S「ベティ・ブルー 愛と激情の日々」 フィリップ・ディジャン

 

ハヤカワ文庫  三輪秀彦

 

 

Mさんの「ロリの静かな部屋」の精神を病む女性から、頭に浮かんだのは「ベティ・ブルー」でした。

1987年に日本公開された同名の映画の原作。原題を直訳すると『朝、37度2分』です。

 

 

同名の映画は10代の頃から永遠のオールタイムベスト10入り作品。アナログでサントラも持ってるし、原作も好き。

そう思っていたけど、読み返したらしんどかった・・・。

そして意外とビートニク小説だったことにも驚きました。

 

Mさんが脚注を付けておられましたが、ロリの副題にある分裂病は現在では統合失調症と呼称変更されています。、

当時と現代では治療法や患者へのアプローチがかなり変わっていそう。

「ベティ・ブルー」では新しい治療法として、電気ショックにも言及されていて驚きました。

「発狂」というあらゆる症例をひとまとめにした乱暴なくくり方も、今はあまりしないはず。

 

 

激しい性格でエキセントリックな美しいベティと、作家志望の中年の主人公。

ふたりは会った日から身体も心も離れられない関係。

ある時ベティは妊娠したと思い、実際はそうではなかったということをきっかけに常軌を逸して行き、ついには自分の片目をえぐり出し、病院に収容されてしまう。

 

その病院でベティは多量の薬を与えられ、ベッドに固定された状況になり、正気に戻らないまま主人公に殺されてしまう。

当時はヒロインの死で終わる恋愛が至上のものに思えたけど、今読み返すと色々思うところがあります。

 

 

ハムレット」のオフィーリアしかり、ベティしかり、狂気を得た乙女(ベティは30歳だけど)は美しいままこの世を去る。

美しい容姿と純粋さや激しさがある娘は、狂気を得るとこの世を去る。

 

「ロリの静かな部屋」では、ロリの父親は優秀な良い子だった彼女しか受け入れられない。

心正しい良い娘は、精神の病を克服するはずだから。

 

 

ロリは「過去の自分にはもう戻れない」ことを認め、受け入れます。
そして「それでいい。自分は前に進む」と決意するのです。

 

 

正しさの証として元に戻るか、死を迎えて美しい思い出になるか。

その2択以外のあり方として、ロリの物語が書かれたことに大きな意味があると思います。

 

かくいう私も若かったせいか、時代のせいか、愛ゆえに殺される物語はロマンチックだと思ってました。

主人公役のジャン=ユーグ・アングラードがあまりにも素敵だから、ひどさを割引していたのかも。

 

ちなみに原題の『朝、37度2分』は、妊娠しやすい体温。

ベティの内面について考えると、なんとも苦い気持ち。

M「ロリの静かな部屋」ロリ・シラー&アマンダ・ベネット

早川書房

 

「美しい鳥つながりから、暗くて妖しい所へ」っていいですねえ。暗くて妖しい世界大好き!
このまま幻想の世界に行こうかな~とも思ったんですが、
「現実と妄想の境目があいまいになる。自分は現実だと思っているのに、誰も信じてくれない」の一節にどうにも心惹かれたので、「少女」との合わせ技でこちらの本です。

 

副題「分裂病*1に囚われた少女の記録」
統合失調症を発症した17歳の少女ロリが、何とか社会生活を営めるようになるまでを
本人・家族・友人・医者による手記で綴った本です。

 

これロリ本人が、幻聴や妄想で狂気に至っていく過程を書いているんですけど、これがもう生々しくて痛々しくて怖ろしい。
繰り返し頭の奥で響く「こいよ、あばずれ。俺と一緒に地獄へこい」と囁く声。ヒイ……!

 

でも決して感情的じゃないんです。むしろ客観的で細やかで時にはユーモアを滲ませた筆致。頭が良い人なんだなと感じます。

 

実際彼女は中流の上のWASPで、小さい頃から優秀な良い子。両親は期待ゆえか、常に彼女を叱咤激励します。
統合失調症を発症してもそれは続いて、父親は昔の彼女のイメージを捨てきれず我が子の現実を受け入れられません。

 

けれどロリは「過去の自分にはもう戻れない」ことを認め、受け入れます。
そして「それでいい。自分は前に進む」と決意するのです。

 

他にも閉鎖病棟保護室の様子、24時間監視され、靴と服を取り上げられ、並んで薬を受け取り目の前で飲み下す手順なども描かれ、とても興味深く読みました。

 

読み応えありです!

 

 

*1:1995年出版です。(日本で「精神分裂病」が「統合失調症」と呼称変更されたのは2002年)

S「ミリアム」トルーマン・カポーティ

「夜の樹」収録 川本三郎訳 新潮文庫

 

M様の「こまどり」を読んで、少年が出てくる話をいくつか思い出しました。

ヘッセの「デミアン」とか、コクトーの「恐るべき子供達」とか。

でも最後の所でカポーティの名前が出てきて、一気にカポーティに心を持って行かれました。

 

10歳位の子供が出てくるので、少女ですが「ミリアム」を。

忘れているので再読してみたら、こんなに怖かったかなと驚きました。もう完全にホラー。

 

主人公のミセス・ミラーは一人暮らしの老婆だと思っていたけど、六十一歳だったのも驚き!

きれいに片付いた部屋で人付き合いもなく、静かにカナリアと暮らしている。

その生活にするりと入り込んでくる少女がミリアムで、服装も言動もどう考えても魔物。

 

話の途中で、それまでミリアムが一緒に暮らしていた「貧乏なお爺さん」らしき人がちらりと出てきて、奇妙な挨拶をして去って行く。

その後ミリアムは大きな箱と人形を持ってやってきて、ミセス・ミラーの部屋に入り込む。

抗えない力があるところや、世話をする人間を必要としているのは映画「ぼくのエリ 200歳の少女」を思わせる。人ではないもの。怖い。

 

ミリアムのことは10代で読んだ時も怖かった。

でも今回さらに胸に迫るのは、ミセス・ミラーの不安と孤独でした。

ささやかでも満ち足りて暮らしていたはずの人が、精神の危機を迎えて頼るものがない。よるべない。

現実と妄想の境目があいまいになる。自分は現実だと思っているのに、誰も信じてくれない。

身近に認知症の人がいるので、その戸惑いにもリアリティがあります。

 

いきなり足下に何もなくなって、ぼんやりしてしまう感じ。

どこにいるのかわからなくなる感じが本当に上手なカポーティ

すごく嫌な気持ちなのに、魅力的なのが不思議。久々に読んでもやっぱり好き。

 

そのカポーティがライバル視した「こまどり」のヴィダールも、とても気になります。

スズメからこまどりの美しい鳥つながりだったけれど、意外と暗くて妖しい所に来てしまったかも。

M「こまどり」ゴア・ヴィダール

「新・幻想と怪奇」仁賀克雄編所収

Hayakawa pocket mystery books

 


S様の「ある小さなスズメの記録」の『小鳥』『ウォルター・デ・ラ・メア』で思い浮かんだのがこの作品。
幻想怪奇のアンソロジーに載っていた短編ですが、
怖いというよりは心痛む感じです。

 

「九歳のときのぼくは、いまよりはるかにタフだった」で始まるこの掌編。
そのタフさが、交通事故や覗きからくり、安雑誌の拷問場面に興奮する、というのが可愛い。
某マンガ*1に少年がクラスメートの女子をギタギタに切る想像をするコマがあるのですが、この作品でも、厳しい女教師を“自分の世界で発明したさまざまな拷問”でやっつけるのを想像する場面が出てきて、『思春期あるあるなんだな…』と感じて微笑ましかったです。

 

タイトル「こまどり」が登場するのは後半5分の4を過ぎてから。
それまでは、ジョージ王朝風のカントリーハウスの小学校や隣接した森で過ごした少年の日々が綴られています。
それがとっても繊細で透明で美しい。
ラストは少年たちの残酷な純粋さに、胸が締め付けられました。
「同時代の作家トルーマン・カポーティが彼をライバル視した」というのも納得の一篇です。

 

 

 

*1:「僕の心のヤバイやつ」という漫画です。お気に入り

S「ある小さなスズメの記録 人を慰め、愛し、叱った、誇り高きクラレンスの生涯」

文春文庫

 

 

Mさんの「砂嵐の追跡」の野鳥愛好家から連想したのは、共に暮らしたスズメの一生を記したクレア・キップスのこの本。

 

挿画は酒井駒子でカバーや帯の色までも美しい文庫本。

訳者が梨木香歩、解説が小川洋子

さらに豪華なことには、キップスに執筆を薦めたのが怪奇幻想小説のウォルター・デ・ラ・メア

 

第二次世界大戦中に実在した、あるスズメについて書かれた本です。

巣から落ちていた所を救われた雛を12年間育て、最期の日まで見届けた稀有な記録。

ピアニストであるキップス夫人が弾く伴奏に合わせて日々歌い、戦時下には芸をして人々を慰めた偉大なスズメのお話です。

 

繊細な感性と観察眼、そして文章が端正でウェットじゃない所がとても良い。

事実を正しく伝えようと淡々と書いているのが、かえってとても叙情的で詩的な作品に仕上げている。

人語を話さない生き物と暮らせるのは、特別に幸運な時間なのだなと思う。

 

今回数年ぶりに書棚から出してきて読んだら、その年数分だけ自分が歳を取ったせいか、クラレンスが愛しくてたまらなくなった。

ここに登場するスズメもロンドンの人達も、今はもう誰もいないのだけど、本の中で存在している。

本の間にたまたま昨年枯らしてしまったうちのベランダのブルーベリーの紅葉した葉が挟まっていて、それもまた過去の時間を思わせる。

 

この作品を書くように薦めてくれたデ・ラ・メア卿にお礼を伝えたい。

M「砂嵐の追跡」ウェンディ・ホーンズビー

Hayakawa pocket mystery books

 

 

 

Sさまの「ザリガニの鳴くところ」を読んで思い出したこの作品。
こちらは「ベスト・アメリカン・ミステリ2006」所収の短編です。

 

主人公の女性は、峡谷の雛を辛抱強く見守る野鳥愛好家です。
砂漠で一晩すごすために、さまざまなキットを準備し設営するのですが
その手順が知らないことばかりで読んでて楽しい。
自然と親しみそれと共存しているところが少しだけカイアを連想させました。

 

しかし似ている?のはそこまで。
彼女は実はデルタフォースの指導教官!さらに陸軍中尉!さらにさらにトライアスロンの優勝者!
砂漠で偶然遭遇した街の悪党をなんなく手玉にとってきりきり舞いさせます。タフ。
そんなツワモノなのに、いいなと思った男性にアプローチする時には、
「ひとりで過ごすなんて怖いわ」とばかりに、か弱いふりをするのもタフ(笑)

 

肉体的にも精神的にもたくましい女性の短編でした。

 

 

 

S 「ザリガニの鳴くところ」ディーリア・オーエンズ 

早川書房

 



【ネタバレご注意ください】

 

これから読まれるご予定で、何も知りたくない方はここまでで。

読み終えてから、また帰ってきて下さると嬉しいです。

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ノースカロライナ州の湿地で青年の死体が見つかり、湿地に暮らす女性が疑われる話。

 

予備知識はそれだけで読み始めた。読後しばらく放心する位に良かったのに、感想ノートに内容をほとんど書いてなかったので、今回再読した。

 

メインストーリーは殺人事件として展開して行くけれど、湿地の自然が大きなテーマでもあり、差別や偏見、1人の少女の成長、善悪について、といくつものストーリーや考察が重なり合っている。

初回は自然描写の鮮やかさと筋書きの先行きにばかり気を取られていた。2回目は意外と恋愛心理が丁寧に描かれていることに気づいた。

湿地の美しさ、地の文の優雅さは変わりなく突出していると思う。

 

 

私は独学の人がとても好きだ。

この主人公はその中でも生きること自体がセルフビルドだ。

湿地でひとり暮らすカイアは、ホワイトトラッシュと呼ばれ、地域社会から弾き出されている。

親も兄弟もひとりずつ出て行き、学校にも行けず、湿地の奥の小屋で6歳からひとりで暮らし、ほぼ人との関わりを絶ったまま大人になって行く。

 

彼女は学校に1日しか行っていないので文字が読めないが、家を出て行った兄の友人テイトに読み書きを習い、羽根や貝の標本を集め、分類し、壁に飾り、絵を描く。

そしてそれは、湿地の研究者として何冊もの本を出版するまでの貴重な学問となる。

膨大なリサーチと経験から、一定の法則とか分類が浮かび上がってくる瞬間。

その喜びは、おそらくほとんどの人が経験できないものだ。

 

 

この作品の一番好きな所は、散りばめられているリリカルな自然描写。

舞い降りてくるカモメ達、落ち葉の舞う様子、釣り上げられた魚の目、湿地の泥。

光の中を埃がキラキラと舞い、影に入ると消える様子が特に鮮やか。

子供の頃に同じような光景に目を奪われた者は、誰もが目の前にありありと見えるよう思える描写。

作者の見つめる人間と野生の間の世界の美しいこと。

 

 

自然の中で暮らすカイアは、普通の暮らしにあるものを持っていない。

あらかじめ失われている、その後で得る(得たと思う)、そしてまた失う。

自然の中では一つのことが終わっても、それは別のことの始まりでもある。

終わりと始まりは繰り返すので、物事は終わるけれど、終わりの終わりが来る訳ではない。

始まり続けるとも言える。

人はサイクル全体が見えないから、終わりを恐れる。

 

 

事件の真相については、最後の最後で読者もテイトも知ることになる。

それも意外な方法で(それはさすがに書かないでおこう)。

極端な孤独の中で暮らしてきた為に、人を信用することが困難なカイア。

愛するテイトにも心の奥底を打ち明けることはできなかった。

それに気づいたテイトの心境はどうだったのだろう。それを何度も考えてしまう。

 

私たちはおしゃべりして愚痴を言ったり、ちょっとだけ毒を吐いたり、分かってもらったりすることで、心に溜まる澱を浄化することがある。

でも、本当に大切なことは言えないものなのかもしれない。

そして、相手の為にも自分の為にも、言わない方が良いのなのではないか、とも思った。

 

動物も昆虫も自分のことなど何も言わない。人の知らない所で生きて、そっと退場して行く。

そんな風に生きるのは現代の人間には、とても厳しいこと。

その厳しさも含めて少し憧れる。