RYOZAN PARK巣鴨で、保坂和志「小説的思考塾 vol.16 with 山下澄人」。自分が考えたこと(そういう話だったわけではない)を、以下に取りとめなく。

フリージャズとか、ベケットとかの、そういう表現がある。それはなぜか、ある。それは必要ない人にとっては必要ないが、必要な人にとっては必要である。それは今も昔も変わらない。

かたや、小林秀雄とか江藤淳とかがある。あるいは、マティスとかの絵があり、かたや、写実絵画とか細密表現とかの絵がある。

小林秀雄とか江藤淳は、その内実の前に、はじめから必要とされていた。そういう構造というか制度があった。そこから外れるものは外れないものよりも劣るとされた。しかし劣るとしても、それはそれで存在していること自体はかまわなかった。

今の世の中は、たぶん「意味不明なもの」の居場所は、ますます少なくなってきている。風当たりが強くなってきている。説明を求められがちである。ほっといてくれない。そもそも小林秀雄とか江藤淳的なものがすでにない。だから余計に、それ以下(だろうと思われる)のものは、ますます排除されるべきものに見える。

SNSなどに出てくる詐欺広告がある。あれは、あれに引っかかる人もいれば、引っかからない人もいる。

引っ掛からない人、あるいは引っ掛かりたくないと思う人(A)にとって、引っ掛かる人、やられた人(B)は、それを見抜く力が足りないということで、Aから見てBは「そうあってはならない私」だ。

だからAは、常に意識を高めている。常に新たなリスクに備える必要があるからだ。現在のこの私を守り、保全する必要があるのだ。AはA自身を常に気にかけながら生きる。

ところで、もう一人の、引っ掛からない人、あるいはたまたま引っ掛かってない人(C)にとって、引っ掛かる人(B)は、「まあいいか」と思って意図的に引っ掛かった人で、Cから見てBは「まあいいか、と思ったかもしれない、あるいは、あー引っ掛かったと思う私」だ。

だからCは「そうなったとしても、まあいいか」と、いつも思っていて、かつ自分のみならず、この世の誰もが「もし引っ掛かっても、まあいいか」と思っている、のではないかと想像している。

新たな危機は常に発生するが、そういうのをいちいち気にしてるのも面倒くさいし、もし自分を引っ掛けようと詐欺師が近づいてきたとしても、そいつに何度も同じことを言われるのは鬱陶しいから、あーはいはい、わかったよと言って、あえて引っ掛かってあげて、相手の言いなりになってあげたりもする。

Cの知人に、自身で七つもの宗教に入ってる人がいる。どれもが勧誘に応じた結果だ。みんながそんな風に適当に、なしくずし的に相手の言い分を聞いたり聞かなかったりしながらやっている。

マルチ商法で成功した人物と、その所業を知って、彼に取材を申し込んだジャーナリストが対面する。ジャーナリストは相手に対して、冷静で客観でありかつ彼に否定的である。インタビューを受ける相手は、ジャーナリストの質問に対してまったく隠し立てせず誠実に答える。そのうえでマルチ成功者は、ジャーナリストに言う。私はその気になれば、ものの数分であなたを我が商品の購買者に加えることができますよと。

それは、おそらく本当かもしれない。だとすれば、引っ掛からない人、あるいは引っ掛かりたくないと思う人Aは、現在のこの私を守り、保全する必要があるとして、でもそれはやはり、無駄な努力なのかもしれない。新たな危機は、Aの予測を遥かに越えて強大な可能性があるからだ。

しかし、Cは「まあいいか」と言って、マルチ成功者の巧みな話術を聞くまでもなく、意図的にマルチ商法の購買者になる。近所の人も、その辺の人も、購買者だったり、そうじゃなかったりする。

AさんとCさんは、同じ世界の住人なのだけど、たぶん見ている世界が違う。Aさんにとっての危機は、Cさんにとっては、まるで意識にものぼらない何かだ。

ただ、Aさんは常にAさん自身だが、Cさんは常にCさんであり、かつ、いつでも引っ掛かる人(B)さんに重なる。CさんはBさんと同化することに対して抵抗がない。ゆえにCさんにとってBさんは存在しない。というかCさんはそのままBさんでもある。

しかしCさんがAさんになるためには、Aさんの規律を自分のなかに取り入れる必要がある。だとすれば、これこそが「引っ掛かった」ということだ。AさんがBさんになることが「引っ掛かった」のではなくて、CさんがAさんになることが「引っ掛かった」ことなのだ。Cさんが一度でもAさんになったら、たぶんもう二度とAさんはCさんにならない。

Cさんが、自身でありながらBさんでもあることに抵抗がないのは、CさんがBさんの親切さを自分勝手に想像するからである。それは勝手な想像に過ぎないので、実際のBさんの心のうちはわからないが、Cさんにとって、BさんやあるいはAさんも含め、人が人の要求を受け入れるのは、利害や損得もさることながら、要求された側の親切心からであると思っていて、世の中とは、要求する側とされる側が、それなりの面倒くささを我慢しつつ、かすかな笑いを相互に交えつつ、互いの親切心をやり取りして、動いているものだと思っている。

だから、この世の中で、C(BまたはA)さんは「引っ掛ける人(X)」から、つねに搾取され続けるとしても、それが成り立つのはCさんの親切心である。マルチ商法で成功した人物も含めて、この世の「引っ掛ける人(X)」は、いわばCさんの慈悲で、さらに言えばCさん的な想像上のこの世のすべてのCさんによって生かされている。

そしてCさんの慈悲は、まるで砂糖が歯を溶かしていくかのように、(X)さんの存在根拠を崩し、この世の仕組み自体を溶かしていくのかもしれない。誰もが「まあええか」と言って親切心を起こせば、モノが上から下へと流れる構造自体が崩れていくのかもしれない。

それは親切心でもあり、面倒くささでもある。面倒だから、なんでもいいよと言えるだけの、よくわからない何かでもある。それがA、B、Cさん各内部にあるべきものなのか、その外部にあるべきものなのかは不明だ。

Amazon Primeでデヴィッド・ロウリー「さらば愛しきアウトロー」(2018年)を観る。これは良かった。冒頭で、車で逃走中のロバート・レッドフォードと、車の故障で困っていたシシー・スペイセク、おそらく後期高齢者かその手前と思われる男女二人が出会い、会話を交わすところからカップル誕生となるまでの流れのすばらしさで、これは傑作だと早くも確信させられた。それだけで充分過ぎる密度があるのに、さらにケイシー・アフレックの、心のどこかにもやもやした不安をかかえたような、あのいつもの表情があらわれて、彼の家族の様子が映し出されて、すべての役者が揃って、物語の厚みががっつりと仕立て上げられて、もうこれは期待をもたせずにはいられない展開だなと、たいへんよろこばしい思いに浸りつつ、文字通り画面に釘付けな感じだった。

監督のデヴィッド・ロウリーの持ち味というか、独特なダルさ、アンニュイさ、ねっとりと絡みつくような演出のテンポは本作にも感じられるのだが、しかしどの場面がとかどの下りがとかは示しづらい。作家性みたいなものを上手く言葉にしづらい、でもそれとはっきりわかる感じはある。あいかわらずの感触だなと。

筋書的には「追い詰められていく銀行強盗」パターンと「自由に生きたい男」パターン(最後、馬に乗るし…。)へ向かって進まざるを得ない側面において、どうしても前半部での期待がそのまま維持されはしない…のだけど、それでも単純な悲劇とかアクション構図へはおさめずに、最初から最後までゆったり、余裕で物語を進めていく感じは、やはりすごくいい。シシー・スペイセクが一貫してすばらしいのだが、映画でこういう老人カップルが魅力的であること自体がよろこばしく、中年夫婦ケイシー・アフレックと奥さんとの対比も気にならない程度に効いていて。あと舞台設定は1981年であることの絶妙さ。何が絶妙かはよくわからないが、こうロバート・レッドフォードの犯罪の手口に、警察側の捜査に使われる技術や方法の微妙な古さが、ああ、これは時間かかりそうだわと思わせる、今とは違う感覚だろうなと思わせる感じとか、上手くできてると思うし、それなのに後半、シレっと時代に関係ないThe kinksの"lola"を鳴り響かせるのも、すばらしい("lola"なんて何十年ぶりかに聴いた。映画を観てるあいだは、聴いたことあるのに誰の曲だか思い出せない病にやや苦しむ…)。サクッと90分で終わるし。こういう映画を、ひたすらたくさん観たいわ……と思わせてくれる、久々の満足感。

絵を観てすごいと思う瞬間、その絵自体は昔から知っていて、もう見慣れているとさえ言えるのに、ふいにそれまで気づくことのなかった新しい何かに目が吸い寄せられる。たまたま発見したのではなく、あえて着目してみた、わかっていると思っている場所をあえて読み直してみた、そのとき、とりたてて感情が呼び起こされることもないはずの、ほんの些細な箇所に過ぎないある部分からはじまる出来事があって、そこから連絡を通じ合おうとする各関係が生じるのを見出す。その観察を続けながら、固定で視線を留まらせておくのを幸福に感じていたりする。

それは新発見とか未知の発掘ではなくて、すでに見ていた何かに今までの自分が、自分起因の態度や関心や注意力や許容度や執着によって、意図的にそれを起動させなかった。絵そのものは以前と何も変わってない。しかしそこには、起動すればしただけの運動が、はじめから用意されている、その寛大さというか寛容さがはじめから準備されている。

だからその絵を、正当な立場や条件にもとづいてきちんと正面から見ているというのではなく、不特定多数を相手にした善意の施しが与えられたので、その片隅に自分も小さくぶら下がっている感じになる。

一日のうちで眠ることの快楽をいちばん感じるタイミングが、朝の通勤電車の中というのは、かなりお粗末というか、そんな不幸な人生を送ってる勤め人、さすがにみじめじゃないかと思いもするのだけど、しかしあの座席に座ってかすかな振動に揺られているうちに、うつむいた先の視界がぼやけ、あらゆる意識のうごめきが、睡魔の巨大な砂塵に埋もれていく瞬間の、もうなりふりかまわず、何もかもを捨ててしまえる、そのままなしくずし的に、沈みきってしまうことだけを望む、ほんとうに開き直ったようなあの感覚は、なかなかのものなのだ。もしかして来たるべき死の瞬間が、あのような、すべてを手放すことの愉悦をともなうようなものであったならと、想像しないでもない。

年齢を重ねれば重ねるほど、あらゆることが二度目とか三度目になる。はじめて観る映画でさえ、はじめての経験に感じられることが稀だ。

と書いたが、それは違う。はじめて観る映画なら、はじめてであると、きちんと感じなければならない。そう感じないなら、学ばねばならないのだ。老人に近づきつつ、さらに学ぶ、学び方も含めて学ばないといけない。

しかも、死に方を学ぶ、というのでは良くない。さらなる生き方を学ばないといけない。

アルバム「霧の5次元」のザ・バーズザ・バーズは初期から一貫して、ロジャー・マッギンの12弦リッケンバッカーの音があまりにも特徴的なので、これが有る無しで聴こえてくる楽曲が、ザ・バーズであるか否かが容易に判断できてしまうほどだ。

それはギターというよりもオルガンのようだと思う。鋭く金属質な音色のオルガンが、終始鳴り響いているかのようだ。抑揚はほとんどなく、全体をのっぺりと包んでいて、ただし分厚く膨らんだ一音の幅が細かく強弱を変えながら振動していて、だからそれは最終的に出口のない密室内での、終わらない耳鳴りのようなものに聴こえてくる。

こういう音作りは、今では考えられないようなものだろう。音を分厚くするにしても、異なる音を重ねるにしても、もうちょっとやりようがあるはずだ。未整理でバランスが悪くて乱暴だ。しかしそれでこそザ・バーズというか、それこそが時代なのだろう。使い回される前、細部の調整前、洗練される前だからこそ、要素がぶつかり合ったまま、そのままで完了にできる。

同じような時代的感触は、90年代にもあったのかなと思う(異様に荒々しいループとか…)。未開の領域に手探りで分け入っていく感じ。それは後から振り返ってみても、滑稽や未熟や思慮浅さには思われない。時代が移り変わっても、未開の領域を目指した蛮勇のカッコよさの感触は消えないのだ。

Amazon Primeで、セリーヌ・シアマ「秘密の森の、その向こう」(2021年)を観る。始まって、粛々と進む場面を見ながら、そうか、亡くなったのは一番最初にいた、あのお婆さんか、と。ある終焉の感じ、物憂げでくたびれたような、気の抜けたような雰囲気が、家の中に漂ってる。季節は秋か。見事な紅葉につつまれた森の中を、八歳の娘ネリー(ジョセフィーヌ・サンス)を後ろに乗せて、母親マリオン(ニナ・ミュリス)が、己憂げな表情で車を走らせる。ネリーは後ろからお菓子だのジュースだのを母親の口元へ運ぶ。母は黙ったままそれを口にする。

あの家を、引き払わなければならないのだ、ずいぶん意気消沈してしまってるお母さんと、カラ元気を出すお父さんがいて、八歳の娘がいる。お父さんが食器棚だか冷蔵庫だかをズルズル移動させると、後ろから昔の壁紙が出てくる。おぼえてる?もう忘れたでしょ、お父さんは昔、森の中に作った小屋のことも忘れてるでしょ、と。

「編集」というものが感じさせてくれる小気味よさだなと思う。淡々と、必要最小限の説明だけで、話が進んでいく。

その後、母が突然失踪してしまい、ネリーは森の中で、同じ年頃の少女と出会い、二人は友達になる。彼女の家へ訪れて、その家のダイニングには古い壁紙がまだ現役で貼られていて、廊下の突き当たりにあるトイレをのぞいて、ネリーはここが、かつての我が家だと知る。おそらく少女は幼い頃の、ネリーの母マリオンであり、左手の部屋には、まだ祖母が生きていて、こちらに背中を向けて眠っている。

父親は着々と家を引き払う準備を進める。ネリーはマリオンと一緒に、招待されたから彼女の家に一泊したいと父に懇願する。父は娘の言い分を聞き入れる。父とハグするネリー。それを見つめるマリオンは、ありがとうと小さく口にする。まるで夫に語り掛ける妻のようなさりげなさで。

ひとつのベッドで眠って朝を迎えた二人は、ゴムボートで湖へ漕ぎ出し、その後別れを告げる。一人で家に帰ってきたネリーは、薄暗くて何もない部屋でじっとうずくまっている母親の姿を見出す。ネリーは母親と抱き合い「マリオン」と、その名を呼ぶ。

しみじみと良い話だった。この、現実にはありえない一連の出来事は、母親の失踪と帰還に挟まれていて、どことなくこの作品のすべてが、母親の頭の中の世界だったように、そう思いたくなるような感触をたたえて、静かに幕を閉じる。

大人の事情、大人の悩みは、本作ではすべて内実を隠されている。お父さんの不思議にやさしい笑顔や仕草の裏側に、それはきっとあるのだろうけど、子供には見えなくて、せいぜいお父さんの髭剃りのお手伝いをするくらいだ。

子供時代のマリオンの態度、彼女だって何も知らない。でも子供時代のマリオンは、母親を亡くした自分自身の過去へと向かう想像の産物だとしたら。

子役の二人は、ああ、いかにも八歳児だなあ…という感じだった。このくらいの子供特有の、無表情というか、ぶっきらぼうというか、何も語ってない、無機質な視線。子供って、こういう表情、こういう眼で、何かを見るよね…という感じ。