養老孟司

昨年の夏は、四国に行った。行く前は、大江健三郎が生まれた土地なのだから、それは森が深いのだろう、くらいに思っていた。それに、学生時代に愛媛の宿で知り合った30年後の私が、四国カルストに向かうと呟いていたから。
四国山地にひっそりとある宿の、食堂から見た嵐の様子が今も頭から離れない。今一度、体がひとりで満たされたとき、その声なき声に近付くのだと思う。

ヴィンセント、ヴィンセント

広島でゴッホ展を見る。地方都市で、ゴッホを見るというのは悪くない気がした。東京の美術館であれば、初期の作品から晩年の作品までが、もう少しは揃っていて、生涯を想像することが出来たかも知れないが。
ひねくれていて、くすぶったまま、大都会でも花開くことなく、パリを後にする。しかし、その後のアルルでの作品には、自分を取り戻し、さらにその先の、独自の世界が描かれていたように思えて。
空白のパリ。弟テオとの同居生活のために、書簡が残されていない空白の期間。今一度、自分が宿ったときに完成されるために、人知れずくすぶっていた期間だったのかもしれない。

七つの夜、羊

ずっと遠ざかっていた読書の日々。ところが、最近になって、毎日数頁ずつでも触れるようになった。全然話に入り込めなくてもいい。ただ、一日の中で、わずかでもそばに置いておければ。
これが、思っていた以上に効果的で、体に血がめぐり出すのだ。もう今まで身に付けた世界を何とか活かそうとしなくていい。苦しくなるばかりだ。忘れようとするのも体に良くない。梅雨の雨が土を濡らしていくようなものだから。

魔女の生活

思い出されるのは、幼少期を過ごした亀岡の風景。
ウシガエルが鳴いていた。何もなかった事にも気付かず、駆けずり回っていた。天候や季節、空気にもたれかかって過ごしていた。
もっともたれかかろう。目を閉じて、耳をすまそう。