアンであるというのに、あえてのこのネーミングもいい根性をしていますが、まあこれは「三大◯◯」と同義で、要するにいちばんおいしいところを三種類ということなのでしょう。

台北に戻ってきて、台北駅近くの民泊へいったん落ち着いたあと、近くの食堂へ牛肉麺を食べに行きました。ここにはお店イチオシの“三寶牛肉麵”があって、牛肉・牛筋・牛肚(ハチノス)がどっさり乘っています。好きなだけ取っていい高菜漬けも乗せて食べると至福の味です。ここの牛肉麺は、手打ちのうどんみたいなちょっと不規則な形の麺で、これがまたスープによくからんでおいしいんです。特に私はハチノスが大好きで、イタリア料理のトリッパもすばらしいですけど、台湾の滷味や三寶牛肉麵で食べるコレも、それにまさるとも劣らぬ口福です。


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三宝は仏教だけでなく、日本の神道にも登場します。神様への供え物をのせる台が「三宝(または三方)」と呼ばれるんです。お正月の鏡餅をのせる台としてもおなじみです。私は子供の頃、母親の影響でとある新興宗教の価値観の中で育ち、この宗教は神道系の儀式をベースにしていたので暮らしの中に三宝の存在が当たり前にありました。私自身は大学生の時に自力で洗脳を解いたので、それからは縁のない世界ですが、それでもいまだに「三宝」という文字を見聞きするたびにちょっと複雑な気持ちになります。

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あと台湾で“三寶”にはもうひとつ別の意味があります。交通ルールを守らない人々を指す言葉です。もともと「女性・お年寄りの女性と男性」の交通事故が多かったというところから来ているそうで、そののち例えば「酒駕、屁孩、老人」つまり酒に酔っている人、年端のいかない子供(というより行動が幼児的みたいな含意)、お年寄りのように、交通の妨げになる人々という意味合いで使われます。つまり交通事故に遭いやすい「交通弱者」というよりは、交通ルールを守らない、あるいは交通ルールをよく理解していない「邪魔者」みたいな語感ですよね、たぶん。

三寶という仏教用語を用いて、対象を持ち上げるように見せかけながらその実貶めているという一種の言葉遊びみたいなものなんですが、だいたい言葉のもともとの発祥からしミソジニーの気が濃厚ですし、現代の感覚からすればもはや差別用語ですので、我たち外国人は使わないほうが無難だと思います。

羊肉

台南から南へ30kmほど下ったところに岡山という街があって、ここは羊肉の料理で有名なところです。羊肉といってもラムやマトンではなく山羊(ヤギ)の肉です。これを使った“羊肉爐”という鍋料理が定番で、岡山に住んでいた頃はよく食べていました。

当時よく行っていた“源坐羊肉”というお店があって、せっかく台南まで来たのだからとバイクで出かけて行ってみたら、年に一度の春休み期間中でした。残念ですが、しかたがありません。あきらめて帰ってきたのですが、何日か経つとやっぱりあきらめきれなくなり、またまたバイクを飛ばして岡山まで行ってきました。

たぶん混むだろうなと思っていたので、朝ご飯を抜いて早めの時間に行ってみたらすぐに座ることができました。“羊肉爐”は朝からはとても食べ切れないので、檸檬香茅羊肋排(レモングラス味のスペアリブ)に羊肉湯(ヤギ肉スープ)と白飯だけをお願いしました。

スペアリブは甘辛いタレで焼いてあって、白飯によく合います。肉の処理が上手なのか、スープともども臭みはまったくありません。辣醬などのカウンターに芭樂(グアバ)の浅漬けみたいなのが取り放題で置いてあって、その爽やかな味が箸休めにぴったりでした。朝からスペアリブを貪るように食べ尽くしてしまいました。お会計するときに、レジのおばさんに「あごにタレがついてますよ」とティッシュを手渡されました。

このお店のことを「はてなブログ(当時ははてなダイアリー)」に記したような覚えがあって検索してみたら、はたして2005年に書いていました。

今日行ったお店はすでに何度も通っている“源坐羊肉”というお店で、隠れた名店。隣にある“徳昌羊肉”がひときわ目立つ大きな店構えで有名なのだが、味のほうは実は三流。隣の目立たない“源坐”のほうが比べものにならないくらいおいしい。
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なんだかやけにエラそうなことを書いていますが、このお店はそのおいしさゆえによほど繁盛したとみえて、1年ほど前に元の場所から少し離れた場所へ移って、「目立たない」どころか、かなり大規模なお店になっていました。やっぱりみなさん、おいしいお店はよく知っていて、足繁く通ってらっしゃるんですね。

鱔魚意麵

虱目魚”と並ぶ台南の味として思い浮かぶのは“鱔魚(タウナギ)”です。とりわけこの食材を使った“鱔魚意麵”はとても庶民的なB級グルメとして知られています。台湾南部で働いていたころ、同僚に連れられてこの鱔魚意麵を食べに行ったことがありました。とてもおいしくて強く印象に残っているのですが、職場で出会う台湾人留学生にそう言うと、ときどき「微妙」な表情をされることがあります。

ウィキペディアの「タウナギ」の項には「血液が多いために肉は独特の黒い色で、日本ではほとんど食べる習慣がない」と書かれています。たしかに台湾の店先で調理のために処理されているそれは赤黒くて、人によって好みが分かれるかもしれません。

私はというと、ドジョウなんかも大好きなので淡水魚系のこの鱔魚も好物です。特に土くさいわけでもなく、小骨が多いわけでもなく、とても食べやすいと思うのですが、留学生の反応を見るに、ひょっとすると台湾人でもちょっと苦手という人はいるのかもしれないですね。

で、その鱔魚意麵です。かつて台南で食べたお店がどこだったのかはまったく覚えていませんが、意麵ーー説明が難しいですが、かた焼きそば(皿うどん)に使われる揚げた太麺を熱湯でふやかしたようなものとでも言えばいいでしょうかーーの上にとろみのついた鱔魚の「あん」がかかっていたものでした。ふつう鱔魚意麵といえばこのあんかけ(勾芡)スタイルが基本のようで、そのほかに炒めただけ(乾炒)のスタイルがあります。


▲真ん中が“勾芡”で、両端が“乾炒”です。

久しぶりに食べた鱔魚意麵はおいしく、そして懐かしかったです。ただ正直なところ、これを日本の家族や友人にもあまねくお勧めするかといえば、それこそくだんの留学生のように「微妙」なところがあるかもしれません。個人的には、ほんの少し甘酸っぱい味つけに鱔魚の滋味深い味わいが合わさって、しみじみおいしいなあと思うのですが。

虱目魚”のときにも申し上げましたが、こうした味を食べつけていなくて、かつ食に保守的な方というか、もうちょっと口幅ったい言い方をさせてもらえるなら「異文化を異文化のまま、とりあえずは受け取ってみる」というスタンスなりマインドなりの少ない方にとっては、ちょっと敷居が高い味ということになる可能性があるからです。勇んでお勧めしたものの微妙な反応が返ってきて、向こうもこちらも気まずい思いをすることもありますし。

実は鱔魚や虱目魚を使った料理のみならず、B級グルメの数々、たとえば麵線でも碗粿でも肉圓でも蚵仔煎でも臭豆腐でも同じことを考えます。私はこうした食べ物のお店を探すときに、たとえばGoogleマップなどの「クチコミ」も参考にするのですが、そこでたまに日本人とおぼしき旅行者やローカルガイドと称する方々がかなり辛辣なコメントを書き、低評価をつけているのを見かけることがあります。

それはそれで正直なところでしょうし、日本人の視点による情報もまた日本人旅行客にとっては必要なのかもしれません。でも私は「日本人の舌と好みに合うかどうか」で他所様(よそさま)の土地の食べ物を評することには、いささかの抵抗を覚えるのです。鱔魚のように「日本ではほとんど食べる習慣がない」ような食材についてはなおさら。食べ慣れなくて当然じゃないですか、そしてもう少し食べ慣れてみたら違う感覚を抱くかもしれないじゃないですか。

そんなことを言い出したら、そもそもネットのクチコミ自体が成立しなくなりそうですし、確かにお店によっては「はずれ」もあるんですけど……。ときおり「今度台湾へ旅行に行くんだけど、お勧めのお店を教えて」と知人や友人に聞かれることがあります。そんなとき、もちろん喜んでお勧めしたいけれども、はたしてこの人は上述のような「スタンス」や「マインド」を持ってらっしゃるかしら、とちょっとだけ考えてしまうのです。

洪通

その絵から、かのヴォイニッチ手稿を連想しました。臺南市美術館2館で展示されていた洪通(Hung Tung)氏の作品を見たときです。たまたま立ち寄ったこの美術館では、ちょうど台南にゆかりのある画家の展覧会が行われていて、紹介されている4人のうちのおひとりが洪通氏でした。


www.tnam.museum

50歳を過ぎてから創作をはじめ、その独特の書画のスタイルから“靈異畫家”とか“東方的畢加索(ピカソ)”などと称されたという洪通氏。亡くなってからすでに30年以上も経っていて、いまではほとんど忘れられた存在になっているようですが、生前の一時期は台湾画壇に一大ブームを巻き起こした人物なのだそうです。私はこの展覧会で初めて知りました。

ネットで洪通氏のことを検索してみると「プリミティブ(原始的)」とか「スピリチュアル(屬靈的)」といったキーワードでその作品が語られることが多いようです。たしかに、人間と動物と植物、それに漢字やアルファベットといった文字が渾然一体となったその作品は、いわくいいがたい感情を見るものに与えそうです。

いっぽうでヴォイニッチ手稿は、おそらく1400年代から1500年代に作られ、1912年に「再発見」されたた古文書です。いまだに未解読の文字で記述されており、多数の彩色画が付されています。そのモチーフは植物や人物、占星術のような図案からなっており、文字と同様に絵も何を指し示しているのかがほとんど明らかになっておらず、壮大な偽書であるという説もあるほどです。私はこのヴォイニッチ手稿に以前からとても惹かれていたのですが、洪通氏の絵にもおなじような魅力を感じたのでした。


beinecke.library.yale.edu

洪通氏は台南にゆかりのある画家とのことで、これもネットで検索してみると、台南市の郊外に生家が保存されており、近くには小さな展示館もあるとのこと。郊外といっても台北市の中心部から40kmくらいは離れた北門区で、バイクだと小一時間はかかる距離です。でもせっかくですから次の日に出かけてみることにしました。

……が、到着してみるとそれらしき建物はありません。村のいくつかの建物には洪通氏のものらしい絵が描かれていて、“素人畫家洪通出生地”と書かれた錆びた鉄の看板があるだけです。あとは公民館(というか台湾の村によくあるお廟の入った建物)みたいなところに絵が飾られていましたが、どれも複製写真のようでした。

お廟の入口に洪通氏の画集みたいなのが置いてあって、“凡奉獻油香壹仟圓者,贈送「洪通・靈魅狂想」傳記一本”、つまりお賽銭を1000元奉納した方にもれなくこの画集を差し上げますと書かれています。えええ、欲しい、もとい、ぜひとも奉納させていただきたいんですけど、と思いましたが、野良犬以外にはどなたもいらっしゃいません。だいたいこの展示室だって電気が消えていて、私が勝手につけちゃったんです(ごめんなさい)。

仕方がないので、台南市内へまた小一時間かけて戻りました。でもなんとなくあきらめきれないような気持ちでもう一度臺南市美術館へ行って、あの洪通氏の展示を見ていたら、昨日はあまり目に止めていなかったパネル展示がありました。説明をよく読んでみると、洪通氏の作品は地元のお廟「南鯤鯓代天府」の造形に深く影響を受けているのだとか。

南鯤鯓代天府廟體為國定古蹟,觀其壁畫、壁堵、飛檐、剪粘等工藝於建築之美,可以發現廟宇藝術為洪通創作的底蘊。


南鯤鯓代天府廟は国の史跡に指定されており、その建築に施された壁画、壁堵(壁や欄間などのレリーフ)、飛檐(反り上がった軒)、剪粘(屋根や庇に載せられた彫刻)など職人技の美が洪通作品のベースにあることがわかります。

なるほど、そうだったのか〜と見入っていたら、美術館の監視員さんとおぼしきおじさんが声をかけてきました。ご自身がこのお廟がある場所の出身だそうで「機会があったら一度行ってみるといいよ」って。どこにあるのか聞いてみたら「北門区」だそうです。北門区って、さっき行ってきた場所じゃないですか。Googleマップで調べてみたら、あの洪通氏の生家があった場所のすぐそばです。あああ、なぜ昨日ちゃんとこの展示を読んでおかなかったのか。

またあの場所まで往復2時間かけてバイクで向かうのはちょっとしんどいと思いましたが、これもなにかのご縁のような気がして、次の日にもう一度行ってみました。はたして、予想以上にとても規模が大きくて立派な、そしてとても歴史のあるお廟でした。細かく見て回ると、確かに壁画やレリーフ、屋根や柱の彫刻など、洪通氏の作品を彷彿とさせるものがあります。レリーフに添えられた文字やお札のデザインなどもまた洪通氏の世界に通じますよね。


あまりに素晴らしい建物なので、ふだんは信仰心などまったく持ち合わせていない私もなんだか敬虔な気持ちになって、お線香とお供えの紙銭など買い求め、神様ごとにひととおり(ご承知の通り、台湾のお廟にはそれはたくさんの様々な神様や仏様が祀られています)“拜拜”をして回りました。境内にたくさんいる犬(神犬とかじゃなくて、たぶん野良犬さん)をなでてあげたら、そのあとずっと私のあとをついてきました。

代天府からの帰り道、もういちど洪通氏の生家近くにあるあの公民館兼お廟みたいな展示施設に行って、あわよくばあの画集を手に入れたいものだと思いました。執着にまみれていますね。でもきょうも誰もおらず、たまたまお廟の前にいらしたおじいさんに聞いてみるも台湾語で“今日は誰もいないよ”的なことを言われ(たぶん)、しかたなく帰ろうとしたら、比較的お若いおばさん(失礼)が通りかかったので、厚かましくも「実はお賽銭をあげてあの画集をいただきたいのですが」と言ってみました。

このおばさんも台湾語しかお話しにならないので困ったなあと思っていたら、3階に祭壇があるからそこへ行きなさいとおっしゃる(たぶん)。それで上がってお参りしていたら、おばさんが画集を持って上がってきてくれました。で、賽銭箱に1000元お供えして、画集をいただくことができました。ありがとうございます。それにしてもなんという僥倖(あとから調べたら、この画集はすでに絶版になっていました)。これもさきほど代天府でお線香をあげた功徳なのかしら。

虱目魚

台湾南部の味と言えば何でしょう。いろいろとおいしいものはありますけど、多くの人が挙げるのは“虱目魚(サバヒー)”でしょうか。台南だけでなく台湾ではどこでも食べられますが、安平魚の別名もある通り(安平は台南の港町です)、特に台南らしい食材として知られています。

台湾の農業部(日本の農水省にあたります)のウェブサイトによれば、かの鄭成功国性爺合戦の国性爺ですね)が台南の安平に上陸した際、地元の漁民がこの魚を献上したところ、鄭成功が“甚麼魚(なんという魚か)”と聞いたことから、それがのちに訛って“虱目魚”になったという説が紹介されていました。

www.moa.gov.tw

もちろんこれはいわゆる「諸説あります」のひとつみたいで、“甚麼魚(shén me yú)”が“虱目魚(shī mù yú)”に転じたというのはちょっとこじつけのような気もします(サバヒー/sat-ba̍k-hî は台湾語です)。だいたい当時も今も普通話の発音で問答しないでしょうし……と思っていたら、ウィキペディアには鄭成功が「泉州訛りの台湾語で“啥物魚(シャミヒ/sia-mi hi)と質問した」と書かれていました。なるほど〜。

ja.wikipedia.org

約20年ほど前に台湾で仕事をしていたころは、日本から短期的に派遣されてくる社員さんたちとよく食事に行きましたが、この“虱目魚”はあまり「受け」がよくなかったように記憶しています。イワシやサバに似た青魚的な味ですけど、それらよりいくぶん淡白で味に特徴がないと思われたのかもしれません。でも最大の理由はたぶんその字面かなと当時は思っていました。だって“虱(しらみ)”の目の魚、なんだもの。

当時の日本の社員さんたち、特にお若い男性のみなさんは、どちらかというと食には保守的な方が多かったようで、食べ慣れない台湾の料理にけっこう苦労されていたみたいでした。八角や香菜の香りが苦手とか、脂っこくて食べられないとか(個人的には東京の料理のほうがよほど脂っこいと感じますが)対応するのが大変でしたが、この虱目魚もそれほどお好みではなかったようです。エビ・カニイカ・タコとか、あと魚でも高級魚の“石斑魚(イシモチ)”なんかは受けがよかったのですが。

ともあれ、私はこの虱目魚が好みなので、今回もいろいろと食べました。まずはAirbnbで借りているお宅から歩いてすぐのところに早朝から開いている虱目魚専門のお店がありました。豚肉ではなく虱目魚の“肉燥飯”と、虱目魚の“魚肚(腹の部分)”が丸ごと入ったスープです。スープはこのお店の看板料理である虱目魚のお粥の上澄みみたいで、私のスープにも若干お粥のお米が入っていました。どちらもしみじみとおいしいです。


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別の日には安平近くをバイクで通りかかったら、たくさんのお客さんで賑わっている虱目魚の専門店を見つけました。こういう地元の人に支持されているお店はたぶん「あたり」のはずです。こちらでは“肉燥飯(これは普通の)”と“荷包蛋(目玉焼き)”、“煎魚肚(腹の部分が揚げ焼きみたいになってる)”、“魚皮湯”を食べました。魚の皮のスープといっても、しっかり身がついた皮という感じで食べごたえがあります。焼いた虱目魚ははじめて食べましたが、これもとても淡白でおいしかったです。


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日本ではこの虱目魚はほとんど流通しておらず、漁業用の餌として扱われるだけのようです。多分とても足の早い魚なので、地産地消以外はうまく流通させられないということのほかに、上述したネーミングの問題もあるのかもしれません。英語名はその身が白いことから「ミルクフィッシュ」というらしいので、これで売り出せば……いやいや「牛乳みたいな味の魚なんて」とこれまた敬遠されるかもしれません。

再發號

台南駅のホームに降り立ったら「昔のままだ」と思いました。ちょうど20年ほど前に岡山(日本のじゃなくて台湾の。高雄と台南のちょうど中間くらいにある街です)に住んでいて、週末は各駅停車の電車でよく台南に遊びに来ていたのですが、その時の雰囲気がそのまま残っていたからです。駅前の様子はよく覚えていませんが、それでもあんまり変わっていないような気がします。

仕事場でよく顔を合わせる台湾人留学生に「久しぶりに台南へ行きます」と言ったら、センセ、再發號に行ったほうがいいですよ、と言われました。再發號って……ああ、あのお店。とても有名な老舗のちまき屋さんで、実は20年前にも行ったことがありました。当時はスマートフォンなどもなかったのに、どうやってこのお店を見つけて行ったのかは覚えていません。たぶん台湾人の同僚から教えてもらったんじゃないかと思います。

台南駅から比較的近い場所にあって、当時はぶらぶら歩いて向かったことを思い出します。このお店の先には“擔仔麵”で有名な度小月もあって、いろいろと食べ歩きをしたのでした。当時は会社が「日本人が現地で事故を起こすといろいろとめんどうだから」という理由で駐在している私たちが車やバイクを運転するのを禁止していました。今回はもちろんバイクを借りて、夜市をひやかした帰りに寄ってテイクアウトして、宿で食べました。

ここの“特製八寶肉粽”は握りこぶしくらいある大きなちまきで、その名の通り八種類の贅沢な具材が入っています。干し鮑、干し貝柱、干し椎茸、干し海老、鶏肉、豚肉、蛋黃(アヒルの卵の卵黄)、栗。小袋に入った少し甘めのタレもつけてくれました。これだけ盛りだくさんなんですけど、台湾南部の料理らしくとても薄味で、意外にあっさりしています。

▲写真を撮ったけど、私の腕前ではぜんぜんおいしそうに見えないので、再發號さんのウェブサイトから拝借して貼っておきます。

中熱拿

久しぶりに台北へやってきて、たまたま利用したコーヒースタンドで、常連さんとおぼしき男性がお店に入ってくるなりひとこと“中熱拿”と言っていました。Mサイズのホットのカフェラテ。直前に私も偶然同じものを注文して飲んでいたのですが、私は“熱拿鐵中杯(ホットのカフェラテをMサイズで)”と注文していました。

ネットでダブルクォーテーションマーク(“”)を使ってフレーズ検索してみると、“中熱拿”のようにまずカップのサイズ、それからホットかアイスの別、最後に飲み物の種類の順番で言葉が紡がれることが圧倒的に多いみたいです。つまり“熱中拿”とか“熱拿中”とか“拿熱中”とか“拿中熱”とはまず言わないんですね。

カップのサイズを“中”と略さず“中杯”と言うなら“中杯熱拿”でも“熱拿中杯”でも、さらにラテを“拿”と略さず“拿鐵”と言うなら“中杯熱拿鐵”でも“拿鐵熱中杯”でも“熱中杯拿鐵”でも“熱拿鐵中杯”でも(私はこれでした)でもいいみたいですけど、“中(中杯)”と“熱(熱的)”と“拿(拿鐵)”でシンプルな言い方に徹するとまず“中熱拿”が母語話者的に自然な順番なのかしら。おもしろいです。

そういえば私は“熱拿鐵中杯”と注文してから店員さんにもう一度“中杯還是大杯?(Mサイズ、それともLサイズ?)”と聞き返されました。もちろん私の発音が悪かったからでしょうけど、ひょっとすると母語話者的には(というかコーヒーショップの店員さん的には)まずカップのサイズが最初に来るのが認識しやすい……てなことがあるのかもしれません。

私は日本語で注文する時にも「ホットのカフェラテをMサイズで」と言っています。だから中国語もその順番で言っているだけなのですが、ネイティブの感覚とは違うのかもしれないと思った次第です。次は“中熱拿”と言ってみよう。外国人がネイティブのマネをするのはちょっと「イタい」ところがあるので、そう言ったあと「は?」などと聞き返されたりしたらすごく恥ずかしいですけど。

語学教師とエンパシー

オンライン英会話でレッスンの予約をする際に、チューターのプロフィールをよく読みます。生徒からの評価が高いとか、教えている内容が自分のレベルに合っているとかも大切ですが、私がとくにひかれるのは、チューターご自身がご自分の母語である英語以外に何らかの言語を学ばれたことがあるという点です。

つまり、自分もいろいろと苦労や工夫をして第二言語や第三言語を学んでいる、あるいは学んできたので、英語がまだまだつたない生徒さんの気持ちがよくわかりますよと。例えばプロフィール欄にこんなことが書かれていたり、イントロダクションビデオでこんなことを話されたりしています。

  • I know how challenging it can be to learn a new language because I have done it!
  • I can relate to the difficulties of learning new languages, which has allowed me to approach my teaching style in a way of relatability.
  • I speak French but I am still learning so I know all about the difficulties of learning a second language.
  • I learned Spanish as a second language, studied Mandarin, and I'm currently learning French. I know what it's like to learn a language, so I know the best ways to help you improve.
  • In addition to teaching English, I am currently learning Spanish and would like to learn more languages, too.

要するにこれは、他人の感覚や気持ちにできるだけ寄り添おうと想像力を働かせる「エンパシー」ですよね。私もいまは語学教師のはしくれで、外国人留学生に日本語や通訳・翻訳などを教えています。自分がこれまで中国語や英語などの言語を学んできて、しかもそれがとても困難かつ楽しい営みであることが身にしみているので、日本語を学ぶ留学生の気持ちもよく分かるような気がします。

母語という自分の居心地のよい場所から抜け出して外語を学ぶ、それもある程度仕事に使えるレベルにまで持っていく(うちの学校の留学生はそのほとんどが就職を目指しています)ことがどれほど大変なことなのか。それと同時に外語を学ぶことがまたいかに楽しく、奥深く、あるいは一面怖い側面ももっているのか、そうした体験は語学を教えるときにも生きてくるのではないかと思うのです。

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英語という言語が世界の中で圧倒的なプレゼンスを持つようになり、「リンガフランカ」としての地位をほぼ確立してしまった現在、英語母語話者の英語教師には英語しか話さない、第二言語や外語を学んだことはないという方も多いです。もちろんそれでも優れた教師はいますし、また英語しか話さないけれどもTEFL(Teaching English as a Foreign Language)やTESOL(Teaching English to Speakers of Other Languages)といった、英語を母語としない生徒に英語を教える教授法の資格を持つ方もいます。私はこれもオンライン英会話でチューターを選ぶときのポイントのひとつにしています。

もうずいぶん前のことになりますが、とある語学学校で肩を並べていた同僚にこの話題を持ちかけたことがありました。その同僚は英語と日本語のバイリンガルで、幼少時から自然に二つの言語を母語として育ってきた方でした。英語も日本語もとても流暢で(母語ですからね)聡明な方でしたが、学生への対応のしかたを観察していて、私はそこにかすかな違和感を覚えていました。個人的な印象ですから確たることは言えないのですが、第二言語あるいは外語を学ぶ生徒の気持ちにいまひとつ寄り添えていないような、あえて強い言葉で書けばある種の「傲慢さ」と、その傲慢さの後ろにある「自信のなさ」(人は自分に自信がないとき、往々にして他人に強く出たりするものです)が見て取れたのです。

それで私は「なにかひとつ別の言語を学んでみたらどうですか」と老婆心ながらおすすめしてみました。まだお若い方だったので、これからも学ぶ時間はたっぷりあるし、きっとそれは語学教師としてのキャリアにも意義あるものをもたらしてくれるのではないかと思って。でもその方からは「語学は苦手なんで」とにべもなく断られました。あああ、余計なお世話だったなあ……と気まずい思いをするとともに、どこかとても残念なものを感じたのでした。

さよならSNS

先日、ながらく放置状態だったソーシャル・ネットワーキング・サービスSNS)から退会しました。フェイスブックFacebook)とピンタレストPinterest)のアカウントです。

SNSに分類されるものとしてはあとユーチューブ(Youtube)とライン(LINE)を引き続き使っていますが、前者は語学関係の動画を見るだけ、後者は家族との連絡+いくつかの商業サービス(ジムの会員証とか)に使っているだけ。シェアやらコメントやら「いいね」やらリポスト(リツイート)やらといった「いかにもSNS」的な使い方をするものは、これで皆無となりました。

思い返せば、これまでにもSNSの種類に位置づけられるものはあらかた手をつけては退会してきました。ツイッターTwitter/現X)も、インスタグラム(Instagram)も、タンブラー(Tumblr)も、ノート(note)も……SNSという言葉がまだ人口に膾炙していなかった頃にはミクシィmixi)、さらにその前にはパソコン通信ニフティサーブNIFTY-Serve)というのもありましたね。

中国語圏のSNS、QQ(騰訊QQ)とかウェイボー(微博)とかウィーチャット微信)などもそれぞれ一度は試してみましたが、現在はすべてアカウントを抹消しています。ティックトック(TikTok)は最初から「これはついていけなさそう……」と思ったのでやっていません。

私がこうしたSNSの諸サービスを日常的に使うようになったのは、確か2010年ごろではなかったかと記憶しています。いや、パソコン通信まで含めれば、さらに10数年溯るかもしれません。つまりはほぼ四半世紀ほどの時をへて、ようやくこうした「つねにつながる」という文化から降りることができたわけです。

こうしてSNSから降り続けてきた理由のうち、一番大きかったのは自分の時間がどんどん吸い取られていくことへの危機感でした。畢竟、ほとんどのSNSが無料で使うことができるその背景には、アテンション・エコノミー(注意経済)と呼ばれる、人を消費行動に駆り立てる仕組みがそのベースとしてあるんですよね。自分のブログを振り返ってみたら、もうずいぶん前からこの点に関する違和感を書き込んでいました。

qianchong.hatenablog.com

ここまで気づいていたんならすぐにSNSから降りることもできたはずなのに、これほど時間がかかってしまったというのは、ひとつは自分の意志の弱さのせいでしょうけど、もうひとつはそれだけSNSの注意経済が巧妙に作り込まれているからなんでしょうね。じっさい私はつい最近まで、ピンタレストのショート動画を見始めてふと気づいたら何十分も過ごしているということが時々ありました。あとから考えれば不要なものを買ってしまったことも一度や二度ではありません。

SNSのみならず、私はここ数年でそれまで参加していたネット上のいくつかのコミュニティからも退会しました。さらにリアルなおつきあいのあったいくつかのサークルや教室へも休会を申し出ています。この「はてなブログ」も、かつては毎日書いていて連続2000日以上になっていたのですが、去年の夏にそれをやめ、気が向いたときだけ書くことにしました。

かつては仕事以外にも世の中とのつながりがないと、ゆくゆく寂しい人生になるような気がしていたのですが、それは幻想だったのかもしれないといまにして思います。無理をして自分と世の中とのインターフェイス(境界面)を広げなくてもいい、広げすぎるとどんどん自分の暮らしが忙しくなっていくと思うようになったのです。

インターネットがインフラとも言えるくらいに普及したいまとこれからにおいては、より主体的で抑制的な利用とそのための工夫が大切になってくるのではないか。少なくとも私は、自分が想像しているよりもはるかに抑制的に利用するのが身の丈にあっているのではないかと考えるようになり、SNSから降りてきました。そしてこれからはまた、インターネットの抑制的な利用で取り戻した時間を使ってもっと本を(とくに古典を!)読むのです。


▲左下の伸ばされている腕と手がちょっと気持ち悪いです。

ChatGPTが勝手にやり取りしちゃってた

けさChatGPTの画面を開いたとき、左側にあるチャット履歴一覧の“Previous 7 Days”のところに“Cheer up with kittens!”という項目があるのに気づきました。こんなやり取りです。

You
I want to cheer up my friend who's having a rough day. Can you suggest a couple short and sweet text messages to go with a kitten gif?


ChatGPT
Sure! Here are a couple of short and sweet text messages you can send along with a kitten GIF to cheer up your friend:
"Just a little furball to brighten your day 🐱 Remember, it's okay to take things one purr at a time!"
"Sending you a bundle of cuddles and purrs to help you feel better! Remember, every day is a new beginning. 😺"
You can choose one of these messages and pair it with a cute kitten GIF that you think your friend would love.

「友達を励ましたいので子猫の絵文字に合うかわいいメッセージを教えて」という他愛もない内容ですが、問題は私がこの質問をした覚えは一切ないという点です。……怖いんですけど。それでこのやり取りに続いてChatGPTに聞いてみました。

You
I don't remember asking you this question in the previous 7 days, why was this chat generated?


ChatGPT
It looks like there might have been a misunderstanding. If you didn't ask the previous question, I apologize for the confusion. How can I assist you today?

誤解と混乱を招いて申し訳ないと言っていますが、なんだかはぐらかされているような。それで引き続き具体的に問いただしてみました。

You
That's not what I'm asking. It means I haven't asked you this question: “Can you suggest a couple short and sweet text messages to go with a kitten gif?”, but this morning I found that this chat appeared on my ChatGPT page. Why was this chat generated?


ChatGPT
I understand your concern now. If a chat appeared on your ChatGPT page that you did not initiate, there could be several reasons:

  1. Accidental Input: You might have accidentally entered the question or interacted with the ChatGPT interface without realizing it. This can happen, for example, if you leave the page open and your device is touched or interacted with unintentionally.
  2. Account Misuse: Someone else might have access to your account and could have asked the question. It's a good idea to secure your account with a strong password and to log out when not using shared or public devices.
  3. Technical Glitch: There could be a technical issue or glitch within the ChatGPT system that caused an unintended chat session to appear. While rare, software bugs can lead to unexpected behaviors.
  4. Session Carryover: If you were logged into another device or browser and started a chat there, it might sync up when you open ChatGPT on a different device or browser if you're using the same account.

If none of these reasons seem to apply and you're concerned about unauthorized access or a potential security issue, it would be wise to change your password and review your account security settings. Also, you might want to reach out to the platform's support team for further assistance and to report the incident.

今度は具体的に答えてくれました。なんらかのバグあるいはアクシデント、最悪の場合アカウントの乗っ取りだった可能性もあるということですね。おすすめに従って、パスワードを変更し、使わないときはログアウトしておくことにしました。使いたいときにさっと使いたいので、ログインしっぱなしにしていたんですけど……ちょっと不便になりますが、しかたがありません。


▲この文章を念頭にプロンプトを書いてChatGPTに出力してもらったイラストです。……怖いんですけど。

音声の錯覚と誤解

突然で恐縮ですが、この発言の音声、何と言っているように聞こえますか。内容は罵詈雑言の類なので、聞くときには注意してください。

この発言はとある在日クルド人によるものだそうですが、これを受けて自民党の若林洋平参院議員がSNSで「日本人の国なので、日本の文化・しきたりを理解できない外国の方は母国にお帰りください」などと書き込んだという報道に接しました。産経新聞のウェブサイトでは「この動画には、JR蕨駅前の路上に集団が集まり、『日本人死ね』と発言したような声が収録されている」と報じられています。

www.sankei.com

その声が冒頭の音声(私がその部分の音声だけを抜き出しました)なのですが、「日本人死ね」と聞こえました? 実は私、最初はそう聞こえました。上掲の産経新聞の報道を見て、すぐにネットで検索してそれらしき動画を見つけて聞いたときです。でもそののち、この発言が外国人に対するヘイトデモに対するクルド人によるデモにおけるものだったことなど、背景を知ってから改めて何度も聞き返していると「病院に行け」としか聞こえなくなりました。

ちょっと怖いなと思いました。産経新聞の報道ではまず「JR蕨駅前の路上に集団が集まり」としか書かれておらず、これがヘイトデモに対するカウンターデモであることは説明されていません。そのうえで「『日本人死ね』と発言したような声」と発言内容を特定した書き方がされています。そして、それを読んだうえで私が聞いてみた音声が、最初はその通りに聞こえてしまったからです。

つまり、これはいわゆる「確証バイアス」というものではないかと思ったのです。確証バイアスとは「自分の思い込みや願望を強化する情報ばかりに目が行き、そうではない情報は軽視してしまう傾向のこと*1」です。そういう確証バイアスを容易に惹起してしまいそうな産経新聞の書き方は問題ではないかと思うと同時に、そのバイアスがかかったまま在日クルド人への予断と偏見をさらに膨張させる人が続出するのではないかと。実際、この記事へのコメントからも分かるように、そういう人がたくさん出現しているようです。

発言の背景を詳しく知ったうえで聞いたら「病院に行け」と聞こえたーーこれだって私自身の確証バイアスの可能性はありますが、この点に関してはブログ「電脳塵芥」の電脳藻屑 (id:nou_yunyun)さんが説得力のある解説をされています。

動画を見ればわかる様に「病院に行け」と発言者は三回言っており、三回目の頭には「精神」が付き、さらにお尻には「レイシスト」が付く。「日本人死ね」と言っている場合、三つめは「精神日本人死ねレイシスト」という意味不明の言葉を羅列している事にもなる。さらにいえばこれはクルドに対するヘイトデモに対するカウンターであり「レイシスト死ね」ならばともかく「日本人死ね」はカウンター側の発言としても意味が不明だ。

nou-yunyun.hatenablog.com

私は、くだんの発言が「病院に行け」だったとしても、それはそれで暴言あるいは差別的発言のそしりは免れないと思います。難民認定申請が極度に難しい日本における在日クルド人の苦境やヘイトデモに対する怒りは十分に理解できるとしても。しかし、そういう背景や事実関係の確認作業をきちんと行うことなく「母国にお帰りください」と脊髄反射的にSNSへ投稿してしまう国会議員というのも間違っていると思います。

ちなみに、その後Youtubeではこんな動画も見つけました。「字幕次第でどちらにも聞こえる」というものです。なるほど、動画にテロップや字幕はつきものですが、これで聞こえ方が誘導されてしまう危険性もあるわけですね。


www.youtube.com

それともうひとつ、英語学習系のYoutuber・だいじろー氏の「音の錯覚が面白い」という動画を思い出しました。これは個々人の聞き取ることができる周波数の違いで、同じ音声が二通りに聞こえる可能性を紹介したものです。お若い方にしか聞こえない「モスキート音」というのもありますよね。今回のケースも似たようなものなのかもしれないと考えましたが、いや、やっぱり違うかな。改めて何度聞いても……ちょっと職場で、いろいろな年齢層の同僚にも聞いてもらおうと思います。


www.youtube.com

あたらしい家中華

極端な人見知りで人づきあいが苦手な私ですが、曲がりなりにも数十年ほど中国語関係のお仕事をしてくるなかで、中国人のお宅に招かれて食事をふるまわれたことが何度かあります。数十年で何度かしかないというのが社交性のなさを如実に表していますが、それはさておき、中国人のお宅でいただいた料理は、どれも当然のことながらいわゆる「中華料理」でした。

でも日本人が誰かを自宅に招いて食事をふるまうとなったとき、いわゆる「和食」や「日本食」オンリーということはあまりないように思います。おそらくときに和風で、ときに洋風で、さらには中華風だったりエスニック風だったり。私もそうで、誰かを招くときのみならず、ふだんの炊事で作っているのも「なになに料理」とカテゴライズできないようなものばかりです。

いっぽうで、これは私見ですが、チャイニーズは食に対してはきわめて保守的な人々でありまして、われわれのようなクロスオーバーというか雑食というか、和洋中エスニックごちゃ混ぜのような食生活はあまり好まれないようにお見受けします。というか、中華料理だけでひとつの巨大かつ完璧な宇宙が構成されている以上、ほかの料理にそれほど関心を示さない・示す必要がないと言っていいのかもしれません。

しかしその「中華料理」というのはまた、日本人の想像を遥かに超えた幅と奥行きを持つものでありまして、私たちが想像する中華料理ーー麻婆豆腐とか青椒肉絲とか餃子とか焼売とかーーはそのごくごくごく一部でしかありません。しかも多分に日本人好みに味が調整されています。最近東京では「ガチ中華」などと称して、その幅広く奥深い料理の数々が紹介されるようになってきましたが、それでもまだごくごく一部と言って差し支えないでしょう。

かつて中国にいたときには、そういった「ガチ」の現地料理に片っ端からチャレンジしたものですけど、北の地方だったこともあって、どちらかといえば油と塩分が多めの料理が主流だったように記憶しています(いまはもう年齢的にもそういう料理はかなりキツくなりました)。ところがその北の地方で、あるいは日本で、中国人の一般家庭に招かれた際にいただいた料理は、そういう「ガチ」とはかなり違っていて、とてもシンプルであっさり(そしてもちろん美味しい)料理の数々だったのです。

思えば日本でだって、食堂やレストランなどで出される料理に比べれば、家庭料理はかなり抑制された味わいになるものですよね。だって毎日飽きずに作り・食べているものなんですから。というわけで、私がそんな当たり前の家庭料理の事実にあらためて気づかされたのは、実際に中国人のお宅におじゃましたときでした。それは「中華料理」の概念が大きく変わる体験でした。

そんな中国の家庭料理、いわば普段づかいの中華料理、けっして食べ飽きず、どんな年齢層にもフレンドリーな中華料理の数々を紹介している料理本が、酒徒(しゅと)氏の『あたらしい家中華』です。著者の酒徒氏は、かつてTwitter(現X)でツイートをよく拝見していましたが、そこで披露されていた料理の数々が一冊にまとめられたわけです。


手軽 あっさり 毎日食べたい あたらしい家中華

刊行後すぐに買い求めましたが、これはもう、まさに私が中国人のお宅でごちそうになったあのやさしい家庭料理そのままの世界です。本当にこれだけでいいの?というくらいシンプルなレシピばかりですが、しみじみ、おいしい〜。素材と作り方がきわめてシンプルなだけに、日々の炊事もぐっと楽になります。

じっさい私は、ふだんの炊事で中華系の料理を作ることも多いですが、この本に教えられたあとはいかに自分が依然として日本人的な中華料理の固定観念に染まっていたのかがわかりました。お店に行って食べる中華はさておき、日常生活の中で繰り返し作られるそれは、これだけでいい、いやこれだけだからこそおいしいのです。中国人のお宅でごちそうになったあの料理の数々と同じように。

ほんとうに重宝する一冊。中華鍋を買いたくなること必定です。私はこの本で紹介されている「打出し」の中華鍋を新調しちゃいました。


山田工業所 片手 中華鍋 鉄製 打出 木柄 ハンドル 33cm

翻訳という「愉悦」

私が担当している留学生の通訳翻訳クラスには「英日班」と「中日班」の学生がいます。つまり英語・日本語間の通訳や翻訳を勉強している人たちと、中国語・日本語間のそれを勉強している人たち。みなさん、通訳や翻訳に興味があるのに加えて、言語を活かして日本の企業や日本と関連のある企業に就職したいという希望を持っています。

低い生産性・収益性にジェンダーギャップ、年功序列形式主義、あいもかわらぬ一斉横並びの就活にリクルートスーツ……ネガティブな評価の視線が注がれているのになかなか改善できない日本企業ではありますが、それでも日本で就職したいと思ってくださる留学生のみなさんがいるのは、本当にありがたいことだと思います。

それはさておき、先日は通常行っている実務的な通訳翻訳訓練から少し離れて、お楽しみ企画として文芸翻訳をやってみました。素材は村上春樹氏の『ノルウェイの森』の冒頭部分です。ご承知の通り、この作品の英訳・中訳ともに、これまでそれぞれお二人の翻訳家が訳したものが出版されています。英語はアルフレッド・バーンバウム氏とジェイ・ルービン氏、中国語は林少華氏と頼明珠氏です。

授業では、最初に村上氏の原文だけを読んだうえで各自英語と中国語に翻訳したのち、プロの訳文を配布しました。プロが訳した文章と自分の翻訳を照らし合わせて自分との違いを確認した上で、自分はどちらの翻訳者の訳文がより好みか、そう思うのはなぜか……などを考え、話し合ってもらうという趣向です。

私はかつてこうした方法で自分の訳文とプロの訳文を比較したことが何度もありました。英語翻訳者の山岡洋一氏が書かれた『翻訳とは何かーー職業としての翻訳』*1を読み、勇んで取り組んだのでしたが、そのたびに打ちのめされること必定でした。プロの原文理解(私の場合は中国語の理解)とはかくも深いものか、プロの日本語能力とはかくも凄まじいものかが痛いほどよく分かって。

翻訳学校に通っても、一流の翻訳家に学べる確率はそう高くはない。ところが、書店に行けば、一流の翻訳家がみな、訳書という形で翻訳のノウハウを示してくれている。自分がほんとうに尊敬できる翻訳家を選んで訳書と原著を手に入れ、訳書を見ないで原著を翻訳していき、訳書との違いをひとつずつ確認していけばいい。この方法なら、翻訳学校で教えていない翻訳家からも、亡くなっていて学べる機会がないはずの翻訳家からも学べる。無料で添削を受けられる。一流の翻訳を真似ることができる。(『翻訳とは何かーー職業としての翻訳』158ページ)


翻訳とは何かーー職業としての翻訳

機械翻訳が飛躍的な進歩を遂げつつある現代、こうした作業に果たして意味があるのかと思われる向きもあろうかと思います。生成AIの長足の進歩を見越して「もう外語学習は必要なくなった」とおっしゃる方も登場する昨今ですから、こんな泥臭い作業になどなんの価値も見いだせないと思う方はいるでしょう。

でも実はこれは、言語と言語のあいだを往還しつつ、自らの母語とは異なる世界の切り取り方をする言語のダイナミズムを理解できる人だけに与えられる愉悦なんです。つまりは、分かる人には分かる、分からない人には分からない、そういったたぐいの作業なんではないかと。そう言っちゃったらこれはもう、教育という立場からは大きく逸脱してしまうのですけれども。

ともあれ、授業ではその愉悦をできるだけ言語化して学生さんたちに伝えるよう努力はしました。結果、みなさんけっこう楽しんで作業に取り組んでくれました。なかにはちょっと訳しただけでもう、プロの訳文を「たいしたことない」という人もいて若干驚きましたが、それもまあ若さゆえ。世界に対して物怖じしないその姿勢はよしといたしましょう。ただし、そういう方にはロシア語通訳者で文筆家の米原万里氏が師匠の徳永晴美氏に言われたという次の言葉もご紹介しました。

他人の通訳を聞いて、「コイツ、なんて下手なんだ」と思ったら、きっとその通訳者のレベルは、君と同じくらいだろう。「ああ、この程度の通訳なら、私だってできる」という感触を持ったなら、その人は、君より遥かに上手いはずだからね。(『不実な美女か貞淑な醜女か』120ページ)


不実な美女か貞淑な醜女か

傲慢は人の心を閉ざすものだと思うんです。人は謙虚になってこそ自分の視野を広げることができるのだと。だからこの作業は単なる翻訳の練習や訓練というより、言語による世界の切り取り方の違いを実感すること、その多様性の奥深さを教え諭してくれる「修養」みたいなものなのかもしれません。

そういう意味では、機械翻訳がどれほど進化しても、こうした愉悦はわれわれ人間に残されていくべきだと私は思っています。その言語間の差異を乗り越えようとして努力し、「それまでに聞いたことがなく、読んだこともない内容を理解し*2」たい、違う視点と切り取り方で世界を眺めてみたい……と望み続けてきた結果が人類の「知」というものではないかと思うからです。
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*1:もう20年以上も前に刊行されたーーつまり機械翻訳がまだほとんど実用化されていなかった時代ですーー本ですが、いまでも十分に説得力のある名著だと思います。

*2:『翻訳とは何かーー職業としての翻訳』帯の惹句から。