観たのは昨日だが、Amazon Primeで、チャン・リュルの「群山」(2022年)を観る。

詩人のパク・ヘイルが、先輩の元妻ムン・ソリと共に群山と呼ばれる地を訪れ、食事をし、宿に泊まる。二人の関係は、はっきりしないのだが、ムン・ソリは宿の主人を何となく気に入ったようで、パク・ヘイルはそのことが何となく気に入らない。

また宿の主人には娘がいて、彼女は引きこもりの自閉症なのだが、パク・ヘイルにはどこか気を許すような素振りを見せる。パク・ヘイルもそのことを意識する。

このことから、パク・ヘイルはそれなりに散々な目に会うわけだけど、面白いのは彼がひとしきりぐったりさせられた中盤を過ぎたあたりで、ようやくタイトル「群山」が画面に映し出される。

それだけなら今どき珍しくもないのだけど、ハッとするのは、タイトルが消えてから以降、どうも時制が変だぞと思わされ、なるほどこれはつまり、出来事の前半と後半が、まるっきり逆にされているのだなと理解される。

それだけと言えばそれだけなのだが、しかし面白かった。少なくとも後半(つまり時制の初期段階)のパク・ヘイルは、薬局で鎮痛剤を求めた際に従業員の女性にふしぎな親切の施しを受け、その後偶然ムン・ソリと出会い、彼女はずいぶん親しげに、いかにも彼に好意を寄せているかのような態度をとる。食事をしたりカラオケしたり、そのうちに「群山」というキーワードが、カラオケで歌っていた歌詞のなかに出てきて、それで二人は最後、共に群山へ向かうことになるのだ。

だから何なの?って話なのだが、なぜかこれが、しみじみ良い。群山でのパク・ヘイルの不満げな感じ、さらに彼が元の地へ戻ってからの(鎮痛剤を求めた薬局での)出来事など、なかなか寂しくて、でもこの寂しさは、チャン・リュルがテーマとして背負った、一貫した寄る辺なさであり、寂しさでもある。それは自分がこうだと信じていた記憶の、あまりの頼りなさ、そのおぼつかなさで、それはそのまま、自分自身という存在のおぼつかなさでもある。

(ちなみに今日観たのはチャン・リュルの「慶州 ヒョンとユニ」と「福岡」だが、そちらは明日以降に書く)

乃木坂で、マティス展の二回目を観た。

それにしてもいま、こうしてマティスの作品を観るということと、当時つまりその作品が描かれたばかりのときに観るということでは、大きな違いがあるのだろう。

マティスはこの世で、すでに巨匠でありその価値が確定しているという事実を、いったん忘れたとしても、やはり今と昔で、これらの作品を、人が観て感じ取る内実に、違いはあるはずだ。

なぜこのような作品が可能になったのか?それは画家の自信や勇気に起因するのか?あるいは周囲の理解や鼓舞によるのか?

たとえば、絵画は如何にしてであれ、人間による技法と修練の結果として存在する、だから絵画は如何にしてであれ、画家の思考や努力の痕跡が、そのどこかにあらわれるだろう。

マティスもそれはわかっていて、さらにそれが自分の方法によってきちんと伝達されることを、完全に信じている。そう思える根拠というか、それを可能にするだけの、彼の心の拠り所はきっと、自分の内側だけにあるのではななく、十九世紀後半から続く前衛芸術家たちのもたらしたものにも支えられていただろう。

そのときの、マティスの心の拠り所こそ、十九世紀後半以降の絵画の核心であり、モダニズムと呼ばれるものの核心だったのだろうと想像する。

だからマティスの絵画の向こう側に、先達の画家たちが、今の自分が知っているような事とはまるで別の何かとして、そこにはいるのだと、この作品を観る自分がマティスとして、それらを想像しなければいけないのだろう。

マティスの作品を観てよろこびを感じると同時に、その自分自身を頼りなく思う。よろこびは自分の内側だけに広がるもので、それは所詮自分を越えていくことはない。そこには連鎖がないと感じる。

希望は、マティス自身のよろこびを再生させることであり、マティスの心の拠り所としての十九世紀後半を再生させたいと願うことだ。

Bunkamuraル・シネマ 渋谷宮下で濱口竜介「悪は存在しない」(2024年)を観る (以下、ネタバレご注意ください)。オープニングで、明らかに山本達久のドラムとわかる緻密かつ神経的なハイハット音が聴こえてきて、見上げた空を背景に、連なる樹木たちが延々と流れていく、その場面がいつまでも続く…と思ったら、突如として轟音ノイズが湧き上がる…と思ったら、チェンソーの音である。

森の中に男がひとり、丸太を切り分けて、それらをひとつひとつ、拾い上げては切り株台に乗せ、斧を叩き下ろす。割っては次を拾い、また割っては次を拾う。こうしていつしか、薪がネコ車いっぱいになる。仕事がひと段落すると、煙草に火をつけて、深く喫い、白い煙をふーっと吐き出す。白い煙は、森の景色のなかへ漂い、一瞬で消え去る。

薪割りって、どのくらい難しいものだろうか。あの役者は、どのくらい練習して、ああして「この仕事に慣れてる」感を出せるようになるのだろうか。いや、あれはそもそも、「この仕事に慣れてる」感なのだろうか。

主人公が巧(大美賀均)で、おそらくその娘であろう少女が花(西川玲)である。

あの女の子は八歳らしい。実際にもそのくらいの年齢だろうか。無口で、目が大きくて、黒髪が長い。青い上着を着ている。樹木の名前をよく知ってる。お父さんに教えてもらうから、余計にくわしくなる。

どうなのか。この子の、この「神秘的な感じ」は。大昔の、宮崎あおい、か。子供らしさとは何だろうか。お父さんが「この仕事に慣れてる」ように薪を割る感じと、この女子が森の中を歩いている感じは、少し違う。それは最初からそう感じさせられる。(先日観た「秘密の森の、その向こう」の八歳の女子二人を思い出す。これとはかなり違う存在感として…)

序盤から、おそろしく冗長なカット割りが続く。それはいかにも「濱口調」とも言える。元々の「濱口調」な作風に少し戻ったような気もする。水汲み、自動車、銃声、学校の送り迎え。森の中に住む人々の生活感というか、生きるリズム感というか、このくらいの要素を繰り返して生活しているのですよと、そういうことの説明でもあるのだろうとも思う。

森が過度に美的だとも感じた。あの凍った湖は、鹿の飲み水だという。しかしほぼ凍っている。芸術作品のように美しい。しかし、どうなのかなあ…とも思っていた。

そんな森に、ある施設の建設計画がもたらされ、住民への説明会が催される。施設建設側の担当者の説明住民らは納得できず、場は紛糾する。住民側の意見は、端折らずにきちんと捉えられる。このあたりも、まさに濱口感そのもの。

巧は言う。この地はもともと、未開拓の場所を少数の者たちが開拓したので、歴史は浅く、その意味では誰もが移入者である。だから我々とあなた方との間に、本質的な差異はない、と。

村長(だったかな?)の男性は言う。環境保護とか、そんな大げさな話ではない。上に住む者と下に住む者がいて、モノはすべて上から下へ流れるのだから、上の者はそれに配慮しなければ、上には住めないのだ、単にそれだけのことだ、と。

この、先住者と後から(強い資本を後ろ盾にして)やって来ようとする者らとの、軋轢というか共生とか倫理とか、人間同士の問題をどう扱うのかの切り口が、本作のテーマの中心になるのかなと。建設計画担当者の二人、高橋(小坂竜士)と黛(渋谷采郁)の、その後、巧や先住者との関わりによる彼らの心理の変容を見せていくことで、あらたな可能性を探るような展開なのかなと、そこまでの流れではそう思わされるのだが、しかしそれは違うのだ。花(西川玲)の失踪とその後の出来事をきっかけに、それまでの位相が切り裂かれてしまう。もはや、人間の揉め事はどこかへ消え去る。問題はもはや、別次元へ移行してしまう。

思い返せば、はじめから匂わされていたのかもしれない「森の論理」のようなものが、そこに牙を剥いたようのかもしれない。動物が動物を、一瞬でパクっと食べてしまうように、一瞬の後に、すべての生は危機に晒される。というか、それはただの摂理であって、危機でさえなく、それは倫理の果てである。

巧の最後の行動は、ほとんど説明のつかない、やむにやまれぬ衝動なのだろうけど、そこには何らかの、連鎖というか、世界の法則というか、従うべき掟には、従わねばならぬという、瞬時の生物的な判断のゆえだったのではないかと、そんな風にも考えたくなった。

まあ、このラストでは、何とでも言えるし、どうとでも考えられる。際限なく言葉を重ねることはある意味で容易だろう。そもそもタイトル「悪は存在しない」が、そのまま同様に、神も不在であり、それを代替し人間の位相に安定をもたらしてくれる何の摂理も期待できないと、容易に想像させるわけで、その地平であの森を見て、あの間もなく死に至るのだろう手負いの鹿を見るというのは、だからつまり、そのように空しい言葉しか呼んではこないのだ。

ただ、これをやるならもっと手前の掘り下げが、それこそ観客に苦痛を与えるくらいの勢いで、もっと執拗なやり方で準備されるべきなのではないかとか、そういうモヤモヤ感はあった。あるいはもっと人間同士の闘争が、前半にどっしりと腐臭を放ってないといけないのではと。傷を負った(聖なる)鹿に、最後の審判を下してもらった、あの鹿に一任させてしまったところが、あるようにも感じた。
とはいえ、やはり見応えのある作品だった。また機会があれば再見するだろう。

U-NEXTで、アラン・ロブ=グリエ「ヨーロッパ横断特急」(1966年)を観る。麻薬の運び屋が、トランス・ヨーロッパ・エクスプレスに乗って、パリからアントワープまでアタッシュケースを運ぶ。…そんな映画を作ろうと、映画監督と関係者ら計三名が、トランス・ヨーロッパ・エクスプレスの客室で話し合っている。

そんな彼らの検討案が元になっている場面、密売人のエリアス(ジャン=ルイ・トランティニャン)が、露店で鞄を購入し、パリ北駅のロッカー前に立つ男と暗号メッセージを交わし、鞄を交換して特急列車に乗り込むまでの、一連の様子が示される。彼は車内を移動し、関係者三名が話し合っている客室をも通り過ぎる。

映画はもともと、現実の俳優が演技をして、その撮影したフィルムを任意につなぎ合わせて作られている。だから映画がメタ構造の物語を取り扱うなら、たとえば映画構想中のスタッフたちのいる場所に、その構想段階の登場人物が介入してきたとしても、それは映画の撮影においてであれば、何ら驚くべきことではない。

本作はそのことにはおそらく十分自覚的で、本作が目指したことはメタ構造物語というよりは、物語の「登場人物」という不思議な存在について、それをどうにか別の方法と別の視点から取り扱えないかと、それを探る手段としてひとまず、お話そのものの「構想中レイヤー」が設定されたのではないかと考えてみる。

だからこの映画で面白いのは、物語や構造ではなくて、物語や構造を未だ与えられない登場人物の焦りや戸惑い、かすかな狼狽の感じ、これから自分が何をすれば良いのか一瞬先を手探りするような、それは人格への感情移入未満というか、未然の不確かさに関する手触りではないかと思う。

ただし演じる人間を、本当にセリフも与えられないまま撮影現場に投げ出すわけではないはずだ。演じる者は「現実」レベルでは、自分の役割をわかっている。にもかかわらず、そこにはある「支えの無さ」「不安定さ」が現われている気がするのだ。

もしそうなら、現実のアドリブを撮るよりも、「現実」レベルで役者が「支えの無さ」「不安定さ」を感じてない、にもかかわらず、作品によるべなさが漂うことのほうが、凄いと思う。

あるいは、つねに五分前の記憶を無くす人物が主人公の映画でも、同様の感触は得られるのかもしれないけど、その規則をもとに映画を組み立てることが出来てしまうなら、時空そのものは安定している。本作の主人公は、建前としてはマトモ(?)な麻薬の密売人のはずで、だから自分の仕事も段取りもわかっているはずで、始終わかってる風な行動を取る。しかし彼はそれを、ひたすら映画の登場人物の自覚と責任においてやっているだけなのだ。(筒井康隆虚人たち」的なところもあるのか。"今のところまだ何でもない彼は何もしていない。"登場人物。)

もちろん、役割以前の段階に放り出されて戸惑っている映画の登場人物というのは、すでにありふれているとも言えるだろうけど、本作の独自な感触は、登場人物エリアスにも内面があって、それは彼の性的な欲望として常に示される、それが反復されるポルノグラフィー、緊縛された半裸女性のイメージにあるだろう。それによって彼は、構想途中の映画の、未完成な筋書に付き合うことから、何とか脱しようとするかのようだ。

幼稚園時代はM先生、小学一年生ではS先生だった、若い女性という存在にそれで出会った。つまり学校とは、若い女性のいる場所だった。もちろん謎の論理で校内を歩き回る壮年男性たちも、老人らもいた。なにしろ、あの男女らは少なくとも我々子供とは異なる者たちだった。

小学二年のときは、B先生で、女性だったがすでに若くはなく、おそらく母親より少し上くらいと思われる。色々なことに面倒くさそうだったが、諸事てきぱきやる感じで、それはそれで、僕は好ましく感じていた。若い女にはない持ち味だよなとさえ思った。

小学三年とときは、K先生で、容姿や物腰に関しては悪くないと当初思ったものの、ほどなくして、これははずれを引いたなと思った。色々な意味で厄介な女だった。そこそこ容易いのだけど、どこかでご機嫌を取らねばならないところはあった。そういうケアの必要な相手もいるのだと知ったのは、あの教室で僕だけではなかったはず。

思い込みが強くて、感情過多で、それを自分の長所だと思ってるふしがあった。たまに職業差別的なことを口にする人だった。

小学四年になって、W先生、僕にとって初の男性教師だった。男性の面白さをはじめて知る。そして、たまに平手で殴られた。そういうことが、当時はまだ普通だった。それをされて、これが教師に殴られるということかと思い、まるで初体験を経た気になった。面白がったり、たまに殴られたり、そういうことを繰り返した。

卒業式が終わって、教室に戻ってきたら、W先生はとつぜん男泣きをはじめた。声を上げて泣くのである。それで教室中からすすり泣きの声が上がり、僕もその場でずいぶん泣いた。悲しかったから泣いたのだが、同時にこれもまた初体験を経たという感じだった。もちろんまったく泣かない者もいた。笑顔を腕で隠しながら、周囲を見回してる者もいた。それはそれで良かった。人それぞれなのだ。

幼稚園時代が五歳から六歳なら、保育園時代は四歳ということになる。四歳の頃の記憶となると、まとまりのある出来事ではなく、脈絡をうしなった断片のいくつかでしかない。でもそれらが自分にとっては最古の記憶ということになる。

ならば麦茶という飲み物の味を僕は四歳のときに知ったのだなと思う。保育園に備え付けられていたポットの冷えた麦茶を飲んだときの味を、今でも麦茶を飲むたびに思い出せるというか、麦茶の味とはつまり四歳の頃に飲んだあの液体の味であり、それはあの時と今とでまったく変わらない。

(五十年近い時間が間に挟まっているとは思えない)。(作り置きの麦茶は冷蔵庫に入れておくと数日で味が落ちてくるのだが、まだ作りたてで新鮮で香りの消えてない麦茶が、まさに四歳のときに飲んだ麦茶の味なのだ)。(ほとんど「ラスト・エンペラー」のコウロギみたいだ)。

実家で母が作ってくれた味噌汁は、何の変哲もない市販の合わせ味噌だったけど、夏休みに両親の実家に帰省すると、その家の味噌汁は家と違って赤だしなのだった。

たぶんこれは十歳前後の記憶なのだと思うが、朝になって、無理やり起こされて、まだ猛烈な眠気を払いきれないままで、朝食の支度が済んだ机の前に座らされる。目を閉じればすぐにも眠ってしまいそうな眠気のなかで、無理やりご飯を口に運び、赤だしの味噌汁を飲む。

そのとき口に入ってきた味噌汁の味わいも、それを口にするたびに、あの朝の抗いがたい眠気と、そんな口と喉を通り抜けていった味噌汁の味がよみがえってくるというか、僕にとってはこれこそが赤だし味噌汁の味なのだ。

しかし麦茶にしろ赤だし味噌汁にしろ、ここ数年であらためて好きになってきたのが不思議だ。別に郷愁とかそういうのを感じたいわけでは全然なくて、どちらも単にとても美味しいと感じるのだ。

U-NEXTでセリーヌ・シアマ「燃ゆる女の肖像」(2019年)を観る。18世紀の舞台はフランスのブルターニュらしい。お屋敷に住む令嬢エロイーズ(アデル・エネル)と母親と召使ソフィ(ルアナ・バイラミ)。お嬢様エロイーズの心は沈んでいる。ミラノの家へ嫁ぐことが決まってるのだけど、本来姉の嫁ぎ先だったのに姉が自殺したので、彼女に順番が回ってきたのだ。そんな状況なので、エロイーズは精神的にかなり参っていて、誰にも心を開かない。もしかすると姉のように自殺する可能性さえあるかも。

そんなお嬢様の元へ、女性画家のマリアンヌ(ノエミ・メルラン)がやってくる。母親から肖像画を描くよう用命されて来たのだ。ただしお嬢様はあの状態なので、まずマリアンヌは散歩の付き人として彼女に接近し、その場で彼女を観察しながら、自室でこっそり肖像画を完成させることになる。

お嬢様と画家は、言葉少なに探り合うように対話する。散歩ではエロイーズが前を歩き、マリアンヌは後ろを付いて歩く。絵を描くために顔をきちんと観察したいのだが、彼女の髪や耳の付け根や頬の輪郭しか見えずに彼女は逡巡し、逆にエロイーズからにらまれたりもする。最初その前後関係の切り返しがとてもいい感じだ。

このマリアンヌという画家は、けっこう自我の強い人なのだ。まさに女だてらに、という感じである。この地に辿り着くとき、小舟から落ちた画材が海に流されそうになると、果敢に海へ飛び込んでそれを取り戻すほどの行動力があり、意志も固い。また画家はおそらく仕事の技量に確固たる自信があり、箱入り娘のお嬢様エロイーズに対しても、立場や身分はもちろん較べるべくもないが、自分自身の経験や自由さは彼女に対してある意味優位にあると感じている。

エロイーズもおそらくそれに、そう思われていることに、気づいてはいる。彼女にはまだ大人として最低限の自由さえない。恋愛経験もないし、それどころか音楽すら、修道院で演奏される退屈なものを聴きに行って、それでも自宅よりはまだ気が紛れるくらいなのだ。画家は言う。ミラノへ行って本物に触れてくださいと。お嬢様にもそれはわかっている。わかってはいるけど、かつ自分の目の前にいるこの女性の性格や考えを、自分に何かを忠告できるだけの彼女の自信の根拠を、どこかでするどく見抜いているようでもある。

やがて肖像画は完成し、画家はお嬢様に自らの正体を告白する。お嬢様としてはさすがにショックだ。少しずつ打ち解け合い、友人関係のような感覚さえ抱きはじめていたのに、ちょっと裏切られたような気分だ。

お嬢様は肖像画を見る。画家は自身たっぷりの表情だ。お嬢様は言う。これが私?と。その絵をまるで気に入らないといった態度だ。画家はショックを受ける。いえ、肖像画とはこういうものであり、ここには規律や制度によって支えられた何かがあるのだとお嬢様に説明するが、お嬢様は言葉を撤回しない。この絵には、私はいないし、それどころか貴方さえいませんよ、と。

画家のプライドは傷付いた。思わず自ら絵を壊してしまう。依頼主である母親は怒り、もう一度描かせてほしいと頼む画家を即時追い払おうとする。そのときお嬢様が割って入り、意外にも彼女自身がモデルを務めると提案する。ならば私が不在となる五日間の間に肖像画を完成させなさいと、やむなく母親は画家に言う。

画家とお嬢様と召使も加えた女子三人は、束の間母親のいないお屋敷で急速に親しい間柄になる。三人一緒に夕食をとり、カードゲームで遊んで大盛り上がりもするようになった。ある晩に画家が、お嬢様と召使を相手に読み聞かせるのはオルフェウスの逸話だ。一度死んだ奥さんが生き返ったのでオルフェウスは奥さんと一緒にこの世へ戻ろうとする。しかし戻り付くまで一度も奥さんの姿を見てはいけないという約束に背き、オルフェウスは思わず奥さんの方を振り返ってしまう。それで奥さんは再び死者の世界へ逆戻りとなる、そんな物語である。

この話を聞いた召使ソフィは、オルフェウスには愛が足りないのだと怒る。いや、そうかもしれないけど、オルフェウスは詩人だから、とにかく奥さんの姿をこの目で見て、それを詩に書き留めようとしたのかもしれないと、画家は意見する。それを聞いたお嬢様は、もしかしてオルフェウスが振り返ったのではなく、奥さんが彼を振り返らせたのでは?と言葉を継ぐ。

ここで画家=観察する者と、モデル=観られる者との立場が鮮明にきわだつ。観たい者は観たいと思わされているのでは?画家とモデルの、これは一種の闘いでもある、お嬢様エロイーズは、遠回しにそう告げているかのようだ。

そもそもあなたは、自分が無制限に何でも観て描けると思っているけど、それは本当なのですか?あなたは、じつは見たいものしか見ないのではないですか?あなたの一方的なペースで、物事を考えないでほしいのですよ。…召使の子が堕胎施術を受ける様子を前にして、画家は思わず目を逸らそうとする。お嬢様はそんな画家を引き留め、きちんと見なければダメだと画家を諭す。あなたがこれを見ずして他に何を見るのかと。驚くべきことに、お嬢様は帰宅後の召使にもう一度堕胎時の姿勢を取らせて、自分が産婆のよう彼女の足の間に手を入れ、この情景を絵に描けと画家に言うのだ。画家は言われるがままにその「ポーズ」をした二人を描く。

お嬢様は明らかに画家に対して強くメッセージを送っている。あなたは観察し、それを絵に描き、自己を実現している。私よりも自由に生きていると思ってる。しかしそれはあなたの思い上がりなのだ。あなたはまだ本気で仕事をしていない、自分の仕事の質を本気で高めようとしてないではないか、と。……しかしなぜ、お嬢様はそこまで画家を牽制し、画家の弱みを突こうとするのか?

※言うまでもないが、この文章は本作を観た僕の主観(思い込み・拡大解釈)が、大量に含まれている(あえて意図的にそのように書いている)。他の人がこの映画を観て同じように感じるか?は、わからない。

物語は後半に差し掛かり、その疑問がある意味解消するような展開を見せる。お嬢様と画家は、ある時期から、あるいは出会いの最初から、じつは互いに惹かれ合っていた。それをお互いに認めるかのように、二人は抱擁し接吻する。本作はここから、一気に恋愛映画になる。恋愛とはつまり、惹かれ合う二人の情報戦みたいなもので、それは男女間だろうが同性間だろうが変わらない、そういうものなのだなと、後半の展開を観ながら思った。シーソーゲームというのか、パワーゲームというのか、お互いの立場の違いが、そのまま強みや弱みになる、いわば画家とお嬢様が、はじめて出会った当初の場所へ、ふりだしに戻ったようなものだな、と思う。

画家は肖像画を描き上げたあと、それを納品して、まるで「男」のように、お嬢様の元を去ろうとする。もちろん悲劇の別れであり、お嬢様はあたかも予想された未来であったかのように、オルフェウスと妻の前後関係を再現しようとする。私を振り返れ!と。またそれは、出会ったばかりの頃の二人の散歩において、彼女が前を歩き画家が後ろを付いて歩いていたことが、こうまで簡単にひっくり返ってしまうことへの嘆きでもあるだろう。

恋愛はそのようにして、お互いの立場や条件をくっきりと浮き上がらせ、それがいつまでも継続できないことへの諦めを促すよりほかない。そうなると結局、「辛さをこらえて去り行く」のも、さらに「在りし日の恋愛の思い出に浸る」のも、「今このときを記憶とか詩とか絵とかに置き換えたがる」のも、全部がいつも、強い立場の側であり、たしかにそれが過去多くは「男性」でもあっただろうが、いずれにせよ立場や性別がどうであれ、それはそういうものだと。この物語は女性同士の恋愛事例でありながら、そのことを残酷に示すかのようだ。

あるいは、絵を描きあぐねるにせよ、絵になった相手、あるいは遠くの相手を眺めて感傷に浸るにせよ、それは一方的に観察することの特権性、芸術家の傲慢、自分にそれが許されると思っていることが前提の思い上がりで、この映画はそれこそを批判したいのではないか。