年齢を重ねれば重ねるほど、あらゆることが二度目とか三度目になる。はじめて観る映画でさえ、はじめての経験に感じられることが稀だ。

と書いたが、それは違う。はじめて観る映画なら、はじめてであると、きちんと感じなければならない。そう感じないなら、学ばねばならないのだ。老人に近づきつつ、さらに学ぶ、学び方も含めて学ばないといけない。

しかも、死に方を学ぶ、というのでは良くない。さらなる生き方を学ばないといけない。

アルバム「霧の5次元」のザ・バーズザ・バーズは初期から一貫して、ロジャー・マッギンの12弦リッケンバッカーの音があまりにも特徴的なので、これが有る無しで聴こえてくる楽曲が、ザ・バーズであるか否かが容易に判断できてしまうほどだ。

それはギターというよりもオルガンのようだと思う。鋭く金属質な音色のオルガンが、終始鳴り響いているかのようだ。抑揚はほとんどなく、全体をのっぺりと包んでいて、ただし分厚く膨らんだ一音の幅が細かく強弱を変えながら振動していて、だからそれは最終的に出口のない密室内での、終わらない耳鳴りのようなものに聴こえてくる。

こういう音作りは、今では考えられないようなものだろう。音を分厚くするにしても、異なる音を重ねるにしても、もうちょっとやりようがあるはずだ。未整理でバランスが悪くて乱暴だ。しかしそれでこそザ・バーズというか、それこそが時代なのだろう。使い回される前、細部の調整前、洗練される前だからこそ、要素がぶつかり合ったまま、そのままで完了にできる。

同じような時代的感触は、90年代にもあったのかなと思う(異様に荒々しいループとか…)。未開の領域に手探りで分け入っていく感じ。それは後から振り返ってみても、滑稽や未熟や思慮浅さには思われない。時代が移り変わっても、未開の領域を目指した蛮勇のカッコよさの感触は消えないのだ。

Amazon Primeで、セリーヌ・シアマ「秘密の森の、その向こう」(2021年)を観る。始まって、粛々と進む場面を見ながら、そうか、亡くなったのは一番最初にいた、あのお婆さんか、と。ある終焉の感じ、物憂げでくたびれたような、気の抜けたような雰囲気が、家の中に漂ってる。季節は秋か。見事な紅葉につつまれた森の中を、八歳の娘ネリー(ジョセフィーヌ・サンス)を後ろに乗せて、母親マリオン(ニナ・ミュリス)が、己憂げな表情で車を走らせる。ネリーは後ろからお菓子だのジュースだのを母親の口元へ運ぶ。母は黙ったままそれを口にする。

あの家を、引き払わなければならないのだ、ずいぶん意気消沈してしまってるお母さんと、カラ元気を出すお父さんがいて、八歳の娘がいる。お父さんが食器棚だか冷蔵庫だかをズルズル移動させると、後ろから昔の壁紙が出てくる。おぼえてる?もう忘れたでしょ、お父さんは昔、森の中に作った小屋のことも忘れてるでしょ、と。

「編集」というものが感じさせてくれる小気味よさだなと思う。淡々と、必要最小限の説明だけで、話が進んでいく。

その後、母が突然失踪してしまい、ネリーは森の中で、同じ年頃の少女と出会い、二人は友達になる。彼女の家へ訪れて、その家のダイニングには古い壁紙がまだ現役で貼られていて、廊下の突き当たりにあるトイレをのぞいて、ネリーはここが、かつての我が家だと知る。おそらく少女は幼い頃の、ネリーの母マリオンであり、左手の部屋には、まだ祖母が生きていて、こちらに背中を向けて眠っている。

父親は着々と家を引き払う準備を進める。ネリーはマリオンと一緒に、招待されたから彼女の家に一泊したいと父に懇願する。父は娘の言い分を聞き入れる。父とハグするネリー。それを見つめるマリオンは、ありがとうと小さく口にする。まるで夫に語り掛ける妻のようなさりげなさで。

ひとつのベッドで眠って朝を迎えた二人は、ゴムボートで湖へ漕ぎ出し、その後別れを告げる。一人で家に帰ってきたネリーは、薄暗くて何もない部屋でじっとうずくまっている母親の姿を見出す。ネリーは母親と抱き合い「マリオン」と、その名を呼ぶ。

しみじみと良い話だった。この、現実にはありえない一連の出来事は、母親の失踪と帰還に挟まれていて、どことなくこの作品のすべてが、母親の頭の中の世界だったように、そう思いたくなるような感触をたたえて、静かに幕を閉じる。

大人の事情、大人の悩みは、本作ではすべて内実を隠されている。お父さんの不思議にやさしい笑顔や仕草の裏側に、それはきっとあるのだろうけど、子供には見えなくて、せいぜいお父さんの髭剃りのお手伝いをするくらいだ。

子供時代のマリオンの態度、彼女だって何も知らない。でも子供時代のマリオンは、母親を亡くした自分自身の過去へと向かう想像の産物だとしたら。

子役の二人は、ああ、いかにも八歳児だなあ…という感じだった。このくらいの子供特有の、無表情というか、ぶっきらぼうというか、何も語ってない、無機質な視線。子供って、こういう表情、こういう眼で、何かを見るよね…という感じ。

京成線の堀切菖蒲園駅のプラットホームのベンチは、よく見かけるような線路側を向いた横並びではなくて、電車のボックス席のように向かい合って設置されている。

だから反対側のホームに立って見えるのは、向かい合ったり背中合わせで座っている人々の姿と、そのホームを支える鉄骨の支柱と、柱に遮られながらその下に広がる川土手や街並みや景色である。

良く晴れた明るい光が降り注いでいるので、前景であるホーム上の人や物のすべてが、まるで写真を貼り付けたみたいに、現実感がなくて、座ってるおばさんたちが、宙に浮かんでいるみたいに見える。人々が皆、横を向いているというだけで、その虚構感に拍車がかかる感じがする。

京成線という路線は、流れる時間が他とは違うとしばしば思う。高架上のホームが多くて、電車を待つ人々もどこかぼやっと、中空に留まって揺らぎつつ、心ここにあらずな雰囲気がある。現実の時間に準じて、というよりは、荒川とか江戸川の流れに準じて、走行しているのではないかという感じがする。

ということは、もしかして、渡し船の系譜をこの路線は、どこかで引き継いでいるのだろうか (横向きの人つまり船上の人) 。

blu-rayで、アルノー・デプレシャン「二十歳の死」(1991年)を観る。フルートの不穏な旋律とともに、映画がはじまる。サスペンス的、ノワール的な雰囲気。この曲がかなり効果的だ。窓際に逆光気味で佇む男の手にするグラスが光を反射している。しかしこのあと何がどうなるのか、しばし戸惑いをもってことの成り行きを見守る。やって来た男が、伸びすぎた木の枝をはらう男に手助けされて、なぜか自分も木に登ろうとする。入浴中のパスカル(マリアンヌ・ドニクール)は突然嘔吐感に襲われ、全裸のまま苦しむ。

二十歳のパトリックが散弾銃で自殺を図り、いまも重篤な状態であることが観る者に知らされ、続いて一家の元へ親戚一同が続々と集まってくる場面が。しかしその人数がすごくて、親戚一同って、ふつうこんなにいます?と思うほどの、この映画が一時間足らずの尺であることを知っているので、こんなにたくさん登場人物が出てきて大丈夫なのかと、容量に対して内容物があふれるのではないかと、やや面食らう。

しかし大まかに、おじさんおばさんの年輩グループと若者グループに分かれて、物語は進むのだ。若者たち、ことに男性たちは、パスカルら女性たちとくらべて、見た目は誰もがそれなりにシャンとした外見なのに、妙に無邪気で子供っぽくて、まるで学生同士のようにじゃれ合い小突き合い、隠したマリファナを楽しんだりする。ボブ(エマニュエル・サランジェ)の連れてきたボブの彼女ローランス(エマニュエル・ドゥヴォス)はボブの両親とも仲良しなので一緒に付いてきたのだけど、自分以外の全員が他所の家の一族でしかも取込み中で、あまりにもアウェイな場所に来てしまったことに気づいて戸惑い、周囲に愛想笑いを浮かべながらも、内心一刻も早くここを去りたいと思ってる。

年配グループと、若者グループ、女性陣、男性陣が、緩やかに交差しながら話が進むのだが、何か劇的に物語が展開されるわけでもなく、ただ彼ら一人一人の違いと、関係の距離感と、語られる言葉から引き出されてくる背景の断片を、観ているこちら側はおぼえている限りのことを記憶に並べて、その有様を見渡すだけだ。しかし各登場人物の立場や性格の描き分けが進むことで、この親族ら一同のバタバタとした様子が、彼ら全員が寝泊まりする家の中や、連なる自動車や、寒そうな冬の景色とも重なり合い、ある触感の気配を醸し出すのを感じる。

若者同士のグダグダした牽制と慣れ合いの行く末は、冬空の下みんなで外套を着たまま始まるサッカーの場面にいたる。あんな下手くそなサッカーがあるかよと言いたくなるような、横一列になって皆でだんごになって、不器用に身体を動かしてボールを蹴って勢い余って地面に転がる。小学生以下のサッカーだけど、ものすごく映画的なサッカーでもある。

年配グループはあまり描き込まれないのに、父親の態度のいかにも父親らしさとか、他のおっさんのおどけた態度とか、若者の視点から見たおっさんの印象だな…と思う。パトリック死去の報を受けた父親が朝を待つように一人で起きている。ついさっき目覚めてベッドのシーツや寝衣が経血で汚れているのに気づき洗浄したばかりのパスカルが階下へ降りてくる(女性が生理でシーツを汚すというのは、デプレシャンにとっていったいどういうことなのか…)。まだ他の者にはパトリックの死を告げてない、朝の七時半になったら告げよう、もう間もなくだねと、父は娘に言う。パスカルは嘆きの表情をたたえて部屋の奥へ姿を消す。

デプレシャンのデビュー作でもあり、1991年の映画とのことで、個人的に感じた印象として本作は80年代末から90年代にかけての時代の空気を、濃厚に含んでいるのではないかなと思った。この年代あたりから、過去への参照に対する感覚が大きく変わった。非常に即物的で、意図も脈絡もなしに、手当たり次第に、引っ張ってくることが出来るようになった。そのとき、シレっと、唐突に、映画だと言って、こういう映画を作った。その引っ張り方に特有の時代感は残るというか、本作もまたその時期だったからこそ、このようなものになったのではと思った。

漬物で何が好きか?と言われたら、どう答えるか。ありきたりだけど、白菜とか胡瓜の浅漬けになる。他にも色々あるとは思うが、あるときふいに漬物が食べたいなと思ったとして、何を選ぶかと言えば、それに尽きると思う。

買うのはスーパーに売ってる普通のやつだ。あまり日持ちしないだろうけど、全部食べきれるのかと思うほど大量にある。ビールはいいけど、酸味がぶつかり合うからワインにはどうだろうか。日本酒はいい。しかし漬物は、カロリーはともかく塩分がなあ…とは思う。食べていてそれが心配になるくらいには、かなり塩辛い。後で、のどの渇きで眠れなくなるんじゃないかと思う。いままさに頭の中とか両手両足の血液濃度が、はっきりわかるほど粘度を増して、四肢を重たくさせている気がしてくる。

しかし漬物は美味しい。ことに胡瓜はいい。胡瓜ってそのまま食べるにしても、やはり塩との相性だし、それはもしかすると彼らも早い段階でわかってるのではないか。畑で育ちながら、ああ俺はきっとこの後、出荷されて間もなく塩漬けにされるのだな、それでようやく一人前ってことだなと、ちゃんと自覚してるのではないか。

「飾りじゃないのよ涙は」の歌詞の登場人物は泣いたことがなくて、刹那的な日常で胸のうちに波風が立つこともなくて、でも誰かがことあるごとに安っぽく感情を溢れさせることを、何か「違うと感じる」し「飾りじゃないのよ」と言いたいくらいには、涙というものに価値を見い出してはいて、いつか私にもそういう未練みたいなものが生まれて、それで私にもきっと、"かなしみ"が訪れるはずだと、きっと彼女は言っている。

これはごくシンプルに、涙の安売り批判の意図もあるだろうけど、やはり誰もがいつかは"ほかならぬこれ"を見出して、何かにつき当たって、そのことで泣くのだということを言ってる。それが一歩前進なのか、凡庸な穴に落ちたことなのかはわからないけど、とにかくこのままではない。いつかはこうでなくなると。

「私は泣いたことがない」と言われて、よくよく考えると僕は近隣者やそれなりに思いのあった誰かの死に際して、泣いたことがないと思う。死という出来事に際して、涙というものがそれこそ何か「違うと感じる」。これもまたストーリーだとして、泣くってのは無理でしょ、みたいな感じがある。

あと一週間でこの店がなくなってしまう。いつものように仕事をしているけど、そのことを思い出すたびに、思わず涙ぐんでしまう、みたいな話を聞くと、かろうじてそういう感傷なら、わからなくもないと思う。が、でも「場」に泣くことも、自分にはなさそうに思う。

それでも傾向として、自分はかなり、安っぽい涙を流すタイプだとは思う。テレビとかで煽られれば、簡単に泣く。そういう「相手の意図」は汲めるし、共感もするし、感情移入できる。人と同じ方向を歩ける。だから、もし何か「違うと感じる」と言われても、彼女には反論できない。

唯一思い出すのは小学三年か四年生のとき、飼っていた犬が死んだ。帰ってきたら、犬小屋から出て力尽きたかのように、ばたっと死んでいたのである。このときは、さすがにずいぶん泣いた。僕が死に際して泣いたことがあるのは、後にも先にも、これ一回だけではないか。