トニー・オクスレイが亡くなったのは去年の12月である。当時そのニュースを見てここに何かを書きたい気もしたが、そのままスルーした。
しかしやはり、トニー・オクスレイが死んだ!と書けばよかった。どうせふだんはろくに聴かないなら、それを自分に言い聞かせて死にかこつけてでも聴けば良いのだ。
トニー・オクスレイの死と一口に云う時、それは人間の死ではなくて、なんらかの発狂箱というか、通りの隅っこで鳴ってる謎な機械というか、そんな気がかりな物象の消滅…という感じがする。つまりトニー・オクスレイという名称を、僕は人間に付されたものだとは思ってないらしい。トニー・オクスレイと言えばあの、あれでしょ、CDを再生すると必ず、きまって十数秒後くらいに、まるでおそるおそる、手探りするかのように細かく金属音を折り重ねてくる、あの現象のことでしょうと。
フリー・ジャズが、そもそもそういうものなのかどうかわからないけど、たとえばセシル・テイラーによる「Looking (Berlin Version)」において、ピアノもベースもドラムも、各主張というものがない感じがする。三人があれだけこころゆくまで、無調整な演奏を展開させているにもかかわらず、そこには意志どころか、人の気配さえないと思う。あるのはそれら楽器が、人間の道具をやめようとする、そのぎりぎり一歩手前の状態というか、そのような段階のいくつかの音の狭間に、はからずも生じる、妙な気まずさのような、気遣いの必要性みたいなものの気がする。だから、少なくともそれがあるから、そこにはまだ続けるべき何かしらがあるのだと思える。
さきほど、トニー・オクスレイとデレク・ベイリーのデュオによるライブ「The Advocate」をはじめて聴く。これはそれまで未発表で2007年に発売された70年代の実況録音盤らしい。
聴いてみると、デレク・ベイリーは意外に強いのだ。強いとはつまり、言い方だけども、何というか、デレク・ベイリーは意外なことに、わりと「歌」なのである。トニー・オクスレイのとりつくしまのなさは、年代を問わずまるで変わらない感じがするのにだ。
デレク・ベイリーはやはり、エレクトリック・ギターであることの強みというか拘束が、かなり大きくて、どれだけ拡散的で、ペラペラであっても、楽器自体の凝縮力が、それを演奏に聴こえさせてしまうのだなと思う。彼自身がそれを楽しんでいるところがあり、聴く者にとっても、誤解の余地も含め共感さえ可能かもしれない、なんというか、ふつうにエレクトリック・ギターという制度的系譜へ、すんなり位置づけることさえ、出来てしまえるのかもしれない。
しかし本作品においてトニー・オクスレイは意外なほど寡黙で、ほとんど存在していないような時間さえ、ところどころ生じる。繰り返すが、トニー・オクスレイはやはり人間を示す言葉ではないと思う。これはやはり人間のもつ呼吸や間や思いのパルスではないように思う。まさかデレク・ベイリーほうが、まだ人間に近いとは予想しなかったけど、これを聴くかぎりそう言いたくなる。