ライプツィヒ

ドレスデンからそのままベルリンに帰るのも能がない。ということで、ライプツィヒに寄ることにする。サイズ的にはドレスデンより小さいが、ここもなかなかの観光都市のようだ。そこでまず、ゲーテさんに挨拶する。若き日の像で、この街をかなり(飲み歩いて)エンジョイしたらしい。

f:id:Shigeki:20180726112055j:plain次はやはりこの街を代表する人物バッハさん。バッハはこの街でその後半生を送り、背後にあるトーマス教会の音楽監督をつとめた(隣のバッハ博物館には、今時珍しく日本語の表示がたくさんある。やはり日本人はバッハが好きなんだね)。

f:id:Shigeki:20180726113414j:plainそのあと、今度は一転してシュタージの博物館へ。旧東独時代の国民に対する監視や諜報活動の道具の様々が展示されている。これがほんの数十年前のことだと思うと気が重くなる。が、同時に、ライプチッヒは東独における人権・民主化運動の先頭を切った街でもある。シュタージの博物館の中には、こんな掲示もあった。「民主主義の学校」、いいね。

f:id:Shigeki:20180726135354j:plain短時間だけど、なかなか良い訪問だったと思いつつ、駅にたどりつく。そういえば、今日は移動がスムースだ。なんだ、よくなかったのは昨日だけか、、、と思っていたら、待てど暮らせど列車が来ない。表示を見に戻るとVerspätung、あ、遅延ですね。はいはい、やっぱりですね。90分の遅れとの見込み。しゃーないので駅でビールを飲んで時間をつぶした。今日はドイツも珍しいくらいの猛暑日(日本と比べれば甘いものだけど)。ビールを飲んで過ごした1日だった。

ドレスデンへの旅(2)

それでもなんとかドレスデンにたどり着く。駅に荷物を預けて、早速街の中心へ。印象として、なんだかやけに新しい建物が多い。それもそのほとんどが大資本のチェーン店。なるほど、考えてみればドレスデン旧東ドイツ、統一後に旧西ドイツ資本が入り込んだのだろうね。あとで調べたら、それでも建物自体は旧東独時代のもので、そのせいか、四角い箱のような建物が続いている(今はそれがibisになっている)。

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中心部はやはり素晴らしい。フラウエン教会は空爆によって完全に破壊されたものを再建したという。古い部分だけ、黒っぽいのが特徴的。

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f:id:Shigeki:20180725141109j:plainこのほか、レジデンツ(旧王宮)なども、みんな復元したもの。残骸を使い、少しでも昔の建物の近づけようとした市民の執念に感心する。そして、夕食はルターさんの像を眺めて。そういえば、ルターさんもカトリック教会に破門されて、ザクセン侯に庇護されて聖書のドイツ語訳をしたんだっけね。うん、ルターさんも、よく頑張った。偉いと思う。やはり何ごとも、しぶとくないと成し遂げられないね。

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ドレスデンへの旅(1)

講義も終わったことだし、旅に出かけることにした。まずは近場ということで、ドレスデンに行くことにする。ザクセンの古都、第二次世界大戦の爆撃から、時間をかけて歴史的建造物を復元したことで有名だ。

 

 

とはいえ、まずは列車に乗らないといけない。が、途中のZoo駅で、Sバーンがまったく動いていないことに嫌な予感がする。あるんだよな、時々。ことごとくついていないときが。僕は生まれて初めての海外一人旅でいきなり飛行機の欠航を経験し、フランス留学の際は途中で経由したケベックまでの道のりで、ストによる欠航、遅延、荷物の紛失、再度遅延、遅延による乗り過ごし、さらに再度の荷物の紛失に見舞われた。ほとんど想定されるすべての不運に見舞われたとしか言いようがない。どうも、僕はそういう巡り合わせに生まれたらしく、時々こういうことが起きる。

 

 

なんて嫌な予感がしたが、なんとかベルリン中央駅にたどり着く。実はこの駅、初めてだ。いやあ、なかなか大きな駅だ。見て回って面白かった。

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そしてホームへ。大丈夫、予約した列車が来ている。で、乗ろうとすると、通りがかりの職員さんに「カプート」と言われた。はて、「カプート」ってなんだっけと考えること数秒、ああ「故障」だ、やっぱり(後で聞いたら、いくつかの車両だけ使用不能になったらしい)。で、次の車掌さんに聞くと、「どこでもいいから空いている席に座れ」。と言ってもねえ、列車は難民状態。座る場所どころか居場所もない。結局、2時間、わずかな隙間にじっとしたままドレスデンに行くことになった。とほほ。

f:id:Shigeki:20180725113558j:plainでも、日本でこういうことが起きたら、きっと客は興奮して、車掌に食ってかかることだろう。ところが、車掌も平然としたもの。詫びの言葉一つなく、「当たり前」という顔をしている。バックパッカーの多い客たちもみんな文句を言わない。なるほど、文化の違いだねえ。いい教訓になった。

講義終了!

今日でめでたくこちらでの講義をすべて終えた。週3回、英語で講義をするなんて、正直なところまったくイメージできなかった。でも、やってみると、あっという間に終わった気がする。1週、1週なんとかこなして、「ああ、なんとか今週も乗り切ったよ」と思っているうちに、最後まで来た感じ。

 

結局のところ、すべては度胸と経験としか言いようがない。正直、英語は我ながらうまく話せたというときと、なんだかメタメタというときの両方あった。しみじみ、英語は脳みそで話すのではなく、口と身体で話す気がする。頭で考えていては追いつかない。うまくリズムに乗ると、「我ながらよくこんな言葉が出てくるな」になるし、乗れないとズブズブになる。言葉を話す筋肉をもっとつけるしかないが、いずれにせよ、話し続けるしかないし、それを支えるのは度胸と経験である。ともかく今回のドイツ滞在で、度胸と経験だけは積んだ気がする。

 

内容面ではどうだろう。学期途中から学生も容赦がなくなり、いろいろな議論をぶつけられた。うまく答えられたかというと、微妙な場合が多い。でも、議論を通じて、自分の脳みそがヒートアップし、講義を終えた後も、考え続けることが多かった。日本で話すときとまた違った視角の問題提起が多く、目を白黒させながら、多くを学んだ気がする。今は、学生のみなさんに感謝するのみである。

 

ともかく今日は、「終わった〜」という充実感と、「もうこのメンバーでは会えないのか」という寂しさでいっぱいである。いい経験をした。日本に帰る日も近づいている。

ベルリンを歩く

ベルリンに来て、はや二ヶ月が過ぎた。が、その割に、行動範囲は大学とアパートの周辺に限定されていたようだ。言い換えると、旧西ベルリンのさらに南西の住宅地地帯が僕の生活圏のほとんどだった。

 

 が、それはさすがに狭すぎるのではないか。そのことに気づいたのは、旧知のHさんがベルリンに来てくれたからだ。Hさんは壁崩壊前の1986年に始まり、壁崩壊直後、さらに2000年代と、何度かこの町を訪れているという。そのHさんにくっついて僕もベルリンのあちこちを歩いてみた。

 

f:id:Shigeki:20180616170334j:plain例えばこの絵が有名なクロイツベルク地域。トルコ系移民が多いことで知られているが、若い人も多く、活気に満ちている。かつて壁がある時代、周辺地帯であったこの辺りに多くのアーティストが暮らしたようだ。今でもパンクな雰囲気が漂っている。

 

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イーストサイドギャラリーにも行ってみる。ここにも壁が結構残っているが、今はアートの場所のようだ。

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そこからさらに、旧東ベルリンの雰囲気が残っているカール・マルクス・アレーを通り、アレクサンダー・プラッツへ。そして最後はこれ。ベルリンの中心部だが、かつてはアーティストでいっぱいだった地帯。今はすっかり観光地になり、再開発が進んでいる。もはやパンクな空気は希薄だが、この絵など、見ているとどきっとする。

f:id:Shigeki:20180615150817j:plainやはりベルリンは面白い。これまでの出不精を反省し、これからはもう少しベルリンの町歩きをしてみたい。

21世紀の日本

ドイツでの滞在ももう少しで後半に差し掛かる。講義も7週目でちょうど半分終わったことになる。しつこいようだが、こちらでの講義について、再度触れたい。

 

 こちらでの担当は三種類。一つが学部向け、一つが大学院向けの講義で、後のもう一つが日本語講読の演習である。が、いずれも人数が少ないので、同じようなスタイルでやっている。

 

 受講生はもちろんドイツ人が中心だけれど、中国人の学生さんもいれば、イギリス人の学生さんもいる。中にはウクライナ人の学生さんまでいて、なかなかダイバーシティに富んでいる。申し訳ないけれど、講義は英語でやっている。ドイツ語でできたらいいけど、、、まあ、無理だなあ。

 

 でも前にも書いたけれど、国際コミュニケーション用語としての英語はとても重要だ。この場合、「国際コミュニケーション用語としての英語」というのは、「アメリカで実際に使われている英語」とは区別される。英語を母国語としない人間同士が、互いの意志を疎通させるための英語だ。発音や表現に微妙な部分があるとしても、ともかく正確に互いの意志を疎通させることが大事で、明快で平易であることが求められる。こった表現は必要ない。美しい言い回しもいらない。ともかく情報が正確に伝わり、意志の疎通がスムースであることが一番である。

 

 このような「国際コミュニケーション用語」としての英語を用いて、多様なバックグラウンドを持つ人が集まり、議論を交わす。それぞれの人が、それぞれの国を代表してではなく、一人の人間として、素直に思ったことを話し、質問し、それに誰かが答える。相互の間に、多様なバックグラウンドの違いはありつつも、同じ時代を生きているという共感のようなものがある。

 

 当然、日本のことを話していても、東アジアという歴史的・文化的な文脈において論じることが必要だし、現代世界の中でそれがどういう意味を持つかが肝心だ。「日本はこうなんです。おしまい」のような日本特殊論は、とっくの昔に時代遅れになっている。日本のかくかくしかじかの事例は、こういう背景の下で起きたわけだけれど、それは世界の人々にとって意味のあることなのか、そうでないのか。このようなスタイルで議論するとき、日本の面白さもまたもっともよく示されるのではないか。そう感じている。

 

 このようなダイバーシティに溢れる環境の下、互いに微妙な英語を駆使しつつ議論をしていくことこそ、21世紀におけるアカデミズムの醍醐味であると思う。

日本について

ベルリンに来てから、一月と半分くらいである。すっかりとは言わないけれど、かなりこの街に馴染んできた。その上での印象は、開放的で、暮らしやすい、ということだ。大都市だけれど緑が多く、適度に機能的で、それでも生活を楽しむ余裕を失っていない。各種手続き面で、時に官僚主義的な印象もないわけではないが、全般的にはリラックスした都市という気がする。日本にいるときは、ベルリンについて、こういうイメージはなかったと思う。もちろん東西ベルリンの格差や多様なエスニシティのコンフリクトなど、様々な問題があるのは事実だ。それでも、あまりにステレオタイプだった自分のベルリン・イメージを反省している。やはり来て、実際に暮らしてみないとわからない部分もあるものだ。

 

 で、日本のことである。こちらに来る前、「ヨーロッパではもはや日本への関心は乏しく、もっぱら関心は中国に向かっている」という説明をしばしば耳にした。実際、メルケル首相も中国には足繁く通う一方、日本にはそっけない印象もある。が、どうだろう。そうも言い切れないという気がして来た。

 

 もちろん、僕が大学の日本学科にいるせいもあるだろう。ベルリン自由大学はドイツでも屈指のヤポノロギー(日本研究)の拠点である。日々、日本について学ぶ学生や院生のみなさんに接し(日本についての知識や日本語能力には、かなりのばらつきがあるが)、なにがしかの手応えのようなものを感じつつある。

 

 彼らの日本への関心は、何もアニメや漫画ばかりではない。今時のヨーロッパの若い人の日本への関心はサブカル中心だろうという予想は、いい意味で覆されつつある。彼らは日本の歴史や文化、政治や社会、文学や思想に対して、かなりバランスの良い関心を持っているというのが僕の印象だ。

 

同僚と話していても、日本への関心のきっかけは村上春樹であったが、今は日本のポピュリズムに関心があるという人もいた。高校生時代に日本語を学び、今は日本の法思想を研究しているという人もいる。実際、日本研究を専攻する学生の数は、中国研究を専攻する学生にまったく引けを取らない。むしろ多いくらいである。

 

 彼らが素直に日本の社会と歴史に関心を持っていることを、僕は嬉しく思う。でも彼らは同時に、日本社会における問題点についてもよく知っている(戦争やジェンダーの問題など)。単純な日本贔屓では決してない。日本人もまた、「こんなに日本は人気がある」的な変な自慢本と縁を切り、むしろ日本の文化のうち、何が世界の人にとって関心の対象になっているのか、どうすれば日本の「面白さ」を世界に伝えられるか、をもっと虚心坦懐に検討した方がいいのではないか。そう感じている。