これまでのフィットネスクラブの会員資格が失効してしまったので、法人契約可能な別のクラブと契約した。しかし一か月くらい経ったのにまだ一度も行ってない。

月会費ではなく都度支払いだからそれでも良いのだが、それにしても通う習慣が途切れると、まるで気が向かない、それどころか、ありえないというか、わざわざ帰宅途中にそんな寄り道なんて、常軌を逸した行動のように感じられる。以前あれだけ毎日のように通っていたのが、果たして今の自分と同一人物なのか訝しいほどだ。

もちろん、はじめての場所へ行くのが億劫というのもある。同じ毎日を続けていたい、余計なインターフェイス増やしたくない陰気な欲望もある。

運動は、自身の正確な判断力とか知覚を取り戻すことができる、と、運動すれば、その直後にはそう思える。感覚が一度洗われるような感じ。つまり感覚の一段手前の部分が(非・感覚的に)さっぱりするのだと思う。道具の分解と再組立のようなものだ。再組立後も分解時の記憶が残って、不安定にふらふらする、それが良いのだ。それはわかっている。

運動不足とは安定状態ということだ。一度固まったルーティンを更新するための意欲を強引に掻き立てないといけない。

今週かなり睡眠不足気味なのは、自分が悪いのだ。もっと早く寝れば良いのだ。夜更かししているわけではないけど、なぜか寝付きが悪いというか、横になってから意識をなくすまでに、やや時間を要するのだ。しかも翌朝の通勤電車内で、仮死のごとく眠れるわけでもない。眠気そのものも、なんとなくぼやけていて、眠いのかそうでもないのか曖昧なまま一日が過ぎていく感じだ。思えば冬のあいだ、朝の電車はやはり、冬の厚着と車内の暖房に身が包まれていたからこそ、あれほど深い眠りに落ちることができたのであり、これから夏にかけては、きっと睡眠の質も変わるのだろう。…いや、ここまで書いてわかった。つまり運動不足なのだ、だからだ。

雨脚が強いので、挿した傘に雨の打つ音が大きい。フリージャズのドラミングのように、波状的だが一音一音が力強く、断続的でとりとめないが、その強弱の幅はとても豊かである。それを聴きつつ歩き、やがて新緑を深く生い茂らせた桜並木の下に差し掛かると、木々に遮られた傘の音は全体的なアタックが弱くなり、ただし一音あたりの響きが繊細になる。ちょうどドラマーがスティックからブラシに持ち替えてなおも演奏を続けているかのように、ふいに変わる。

Amazon Primeでヨーラン・ヒューゴ・オルソン「ブラックパワー・ミックステープ ~アメリカの光と影~ 」(2011年)を観る。

アメリカの黒人活動家、マーチン・ルーサー・キングとか、マルコムXとか、または本作品に登場するストークリー・カーマイケルや、アンジェラ・デイヴィスにせよ、このような映像を観ていつも思うのは、彼ら彼女らの唱える問題を受け取ることと、彼ら彼女らの言葉や身振りの魅力に惹かれるということを、分けて考えなければならないということだ。

ただ、それとこれとを完全に分けることが不可能であるのもまた確かだ。言葉が言葉だけで届くことはありえないからだ。

そして、それを聞く自分の立場というのがある。自分は当事者ではない。アメリカ合衆国において、黒人は怒りを基底に、白人は恐怖を基底に、同じ地面を分け合う。日本に住む自分は、そのどちらでもない立場である。

非当事者が(あたかもバスツアーの観光客のように)それを表面的に知ることは、差別のこと始めであるが、ただしまずは観光客のようにそこへアクセスするより他、それを知る手立てはない。

先日観た同タイトルにおけるボールドウィンの言葉「私はあなたのニグロではない」は、あなたがあなたの都合に合わせてつくりあげたニグロは、けっして私たちではないということで、ボールドウィンは、あなたがた白人が自ら作りあげたニグロを、あなたがたはどうするつもりなのか考えるべきだと言う。

黒人は白人に、これ以上どうしてほしいのか?これ以上何を望むのか?これまでの取り組みに合意していたのではなかったか?あなた方は当初決めた我々のルールを忘れたのか?

白人と黒人、差別者と非差別者、だからその解消…という、そんな、あなたの思っている二項対立ではないのだと、それを勝手に持ち出したのは、そもそもあなたがたの方ではないかと。私もあなたもきっと、望んでいないけれども、私たちは一国内において、望む望まぬを問わず、すでに家族ではないかと。そのことの重みを受け止め、互いに覚悟を決めなければいけないのではないか、その気が、これまでもこれからも、あなた方にあるかと。

御茶ノ水から、靖国通り昭和通り、春日通りと辿って、湯島まで歩く。最近は浅草もそうだけど、秋葉原から上野にかけて立ち並ぶ雑居ビルのなかにも、主に外国人観光客が利用するのだろうホテルをよく見かける。そんなビルの入口からふいに若い女性があらわれて、一人でぐいぐいと、どこかを目指して歩きだす。ああ観光客だなと思う。別に楽しそうでもなければ浮かれた感じでもない。このへんの住人か職場から出てきた人であってもおかしくない。でもその後ろ姿に、なぜか説明のつかない不思議な唐突さがあって、きっと観光客だと想像させる。ひとりで外国へやって来て、あるいは友人らと一緒かもしれないが、いまは個人行動しているのではないか。でもなぜそう思うのか、かつて大昔に自分も、ああして一人、ホテルを出てひとりでどこかを目指して歩いた、そのときの気分を思い出させるからだろうか。

トニー・オクスレイが亡くなったのは去年の12月である。当時そのニュースを見てここに何かを書きたい気もしたが、そのままスルーした。

しかしやはり、トニー・オクスレイが死んだ!と書けばよかった。どうせふだんはろくに聴かないなら、それを自分に言い聞かせて死にかこつけてでも聴けば良いのだ。

トニー・オクスレイの死と一口に云う時、それは人間の死ではなくて、なんらかの発狂箱というか、通りの隅っこで鳴ってる謎な機械というか、そんな気がかりな物象の消滅…という感じがする。つまりトニー・オクスレイという名称を、僕は人間に付されたものだとは思ってないらしい。トニー・オクスレイと言えばあの、あれでしょ、CDを再生すると必ず、きまって十数秒後くらいに、まるでおそるおそる、手探りするかのように細かく金属音を折り重ねてくる、あの現象のことでしょうと。

フリー・ジャズが、そもそもそういうものなのかどうかわからないけど、たとえばセシル・テイラーによる「Looking (Berlin Version)」において、ピアノもベースもドラムも、各主張というものがない感じがする。三人があれだけこころゆくまで、無調整な演奏を展開させているにもかかわらず、そこには意志どころか、人の気配さえないと思う。あるのはそれら楽器が、人間の道具をやめようとする、そのぎりぎり一歩手前の状態というか、そのような段階のいくつかの音の狭間に、はからずも生じる、妙な気まずさのような、気遣いの必要性みたいなものの気がする。だから、少なくともそれがあるから、そこにはまだ続けるべき何かしらがあるのだと思える。

さきほど、トニー・オクスレイとデレク・ベイリーのデュオによるライブ「The Advocate」をはじめて聴く。これはそれまで未発表で2007年に発売された70年代の実況録音盤らしい。

聴いてみると、デレク・ベイリーは意外に強いのだ。強いとはつまり、言い方だけども、何というか、デレク・ベイリーは意外なことに、わりと「歌」なのである。トニー・オクスレイのとりつくしまのなさは、年代を問わずまるで変わらない感じがするのにだ。

デレク・ベイリーはやはり、エレクトリック・ギターであることの強みというか拘束が、かなり大きくて、どれだけ拡散的で、ペラペラであっても、楽器自体の凝縮力が、それを演奏に聴こえさせてしまうのだなと思う。彼自身がそれを楽しんでいるところがあり、聴く者にとっても、誤解の余地も含め共感さえ可能かもしれない、なんというか、ふつうにエレクトリック・ギターという制度的系譜へ、すんなり位置づけることさえ、出来てしまえるのかもしれない。

しかし本作品においてトニー・オクスレイは意外なほど寡黙で、ほとんど存在していないような時間さえ、ところどころ生じる。繰り返すが、トニー・オクスレイはやはり人間を示す言葉ではないと思う。これはやはり人間のもつ呼吸や間や思いのパルスではないように思う。まさかデレク・ベイリーほうが、まだ人間に近いとは予想しなかったけど、これを聴くかぎりそう言いたくなる。

何かをを知るとは、知った自分が知る前の自分から変わってしまうのが面白いのであって、ただ知るだけなら、なんてことはない。将来を見越して、知識をあらかじめたくわえておき、のちの起爆剤にしようとしても、そう上手くはいかない。知る=たくわえる、というのが間違いで、知ったことで、これまでのたくわえが消えてしまわなければダメなのだ。

何かを知るとは、知りたくなかったこと、望んでなかったことを知るということでもある。知ることの苦痛を引き受けることの、反転した歓びということでもある。

自分の知りたかったことだけ知り、知りたくないことには目を瞑ることもできる。でもそれは自分にとって低負荷であるから、その程度で良しとする自分を自分が許容するか否かだ。

かりに他人から見て間違っていたとしても、自分が知ることの歓びの向こうに突き抜けられる予感を感じるなら、それにしたがうべきだろう。

しかし、どこへも行けずに迷い続ける状態を誤魔化さないのも、それはそれで大事なことだと思う。それこそが半端な自分に自足する態度では?という非難の声に、抗うことでもある。じつは確かに、ほんとうにそうなのかもしれないが、あまりくよくよせずに、とにかく目だけは開いておくと。