インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

再發號

台南駅のホームに降り立ったら「昔のままだ」と思いました。ちょうど20年ほど前に岡山(日本のじゃなくて台湾の。高雄と台南のちょうど中間くらいにある街です)に住んでいて、週末は各駅停車の電車でよく台南に遊びに来ていたのですが、その時の雰囲気がそのまま残っていたからです。駅前の様子はよく覚えていませんが、それでもあんまり変わっていないような気がします。

仕事場でよく顔を合わせる台湾人留学生に「久しぶりに台南へ行きます」と言ったら、センセ、再發號に行ったほうがいいですよ、と言われました。再發號って……ああ、あのお店。とても有名な老舗のちまき屋さんで、実は20年前にも行ったことがありました。当時はスマートフォンなどもなかったのに、どうやってこのお店を見つけて行ったのかは覚えていません。たぶん台湾人の同僚から教えてもらったんじゃないかと思います。

台南駅から比較的近い場所にあって、当時はぶらぶら歩いて向かったことを思い出します。このお店の先には“擔仔麵”で有名な度小月もあって、いろいろと食べ歩きをしたのでした。当時は会社が「日本人が現地で事故を起こすといろいろとめんどうだから」という理由で駐在している私たちが車やバイクを運転するのを禁止していました。今回はもちろんバイクを借りて、夜市をひやかした帰りに寄ってテイクアウトして、宿で食べました。

ここの“特製八寶肉粽”は握りこぶしくらいある大きなちまきで、その名の通り八種類の贅沢な具材が入っています。干し鮑、干し貝柱、干し椎茸、干し海老、鶏肉、豚肉、蛋黃(アヒルの卵の卵黄)、栗。小袋に入った少し甘めのタレもつけてくれました。これだけ盛りだくさんなんですけど、台湾南部の料理らしくとても薄味で、意外にあっさりしています。

▲写真を撮ったけど、私の腕前ではぜんぜんおいしそうに見えないので、再發號さんのウェブサイトから拝借して貼っておきます。

中熱拿

久しぶりに台北へやってきて、たまたま利用したコーヒースタンドで、常連さんとおぼしき男性がお店に入ってくるなりひとこと“中熱拿”と言っていました。Mサイズのホットのカフェラテ。直前に私も偶然同じものを注文して飲んでいたのですが、私は“熱拿鐵中杯(ホットのカフェラテをMサイズで)”と注文していました。

ネットでダブルクォーテーションマーク(“”)を使ってフレーズ検索してみると、“中熱拿”のようにまずカップのサイズ、それからホットかアイスの別、最後に飲み物の種類の順番で言葉が紡がれることが圧倒的に多いみたいです。つまり“熱中拿”とか“熱拿中”とか“拿熱中”とか“拿中熱”とはまず言わないんですね。

カップのサイズを“中”と略さず“中杯”と言うなら“中杯熱拿”でも“熱拿中杯”でも、さらにラテを“拿”と略さず“拿鐵”と言うなら“中杯熱拿鐵”でも“拿鐵熱中杯”でも“熱中杯拿鐵”でも“熱拿鐵中杯”でも(私はこれでした)でもいいみたいですけど、“中(中杯)”と“熱(熱的)”と“拿(拿鐵)”でシンプルな言い方に徹するとまず“中熱拿”が母語話者的に自然な順番なのかしら。おもしろいです。

そういえば私は“熱拿鐵中杯”と注文してから店員さんにもう一度“中杯還是大杯?(Mサイズ、それともLサイズ?)”と聞き返されました。もちろん私の発音が悪かったからでしょうけど、ひょっとすると母語話者的には(というかコーヒーショップの店員さん的には)まずカップのサイズが最初に来るのが認識しやすい……てなことがあるのかもしれません。

私は日本語で注文する時にも「ホットのカフェラテをMサイズで」と言っています。だから中国語もその順番で言っているだけなのですが、ネイティブの感覚とは違うのかもしれないと思った次第です。次は“中熱拿”と言ってみよう。外国人がネイティブのマネをするのはちょっと「イタい」ところがあるので、そう言ったあと「は?」などと聞き返されたりしたらすごく恥ずかしいですけど。

語学教師とエンパシー

オンライン英会話でレッスンの予約をする際に、チューターのプロフィールをよく読みます。生徒からの評価が高いとか、教えている内容が自分のレベルに合っているとかも大切ですが、私がとくにひかれるのは、チューターご自身がご自分の母語である英語以外に何らかの言語を学ばれたことがあるという点です。

つまり、自分もいろいろと苦労や工夫をして第二言語や第三言語を学んでいる、あるいは学んできたので、英語がまだまだつたない生徒さんの気持ちがよくわかりますよと。例えばプロフィール欄にこんなことが書かれていたり、イントロダクションビデオでこんなことを話されたりしています。

  • I know how challenging it can be to learn a new language because I have done it!
  • I can relate to the difficulties of learning new languages, which has allowed me to approach my teaching style in a way of relatability.
  • I speak French but I am still learning so I know all about the difficulties of learning a second language.
  • I learned Spanish as a second language, studied Mandarin, and I'm currently learning French. I know what it's like to learn a language, so I know the best ways to help you improve.
  • In addition to teaching English, I am currently learning Spanish and would like to learn more languages, too.

要するにこれは、他人の感覚や気持ちにできるだけ寄り添おうと想像力を働かせる「エンパシー」ですよね。私もいまは語学教師のはしくれで、外国人留学生に日本語や通訳・翻訳などを教えています。自分がこれまで中国語や英語などの言語を学んできて、しかもそれがとても困難かつ楽しい営みであることが身にしみているので、日本語を学ぶ留学生の気持ちもよく分かるような気がします。

母語という自分の居心地のよい場所から抜け出して外語を学ぶ、それもある程度仕事に使えるレベルにまで持っていく(うちの学校の留学生はそのほとんどが就職を目指しています)ことがどれほど大変なことなのか。それと同時に外語を学ぶことがまたいかに楽しく、奥深く、あるいは一面怖い側面ももっているのか、そうした体験は語学を教えるときにも生きてくるのではないかと思うのです。

qianchong.hatenablog.com

英語という言語が世界の中で圧倒的なプレゼンスを持つようになり、「リンガフランカ」としての地位をほぼ確立してしまった現在、英語母語話者の英語教師には英語しか話さない、第二言語や外語を学んだことはないという方も多いです。もちろんそれでも優れた教師はいますし、また英語しか話さないけれどもTEFL(Teaching English as a Foreign Language)やTESOL(Teaching English to Speakers of Other Languages)といった、英語を母語としない生徒に英語を教える教授法の資格を持つ方もいます。私はこれもオンライン英会話でチューターを選ぶときのポイントのひとつにしています。

もうずいぶん前のことになりますが、とある語学学校で肩を並べていた同僚にこの話題を持ちかけたことがありました。その同僚は英語と日本語のバイリンガルで、幼少時から自然に二つの言語を母語として育ってきた方でした。英語も日本語もとても流暢で(母語ですからね)聡明な方でしたが、学生への対応のしかたを観察していて、私はそこにかすかな違和感を覚えていました。個人的な印象ですから確たることは言えないのですが、第二言語あるいは外語を学ぶ生徒の気持ちにいまひとつ寄り添えていないような、あえて強い言葉で書けばある種の「傲慢さ」と、その傲慢さの後ろにある「自信のなさ」(人は自分に自信がないとき、往々にして他人に強く出たりするものです)が見て取れたのです。

それで私は「なにかひとつ別の言語を学んでみたらどうですか」と老婆心ながらおすすめしてみました。まだお若い方だったので、これからも学ぶ時間はたっぷりあるし、きっとそれは語学教師としてのキャリアにも意義あるものをもたらしてくれるのではないかと思って。でもその方からは「語学は苦手なんで」とにべもなく断られました。あああ、余計なお世話だったなあ……と気まずい思いをするとともに、どこかとても残念なものを感じたのでした。

さよならSNS

先日、ながらく放置状態だったソーシャル・ネットワーキング・サービスSNS)から退会しました。フェイスブックFacebook)とピンタレストPinterest)のアカウントです。

SNSに分類されるものとしてはあとユーチューブ(Youtube)とライン(LINE)を引き続き使っていますが、前者は語学関係の動画を見るだけ、後者は家族との連絡+いくつかの商業サービス(ジムの会員証とか)に使っているだけ。シェアやらコメントやら「いいね」やらリポスト(リツイート)やらといった「いかにもSNS」的な使い方をするものは、これで皆無となりました。

思い返せば、これまでにもSNSの種類に位置づけられるものはあらかた手をつけては退会してきました。ツイッターTwitter/現X)も、インスタグラム(Instagram)も、タンブラー(Tumblr)も、ノート(note)も……SNSという言葉がまだ人口に膾炙していなかった頃にはミクシィmixi)、さらにその前にはパソコン通信ニフティサーブNIFTY-Serve)というのもありましたね。

中国語圏のSNS、QQ(騰訊QQ)とかウェイボー(微博)とかウィーチャット微信)などもそれぞれ一度は試してみましたが、現在はすべてアカウントを抹消しています。ティックトック(TikTok)は最初から「これはついていけなさそう……」と思ったのでやっていません。

私がこうしたSNSの諸サービスを日常的に使うようになったのは、確か2010年ごろではなかったかと記憶しています。いや、パソコン通信まで含めれば、さらに10数年溯るかもしれません。つまりはほぼ四半世紀ほどの時をへて、ようやくこうした「つねにつながる」という文化から降りることができたわけです。

こうしてSNSから降り続けてきた理由のうち、一番大きかったのは自分の時間がどんどん吸い取られていくことへの危機感でした。畢竟、ほとんどのSNSが無料で使うことができるその背景には、アテンション・エコノミー(注意経済)と呼ばれる、人を消費行動に駆り立てる仕組みがそのベースとしてあるんですよね。自分のブログを振り返ってみたら、もうずいぶん前からこの点に関する違和感を書き込んでいました。

qianchong.hatenablog.com

ここまで気づいていたんならすぐにSNSから降りることもできたはずなのに、これほど時間がかかってしまったというのは、ひとつは自分の意志の弱さのせいでしょうけど、もうひとつはそれだけSNSの注意経済が巧妙に作り込まれているからなんでしょうね。じっさい私はつい最近まで、ピンタレストのショート動画を見始めてふと気づいたら何十分も過ごしているということが時々ありました。あとから考えれば不要なものを買ってしまったことも一度や二度ではありません。

SNSのみならず、私はここ数年でそれまで参加していたネット上のいくつかのコミュニティからも退会しました。さらにリアルなおつきあいのあったいくつかのサークルや教室へも休会を申し出ています。この「はてなブログ」も、かつては毎日書いていて連続2000日以上になっていたのですが、去年の夏にそれをやめ、気が向いたときだけ書くことにしました。

かつては仕事以外にも世の中とのつながりがないと、ゆくゆく寂しい人生になるような気がしていたのですが、それは幻想だったのかもしれないといまにして思います。無理をして自分と世の中とのインターフェイス(境界面)を広げなくてもいい、広げすぎるとどんどん自分の暮らしが忙しくなっていくと思うようになったのです。

インターネットがインフラとも言えるくらいに普及したいまとこれからにおいては、より主体的で抑制的な利用とそのための工夫が大切になってくるのではないか。少なくとも私は、自分が想像しているよりもはるかに抑制的に利用するのが身の丈にあっているのではないかと考えるようになり、SNSから降りてきました。そしてこれからはまた、インターネットの抑制的な利用で取り戻した時間を使ってもっと本を(とくに古典を!)読むのです。


▲左下の伸ばされている腕と手がちょっと気持ち悪いです。

ChatGPTが勝手にやり取りしちゃってた

けさChatGPTの画面を開いたとき、左側にあるチャット履歴一覧の“Previous 7 Days”のところに“Cheer up with kittens!”という項目があるのに気づきました。こんなやり取りです。

You
I want to cheer up my friend who's having a rough day. Can you suggest a couple short and sweet text messages to go with a kitten gif?


ChatGPT
Sure! Here are a couple of short and sweet text messages you can send along with a kitten GIF to cheer up your friend:
"Just a little furball to brighten your day 🐱 Remember, it's okay to take things one purr at a time!"
"Sending you a bundle of cuddles and purrs to help you feel better! Remember, every day is a new beginning. 😺"
You can choose one of these messages and pair it with a cute kitten GIF that you think your friend would love.

「友達を励ましたいので子猫の絵文字に合うかわいいメッセージを教えて」という他愛もない内容ですが、問題は私がこの質問をした覚えは一切ないという点です。……怖いんですけど。それでこのやり取りに続いてChatGPTに聞いてみました。

You
I don't remember asking you this question in the previous 7 days, why was this chat generated?


ChatGPT
It looks like there might have been a misunderstanding. If you didn't ask the previous question, I apologize for the confusion. How can I assist you today?

誤解と混乱を招いて申し訳ないと言っていますが、なんだかはぐらかされているような。それで引き続き具体的に問いただしてみました。

You
That's not what I'm asking. It means I haven't asked you this question: “Can you suggest a couple short and sweet text messages to go with a kitten gif?”, but this morning I found that this chat appeared on my ChatGPT page. Why was this chat generated?


ChatGPT
I understand your concern now. If a chat appeared on your ChatGPT page that you did not initiate, there could be several reasons:

  1. Accidental Input: You might have accidentally entered the question or interacted with the ChatGPT interface without realizing it. This can happen, for example, if you leave the page open and your device is touched or interacted with unintentionally.
  2. Account Misuse: Someone else might have access to your account and could have asked the question. It's a good idea to secure your account with a strong password and to log out when not using shared or public devices.
  3. Technical Glitch: There could be a technical issue or glitch within the ChatGPT system that caused an unintended chat session to appear. While rare, software bugs can lead to unexpected behaviors.
  4. Session Carryover: If you were logged into another device or browser and started a chat there, it might sync up when you open ChatGPT on a different device or browser if you're using the same account.

If none of these reasons seem to apply and you're concerned about unauthorized access or a potential security issue, it would be wise to change your password and review your account security settings. Also, you might want to reach out to the platform's support team for further assistance and to report the incident.

今度は具体的に答えてくれました。なんらかのバグあるいはアクシデント、最悪の場合アカウントの乗っ取りだった可能性もあるということですね。おすすめに従って、パスワードを変更し、使わないときはログアウトしておくことにしました。使いたいときにさっと使いたいので、ログインしっぱなしにしていたんですけど……ちょっと不便になりますが、しかたがありません。


▲この文章を念頭にプロンプトを書いてChatGPTに出力してもらったイラストです。……怖いんですけど。

音声の錯覚と誤解

突然で恐縮ですが、この発言の音声、何と言っているように聞こえますか。内容は罵詈雑言の類なので、聞くときには注意してください。

この発言はとある在日クルド人によるものだそうですが、これを受けて自民党の若林洋平参院議員がSNSで「日本人の国なので、日本の文化・しきたりを理解できない外国の方は母国にお帰りください」などと書き込んだという報道に接しました。産経新聞のウェブサイトでは「この動画には、JR蕨駅前の路上に集団が集まり、『日本人死ね』と発言したような声が収録されている」と報じられています。

www.sankei.com

その声が冒頭の音声(私がその部分の音声だけを抜き出しました)なのですが、「日本人死ね」と聞こえました? 実は私、最初はそう聞こえました。上掲の産経新聞の報道を見て、すぐにネットで検索してそれらしき動画を見つけて聞いたときです。でもそののち、この発言が外国人に対するヘイトデモに対するクルド人によるデモにおけるものだったことなど、背景を知ってから改めて何度も聞き返していると「病院に行け」としか聞こえなくなりました。

ちょっと怖いなと思いました。産経新聞の報道ではまず「JR蕨駅前の路上に集団が集まり」としか書かれておらず、これがヘイトデモに対するカウンターデモであることは説明されていません。そのうえで「『日本人死ね』と発言したような声」と発言内容を特定した書き方がされています。そして、それを読んだうえで私が聞いてみた音声が、最初はその通りに聞こえてしまったからです。

つまり、これはいわゆる「確証バイアス」というものではないかと思ったのです。確証バイアスとは「自分の思い込みや願望を強化する情報ばかりに目が行き、そうではない情報は軽視してしまう傾向のこと*1」です。そういう確証バイアスを容易に惹起してしまいそうな産経新聞の書き方は問題ではないかと思うと同時に、そのバイアスがかかったまま在日クルド人への予断と偏見をさらに膨張させる人が続出するのではないかと。実際、この記事へのコメントからも分かるように、そういう人がたくさん出現しているようです。

発言の背景を詳しく知ったうえで聞いたら「病院に行け」と聞こえたーーこれだって私自身の確証バイアスの可能性はありますが、この点に関してはブログ「電脳塵芥」の電脳藻屑 (id:nou_yunyun)さんが説得力のある解説をされています。

動画を見ればわかる様に「病院に行け」と発言者は三回言っており、三回目の頭には「精神」が付き、さらにお尻には「レイシスト」が付く。「日本人死ね」と言っている場合、三つめは「精神日本人死ねレイシスト」という意味不明の言葉を羅列している事にもなる。さらにいえばこれはクルドに対するヘイトデモに対するカウンターであり「レイシスト死ね」ならばともかく「日本人死ね」はカウンター側の発言としても意味が不明だ。

nou-yunyun.hatenablog.com

私は、くだんの発言が「病院に行け」だったとしても、それはそれで暴言あるいは差別的発言のそしりは免れないと思います。難民認定申請が極度に難しい日本における在日クルド人の苦境やヘイトデモに対する怒りは十分に理解できるとしても。しかし、そういう背景や事実関係の確認作業をきちんと行うことなく「母国にお帰りください」と脊髄反射的にSNSへ投稿してしまう国会議員というのも間違っていると思います。

ちなみに、その後Youtubeではこんな動画も見つけました。「字幕次第でどちらにも聞こえる」というものです。なるほど、動画にテロップや字幕はつきものですが、これで聞こえ方が誘導されてしまう危険性もあるわけですね。


www.youtube.com

それともうひとつ、英語学習系のYoutuber・だいじろー氏の「音の錯覚が面白い」という動画を思い出しました。これは個々人の聞き取ることができる周波数の違いで、同じ音声が二通りに聞こえる可能性を紹介したものです。お若い方にしか聞こえない「モスキート音」というのもありますよね。今回のケースも似たようなものなのかもしれないと考えましたが、いや、やっぱり違うかな。改めて何度聞いても……ちょっと職場で、いろいろな年齢層の同僚にも聞いてもらおうと思います。


www.youtube.com

あたらしい家中華

極端な人見知りで人づきあいが苦手な私ですが、曲がりなりにも数十年ほど中国語関係のお仕事をしてくるなかで、中国人のお宅に招かれて食事をふるまわれたことが何度かあります。数十年で何度かしかないというのが社交性のなさを如実に表していますが、それはさておき、中国人のお宅でいただいた料理は、どれも当然のことながらいわゆる「中華料理」でした。

でも日本人が誰かを自宅に招いて食事をふるまうとなったとき、いわゆる「和食」や「日本食」オンリーということはあまりないように思います。おそらくときに和風で、ときに洋風で、さらには中華風だったりエスニック風だったり。私もそうで、誰かを招くときのみならず、ふだんの炊事で作っているのも「なになに料理」とカテゴライズできないようなものばかりです。

いっぽうで、これは私見ですが、チャイニーズは食に対してはきわめて保守的な人々でありまして、われわれのようなクロスオーバーというか雑食というか、和洋中エスニックごちゃ混ぜのような食生活はあまり好まれないようにお見受けします。というか、中華料理だけでひとつの巨大かつ完璧な宇宙が構成されている以上、ほかの料理にそれほど関心を示さない・示す必要がないと言っていいのかもしれません。

しかしその「中華料理」というのはまた、日本人の想像を遥かに超えた幅と奥行きを持つものでありまして、私たちが想像する中華料理ーー麻婆豆腐とか青椒肉絲とか餃子とか焼売とかーーはそのごくごくごく一部でしかありません。しかも多分に日本人好みに味が調整されています。最近東京では「ガチ中華」などと称して、その幅広く奥深い料理の数々が紹介されるようになってきましたが、それでもまだごくごく一部と言って差し支えないでしょう。

かつて中国にいたときには、そういった「ガチ」の現地料理に片っ端からチャレンジしたものですけど、北の地方だったこともあって、どちらかといえば油と塩分が多めの料理が主流だったように記憶しています(いまはもう年齢的にもそういう料理はかなりキツくなりました)。ところがその北の地方で、あるいは日本で、中国人の一般家庭に招かれた際にいただいた料理は、そういう「ガチ」とはかなり違っていて、とてもシンプルであっさり(そしてもちろん美味しい)料理の数々だったのです。

思えば日本でだって、食堂やレストランなどで出される料理に比べれば、家庭料理はかなり抑制された味わいになるものですよね。だって毎日飽きずに作り・食べているものなんですから。というわけで、私がそんな当たり前の家庭料理の事実にあらためて気づかされたのは、実際に中国人のお宅におじゃましたときでした。それは「中華料理」の概念が大きく変わる体験でした。

そんな中国の家庭料理、いわば普段づかいの中華料理、けっして食べ飽きず、どんな年齢層にもフレンドリーな中華料理の数々を紹介している料理本が、酒徒(しゅと)氏の『あたらしい家中華』です。著者の酒徒氏は、かつてTwitter(現X)でツイートをよく拝見していましたが、そこで披露されていた料理の数々が一冊にまとめられたわけです。


手軽 あっさり 毎日食べたい あたらしい家中華

刊行後すぐに買い求めましたが、これはもう、まさに私が中国人のお宅でごちそうになったあのやさしい家庭料理そのままの世界です。本当にこれだけでいいの?というくらいシンプルなレシピばかりですが、しみじみ、おいしい〜。素材と作り方がきわめてシンプルなだけに、日々の炊事もぐっと楽になります。

じっさい私は、ふだんの炊事で中華系の料理を作ることも多いですが、この本に教えられたあとはいかに自分が依然として日本人的な中華料理の固定観念に染まっていたのかがわかりました。お店に行って食べる中華はさておき、日常生活の中で繰り返し作られるそれは、これだけでいい、いやこれだけだからこそおいしいのです。中国人のお宅でごちそうになったあの料理の数々と同じように。

ほんとうに重宝する一冊。中華鍋を買いたくなること必定です。私はこの本で紹介されている「打出し」の中華鍋を新調しちゃいました。


山田工業所 片手 中華鍋 鉄製 打出 木柄 ハンドル 33cm

翻訳という「愉悦」

私が担当している留学生の通訳翻訳クラスには「英日班」と「中日班」の学生がいます。つまり英語・日本語間の通訳や翻訳を勉強している人たちと、中国語・日本語間のそれを勉強している人たち。みなさん、通訳や翻訳に興味があるのに加えて、言語を活かして日本の企業や日本と関連のある企業に就職したいという希望を持っています。

低い生産性・収益性にジェンダーギャップ、年功序列形式主義、あいもかわらぬ一斉横並びの就活にリクルートスーツ……ネガティブな評価の視線が注がれているのになかなか改善できない日本企業ではありますが、それでも日本で就職したいと思ってくださる留学生のみなさんがいるのは、本当にありがたいことだと思います。

それはさておき、先日は通常行っている実務的な通訳翻訳訓練から少し離れて、お楽しみ企画として文芸翻訳をやってみました。素材は村上春樹氏の『ノルウェイの森』の冒頭部分です。ご承知の通り、この作品の英訳・中訳ともに、これまでそれぞれお二人の翻訳家が訳したものが出版されています。英語はアルフレッド・バーンバウム氏とジェイ・ルービン氏、中国語は林少華氏と頼明珠氏です。

授業では、最初に村上氏の原文だけを読んだうえで各自英語と中国語に翻訳したのち、プロの訳文を配布しました。プロが訳した文章と自分の翻訳を照らし合わせて自分との違いを確認した上で、自分はどちらの翻訳者の訳文がより好みか、そう思うのはなぜか……などを考え、話し合ってもらうという趣向です。

私はかつてこうした方法で自分の訳文とプロの訳文を比較したことが何度もありました。英語翻訳者の山岡洋一氏が書かれた『翻訳とは何かーー職業としての翻訳』*1を読み、勇んで取り組んだのでしたが、そのたびに打ちのめされること必定でした。プロの原文理解(私の場合は中国語の理解)とはかくも深いものか、プロの日本語能力とはかくも凄まじいものかが痛いほどよく分かって。

翻訳学校に通っても、一流の翻訳家に学べる確率はそう高くはない。ところが、書店に行けば、一流の翻訳家がみな、訳書という形で翻訳のノウハウを示してくれている。自分がほんとうに尊敬できる翻訳家を選んで訳書と原著を手に入れ、訳書を見ないで原著を翻訳していき、訳書との違いをひとつずつ確認していけばいい。この方法なら、翻訳学校で教えていない翻訳家からも、亡くなっていて学べる機会がないはずの翻訳家からも学べる。無料で添削を受けられる。一流の翻訳を真似ることができる。(『翻訳とは何かーー職業としての翻訳』158ページ)


翻訳とは何かーー職業としての翻訳

機械翻訳が飛躍的な進歩を遂げつつある現代、こうした作業に果たして意味があるのかと思われる向きもあろうかと思います。生成AIの長足の進歩を見越して「もう外語学習は必要なくなった」とおっしゃる方も登場する昨今ですから、こんな泥臭い作業になどなんの価値も見いだせないと思う方はいるでしょう。

でも実はこれは、言語と言語のあいだを往還しつつ、自らの母語とは異なる世界の切り取り方をする言語のダイナミズムを理解できる人だけに与えられる愉悦なんです。つまりは、分かる人には分かる、分からない人には分からない、そういったたぐいの作業なんではないかと。そう言っちゃったらこれはもう、教育という立場からは大きく逸脱してしまうのですけれども。

ともあれ、授業ではその愉悦をできるだけ言語化して学生さんたちに伝えるよう努力はしました。結果、みなさんけっこう楽しんで作業に取り組んでくれました。なかにはちょっと訳しただけでもう、プロの訳文を「たいしたことない」という人もいて若干驚きましたが、それもまあ若さゆえ。世界に対して物怖じしないその姿勢はよしといたしましょう。ただし、そういう方にはロシア語通訳者で文筆家の米原万里氏が師匠の徳永晴美氏に言われたという次の言葉もご紹介しました。

他人の通訳を聞いて、「コイツ、なんて下手なんだ」と思ったら、きっとその通訳者のレベルは、君と同じくらいだろう。「ああ、この程度の通訳なら、私だってできる」という感触を持ったなら、その人は、君より遥かに上手いはずだからね。(『不実な美女か貞淑な醜女か』120ページ)


不実な美女か貞淑な醜女か

傲慢は人の心を閉ざすものだと思うんです。人は謙虚になってこそ自分の視野を広げることができるのだと。だからこの作業は単なる翻訳の練習や訓練というより、言語による世界の切り取り方の違いを実感すること、その多様性の奥深さを教え諭してくれる「修養」みたいなものなのかもしれません。

そういう意味では、機械翻訳がどれほど進化しても、こうした愉悦はわれわれ人間に残されていくべきだと私は思っています。その言語間の差異を乗り越えようとして努力し、「それまでに聞いたことがなく、読んだこともない内容を理解し*2」たい、違う視点と切り取り方で世界を眺めてみたい……と望み続けてきた結果が人類の「知」というものではないかと思うからです。
qianchong.hatenablog.com

*1:もう20年以上も前に刊行されたーーつまり機械翻訳がまだほとんど実用化されていなかった時代ですーー本ですが、いまでも十分に説得力のある名著だと思います。

*2:『翻訳とは何かーー職業としての翻訳』帯の惹句から。

オンライン授業で失われるもの

久しぶりにオンライン授業を担当して、ひどく疲れてしまったーーそんな話をブログに書きました。オンライン授業では、少なくとも語学のそれにおいては、教師と学生の間の、さらには学生と学生の間のインタラクションが希薄になってしまうことが、学習効果を著しく損ねるというのが約三年ほどのコロナ禍における私自身の教訓でした。

qianchong.hatenablog.com

先日、電車の中でYoutubeの動画を見ていたら、メディアアーティストの落合陽一氏と対談されていた声優の緒方恵美氏が興味深いことをおっしゃっていました。コロナ禍で、声優さんたちがひとところに集まって一緒に録音することができなくなった結果、アフレコの質が低下してしまったというお話です。


www.youtube.com

緒方:人間が人間と喋って出す言葉というのは、こういう言葉を喋ろうと思って喋っている人って誰もいないじゃないですか。落合さんと話していて、落合さんがこういうふうに言ってくれたから、それを受けて、その表情とかを見て、自分の心が動いたから、たまたま口から出てきてしまったのがその言葉っていう。


落合:インタラクションと偶発性が非常に重要ですね。


緒方:セリフというのは全てそうなので、つまりはそれを発してくれる人が目の前にいるのといないのとでは全く質が違うものになってしまうということなんですよね。(中略)受ける呼吸の音とか、そこに動いている気配とか、そういうものも全て受けてお芝居というのは成立しているので、本来は。それがなくて音声だけを聞いてやるっていうのも、できなくはないけれど、それとはクオリティがもう全然違うんですよね。

もちろん声優さんのアフレコやお芝居という分野でのお話ですけど、私はこれは人間のコミュニケーション全体に関わる大切な指摘ではないかと思いました。コロナ禍の間に行われたオンライン授業に欠けていて、かつそれがコミュニケーションの質に影響を与えていると私が思ったのは、発話を行う者同士がその場を共有していることの有無でした。他人の気配を肌身で感じながら話すことの大切さが、自分の想像以上に大きいことを実感したのです。

「インタラクションと偶発性が非常に重要」と、落合氏がとても的確なまとめ方をされていますが、参加者全員の顔がグリッド状に並び、発話者以外全員が音声をミュートにしているなかでは生き生きとしたコミュニケーションは生まれにくい。発話したいときには自由にミュートを解除してもよいとはいえ、そのひと手間、ふた手間がインタラクションと偶発性をとことん削いでしまうんです。

とはいえ、私が非常勤で勤めている別の学校では、コロナ禍からこちら、ずっとオンライン授業を継続しており、今後も対面授業に戻す予定はないそうです。この学校は日本全国、さらには海外からも学生さんが参加しているため、学校側はオンライン授業のメリットのほうが大きいと判断しているわけです。また私自身も、自分の勉強のためにオンラインの語学講座を利用し続けていますから、一概にオンライン授業にはデメリットばかりだと言い募るつもりはありません。

それでもオンラインでのコミュニケーションが、なにか人間にとってとても大切なものを失わせているような気がしてならないのです。せっかくこれまでにはできなかったような遠隔コミュニケーションの技術が実用化されたのだから、使わないのはもったいないような気もします。教育以外の分野でも、その利便性は計り知れません。でも、人間はその利便性をいくらか犠牲にしても、めんどくさいリアル空間でのコミュニケーションが一定程度は必要なのではないか。

現在続けているオンラインの語学講座も、一部はリアルな教室の授業(マンツーマン英会話など)に切り替えたほうがいいかなとも思っています。授業の予約から録画から教材から、オンラインのほうがずっとずっと便利なはずなのに、またどうしてもとに戻るのか、退化してしまうのかと言われるかもしれません。でも私はそこには何か大切なものが欠けているような気がするのです。

Adobe Premiere Proで文字起こしができちゃった

仕事柄、通訳教材を作るときや自身の語学の勉強のためにも、よく外語の動画や音声の「文字起こし」を行っています。いわゆる「ディクテーション(中国語:聽寫)」というやつです。その昔は「テープ起こし」などと称していて、文字通りカセットテープに録音された議事録などを文字にする仕事もありました。

ソニーが作っていた「BM-76」というテープ起こし専用デッキ(トランスクライバー)があって、これでカセットテープを再生しては書き取って巻き戻し、再生しては書き取って巻き戻し……という作業を繰り返していたのです。再生と巻き戻しはフットスイッチで行うことができ、スイッチを足で踏んでいる間は再生、足を離すと任意の秒数だけ自動で巻き戻してくれるという機能がついていました。これでハンズフリーになり延々文字を書き取り続けることができるというわけ。


SONY BM-76 - Google 検索

それからほどなくしてパソコン上に「文字起こし」環境を構築できるようになりました。このブログでも何度もご紹介していますが、WindowならフリーソフトのOkoshiyasu2を使って、Macならマクロを使って、いずれもBM-76と同じような環境でディクテーションができるようになりました。これでどれだけの中国語を聴き取ってきたことか。その過程でリスニング力や語彙力が鍛えられたと感じているので、学生さんたちにも絶賛オススメしてきました。

qianchong.hatenablog.com

ところがその後、Google Documentの音声入力機能を使って、自動でディクテーションができるようになりました。パソコンで鳴っている音を認識させるために、WindowsMacともに出入力デバイスを操作する必要がありますが、かなりの精度で文字起こしをすることが可能に。こうなっちゃうともうあの「泥臭い」ディクテーションには戻れなくなってしまいます。よほどの意志がなければ、学生さんだって取り組もうとは思わないでしょう。

qianchong.hatenablog.com

そしてAIの技術が急速に日常のものとなって行きつつある現在、当然のように文字起こしもできるようになっています。ChatGPTに動画や音声のファイルを丸投げして「文字起こししてください」とお願いしても「音声ファイルの変換はサポート外の操作となります」と今のところはやってくれません。でもいくつかのソフトでは可能らしく、例えばこちらの記事ではAdobe Premiere ProでAIを用いた文字起こしができると書かれています*1

toyokeizai.net

Adobe Premiere Proは以前から使ってきたのに、知りませんでした〜! マニュアルをよく読め、ということですね。それで試してみたら、ほんのわずかの手順と時間で文字起こしが終了してしまいました。上述のGoogle Documentを使った方法では、基本的に5分の映像や音声なら聴き取って文字起こしするのも5分かかるわけですが、Adobe Premiere Proの文字起こし機能ではそれが超高速で行われます。

この画面では先日のアメリカ議会上院で行われたSNS上の有害なコンテンツから子どもを守る対策についての公聴会のニュースを試しています。マーク・ザッカーバーグ氏の部分で社名の「Meta」が聴き取れていないなど若干の誤記はありますが、おおむね正確に文字起こしされてしまいました。そう、「されてしまいました」。ここまで来ちゃったんだもの、これでもう未来永劫、学生さんたちは泥臭い作業に勤しむことはなくなるだろうなあ。

かくいう私自身が、趣味と実益を兼ねてあんなに好きだったディクテーションに対して、モチベーションを鼓舞するのが難しいと感じちゃっています。AIが語学に革命を起こしつつあるのは確かなんですけど、それは決してプラスの側面だけではないなと改めて感じています。というか、外語の学び方に対して、これまでとはまったく違う発想のアプローチが求められていくということなのかもしれません。

*1:具体的な使い方については、こちらの記事もとても参考になりました。ありがとうございます。

オンライン授業って何だったんだろう

一昨日の夜から昨日の朝にかけて、東京ではめずらしく積雪がありました。勤務している学校では交通の混乱などを予想して、昨日の授業はすべてオンライン授業に切り替えることを決定。私は火曜日に5コマも授業があるので、急遽Zoomでの出講となりましたが……ものすごく疲れました*1

コロナ禍の頃はこうやって毎日オンライン授業をやっていたわけですが、それからずいぶん時が経ってあらためてやってみると、これはやっぱり難しいなと。留学生のみなさんも、コロナ禍の頃はせっかく日本に留学したのにオンライン授業ばかりの日々という記憶がよみがえったらしく、一様にうんざりした表情を浮かべていました。

オンライン授業への取り組みと、そこで気づいたこと、なかんずくその弊害についてはこのブログでもずいぶんたくさんの文章を書いてきましたが、あらためて思いました。オンライン授業は、少なくとも今のようなシステムで行うかぎり、語学の授業としてはかなりつまらないものになってしまうと。

qianchong.hatenablog.com

一対一のオンライン英会話みたいな授業ならまだしも、一対多で、通信への負荷への懸念から教師以外全員の学生が音声をミュートにして行うそれは、通常の教室であれば自然に発生する“互動(インタラクション)”が決定的に欠けています。教師対学生間の“互動”だけでなく、同じクラスにいる学生同士の“互動”も消えてしまう(ブレイクアウトルームのような手段もありますが)。これがいかに学習効果を損ねるかを、約三年ほどのコロナ禍の間に痛感しました。

思い返せばコロナ禍でオンライン授業が始まったころ、一部の識者は教育の革命だ、学校というシステムが根本からひっくり返る、無能な教師が淘汰され、優秀な教師に多数の学生がオンラインで繋がり、これまでは不可能だった夢のような教育環境が実現する……といったような言辞をふりまいていました。そうした言辞にのせられ、ふりまわされ、現場にはものすごい圧力がかかっていました。アレは何だったんだろうといまにして思います。

たしか内田樹氏がおっしゃっていたことだと思いますが、「学校教育をビジネスの言葉づかいで論じてはならない」というのは、本当にそうだなあとコロナ禍におけるオンライン授業の顛末を体感してきたものとしては思うのです。そしていままた、ChatGPTに代表される生成AIをめぐる識者の意見や議論にも同じような「匂い」を感じます。


https://www.irasutoya.com/2015/11/blog-post_578.html

教育が変わる、学校が変わる、教師が変わる……ビジネス誌やネット動画などでは盛んにそういう声が喧伝されています。シンギュラリティは予想より前倒しになる、いやもうシンギュラリティは来ている。教師がいらなくなり、世界最高の知性からあまねく人は学べるようになる……。私は個人的な興味からそういう声にもできるだけ接して自分なりに考え、かつAIのサービスにも手弁当で課金したりしていろいろと試してみてはいます。でもその一方で、教師の端くれとして、決して浮足立ってはいけないと自分に言い聞かせてもいるのです。

*1:とはいえ、収穫もありました。ブレイクアウトルームに分かれた状態でホストが一斉アナウンスをしたり、動画を共有したり、その間に共同ホストの教師が各ルームを見て回って指導したり。これはなかなか便利だと思いました。欲を言えば、ホスト自身も動画を共有しつつ各ルームを見て回れるといいんですけど。現段階では各ルームに入ろうとすると、共有を終了するよう促されます。

音声認識の進化と人間の役割

人工知能(AI)の技術が進化するなかで、機械翻訳の精度も向上しつつあります。そうした文字ベースの言語変換は実用に耐えうるようになってきた一方で、音声ベースの変換はまだまだ難しいという認識がありました。

特に生身の人間は必ずしも明瞭な発話をするわけではないので、そうした曖昧さを含んだ音声の認識にはまだまだ困難が伴うのではないかと。またその発話された音声の内容には明確に含まれていない背景知識や暗黙知みたいなものまで織り込んで別の言語で発話を紡ぎ出すのもかなり困難ではないかと想像していたわけです。

ただ、昨年あたりからChatGPTに代表されるAIの技術が格段の進歩を遂げ、音声通訳の精度も急激に上がっていくのではないかという予想がなされるようになりました。例えば昨年の5月ごろに報じられていたこのニュース。Googleが動画の自動吹替と「リップシンク」を行うAIを開発中というニュースです。

gigazine.net

そういえば昨年はいわゆるディープフェイクという形で、例えば政治家が普段とは真逆の主張をするような映像が取り沙汰されていたような記憶があります。またその少しあとには、YouTubeがAIによる「自動翻訳吹き替え」機能を搭載するというニュースが報じられました。

gigazine.net

つまり機械翻訳ではなく「機械通訳」が早晩実現するというお話です。こうなると、あとはどれくらいの精度でそれらが実現できるのかという話です。こうした技術は各国がその開発にしのぎを削っているようですから、最初は多少ぎこちなくても、技術の進歩でどんどん「洗練」されていくかもしれません。

先日は、勤務先の学校の留学生(スペイン語母語です)から、こんな動画を教えていただきました。Luisito Comunicaという、スペイン語圏では非常に有名なYoutuberだそうで、彼がサンパウロの街を紹介している動画なのですが……なんと上掲の記事でも紹介されていた「自動翻訳吹き替え」らしい音声トラックが7つもついていて、その中にはなんと日本語もあるのです(動画の下にある歯車マークから選べます)。


www.youtube.com

言語をいくつか選んで視聴してみて驚きました。オリジナル音声であるスペイン語で話しているLuisito Comunica(Luis Arturo Villar Sudek)氏の口調の雰囲気を残しつつ他の言語で話していることがその理由です。もちろんよく聞いてみると、例えば日本語ではかなり奇妙なところがたくさんあります。「大通り(おおどおり)」を「だいどおり」と言っているようにへんてこりんな日本語が頻出しますし、数字のところは意味が通らないほどに無茶苦茶だったりします。これはYoutubeの自動字幕機能で翻訳された日本語をそのまま音声に変換して流しているのかな?

でも英語の方はものすごく自然に話しているように聞こえます(私の英語力による判断はあまりあてになりませんが)。スペイン語からは「距離」の離れた日本語はちょっとまだ難があるにしても、スペイン語と英語くらいの距離であれば、もうこれくらいのレベルで自動通訳ができるのか! と衝撃を受けました。くだんのスペイン語母語の留学生も「すごい!」と驚いていました。

でも私はこの英語のあまりの自然さにちょっと疑問を持って(言語を学ぶ人間の立場としてはちょっぴり悔しさもあって?)、少しネットで調べてみました。そうしたらこんな記事がありました。

isamarcial.com.mx

記事の最後にある「まとめ」部分をGoogle翻訳で読んでみたのですが……

• El trabajo de doblaje está hecho por él mismo, es decir, es él hablando en inglés
吹き替え作業は彼自身が行っており、英語で話しています。

なるほど、英語はAIによる機械通訳ではなく、吹き替えだったのですね。機械通訳が現段階ではまだ実用に耐えうるほどではないのかなと確認できたわけですが、そんなことで溜飲を下げている場合ではありません(だいたいスペイン語を読むのだってGoogle翻訳に頼ってる)。上述したように、こうした技術は今後もますます進歩していくでしょう。翻訳者のみならず通訳者の役割もかなり限定されたものになっていくかもしれません。

今のところの私の予想としては、生身の人間による翻訳や通訳はおそらく「ハイエンド」の需要については今後も残っていくだろうけれど、ミドルレンジの部分は壊滅的に淘汰が進むのではないかと思います。つまり私のような中途半端な二流や三流の通訳者・翻訳者はその波をモロにかぶるということですね。

ハイエンドというのは、きわめて複雑で精緻な内容を訳すというシーンに加えて、生身の人間によるサービスが何らかの付加価値を持つシーンが考えられるでしょうか。例えば観光案内などはやはり人間にやってもらったほうが楽しいよね、といったような。AIが進化すればするほど、わざわざ人間が行うサービスがより「贅沢」なものになっていくのかもしれません。

AIを使って英語や中国語の会話を練習する

ChatGPTは文字でやり取りするほかに音声でもやり取りできる……ということで、ChatGPTと会話の練習をしてみようと思いました。やりかたはネットや既刊本にさまざまな方法が書かれています。まずはパソコンのChrome拡張機能の“Voice control for ChatGPT”を入れて、英語や中国語、さらには日本語でも会話をやってみました。

気軽なおしゃべりでもよかったのですが、せっかくならいろいろ試してみようと思って、まず英語はいつもオンライン英会話でやっているengooのニュース記事を元に英語の会話をしてみました。谷口恵子氏の『AI英語革命』の記述を参考にプロンプトを作ります。

英語で会話をしましょう。
・あなたの名前はMaryです。
・私の名前はKeiです。
・1回の会話は50ワード以内にしてください。
・以下の【Article】の内容に関して、英語で会話をします。
・あなたは【Article】の下にある【Discussion】の番号順に質問をしてください。
・私が英語のミスをするたびに、どんなミスをしたのか、どう直せばいいのか教えてください。
・ミスの指摘のあとは、また英語で会話を続けてください。
・あなたはMaryとしての発言だけをしてください。
それではあなたから英語の会話を始めてください。

このプロンプトの下に【Article】と【Discussion】を ’’’ ’’’ で挟んでおいておきました。

結果は、こちらの発音の悪さからか、意味の通らない単語について直してくる場合が多かったです。また「番号順に質問してください」としてあるので、ひとつの質問について会話が深まる前に次の質問に行ってしまいます。こちらからも質問を返してみても、反応することもあればサラッと無視されることもありました。

私の発言についてはすごく“polite”に(?)褒めてくれますし、ChatGPTなりの視点もまとめて言ってくれますが、総じていずれも優等生的というか、平均的というか、あまり個性的なものは感じませんでした。ChatGPTが煎じ詰めて言えばものすごく高性能な「次の単語予測機」である以上、世の中の平均的な言葉の並びに近づくのも無理はないと思いますが。

1回の発言を50ワード以内にしてくださいと書いておいても、ChatGPTの答えがだんだん長くなっていき、また質問も複雑になっていくようでした。これはオンラン英会話でもよくある、先生ばっかりが長々としゃべってちっともこちらに話させてくれないパターンに似ています。それで30ワードにして試してもみたのですが、最初はそれを守っているChatGPTも、会話が少し進むと発話がどんどん長くなっていくようでした。

全体的に英語がどんどん長く・難しくなる(自分にとっては)傾向がありそうなので、プロンプトで私の英語レベルを指定してみたこともあります。

・私の英語は初中級レベルで、CEFRのレベルはB1程度です。このレベルの英語話者に合わせて英語で会話をしてください。

こうしておいてもけっこう難しいことを言ってくるので、このあたりのプロンプトの調整はなかなか難しいなと思いました。やはり生成AIをうまく使いこなせるかどうかは、使う私たちの側の知恵にかかっているんでしょうね。

同じようなことを中国語や日本語でも試してみましたが、英語に比べると音声がかなり平板で機械的でした。英語の音声は自然ですが、それでも長く聴いていると単調に聞こえてきます。またポーズが一切ないので、かなり早口でまくし立てられているような感じになる。そもそも英語じたいもかなり速くて、これは語速を指定できるようになったらいいなと思いました。

ちょっとすごいな・おもしろいなと思った点としては、私が会話の中で“bullshit jobs(ブルシット・ジョブ:クソどうでもいい仕事)”というお下品な言葉を使ったら、「ブルシット」の部分が“*****”と表示されたことと、英語の中にフィンランド語の単語を混ぜて話したとき、ChatGPTは聴き取れていなかったものの(“yellow capaloma yoga”と意味のない英語に変換されました)、その後にある私の“it means football national team of Finland”という説明から推測してフィンランド語の "jalkapallomaajoukkue(サッカーフィンランド代表チーム)" を返してきたところです。

というわけで、音声の扱いはまだ発展途上なのかなという感じでした。生身の人間の“passion”があまり(中国語や日本語はまったく)感じられないので、やはりもうしばらくオンライン英会話や中国語会話のお世話になりそうかな。プロンプトを細かくいじってみると毎回違った結果になるみたいなので、また色々と試してみたいと思います。

……ところが。


https://www.irasutoya.com/2018/01/ai_67.html

少し前にブログ記事の下書きを上記のように書いていたのですが、ここ数日スマホアプリでの音声入出力機能がついたGPT-4Vを試していて、ちょっと衝撃を受けています。

細かい使い方などは、これもネットに記事が動画がすでにたくさんありますので、そちらを徴していただくこととして、私が驚いたのは英語のみならず、中国語や日本語の音声もかなり自然になっていることです。しかも「えー」とか言い淀みみたいなきわめて人間的な癖も織り込んで話してきます。人間の感情を感じさせるイントネーションがちょっと怖いくらいで、実際中国語の男性音声は私のとある友人にかなり似ている声だったので、最初は「うわあ」と声が出てしまったくらい。これまで不満だった“passion”の部分がどんどん改良されているのです。

私はまだ簡単な会話しか試していないので、このスマホアプリ版のChatGPT4Vで、上述したようなニュース記事を前提にディスカッションするようなことができるのかどうかはわかりません*1。ただ「文法的な間違いを直して」とか「1回の発言は30字以内にして」などの指示はちゃんと守ってくれました。また英語も中国語も、こちらの拙い発音を汲み取りつつ自然に会話してくれます(その意味では発音矯正にはならなさそう)が、そのために頓珍漢な受け答えになることもあります。

また英語の中に日本語を入れて話すようなマルチリンガルな状況にも対応してくれました。例えば“How can I say Japanese word「石の上にも三年」in English?”みたいな聞き方もできると。これからいろいろ試してみたいと思っています。あと、通信環境によっては会話にスムーズさが欠けたり、途中で中断してしまったりもしますが、これもこの先技術の進歩でどんどん解消されていくのでしょう。


▲しゃべった内容は文章でもスマホ上に残るので、あとから確かめることもできます。

試してみて、現段階でもここまでできるようになっているということは、これから先はもっとすごいことになるんじゃないかと、ちょっと恐ろしくなりました。オンライン英会話やオンライン中国語会話よりずっと安い価格で(ChatGPT4は20ドル/月)、いつでもどこでも外語の会話練習ができてしまうのです。それにオンライン英会話の先生には正直申し上げて「あたりはずれ」がありますけど、AIならプロンプトの入れ方次第でかなりこちらの要求を満足してくれそうです。

う〜ん、今後語学教師の仕事は、まったくなくなってしまうとは言えないかもしれないけれど、かなり大きな影響を受けることになりそうです。

*1:追記:後日やってみました。スマホアプリの入力欄に文章で指示を入れて、その後に“article”や“discussion”をペーストし、それらの内容に従って話してくれるように頼みます。最初は文章で返してきますが、その後音声入力に切り替えると向こうも音声で返してくるようになります。結果はChromeの画面でやっていたときと大同小異で、順番に質問してといえば順番に質問してきます(そのぶん会話は深まらないのも同じ)。そしてだんだんAI側の発話が長くなっていくのも同じでした。50ワードとか、30ワード以内とお願いしていても、どんどん長くなっていく傾向にあるみたいです。「絶対に」とか制限をかけるとまた違うのかしら。またいろいろ試してみたいと思います。

AIの進化と人間の役割

先日AIを使った語学学習や翻訳について考えていた際、このブログに「自分はこうしたサービスを使う際に必要となるそうした知識や教養を育むことにこれからも専念すればよく、一方でこうしたサービスの便利なところはどんどん活用させてもらうというスタンスでいればいいのかもしれない、と思い直してずいぶん心境が変わ」ったと書きました。

qianchong.hatenablog.com

ChatGPTなどのAIが私たちに見せつけるその驚異的な生成能力は、それがきわめて「人間っぽい」思考や認識を持っているように見えるがゆえに、いきおい「もう外語学習なんかしなくていい」とか「通訳者や翻訳者の役目は終わった」、「イラストレーターもプログラマーも全員失業だ」などの極端な結論に走ってしまいそうになります。正直に申し上げて、私もChatGPTが登場してからのこの1年あまり(2022年11月30日に公開)というものは、いろいろと心が揺れ動いていました。

でもそこはそれ、落ち着いてさまざまな専門家の意見や見解に耳を傾け、関連するいろいろな本を読みながら実際に使って試しているうちに、上述のような心境になりました。こんなことができるのか! あんなこともできるかも! と興奮することしきりである一方で、なるほど、だったら人間である自分の役割はこういうところにあるのだな……というのもまたおぼろげながら分かってきたという感じです。

先日も、とあるYoutubeの動画を視聴していたら、ChatGPTとは何かについて「たてはま / CGBeginner」さんがわかりやすい解説をされていました*1


www.youtube.com

この動画では、現在のChatGPTが煎じ詰めていえば単なる「次単語予測器」であること、しかし単に次の単語を予測しているだけなのにそこにあたかも意志や人格を感じさせるようにふるまうこと、しかもそのふるまいの理由は解明されていないことなどが語られています。しかもひょっとするとそのブラックボックスのような構造が、実は私たち人間の思考という現象そのものではないのかという疑問まで……なかなか怖い、けれどもとても興味深いです。

とくにChatGPTは「くだらない質問にはくだらない回答が返ってきやすい」、「論理的で的確な質問には論理的で的確な回答が返ってきやすい」というのは、やはりどんなにAIが進化発展しても、結局はそれを使う人間の資質が問われるということなのだと深く納得しました。

オンライン英会話のレッスンで使っているengooの記事に、AIに対して世界でいちばんナーバスになっていないのは日本人だというのがあって、私は当初それをとてもネガティブに捉えていました。日本人はとかく保守的だから、技術先進国を自負しているくせにキャッシュレス化はなかなか進まないし、FAXをいまだに使っているし。そんな我々は結局、AIとは何か、AIに何ができるのかをまだあまりよく理解できていないんじゃないかと。


https://engoo.com/app/daily-news/article/japan-least-nervous-about-ai-in-international-survey/dUAnHk2fEe6PZ_do2bzYMQ


▲AIに対して、日本人はダントツで「ナーバスになっていない」です。

でもこの間考えてきた「AIとのつきあい方」という観点からすれば、そうネガティブにとらえなくてもいいのかもしれないと思うようになりました。もしかすると私たちは、AIは夢のようなことを叶えてくれるすごい存在だけど、それをどう使いこなすのかは人間の側に託されていること、あるいはAIに全面的におんぶにだっこでは自分も成長できないことをよく分かっているのかもしれません。

というのも、これもYoutubeの動画でどなたがおっしゃっていたことなんですけど(ごめんなさい、どの動画だったかが思い出せません)、私たちは子供の頃から『ドラえもん』とか『鉄腕アトム』なんかに親しんでいて、「あんな夢こんな夢」を「不思議なポッケで叶えてくれる」AI(搭載のロボット)との親和性が高いというんですね。

なるほど、のび太くんは毎回ドラえもんに泣きついて助けてもらうけれど、予期せぬ結果を招き寄せてしまってその都度後悔したり教訓を得たりしています。あれはもしかしたら我々にAIとのつきあい方、なかんずくAIがどんなに素晴らしくても結局はAIを使う人間の側が問われるのだということを教えていたのかなと思うわけです。上掲の動画ではこう述べられています。

残酷なもので、ChatGPTはすべての人を助けるツールではなく、GPTにロジカルで適切な指示が出せない人間には冷酷なほど力になってくれず、的確な指示が出せる人間にとってはきわめて強力なツールになるということです。

うおお。もっと本を読もう、勉強しよう……と思えてくるではありませんか。

追記

自分の写真をもとに「『ドラえもん』のアニメ調のイラストを生成してください」とAIにお願いしてみました。

ええ〜、予想したのとぜんぜん違います。やはり的確な指示が出せないと力になってくれません。

翻訳AIの進化と言語学習の意義について考える

Google翻訳やDeepLなどの機械翻訳、またChatGPTなどの生成AIによる翻訳が実用に供され、その能力がどんどん上がっていると喧伝されているなか、もう翻訳を学ぶ意味はなくなってきたのではないか、さらには外語学習自体が陳腐化していくのではないか……そんな声が職場の内外で多く聞かれるようになりました。同僚と話すこともありますし、学生さんから聞かれることもあります。

私は通訳はともかく、翻訳に関してはもうずいぶん前に「ご飯を食べる手段」としては廃業してしまいましたので、その視点、つまり翻訳で稼げるのかという視点からの質問には答える資格がなさそうです。

それでも機械やAI(というかネットとコンピュータとそこで動いているシステム)がどこまで翻訳の精度を上げられるのか、外語学習が本当にいらなくなるのかについてはとても興味があって、これまでにもいろいろな書籍を読んできました。またそうした書籍を読みながら実際にGoogle翻訳やDeepL、さらにはChatGPT(GPT‐4に課金もしています)も使って、その「実力」を体感してきました。

端的に申し上げて、それらのサービスの実力は飛躍的に向上し続けていると思います。文脈や文化背景などを考慮しない珍訳が生成されるとか、難しい部分をすっとばして訳してくるとか、すました顔をして間違った情報を入れてくるとか、こうしたサービスに否定的な方はとかく「粗(あら)」を指摘したがりますけど(かつての自分もそうでした)、それらが急速に改善されて行っていると。

特にこうしたサービスを牽引している英語の世界においては、英語のインプットとアウトプット双方で、とても頼れる存在になっています。例えばGoogle翻訳で日本語と英語の文章を比較してより自分の意図に沿った文章を作るとか、それをDeepLでも検証してみるとか。日本語と英語を入れ替えつつ何度も校正することで、ああなるほど、ここはこういう英文を使えばいいのかというのがわかってきたりします。またChrome拡張機能に入れているGrammalyは、Google翻訳で英文を書いているそばから綴りや文法や記号の使い方の間違い、さらにはより自然で流暢な文章にするための提案などもしてくれます。

当初私は、こんなに至れり尽くせりのサービスを使っていたんじゃ英語の力なんてつかないんじゃないか、というか「バカになっちゃう」とさえ思っていました。要は自分で考え、身につけるべきところをそうしたサービスの機能に任せているわけで、一時期はこうしたサービスをまるで一度ハマったら抜けられないドラッグみたいなものとして認識していたこともあったくらいです。

ただGoogle翻訳にせよ、DeepLにせよ、ChatGPTにせよ、そこに言葉を打ち込み、そこからの反応に対して考慮を行い、取捨選択をするのは自分です。その考慮や取捨選択を行うためには、言葉に対する知識や、その言葉が表そうとしているものの意図、感情、目的、その背景となる文化や世界観……要するに豊かな教養が必要なのではないか。だから自分はこうしたサービスを使う際に必要となるそうした知識や教養を育むことにこれからも専念すればよく、一方でこうしたサービスの便利なところはどんどん活用させてもらうというスタンスでいればいいのかもしれない、と思い直してずいぶん心境が変わりました。AIが生成した文章を「すごい」と思えるためには、自分の側にもそれを「すごい」と思えるだけの力が必要なのだと……あとから思い返せば実に甘い考えだったとなるかもしれないけれど。

先日読んだ山田優氏の『ChatGPT翻訳術』では、そうした自分の側に必要な力を端的に「メタ言語能力」だと定義しています。


ChatGPT翻訳術 新AI時代の超英語スキルブック

メタ言語能力とは、言葉について疑問を感じることができる能力と、それについて説明できる能力のことです。ChatGPTを使う際には、より有効で高品質な回答を得るために、いかに適切な指示(プロンプト)を出せるかが大切だと言われますが、メタ言語能力とはそうしたプロンプト作成のために必要な知識とも言えます。

それはいわば言葉に対する自分ならではの気づきであり、「この気づきを言語化してAIに指示や質問をできることが重要です(51ページ)」。ただの「教えて君」ではだめで、そこにはやはり問う側の工夫が必要なんですね。そしてその工夫をするためには知識や教養が要るのだと。山田氏は「英語力より、言葉の問題に気づける能力(メタ言語能力)のほうが大事(61ページ)」とまでおっしゃっています。また「実務レベルで活用していく場合、適切な回答を得るための指示・質問を行うため、一定の知識やスキルが求められる(38ページ)」とも。

作業をAIに丸投げすることですべてが済むかというともちろんそんなことはなくて、AIに作業をさせる前と後の作業を人間が知識や教養やスキルを活かして十分に行うことで、より良い成果が得られるということですね。この本の主題であるChatGPTを用いた翻訳であれば、その前工程と後工程で指示(プロンプト)を出すことが人間の役割であり、的確な指示を出すためには知識・教養・言語力などがいる。というわけでこの本では、その前工程と後工程における具体的なテクニックが多数紹介されています。

こうしたテクノロジーが今後も発展し続けていく未来において、翻訳や通訳、あるいは外語学習そのものの意義が問われるような事態に立ち至るのだろうか……という疑問に関しては、この本の最終章にいくつか筆者の回答が記されています。山田氏は「テクノロジーの恩恵を受けてグローバルコミュニケーションが容易になったからこそ、すべての人類が、一定程度の外国語リテラシーや英語力を獲得するほうがよいと考えます(223ページ)」と述べておられます。

それは例えば、機械翻訳やChatGPTが生成する自然で流暢な翻訳から学ぶという新しいアプローチの仕方です。私もそれは大賛成ですし、上述したように実際そんなことをやりつつあるのですが、ただ「このようなツールを利用しながら翻訳活動を行う人口は増え、結果として翻訳市場全体が拡大する可能性があります(230ページ)」とおっしゃっている部分はちょっとうまくそのイメージが掴めませんでした。

またこれは本書の範囲を超えたもっと巨大かつ漠然とした疑問(というか不安)ですが、こうしたテクノロジーの発展が最終的に人類にどんな未来をもたらすのかについてまだ私はかなり懐疑的で、だからこそいまのように手探りであれこれ試しつつ進むしかないと思っています。ただ少なくともこうしたテクノロジーが「なかったこと」にはできない以上、とりあえずは試してみよう・学んでみようと。

またChatGPTの回答は、これまで人類が積み上げてきた言語の資源から言葉や表現を引っ張ってきているわけですが、人類の大半がChatGPTなどのAIから教えてもらうようになると、人類全体の言語能力や資源はそれ以上膨らまなくなり、最終的にはやせ細って退化して行きはしないだろうかという疑問もあります。

qianchong.hatenablog.com

大規模言語モデルは、単語と単語の関係だけしか学んでいないので、人間のように、音、視覚、匂い、肌触り、過去の体験などの身体性に基づく情報と結びつけて言葉の意味を学習していないという、批判的な見方も存在します。(45ページ)

なるほど、私たちが「退化」しないためには、つねに「メタ言語能力」を磨き、身体性に基づいた新たな創造をし続けていかなければならない、そこにこそ生身の私たちの価値があるということなんでしょうね。もっとも、現時点でさえ音や視覚についてはすでにどんどんAIにとって代わられつつあるよう(音楽生成や画像生成など、どんどん新しいサービスが登場しています)ですから、これもあとから思い返せば実に甘い考えだったとなるかもしれないけれど*1

*1:ちなみに、この記事のタイトルは「はてなブログ」の「AIタイトルアシスト」が考えてくれました。私は最初「ChatGPTと翻訳」としていたのですが、AIが考えてくれた「翻訳AIの進化と言語学習の意義について考える」のほうがよほど記事の内容を的確に反映していると思います。