まぼろしの逃避行。

何だか前回のエントリに随分と怪しげなサイトのトラックバックがやたら来るんだが、表現の自由を守る戦いと勝手に自己解釈して絶対に負けないわ私。


そんなわけの分からないテンションになっているのは、文学フリマの新刊準備のため。
11月9日(日)……ってもう明日ですが、第七回文学フリマB-19ブース「航時舎&FLOURISH?」にて、新刊「temporizzatore」第5号を発行します。今回は今までにないボリュームの全40ページ! 天沼春樹氏の新作小説収録! いつもどおりRysKの完全手刷りによる製本!……部数あんま刷れね&クオリティにバラつきありorz 状態のいいものは早い者勝ちだ! 文学フリマにお越しの際はぜひお立ち寄りください。
……おお、珍しくフツーの告知っぽくなった。
そうそう、お隣のブースは何故か「ロスジェネ&フリーターズフリー」という大物がいらっしゃる、と。下手な動きをしたらゴスロリファッションの方にトラメガで怒られたりするのでしょーか。そしたらとりあえず電気グルーヴの『富士山』を大音量で歌って対抗しよう、うん。たぶん会場からつまみ出される。


あ、ちなみにRysK個人誌の新刊は男の魂充電完了したフォークの如く落ちマシタ。出そうと思っていた『スカイ・クロラ』論は、恐らくその頃には完全に批評しつくされているであろう来年春の文学フリマにておずおずと出版する予定。同時収録しようと思ってた『容疑者Xの献身』に関するレビューっぽいものはそのうちここでエントリします。


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よそでやってくれ、よそで。

夕方、さっきまで雨を降らせていた厚い雲の切れ間から、夕焼けが見えて。


夕焼け自体の輝く紅さも、はっと息を呑むほどの美しさだったのだけれど。


何よりも、夕焼けに照らされた雲が、燃え上がっているかのようで。


どうあってもこの景色を写真におさめたくて。


ふだんは上がることのないスーパーの屋上駐車場から、一心にシャッターを切ったら。


すぐ隣にあった車の中でカップルがサカってやがったので何だかもう気分台無しの上にこんな状況でカメラ持ってたらデバガメって思われるじゃねーかと思ってそそくさと退散した後に何で悪いことしてない俺がこんなにコソコソ逃げてんのかこの上なく胸糞悪いと無性に腹が立ったり自分の小心者具合に消沈したり。




という、いわく付きの写真。

知っているけど知らない人。

ソルジェニーツィンが亡くなりましたね。とは言えRysKは東浩紀の『郵便的不安たち』で読んで(「ソルジェニーツィン試論」というのが東浩紀の文壇デビューという位置付けだったから)名前を知っているだけなのであまり感慨もありませんが。取り敢えず、あの本に収録されていた「アニメから遠く離れて」が印象的だったので再読したくなりました。

[消費物件]:泉かねよし「メンズ校」

知り合いから4巻まで借りて読了。少女マンガで男子校を舞台として取り上げる、というのは吉田明生もやっていたけど(『河よりも長くゆるやかに』ね)、こちらはかなりギャグ要素が強い&テンション高い。それ故にか、男子校のディフォルメが強いような印象もある。この男子校美形多過ぎとかあまりに行動と思考が極端過ぎとか女の子にどストレートで発言し過ぎのヤツがいるとか。もっとねえ、男子校ってすっげー地味でジメジメしていて救いようのない感じなんですよ、本来は。って、自分自身男子クラスにいたけれど男子校にはいたことないし、「野郎から聞く男子校の話」を総合して想像している部分も多いんだけど。
まあそういったディフォルメ要素もギャグとして受け止めれば結構面白いんだけども、シリアス部分にまでそのディフォルメ要素が入ってくるとちょっと興醒めだったりする。少女マンガの少年マンガに対する一番のアドバンテージはキャラクターの心情・内面描写(特に女性キャラ)だと思っているのだけれど、男子校の男性キャラを描くのに力を入れ過ぎてるせいか、女性キャラの描写が凄く弱まっている印象。それが最も具現化したと思うのが3巻に出てくる主人公の恋愛話。亡くなってしまった片思いの同級生を忘れられない主人公が彼女と同じ名前の女の子に惹かれる話しなのだが……んー何て言うか、その女の子っていうのが絵に描いたようなツンデレ。もっとストレートに言うと支離滅裂。その女の子が主人公に惹かれるのは、主人公の心理や行動についてシリアス部分からもかなり描き込まれているのでなんか納得いくだけの蓄積がされているのだけれど、「デートに誘われた男の子に対してボーイズラブ的展開を求める」「“まあいいけど…ヒマつぶしにもう少し彼女やってあげても”“あんたなんかぜんっぜん好きになれないけどねっ”といいながら顔を赤らめる」といった行動をとるといった、なんだその「頭の悪い萌えマンガ」にしか出て来ないようなイタイ女性キャラはっ、という風な女の子に主人公が可愛さを感じるのはもう完全にリアルの向こう側。ギャグを際立たせるための男性キャラのディフォルメについてはシリアス部分の描写も同量程度されているのでバランスが取れているが、反転して女性キャラにそのディフォルメが反映された時には、元々女性キャラの描写が少ないマンガであるため、ディフォルメがオーバードライブしてしまっているのだ。
とは言え、4巻後半のエピソードはかなり女性キャラのディティールに力を入れているようなので、今後どんな風に持ち直していくか、もしくはオーバードライブを続けるのか、先行きが楽しみではある。

猫の町。

何故か不眠症気味で酒も飲んでないのに少々千鳥足の仕事帰り。


いつもの通勤路となっている銀行の裏手を通りかかると、何だか丸っこい物体がもぞもぞと動いている。
仕事の行き帰りは眼鏡を掛けていないぼんやり視界の目には得体の知れないものに見えて一瞬驚くが、よく目を凝らしてみるとコンビニの包みを引き摺る猫の姿。引き摺っている包みは今晩の獲物だろうか。ちょっとホッとしながら、その横を通り過ぎる。


……と、その先、近所でも猫屋敷として有名な屋敷の壁の上。別の猫がひょいと顔を出して、じっと先ほどの包みを引き摺る猫を見つめている。そのあまりの真剣な見つめ具合に、思わずこちらが立ち止まる。
見つめる猫と見つめられる猫の距離、約5メートル。見つめる僕と見つめながら見つめられる猫の距離、約30センチ。見つめる猫は自分が見つめられていることに全く気付かない。……10秒。30秒。1分。まだ気付かない。


ちょっと悪戯心が頭を擡げてきて、軽く口笛を吹いてみた。瞬間、驚いた様子ながらも鋭く射抜くようにこちらを向く瞳。その一瞬の煌きだけ残して、目の前からあっという間に猫は消えた。
振り向くと、あの包みを引き摺っていた猫もいない。電灯もまばらな路上に、ただ僕だけが立っている。


最早、猫が本当にいたのかすら分からない。ただ残っているのは、あの状況の均衡を崩してしまった自分の口笛を何故か後ろめたく感じる気持ちと、あの時見たものが僕の白昼夢でないなら、彼ら――見つめる猫と見つめられる猫が、ちゃんと再会できていますようにと祈る気持ち。




それにしても眠い。



[リハビリテーション]:「異者」を言語化する慾望、それと困難。

最近久々に田口ランディの『もう消費すら快楽じゃない彼女へ』というエッセイ集を読み返してみた。取り上げているのは90年代後半の事象、しかも今では賞味期限が切れてしまった感の強い時事ネタが多いのだが、そのうちの一つで、「ロックとヒーリング」というタイトルの短いエッセイがある。X-JAPANのボーカルであったTOSHIが、X-JAPANの解散後、自らX-JAPANの音楽を否定してニュースを賑わせたことについて書かれた文章だ。
この中で田口ランディが説明するのは、TOSHIに対して世間が「理解」してしまった結果、TOSHIは新たな自己実現を探して今の道に至った、ということだった。ロックという反抗の音楽を選び、「誰も理解してくれない」という叫びを続けていたら、いつの間にかそのことを丸ごと社会は「理解」してしまったのだ。

いま、反抗することはとても難しい。自由という体裁のなかで世界は巧妙にシステムを作った。なんでもありに見せかけて真綿で首を締めるような閉塞したシステム。彼はいつのまにかこの世のシステムに巻き込まれていた。 (田口ランディ『もう消費すら快楽じゃない彼女へ』)

しかしながら、この世間とTOSHIの二者関係を取り上げた文章自体は、TOSHIに向かってどのような対面の仕方をしているだろうか。例えば「世間」の位置に田口の主張、もしくはその主張に読み手が重なった時、実は世間とは別の「理解」をTOSHIに対して行ってしまうことにはならないか。言わば、「世間が理解してしまったことへの理解」というパラドックスのように、TOSHIの主張を語るほどにTOSHIの逃げ道はなくなってしまう。TOSHIに対して無理に理解しようとする社会へのある種の糾弾の叫びは、他ならぬ自らに向けて帰ってくるのである。
X-JAPANが再結成し、この話題がすっかり過去のものとなってしまった今、このネタの賞味期限はとっくに切れていると言えるかも知れない。ただ、ここに内在する主題――「理解できない(もしくは理解を求めない)対象との接触」が如何に困難か、ということ自体は普遍的な問題意識として抽出できると思う。

こう考えた時に思い出されたのは、佐藤友哉の「慾望」という短編に対する森田真功の評論である。佐藤友哉は「慾望」の中で、理由なくクラスメイトを皆殺しにし始めるとしての高校生たちと、それを常識の枠組の中で理解しようとする教師である〈私〉との駆け引きを中心として描く。森田真功の『異者の攻防――佐藤友哉「慾望」論』と題された文章中で論及されるのは、この教師の視点に如何にして読者が同一化していくか、という過程だ。
当初、徹底して動機が排除されたor欠落した殺戮者である高校生たちは社会の常識の埒外にある異者として描かれる。だが、その異者を常識の枠組の中へ引きずり下ろすことに、ただ一人生き残った教師が敗北した時、それは単に異者との接触の困難さを描くことだけに留まらず、逆に彼らにとって理解できない異者としての〈私〉の姿が浮かび上がってくるのである。

……滝川恵子、春井文慧、水村理志、酒木優一たちに通じる言葉を〈私〉が持ち合わせていないのは、彼らが〈わけの解らない人間〉だったからではない、〈私〉の言葉が通じないがゆえに、四人は、受け入れることのできない徹底的な異者であったのだ、ということもできる。しかし、そこから翻り、四人の側に立って、見れば、〈私〉にとっての〈僕たち〉がそうであるように、じつは〈私〉こそが〈僕たち〉にとって排除されるべき異者だということもありうる。 (森田真功『異者の攻防――佐藤友哉「慾望」論』)

田口ランディのエッセイを最初に読んだ時、私も含めて、読者はTOSHIにとって「異者」であったのだろうか。更に言えば、「異者」という捉え方自体も一つの「理解」に過ぎないのだろうか。ディスコミュニケーション言語化することは、所詮新たなディスコミュニケーションを生み出すだけだろうか。……ことばで理解することには何の意味もないかもしれないとは思いながらも、それでもことばにすがりつかざるを得ない。願いは、言説的に消費されない何かを探すこと。でも、それは一方で、世界がことばで埋め尽くしてしまうこと。何年かぶりに読んだ田口ランディの文章からは、自分の抱える慾望と相似形の姿が遠回りして立ち現れてきた気がした。

たまには。

普通の日記っぽく書いてみる。
昼間、ひっそりと出勤して職場のPC環境の整備をする。ボランティアでPCのことが分かる知り合いに手伝ってもらったのだが、これがまた流石のサポートぶり。痒いところに手が届くいい仕事をしてもらい大感謝。
退勤後、何故か急にテンション下がり気味になりつつ部屋の片付け。このまま片付けが終わったら一週間くらい引き籠ってしまおうか、などと思いつつ腹が減ったので近くのスーパーへ。一人暮らしだと引き籠りもままならないのでいいことだ。
鰹のたたきが半額になっていたので買い込み、ぶった切ったものをさらし玉ねぎ、にんにくスライス一緒に酢醤油に漬け込んで2時間ほどほっぽらかす。その間に定番になっているもやしの味噌汁――というか具のもやしが多過ぎるから、もやしの味噌煮と言った方が正しいか――を作る。鰹のたたきの漬け込んだヤツは丼によそった飯の上に掛けて「鰹のたたき丼」にする。今日の晩御飯の出来上がり。
その昔、院の同級生だった人が「時間かけて料理作っても食べるのはあっという間だから空しいよね」と言っていたのを急に思い出す。いやそんなことないですよ、料理をする時ってのは楽しいもんです。手を動かし頭を動かす対象が一つに絞れている時、色んなごちゃごちゃした思いがその一時だけはすーっと抜けていきます。問題は、その結果できたものが美味しいとは限らないことです。
とは言え、今日はなかなか成功。部屋が片付け切れなかったので台所撮影ってことも手伝って、あんまり美味しそうに見えないけど。