御茶ノ水から、靖国通り昭和通り、春日通りと辿って、湯島まで歩く。最近は浅草もそうだけど、秋葉原から上野にかけて立ち並ぶ雑居ビルのなかにも、主に外国人観光客が利用するのだろうホテルをよく見かける。そんなビルの入口からふいに若い女性があらわれて、一人でぐいぐいと、どこかを目指して歩きだす。ああ観光客だなと思う。別に楽しそうでもなければ浮かれた感じでもない。このへんの住人か職場から出てきた人であってもおかしくない。でもその後ろ姿に、なぜか説明のつかない不思議な唐突さがあって、きっと観光客だと想像させる。ひとりで外国へやって来て、あるいは友人らと一緒かもしれないが、いまは個人行動しているのではないか。でもなぜそう思うのか、かつて大昔に自分も、ああして一人、ホテルを出てひとりでどこかを目指して歩いた、そのときの気分を思い出させるからだろうか。

トニー・オクスレイが亡くなったのは去年の12月である。当時そのニュースを見てここに何かを書きたい気もしたが、そのままスルーした。

しかしやはり、トニー・オクスレイが死んだ!と書けばよかった。どうせふだんはろくに聴かないなら、それを自分に言い聞かせて死にかこつけてでも聴けば良いのだ。

トニー・オクスレイの死と一口に云う時、それは人間の死ではなくて、なんらかの発狂箱というか、通りの隅っこで鳴ってる謎な機械というか、そんな気がかりな物象の消滅…という感じがする。つまりトニー・オクスレイという名称を、僕は人間に付されたものだとは思ってないらしい。トニー・オクスレイと言えばあの、あれでしょ、CDを再生すると必ず、きまって十数秒後くらいに、まるでおそるおそる、手探りするかのように細かく金属音を折り重ねてくる、あの現象のことでしょうと。

フリー・ジャズが、そもそもそういうものなのかどうかわからないけど、たとえばセシル・テイラーによる「Looking (Berlin Version)」において、ピアノもベースもドラムも、各主張というものがない感じがする。三人があれだけこころゆくまで、無調整な演奏を展開させているにもかかわらず、そこには意志どころか、人の気配さえないと思う。あるのはそれら楽器が、人間の道具をやめようとする、そのぎりぎり一歩手前の状態というか、そのような段階のいくつかの音の狭間に、はからずも生じる、妙な気まずさのような、気遣いの必要性みたいなものの気がする。だから、少なくともそれがあるから、そこにはまだ続けるべき何かしらがあるのだと思える。

さきほど、トニー・オクスレイとデレク・ベイリーのデュオによるライブ「The Advocate」をはじめて聴く。これはそれまで未発表で2007年に発売された70年代の実況録音盤らしい。

聴いてみると、デレク・ベイリーは意外に強いのだ。強いとはつまり、言い方だけども、何というか、デレク・ベイリーは意外なことに、わりと「歌」なのである。トニー・オクスレイのとりつくしまのなさは、年代を問わずまるで変わらない感じがするのにだ。

デレク・ベイリーはやはり、エレクトリック・ギターであることの強みというか拘束が、かなり大きくて、どれだけ拡散的で、ペラペラであっても、楽器自体の凝縮力が、それを演奏に聴こえさせてしまうのだなと思う。彼自身がそれを楽しんでいるところがあり、聴く者にとっても、誤解の余地も含め共感さえ可能かもしれない、なんというか、ふつうにエレクトリック・ギターという制度的系譜へ、すんなり位置づけることさえ、出来てしまえるのかもしれない。

しかし本作品においてトニー・オクスレイは意外なほど寡黙で、ほとんど存在していないような時間さえ、ところどころ生じる。繰り返すが、トニー・オクスレイはやはり人間を示す言葉ではないと思う。これはやはり人間のもつ呼吸や間や思いのパルスではないように思う。まさかデレク・ベイリーほうが、まだ人間に近いとは予想しなかったけど、これを聴くかぎりそう言いたくなる。

何かをを知るとは、知った自分が知る前の自分から変わってしまうのが面白いのであって、ただ知るだけなら、なんてことはない。将来を見越して、知識をあらかじめたくわえておき、のちの起爆剤にしようとしても、そう上手くはいかない。知る=たくわえる、というのが間違いで、知ったことで、これまでのたくわえが消えてしまわなければダメなのだ。

何かを知るとは、知りたくなかったこと、望んでなかったことを知るということでもある。知ることの苦痛を引き受けることの、反転した歓びということでもある。

自分の知りたかったことだけ知り、知りたくないことには目を瞑ることもできる。でもそれは自分にとって低負荷であるから、その程度で良しとする自分を自分が許容するか否かだ。

かりに他人から見て間違っていたとしても、自分が知ることの歓びの向こうに突き抜けられる予感を感じるなら、それにしたがうべきだろう。

しかし、どこへも行けずに迷い続ける状態を誤魔化さないのも、それはそれで大事なことだと思う。それこそが半端な自分に自足する態度では?という非難の声に、抗うことでもある。じつは確かに、ほんとうにそうなのかもしれないが、あまりくよくよせずに、とにかく目だけは開いておくと。

生まれて初めてのことだが、香水を買った。自分用ではなく贈りものとして。

その際、試しに自分の手首に少量塗布して馴染ませるということをした。それはほんのわずかな、これならおそらく誰も気づかないと思われるほどささやかな香りに感じられたのだが、その日帰宅して自宅で夕食のとき、すでに入浴を済ませたあとにもかかわらず、皿や箸を手にするたび、ことあるごとに香りが届くので、これはちょっとさすがに、食事時には香水が不向きというか妨害であるのは本当のことだなと思った。

今日ではなく数日後に贈呈するつもりなのだが、いまこの香りがすぐそばの相手に届きはしないかと、もしバレたらフライングで今日渡すことになるかもしれないと思った。

翌朝になったら、手首を鼻に近づけるとかすかにわかる程度に香りは薄れていた。このくらいが、ちょうど良いのではとも思った。

ホタルイカの豊漁はけっこうだが、近所のスーパーだけの問題かもしれないけど、今年は枝豆の出荷が例年より遅くないか。茹でたばかりの枝豆をビールとともに食すのは、毎度のことながら季節の到来をはっきりと確かめることのできる重大なイベントである。例年ならすでにいくつもの品種が食品売り場の一角を占めているはずなのに、まさか今年は不作とか、そのようなことがないのを願う。

あとはカツオのことも心配している。最寄りスーパー鮮魚売り場の現状に一抹の不安をおぼえる。今年の千葉県産のカツオは、いつ頃出回りますでしょうか。

降る日でも、晴れの日でも、部屋の窓を開けて、室内に風を呼び込みつつ、注がれたビールのグラスが曇るのを見て、茹でた枝豆から昇る湯気を眺めて、刻んだ青葱と生姜、薄切りの玉葱に茗荷(にんにく不要派)、準備は万全ですので、あとはどうか新鮮なカツオが手に入りますように。

今年はホタルイカが豊漁らしく、お店で見かけるホタルイカは、大きくて身もふっくらしていて、たしかにホタルイカの当たり年かもねと思うし、我が家の食卓にものぼるのだが、あらためて考えるにホタルイカというのは、いくら立派な身といっても、せいぜい数センチの個体であるけど、あの小さな身体の中に、脳も内臓器官も神経も筋肉も含まれている。生物でもあり、食物でもある。

すでにボイルされているホタルイカは非・生物だが、各器官はそのまま身体の秩序をおおまかにとどめている。たんぱく質だの脂質だのミネラル分だのを、器官ごとに備えている。

ホタルイカを食べて美味しいというのは、この各器官それぞれの成り立ちの違いが、ホタルイカとして一つに組み合わさっていて、その結果を美味しいと言っている。何を言いたいのかと言うと、このサイズの内側に、腕や頭部や内臓などの器官の違いが、そのまま味の違いとして表現され、それが口中に広がる、そのことがすごい、すごいと思いませんか?と、言いたい。

だって生きるために身体に内包された各器官の役割が、そのまま味の違いになるだなんて、そう感じさせること自体が、どこかでホタルイカ同様に、自分も生物=食物であることと、遠くでつながる。

そのことを美味しさによって、その向こう側に発見させようとしている。自分よりはるかに巨大な口が開いているのに気づかせようとしている。

映画「オッペンハイマー」は、観たほうがいいのかな…とは思うのだが、何となくあの、たぶん相変わらずな、いかにもクリストファー・ノーラン的な、とりつくしまのない時間の推移を眺めるだけみたいな、壮大な書割りがひたすら流れていくような映画なのでは…と勝手に想像している。

たしか前作「テネット」公開時も、同じように、何となく気が進まないと思ったまま、結局スルーしてしまったのだった。「テネット」と違って「オッペンハイマー」は史実を取り扱っているけど、ならば「ダンケルク」が、やはり史実をモチーフにした映画だったけれども、あれもじつに不思議な、人を戸惑わせるようなところのある映画だった。

やはり良くも悪くも、映画っぽいコクというか味付けが薄いのだと思う。だから中華料理なのにあまりガツンと来ないというか、いや、勝手に中華料理だと思った自分が悪くて、じつは今どきな創作料理の店だったという感じか。だからなるほど、これはこれで悪くないけど、また食べたいかと言えばどうだろうと。同じ店でもメニューにある違う料理なら、また違うのではないか、いやどうだろう…と。