『なめらかなお金がめぐる社会。あるいは〜』を読んだ。
(タイトル長すぎだろう…)
ゴールデンウィーク直前、内蔵疾患の持病を再発して激務に耐えられない自分を痛感した。社交力のない自分はどうにかして職業人(注.単なる会社員)としてひとかどの人物になりたいと思って苦しみながら、でもどこかで望みながら、少しばかりの充実感と満足感を覚えながらストレスフルな業務に耐えていた。その結果の今回の事態であった。眼の前が真っ暗になった。
一方、二年前に息子が生まれてから、子どもの純真無垢さの虜になり、自分の人生の中で“子ども”というものが大きな割合を占めるようになった。ここでいう“子ども”とは自分の子に限らず、この社会にいる子どもという存在のことである。ただ本能のままに心から愛しいから親を求め、笑顔を振りまいてくれる彼らは、見栄や打算などに塗れた世界から自分を目覚めさせてくれた。それでいて子どもというのは将来の可能性が無限大なのだから、これはもう“子ども”のことを考えずにはいられないではないか。
そして並行して、以前より常々思っていた、自分の仕事が全く社会に役立っていない感覚。自分のしたいことは何か。自分が社会に対して提供できることは何だろうか。身体は弱くて本業と並行することは難しいであろうが、副業的にNPO的な事業に関われないか。それも、“子ども”に関するような分野で。そんなことを頭の片隅で考えることがあった昨今。
以上のようなことを漠と考え込んでいた時に、この書籍の内容はとても響いた。家入氏の思いとその行動(成果)に勇気づけられる。自分に何ができるか、積極的に考えてみたいと思えた。33歳にもなって恥ずかしいけど、最近ようやく自分は能動的に自分から動いてもよいのだと思えるようになってきた。いい大学、大きな有名企業に所属し、社交性はないからただただ静かに所属しているだけで無為に過ごす、そんなマインドで今まで生きてきた。けれど、やはり何も社会に対して貢献できていない自分には違和感をもつし、自分の思いともっと向き合って、肯定というか、面と向かって取り組んでやってもいいのかなと思えるようになってきた。明日から急に自分の行動が変わることはないけれど、おぼろげながらやりたいことが見えてきた。まずは手段としてプログラミングの勉強をしたい。勿論、子育てが一段落するまでのしばらくの間、待たなければならいけれど。ただしかし、今の自分には微力ながらでも何かやれるんじゃないか、そんな少しの高揚感がある。この思いを持続させたい。
こう思わせてくれたこの本に感謝。あと、Amazonで関連書籍として出てきた『持続可能な資本主義』や『「公益」資本主義 英米型資本主義の終焉』も読んでみたいと思っている。
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- 言ってしまうとどうしようもないことがある。頭では分かってるけど、それを言葉に出さずにはいられないんですよ。そのストレスを自分の中だけで抱えておくことができない、我慢ならない。こうして、好意を示してくれる人にさえどんどん軽蔑されていくのだろう。
- 向上心がなく、できる範囲のことだけで満足し、努力することを極端に嫌う自分のような人間が家庭をもっていいんだろうか。実は今ものすごく重大な過ちを犯そうとしているんじゃないだろうか。
- 虚勢をはってでも明るい人間を演じて生きていった方がいいのかな。でも、常に自分を欺いていく人生に何の意味があるんだろうな。苦痛しか存在しない人生。明るさしか認められない世界だとして、根暗な人間はどうやって生きていけばいいのだろう。自己啓発に人格改造、失敗したら自死を勧められるのだろうか。ああもう嫌になる。
- 結局さ、最善のものにしか価値を見いだせない性格なので、こんな自分を選んでもらうことに罪悪感を感じるんだよね。もしくはもっとひどいことを言えばこんなレベルの人間同士で徒党を組んで何が楽しいのか、目を覚ませと思ってしまう。もうクズの極みだな。なんでここまで卑屈な感情に支配されてるんだろう。分からん。苦しい。助けて。
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考えをまとめることもなくつらつらと書くこの文章が、褒めそやされる至高の文学作品にまで昇華されることを望んでしまうのは、リアルにおいてうまいことを言おうとして てんでセンスがなく失笑を買うことと全く同質だと気づいた。その結果自分の“レベル”に絶望し、殻に閉じこもってしまうことも同じ。何も書けなくなるし、書く気もなくなるんだなぁ。でも、プライベートででもいいから自分の心理状態を書き留めておくことは有意義な気がする。それで気持ちの整理がつくから。今は戸惑っているのだ。自分が結婚するだなんて想像もしてなかったから。自分という人間に対する不信感・劣等感はこれっぽっちも払拭されていない。そのことをどう捉えればいいのか。まとまらない。