京成線の堀切菖蒲園駅のプラットホームのベンチは、よく見かけるような線路側を向いた横並びではなくて、電車のボックス席のように向かい合って設置されている。

だから反対側のホームに立って見えるのは、向かい合ったり背中合わせで座っている人々の姿と、そのホームを支える鉄骨の支柱と、柱に遮られながらその下に広がる川土手や街並みや景色である。

良く晴れた明るい光が降り注いでいるので、前景であるホーム上の人や物のすべてが、まるで写真を貼り付けたみたいに、現実感がなくて、座ってるおばさんたちが、宙に浮かんでいるみたいに見える。人々が皆、横を向いているというだけで、その虚構感に拍車がかかる感じがする。

京成線という路線は、流れる時間が他とは違うとしばしば思う。高架上のホームが多くて、電車を待つ人々もどこかぼやっと、中空に留まって揺らぎつつ、心ここにあらずな雰囲気がある。現実の時間に準じて、というよりは、荒川とか江戸川の流れに準じて、走行しているのではないかという感じがする。

ということは、もしかして、渡し船の系譜をこの路線は、どこかで引き継いでいるのだろうか (横向きの人つまり船上の人) 。

blu-rayで、アルノー・デプレシャン「二十歳の死」(1991年)を観る。フルートの不穏な旋律とともに、映画がはじまる。サスペンス的、ノワール的な雰囲気。この曲がかなり効果的だ。窓際に逆光気味で佇む男の手にするグラスが光を反射している。しかしこのあと何がどうなるのか、しばし戸惑いをもってことの成り行きを見守る。やって来た男が、伸びすぎた木の枝をはらう男に手助けされて、なぜか自分も木に登ろうとする。入浴中のパスカル(マリアンヌ・ドニクール)は突然嘔吐感に襲われ、全裸のまま苦しむ。

二十歳のパトリックが散弾銃で自殺を図り、いまも重篤な状態であることが観る者に知らされ、続いて一家の元へ親戚一同が続々と集まってくる場面が。しかしその人数がすごくて、親戚一同って、ふつうこんなにいます?と思うほどの、この映画が一時間足らずの尺であることを知っているので、こんなにたくさん登場人物が出てきて大丈夫なのかと、容量に対して内容物があふれるのではないかと、やや面食らう。

しかし大まかに、おじさんおばさんの年輩グループと若者グループに分かれて、物語は進むのだ。若者たち、ことに男性たちは、パスカルら女性たちとくらべて、見た目は誰もがそれなりにシャンとした外見なのに、妙に無邪気で子供っぽくて、まるで学生同士のようにじゃれ合い小突き合い、隠したマリファナを楽しんだりする。ボブ(エマニュエル・サランジェ)の連れてきたボブの彼女ローランス(エマニュエル・ドゥヴォス)はボブの両親とも仲良しなので一緒に付いてきたのだけど、自分以外の全員が他所の家の一族でしかも取込み中で、あまりにもアウェイな場所に来てしまったことに気づいて戸惑い、周囲に愛想笑いを浮かべながらも、内心一刻も早くここを去りたいと思ってる。

年配グループと、若者グループ、女性陣、男性陣が、緩やかに交差しながら話が進むのだが、何か劇的に物語が展開されるわけでもなく、ただ彼ら一人一人の違いと、関係の距離感と、語られる言葉から引き出されてくる背景の断片を、観ているこちら側はおぼえている限りのことを記憶に並べて、その有様を見渡すだけだ。しかし各登場人物の立場や性格の描き分けが進むことで、この親族ら一同のバタバタとした様子が、彼ら全員が寝泊まりする家の中や、連なる自動車や、寒そうな冬の景色とも重なり合い、ある触感の気配を醸し出すのを感じる。

若者同士のグダグダした牽制と慣れ合いの行く末は、冬空の下みんなで外套を着たまま始まるサッカーの場面にいたる。あんな下手くそなサッカーがあるかよと言いたくなるような、横一列になって皆でだんごになって、不器用に身体を動かしてボールを蹴って勢い余って地面に転がる。小学生以下のサッカーだけど、ものすごく映画的なサッカーでもある。

年配グループはあまり描き込まれないのに、父親の態度のいかにも父親らしさとか、他のおっさんのおどけた態度とか、若者の視点から見たおっさんの印象だな…と思う。パトリック死去の報を受けた父親が朝を待つように一人で起きている。ついさっき目覚めてベッドのシーツや寝衣が経血で汚れているのに気づき洗浄したばかりのパスカルが階下へ降りてくる(女性が生理でシーツを汚すというのは、デプレシャンにとっていったいどういうことなのか…)。まだ他の者にはパトリックの死を告げてない、朝の七時半になったら告げよう、もう間もなくだねと、父は娘に言う。パスカルは嘆きの表情をたたえて部屋の奥へ姿を消す。

デプレシャンのデビュー作でもあり、1991年の映画とのことで、個人的に感じた印象として本作は80年代末から90年代にかけての時代の空気を、濃厚に含んでいるのではないかなと思った。この年代あたりから、過去への参照に対する感覚が大きく変わった。非常に即物的で、意図も脈絡もなしに、手当たり次第に、引っ張ってくることが出来るようになった。そのとき、シレっと、唐突に、映画だと言って、こういう映画を作った。その引っ張り方に特有の時代感は残るというか、本作もまたその時期だったからこそ、このようなものになったのではと思った。

漬物で何が好きか?と言われたら、どう答えるか。ありきたりだけど、白菜とか胡瓜の浅漬けになる。他にも色々あるとは思うが、あるときふいに漬物が食べたいなと思ったとして、何を選ぶかと言えば、それに尽きると思う。

買うのはスーパーに売ってる普通のやつだ。あまり日持ちしないだろうけど、全部食べきれるのかと思うほど大量にある。ビールはいいけど、酸味がぶつかり合うからワインにはどうだろうか。日本酒はいい。しかし漬物は、カロリーはともかく塩分がなあ…とは思う。食べていてそれが心配になるくらいには、かなり塩辛い。後で、のどの渇きで眠れなくなるんじゃないかと思う。いままさに頭の中とか両手両足の血液濃度が、はっきりわかるほど粘度を増して、四肢を重たくさせている気がしてくる。

しかし漬物は美味しい。ことに胡瓜はいい。胡瓜ってそのまま食べるにしても、やはり塩との相性だし、それはもしかすると彼らも早い段階でわかってるのではないか。畑で育ちながら、ああ俺はきっとこの後、出荷されて間もなく塩漬けにされるのだな、それでようやく一人前ってことだなと、ちゃんと自覚してるのではないか。

「飾りじゃないのよ涙は」の歌詞の登場人物は泣いたことがなくて、刹那的な日常で胸のうちに波風が立つこともなくて、でも誰かがことあるごとに安っぽく感情を溢れさせることを、何か「違うと感じる」し「飾りじゃないのよ」と言いたいくらいには、涙というものに価値を見い出してはいて、いつか私にもそういう未練みたいなものが生まれて、それで私にもきっと、"かなしみ"が訪れるはずだと、きっと彼女は言っている。

これはごくシンプルに、涙の安売り批判の意図もあるだろうけど、やはり誰もがいつかは"ほかならぬこれ"を見出して、何かにつき当たって、そのことで泣くのだということを言ってる。それが一歩前進なのか、凡庸な穴に落ちたことなのかはわからないけど、とにかくこのままではない。いつかはこうでなくなると。

「私は泣いたことがない」と言われて、よくよく考えると僕は近隣者やそれなりに思いのあった誰かの死に際して、泣いたことがないと思う。死という出来事に際して、涙というものがそれこそ何か「違うと感じる」。これもまたストーリーだとして、泣くってのは無理でしょ、みたいな感じがある。

あと一週間でこの店がなくなってしまう。いつものように仕事をしているけど、そのことを思い出すたびに、思わず涙ぐんでしまう、みたいな話を聞くと、かろうじてそういう感傷なら、わからなくもないと思う。が、でも「場」に泣くことも、自分にはなさそうに思う。

それでも傾向として、自分はかなり、安っぽい涙を流すタイプだとは思う。テレビとかで煽られれば、簡単に泣く。そういう「相手の意図」は汲めるし、共感もするし、感情移入できる。人と同じ方向を歩ける。だから、もし何か「違うと感じる」と言われても、彼女には反論できない。

唯一思い出すのは小学三年か四年生のとき、飼っていた犬が死んだ。帰ってきたら、犬小屋から出て力尽きたかのように、ばたっと死んでいたのである。このときは、さすがにずいぶん泣いた。僕が死に際して泣いたことがあるのは、後にも先にも、これ一回だけではないか。

一昨日【古谷利裕 連続講座 第2回 「虚の透明性/実の透明性」を魔改造する】アーカイブを視聴した。以下内容をもとに自分なりに考えたこと。

「虚の透明性」の多彩なバリエーションというか、さまざまな事例が示され、ジャンルとしては主に建築または絵画であるけど、とくに建築における「虚の透明性」解釈の多様さが面白いと思った。

「ガルシュの住宅」「バウハウス工芸棟」に見られるのは、現実的な形態と想像的に想起される矩形面が、だまし絵とか角度によって見え方の変わる玩具のように多面的に感じられて、しかもそれら一つ一つを同時にイメージできない。重なり合わず、一個の確定的なイメージとして決着させられないことを、そのまま建物の印象として受け止めることになる。

面白いことに「プロジェクト国際連盟本部」では、建築空間内での遠近感から感じられる進行方向(奥行き)への方向性にぶつかるように、右手からの建物や木立などによる横軸からの方向性が干渉し、いわば実の奥行と虚の横軸が拮抗し合う。そんなのありかね?と思うけど、そのような敷地内に立ったのを想像したときと、ある建物の外観を見たときとに、何か不思議なまとまりのなさ、印象が確定しない曖昧さ、知覚に時間の掛かってる感じを、共通して感じることになるだろうかと思う。

また「サント・ピエトロ大聖堂の参道」とか「ルイス・カーンキンベル美術館」あるいは典型的な日本家屋にも、そのような働きは感じられるのだと。「虚の透明性」とは、別にタネが隠されているわけではないし、錯覚や錯視でもなくて、原理は見え見えなはずなのだけど、知覚はそれを落ち着いた固定イメージに落ちつけてしまうことがなく、見ることがザワザワとした時間の経過のなかに留まるような経験として感じられるものなのだ。

ただし「虚の透明性」が重要で「実の透明性」がそれに劣るというものではない。虚と実は複雑に絡み合っている、というか、そうであることによって、絵画(セザンヌ静物)であればひとつの作品としての美的資質が、その複合によって高められている。

おそらく、透明性を保ったまま幾層ものレイヤーを重ねていくことができるのと同時に、不透明で物質的に直接支持体への塗布も可能な油絵の具という画材が、「虚の透明性」と「実の透明性」とを、高い自由度で操るのにもっとも適しているのだと思う。セザンヌ静物画は大胆で強烈きわまりない、ほとんど異常な分裂とコンフリクトを湛えていながらも、うっとりさせられるような色彩間の響きと輝きをも持ち合わせている。これこそが虚と実との協働であり、それが可能であるのは油彩画の歴史に裏打ちされたメディア的なパワーゆえなのだ。

まず「虚の透明性」が示すものは、人の視覚が連続的ではないこと。【「穴(ブランク・間隙・空隙)」こそが空間のマトリクスである】。思うに「穴」とは、ふだんは忘れることが可能な何かであり、ふだん忘れている何かでもあり、ふだんはきちんと忘れなければいけない何かでもあるのだと思う。「穴」を忘れなければ、本来見るべき何かを見ることができない。しかし、けっして「穴」を忘れさせない、忘れることをかろうじて留まらせるような仕掛けが「虚の透明性」であると思う。

小津安二郎麦秋」冒頭の場面から想定される家屋全体の間取り図と、各ショット毎のカメラ位置と方向が図示されるのだが、各ショットのカメラはどの位置でも常に90度角に固定され、けっして斜めを向かない。だから家の中を動き回ってるはずの子供は、どのショットでも静止画のように画面の真ん中あたりにいるだけで、ショットごとに移り変わってるのはむしろ景色のほうだ。

このような撮影のやり方をしたら、ふつうモンタージュ不可能ではないか?空間内を人が動き回っているようには感じられないのではないか?という思いが杞憂に過ぎないのは、実際の場面を見ればわかるのだが、それは順序が逆で、違和感なく見ることの出来てしまう一連の場面が、なぜこんな不自然な方法から成り立っているのか、むしろその不可解さ、不気味さを感じ取るべきだろう。

もしこの解析結果に不気味さを感じるとしたら、おそらくそこに「穴」が見えたからだろう。しかも「穴」は、はじめから隠されているわけではないのだ。ずっと露呈されているのだ。「虚の透明性」において「穴」は、はじめから露呈されてなければならない。

(「穴」の露呈にもかかわらず、いや、だからこそ、カヴェル的に言うならそれは鑑賞者が、映画が「何かをしたいだろうということを受け取る」ということだろうか。)

そして「桂離宮 庭園」体験の詳細なレポートを見ていて思ったのは、おそらくこの庭園はテーマパークとかのように、庭園の作り手や、作家や、まして法人企業や統括組織の視点から、きっちりと管理され演出されたものではないのだろうということで、そうでなければ「虚の透明性」ではないだろうということだった。

庭園内の内側において、関係を連携させつつ展開される各景色は、一応は統合的な視点からおおまかな意図や企みに支えられてはいるのだろうけど、それは演出や計算とは違う、何かもっとぶっきらぼうというか、遠くで焦点が合えば良いというかのような鷹揚さというか、想像も含むけどそれこそ相反するものを無理矢理に併置してみた、という感じなのではないか。

「虚の透明性」は、効果ではないし技法でもなければ、演出にもなりえない。これは作者にも制御不可能な、どういう結果になるのかよくわからない、誰もが説明不能な方法なのだと思う。

ハーマン的「魅惑」とは、たとえば道具が壊れたときに、それまでの「感覚的性質(SQ)」のバリエーションが失われて、背後にある「実在的対象(RO)」が予感されたときのようなことを言うのだと。

たとえば「ろうそくは教師のようだ」という隠喩がある。この文の意味するところというか、このニュアンス、この感じを、他の言い方で言い換えられないということは、そこには「ろうそく」「教師」の、本質的な「実在的対象(RO)」が感じられているはずだと。これを要素に分解してしまえば、「魅惑」は生じない。だから「解体」はハーマンにとっては「リテラル化」である。(メロディの音符への分解、あるいは「アキレスと亀」を批判するベルクソンを思い出させる。)

それと没入について。没入している人物のイメージは安定しているけど、リテラリズムのそうでしかないような性質とは違って、それが(鑑賞者が絵を観たときに)、偶然にそうであることを感知し、それをじっくりと観察したくなる思いを引き出す。このとき画面内の人物も、それを描いた画家も、鑑賞者も、等しく没入の身振りを反復する。その身振りは、あらかじめ先取りされていた。時間の速度を動かし、拡張し、イメージへ没入し、絵を描くことへ没入する、それらすべてを、鑑賞しながら体験する。(マティスの非・確定的な運動のとらえ方を思い出させる。)

この状況全体が、対象と私とのあいだに共有された没入関係=演劇的関係なのだとハーマンは言うのだが、そういった圏内で起こることの絵画的な可能性を、さまざまなリアリズムとして、詳細に検討していくところに、フリードの絵画に対する取り組みの中心があるということか。

それと持続、瞬間性について。これも面白い。絵画においては、それが(鑑賞者が絵を観たときに)偶然にそうであることを鑑賞者は感じ取る。それは「鑑賞者に半ば催眠的に訴える」かのように感知される。鑑賞者の知覚や想像が、没入関係=演劇的のなかで、絵に命を吹き込み、絵を生き返らせる。同時に、たとえば肖像画であれば、その「顔」は、「鑑賞者に半ば催眠的に訴える」のではなくただちに意味を伝達する。「それは私たちに激突する」。カラヴァッジオの「トカゲに噛まれた少年」は、この二つの局面---没頭的局面と、反射的局面---が描かれているのだと。

…しかしどうも、ここでは制作する(画家)の側からの話のようで、フリードとしては、上記を体験しているのは鑑賞者ではなくて制作中の画家についてで、画家のいま描いてる内容が、状態として没頭できる局面か、分裂や反射の局面かの違いを述べているのだ。が、しかしフリード自身が鑑賞者の立場でそれを書いているわけだから、それはそれでいいのか。それはそのまま鑑賞者も感じ取るものとは言えないか。いずれにせよ、この没頭と激突(分裂や反射)は、大岩雄典による「放物線上」プロセスとして図示化される。「私が私(だったもの)に激突する」と称されたその図はすごく興味深い。これもまた可変的で可塑的な、絵画的な時間のなかで起こりうることだろうと思う。

最後に、芸術のフォーマリズムまたは美的経験の自律にまつわる「政治」問題、ならびにその都度固有の「私」を立て事後的な振り返りを可能にする装置にまつわる「私」の責任問題については、とくに前者については、自分のようなものさえある種の忸怩たる思いというか、徹底した自閉こそが最良の抵抗であると強く言いたい気持ちもあるのだが、それこそまさに「非政治的という邪悪な政治性」ではないかとの恐れもあり、浮かぬ思いだ。

昨日は乃木坂でマティス展を観てから、RYOZAN PARK 巣鴨で大岩雄典トークを聴講した。そして今朝はようやく古谷利裕 第2回「「虚の透明性/実の透明性」を魔改造する」をアーカイブで見ることができた。順次書いていきたいが、まずは昨夜のイベントについて。

まずフリードが影響されているカヴェルの芸術観といいうか、本来含有されていなければならぬ芸術の資質のようなものが興味深かった。まるで性善説のような、ある優しさというか、無根拠な世界への好意、楽天性のようなものを感じた。

カヴェルによれば、芸術作品があって鑑賞者がいるとき「絵画や彫刻やとして何かをしたいだろうということを受け取る」。それは「私たちの心を動かす。私たちは、ただそれに私たちはそれらにたた関わるだけではなく、気にかけ、ケアする。」芸術の言い分を聴き取ってしまうというのか、ついその対象を思いやってしまうというのか、そのようなニュアンスを感じる。これは、絵画や彫刻の擬人化ではなくて、いわんや作者の意図を感じ取るとかでもなくて、むしろ人間も絵画も同等に何らかの感受体のようなものなのだろう。その相互の「露呈」において、コミュニケーションが成り立つのだと。

が、だから、そんな芸術と人間との関係の原則を遵守していないのがリテラリズム的な作品(ミニマル・アート)であって、あらかじめそうであるべきものを反故にするのは、不誠実であると。

露呈しないから、世界は劇場化し、他者を登場人物にしてしまう。劇場のような関係を、他人に対して持とうとする。自分だけが暗闇に隠れて沈黙する(リテラル化する)ことが、世界を劇場のようなものに変える(自分は観客となり、相手は登場人物となる。)。

カヴェル的には、これは現実と劇場(リテラル化した現実)を用いたコミュニケーション観として語っているが、これがフリード的には、リテラリズム的な作品(ミニマル・アート)が作品としての露呈がなく不誠実であるがゆえに、鑑賞者を登場人物にしてしまうという風になる。自分は登場人物となり、相手(作品)は観客(というか自分をあらかじめ登場人物に含み込んだ劇場的なもの)となる。面白いことに、カヴェルと関係が逆転してしまうのだと。

登場人物化した鑑賞者は、暗闇の不誠実な作品らしきもの、暗闇からふいにあらわれる何かとの、(やや暗い部屋の中で)距離の取り方?その失敗?そのことに、ぎょっとさせられる。ひどく不安を煽られる…。大岩雄典は、それを「まるで舞台上の登場人物の視点から、ふと観客席の側がやや明るみ、それまで隠れていた観客の無表情に沈黙した姿がふいに見えてぎょっとするかのような経験」と記す。

ここでの「観客の無表情に沈黙した姿」とは、登場人物にさせられた観客のことだろう。「ぎょっとさせられる」のであれば、作品としての露呈はある?とも思われるが、おそらくそうではなくて、そのような状況に気づいてしまったときに、予期せぬことに登場人物化させられていた我々が、その無表情な顔を見合わせながら互いにぎょっとするということなのだろう。

(ただしリテラリズム的な作品による劇場化と登場人物化への強制に、鑑賞者はどこかで惹かれてしまう側面もあるのだろう、それを示すのが、あの一部を発光させつつ沈黙のうちにあるオブジェクトたちの姿なのだろう。)

他者の意図に自分がはめられてしまってる状態を、再現可能にしたもの。それが劇場であり、リテラル化ということか。

しかしハーマンの解釈は、鑑賞者+対象で状況がうまれる、そのときの、あたかも劇場化・リテラル化そのものであるかのような「引きずり込み」(魅惑)こそを重要と見る。ハーマン的には、鑑賞者なき芸術などありえないのだと。

他にもいろいろと、続きは明日以降にまた書きたい。