トラックバックへの返礼

大分久方ぶりの更新となってしまったこと、ご容赦くださりませ。
いま放送されているアニメたちに情熱を持ち得ない状態が続いており、アニメにチャンネルを回さない日々が続いております。
さて、前回の更新からして時間が経過しておりますし、いただいたトラックバックについてはなおさら・・・、という状況でございますので、「正直この期に及んでぶり返されてもなあ」というご批判は甘受いたしたく存じます。ですので、「いまさら」とか「もういいよ」とか思われる方がおられましたら、いまさらながらのたわ言ということでスルーなりなんなりをお願い致します*1。その辺りの程よろしくお願い申し上げます。
よって、以下はいただいたトラックバックへの返礼というニュアンスを主にしているものであります。なお、後ほど修正が入るかもしれません。

敷居の先住民様

順番が逆ではないかとの御指摘を頂きました。ありがとうございます。ご返答させていただきます。
上記リンク先でおっしゃられているように、「ハルヒダンスを踊っている人の動きを再現したわけじゃなく、アニメのダンスを見て感動した人が次々に踊っている」というのはその通りであろうと存じます。しかしながら、わたくしが問題としていたのはあのダンスをいかに評価するかという話でありました。いうなれば、必ずしも時間的な先後の話ではございません。つまり、お言葉を拝借すれば、「ダンスを見て感動した人が次々に踊っている」のであれば、なにをもって「感動した」というのかという問題です。そして、御指摘いただいた部分は、感動した理由に「身体性」をあげるのはおかしいのではないかということです。換言すれば、「ほらほら、あのダンスを実際に踊ってみれば"案の定"違ってみえるでしょ?*2」ということなので、論の射程範囲としてはあのダンスを全否定するには及ばないものです(人間の動きを再現はできなかったけど、結果的に*3妙な映像ができてしまったので、それを楽しいと思える人がいるのならそこまで否定するものでもない、ということです)。
要するに、「「実写の動きを再現できてないので失敗」という結論は、その前提としている基準がおかしいのではないでしょうか」との御指摘がありましたが、そのさらに大前提として、?京アニがロトスコを用いことを既定のものと考えること、?「身体性」についての話であること、が存在しております。したがって、その前提の存する範囲内においての話と考えていただきたく存じます。

ものくろライト。様

「面白い/つまらないから脊髄反射で批判してると言うよりはむしろ、
知人などに「観れば面白さが解る」と言われて観てみたけど面白さがサッパリ解んなくて、
んじゃ今度は理詰めで「何が面白いのか」を探ったら(彼ら的に)ダメな要素ばかりが浮かんできたから、
結果的にこき下ろしている、という図式がどこかにある」

との御指摘を頂きました。ありがとうございます。おっしゃる通りではないかと思います。ただ、蛇足ですがあくまで他意のないことだけはご理解いただきたく思います。といいますのも、一応面白いといわれている根拠をネット等を介して調べてはいるのですが、いまいち納得のいくものがなかったということなので、別段特定の人々・制作会社・作品内容が嫌いだとかそういう気持ちはございません。

将来の夢は、悪質なクレーマー。様

あくまで感想で真に受けないようにとのことでございましたので、むしろ内容について言葉を述べさせていただくことは、却って先方様の意に背かぬこととなろうかと存じましたので、トラックバックをお返しさせていただくにとどまらせていただきたく思います。ありがとうございました。

空っぽの部屋様

トラックバック頂き、ありがとうございました。斬新な視点から論じておられ、大変興味深く拝読させていただきました。

Something Orange様

海燕様からは複数のトラックバックをいただきました。ありがとうございます。以下、各トラックバックごとに返信させていただきたく存じます。

「搾取」

第一に、「搾取」に関していただいたトラックバックに返礼するとともに、答弁(というより疑問点の羅列にすぎないのが申し訳ないですが…)させていただきたく存じます。「見方を変えれば、あからさまな宣伝」、「ある意味では、現代のオタクは「搾取」されている」などと海燕様もおっしゃっていますし、実際は、お互いに認識の差や相違点は多くないのではないかと思います。表現上での齟齬、細かな部分での認識の程度の違いといったものが強調し、あるいはされてしまい、相互に必要以上に煽る結果となってしまった観があるのかと思うと反省しきりです。
さて、そういうことで「搾取*4」の現象面での評価は、実は相互に許容できる範囲なのではないかと思いますので、疑問形式での答弁とさせていただきました。以下、よろしくご査収ください。

1、海燕様のおっしゃる「最も「搾取」とは縁遠い時代」に出捐していることは、「搾取」されているという語に親和するものではないか。
2、自分の意思で出捐させることは、搾取する側からしてみれば最高に上等なものであって、搾取している/されているということと矛盾するものではないのではないか。
3、内容的にはセルフパロディといったものを多様し、商業的には大量の関連商品を生産することは、前者は少ない創作で息を長くさせる行為で、後者はひとつの創作で多くの実入りを期待する行為ではないのか。そうであるとすれば、そういった行為に乗ることは搾取されているといいうるのではないか。
4、ニコニコ動画youtube、共有ソフト、同人誌等といったものの存在をある程度見越して(むしろそういった存在を積極的に取り込んで)いるように思える点で、そういうものを宣伝によって搾取するツールとして機能させているのではないか。その意味で、らき☆すたを肯定的に捉えて視聴するような行為は、経済的な意味での搾取ではないとしても、それを促進ないし助長するものといいうるのではないか。

なお、お断りとして、上述した疑問は、商業的な側面をまったく排除したもののみを認めるといった趣旨ではないことは当然の前提であります。しかしながら、商業的な部分を両立させつつ、いかに表現を追及するかというストイックさは常に要求されるのであって、もはやそれを放棄してしまったのではないかと思えるような商売には賛同しかねるのもまた事実でございます。また、トラックバックをいただいた元の文章の中では、もちろん経済的な意味での搾取というニュアンスもありましたが、どちらかというと、作品を批判する基準の甘さから制作者に楽をさせているのではないかといったニュアンスで「搾取」と用いた部分も大きいです。ですので、上記の疑問点のなかにはそういった側面からのものも含まれています。

Something Orange様

「慰撫」

まず、前提問題として、海燕様よりいただいた、8月11日付のトラックバックには、いくつか重要と思われる点が存在いたします。
その中で、本論以外でさしあたりもっとも問題になりそうな点として、「それにもかかわらずこの作品が人気を得ている以上、この作品にはそういう「オタク」以外も魅了する力があると考えるべきであり、決してそのような狭い意味での「オタク」以外に対し閉ざされているとはいえない」の部分があります。なぜなら、果たして本当にこのようにいえるのか疑問だからです。定義にもよるとはいえ、「オタク」以外の人々がどの程度らき☆すたについて認知しているのでしょうか。現状は、アニメがゴールデンから放逐され、多くが深夜枠で放送されるにすぎない大きな流れのさなかにあります。らき☆すたもその例に漏れていないにもかかわらず、そう言い切れるだけのものがどのあたりにあるのだろうか、ということはひとつ問題意識を持つべき点であるように思われます。

では、本題にうつりたいと思います。
ここで、はじめに1点謝罪いたしたく存じます。以前、『らき☆すた』のテーマがそこにあると述べてしまったのは確かにわたくしの誤読でございました。申し訳ございません。
次に、いただいたトラックバックより、海燕様の文章のサマリーを抜き出してみようと思います。
「日常」という言葉であらわしたくなるような何かがある→「慰撫」にこそ、『らき☆すた』の魅力の一旦がある→「擬似日常」にひたりたいという欲望に応えている→何気ない日常のように演出された物語世界→見るものを慰撫するゆったりした「擬似日常」を生み出すことを目的として演出されている
こうして俯瞰してみると、魅力があるから、らき☆すたの演出は成功しているのだというようにも読めます。しかし、そう解すると、作品解釈としては逆になるのではないかと思います。つまり、普通は「演出が成功しているからこそ、作品として魅力がある」といってよいということになるはずですが、この場合にはそうではないようにも読めます。もっとも、この点は、わたくしが文章の構造を誤読しているだけかもしれません。ですが、もしかしたららき☆すたを評価する人々の間には何がしかの前提があるのかもしれないとも思えてしまいます。
上記の点はひとまずさておき、海燕様は「あたかも、何気ない日常のように演出された物語世界。そういうものに対する欲望をもたない、あるいはそこに魅力を感じないひとにとっては、『らき☆すた』は退屈な作品でしょう。」と述べておられます。この文章を読んでみますと、やはり何がしかの前提があるように思えてしまいます。といいますのも、欲望ないし魅力を感じることの出来る人でしからき☆すたを楽しむことが出来ないというように読めるからです。そうであれば、まさにそれが前提なのだと思います。
ところで、わたくしは以前、オタク以外の視聴者を拒絶している旨を述べました。それは、らき☆すたを好むオタクと呼ばれている人種の間には、ある共通点があるように感じられることに由来します。いうなれば、海燕様が引用なさった伊藤剛さんの文章、「「慰撫すること/されること」や、マンガの「読み」における快楽そのものの価値は、やはり問い直されていいはずです」ということに対応しているといえるでしょう。言い換えれば、アニメを見ていれば幸せ*5という価値観が広まっているが、しかしそれは、ある作品がアニメであるという点に根拠を求めるものであって、具体的な作品の面白さ自体については不問に付すという姿勢なんじゃないの?ということです。邪推すれば(そして強い口調で言ってしまえば)、そういうことを糊塗せんがため「日常*6」といったりしているようにもみえてしまいます。オタク文化が爛熟期を迎え、それを享受する人間も世代を重ねていった結果、アニメがないと嫌だという考えが先にたって*7、肝心のアニメ自体の内容を吟味するハードルが消滅あるいは限りなく低くなってしまっているのではないでしょうか。少なくともそういう人が増えているのではないでしょうか。わたくしは、それは余りに本末転倒じゃないの?と思わざるを得ません。たとえアニメを観ること自体に快楽を肯定したとしても*8、それをもってアニメを評価するに当たっての根拠とすることはできないと思います。ただし、基本的には、という限定がつきますが*9
オタクといわれる人には、いつの間にか「アニメをみる」という自分設定が構築されていて、それがアニメの評価段階にまで食い込んでいるのではないかと思います。アニメが面白くてはまったからオタクといわれる道を歩いていたはずが、いつの時期からか「オタクだからアニメは面白い」という逆転現象に転化されて*10、いざアニメを観るにあっては当初から評価がかさ上げされてしまっているように思えます*11
もちろん「いま、ここ」についても話はかわりません。例えば、「いま、ここ」を積極的に否定したのが「エヴァ」です*12。また、同じく「いま、ここ」を描いたものであっても、「エヴァ」に対抗する形で積極的に「いま、ここ」を肯定するメッセージを包含する作品であるならば、意義はありましょう*13。しかし、ただ純粋に「いま、ここ」を描いただけのものということであれば、上述した「アニメ観ること自体の快楽」と同様、やはり最初の段階で選別が行われてしまっているということになるのではないかと思います*14
なお、こう考えると「いま、ここ」を否定することは、確かにストーリー性やメッセージ性*15と結びつきやすくなるのですが、論理必然的にそうなるということでもありません。話の次元としてはあくまで別個のものです(伊藤剛さんが「一般に「ストーリー性」優位の考え方に立つと、次に来がちなのが「単に慰撫するようなマンガはよくない」「願望充足的なマンガはよくない」という考え方です」として"来がち"という言葉を用いているのは、なるほど確かにその通りだと思いました。「いま、ここ」に浸りたい人間が、それを評価に持ち込むことがやはり問題とされるべきであるからです。つまり、「おれたちは「いま、ここ」に浸っていられれば十分だけど、だからといって「いま、ここ」"だけ"を描いた作品が(まっとうに評価されて)いい訳ではないよね。」という問題意識です。)。
上記を小括すると、「「慰撫すること/されること」・「アニメをみること自体の快楽」・「いま、ここ」という言葉にはある前提があって、その前提をもっている人たちが面白いといっていることそれ自体は、個々人の内側にとどまっている限り咎められないとしても*16、作品に対する評価*17として肯定されちゃたまらないよねということです。というか、こうして書いてしまえば、上に述べてきたことはあえて読まなくても良いのかもしれませんが…。
これまで述べたところはやや一般論によってしまいましたが、次はとりわけてらき☆すたに焦点を絞った話をしてみようと思います。まず、らき☆すたはあまりに記号的です。これは各キャラクターについてもそうですし、舞台設定もそうです(単に舞台が高校になっているというだけ)。また、海燕様もおっしゃっているように「物語としてとくにおもしろい作品」でもないです。一例を挙げれば、チョココロネをどう食べるかがわざわざアニメーションとなってまで語られることか疑問です*18。かなり平たく言ってしまいましたが、このような点があるにもかかわらず、らき☆すたに魅力があるといわれているのは何故なのでしょうか。
この点を勝手に推測すれば、上述したような「アニメ観ること自体の快楽*19」ないし「いま、ここ」、「(ある意味で奇を衒った)他に類を見ない手法*20」、あとは「空気に乗ったこと*21」等があるのではないかと考えられます。しかし、いずれをとってみても空虚というほかなく、確かにその意味では「日常」という言葉を用いてみたくもなるのですが、畢竟「日常」とか「何もないのがよい」とか言うのはそういうことにすぎないのではないかと思いました。

Something Orange様

「気持ち悪い」

コメントいただいた当該箇所は、言ってみれば傍論でしたのでさほど強調すべく述べたものではありませんでしたが、改めていくばくかの言葉を紡いでみようかと思います。
これについて、海燕様は「この世界は気持ち悪い」ということを基調にして論じておられます。この点、海燕様もおっしゃられている「『エヴァ』のメッセージって、本当に「この世界は気持ち悪い」ということだったんだろうか?」という疑問は非常に重要であると思われます。というのも、エヴァのメッセージに「この世界は気持ち悪い」ということは含まれていないからであります*22。むろん、わたくしも「この世界は気持ち悪い」というメッセージがあるという前提でものを述べたわけではございません。
では、わたくしはどういう趣旨で述べたのか、ということを軽くですがご説明いたします。

第一 某所
庵野秀明氏は、エヴァンゲリオンがテレビ放送開始する2年程前(1993年12月)に某所*23にて以下のように述べております。
そこで庵野氏は、アニメそのものがおもしろくなくなったことと自身がアニメに興味を持続できなくなったことを挙げ、「アニメーション」がおもしろくなくなったと述べます。
アニメーションはもう駄目かもしれないとまで言った上で、アニメーションは力を失い、メディアとして「閉じた世界」に向かいつつあるとします。その理由として、矮小な安定を求め、ゲームやマンガ等から輸入されるだけの企画、ネタの弱体と枯渇からループ化した企画、低予算・ローリスクのスポンサー、そして、深刻な現場の才能不足等の外的要素、無力を自認した現場の己のエゴを卑屈に満足させるためだけの行為、「アニメファン」と呼ばれる人達の低意識等を挙げています。
しかし、それにも関わらず、こういう「閉塞感」を破砕し、何かすべきであるといいます。そして、庵野氏は「あらゆる改革者には深い絶望がつきまとう。しかし、改革者は絶望を言わないのである」という三島由紀夫氏の言葉を引用します。

第二 まごころを、君に
次に「劇場版エヴァンゲリオンまごころを、君に」をみることにしましょう。この点、多くの方がおっしゃっているように、当該作品に含まれていたメッセージについてはいまや共通の認識が成立しているといってよいと思います。海燕様の言葉から拝借すれば、「自分を傷つける他者を受け入れろ」「甘い夢を見ることはやめて、厳しい現実に帰れ」ということでありましょう。とはいえ、メッセージとしてはこういった言葉で表現できるのですが、ここではいま少し具体的に見てみようと思います。
件の「気持ち悪い」という台詞は、シンジがアスカの首を閉めた手を話した後に発せられます。つまり、シンジは一旦はアスカに手をかけたにもかかわらず、殺さないまま手を離したということです。にもかかわらずアスカは「気持ち悪い」といいます。
ところで、シンジがアスカの首を絞めるというシーンはこれより以前にもありました。シンジが「僕を助けてよ!!」とアスカに詰め寄るも、拒否され、突き飛ばされ、コーヒーメーカーが倒れるというあのシーンです。つまり、このシーンとラストシーンは直接的につながっています。そして、その中でシンジは、必死に「捉えられた僕を助けて」「ひとりにしないで」「僕を見捨てないで」「僕を殺さないで」等といいますが、アスカは、「もうそばに来ないで」「ほんとに他人を好きになったことないのよ」「自分しかここにいないのよ。そんな自分を好きだと感じたことないのよ」「哀れね」などといって突き放します。
ここで、再びラストシーンに戻ってみると、上述したように、シンジは最終的に首を絞めた手を離します。なぜか。それは、シンジがたとえ傷つけあっても他者のいる世界を望んだからです。まさに、「自分を傷つける他者を受け入れろ」というメッセージが端的に表れている部分でしょう。
しかし、そんなシンジに向かってアスカは言い放ちます。「気持ち悪い」と。紆余曲折の末、他人を受け入れ始めたシンジに向かってアスカはそんな風に拒絶の意を表します。これはどういうことかというと、「お前がどれだけ頑張って立ち上がろうとしていても、他人がそれを必ずしも受け入れてくれるとは思うな*24。」ということです。よくよく考えれば当たり前のことなのですが、それだけにこのメッセージは正しいと思います。単に「自分を傷つける他者を受け入れろ」「甘い夢を見ることはやめて、厳しい現実に帰れ」というメッセージを放って終わるのではなく、もう1段掘り下げているところに強く現実を意識させるものがあるわけです。確かに、自分の努力を100%他人が汲み取ってくれるわけではありません。ですが、最後にこの「気持ち悪い」すなわち、「お前がどれだけ頑張って立ち上がろうとしていても、他人がそれを必ずしも受け入れてくれるとは思うな。」というメッセージがこめられることによって、逆説的に「自分を傷つける他者を受け入れろ」「甘い夢を見ることはやめて、厳しい現実に帰れ」というメッセージが強調される結果となっています。つまり「確かに他人が当然に受け入れてくれるとは限らないけど、でもそもそも他者を受け入れ、現実に帰ろうとしなければ何も変わらないよ」ということになるわけです。

第三 所信表明
以前にもリンクを貼った(本文中かコメント欄かは忘れましたが・・・)、庵野秀明氏がヱヴァンゲリヲン新劇場版:序を制作するに当たっての所信表明があります。そこでは何と述べられていたか*25
すなわち、「蔓延する閉塞感を打破したいという願い。」「この12年間エヴァより新しいアニメはありませんでした。」「本来アニメーションを支えるファン層であるべき中高生のアニメ離れが加速していく中、彼らに向けた作品が必要だと感じます。」「「エヴァ」はくり返しの物語です。主人公が何度も同じ目に遭いながら、ひたすら立ち上がっていく話です。わずかでも前に進もうとする、意思の話です。曖昧な孤独に耐え他者に触れるのが怖くても一緒にいたいと思う、覚悟の話です。」です(一部抜き出し)。

第四 総括
以上のようにみてきますと、庵野秀明氏が「エヴァ」で示したメッセージが、庵野秀明氏がいまのアニメーション(とそれを取り巻く環境)に対して思っていること(=所信表明)およびそれがとらせた行動(=新劇場版の公開)とシンクロしていることがわかると思います。もちろん、上述したような「エヴァ」のメッセージは一般論として十二分に通用しうるものではあるのですが、言うまでもなく庵野秀明氏はアニメ界を支える重要な1人であって、また第一および第三をみればわかります通り、とりわけてアニメの場合にひきなおすことのできるものとなっています。換言すれば、
1.1993年段階でアニメーションはもう駄目かもしれない、なんとかしなければならないと思い「エヴァ」を作った。
2.第二で述べたように、庵野秀明氏は強烈なメッセージをこめており、しかも「エヴァ」という作品は社会現象にまでなった。当然オタクといわれる人種も面白いと言っていた。
3.しかしながら、第三の所信表明をみればわかるように、庵野秀明氏は「この12年間エヴァより新しいアニメはありませんでした。」と思っており、いまだに閉塞感を打破できていなかった。
4.だから改めて「エヴァ」というタイトルを再び掘り起こし、前作より露骨な形で*26メッセージを送ろうとしている。
5.でも、それが必ずしも受け入れられるとは限らない*27。そういう土壌があるとは言い切れない。
拙い言葉でまとめてしまえば、庵野秀明氏が再び「エヴァ」というタイトルを用いてメッセージを送らなければならない、そういった現状*28をもって、「新世紀エヴァンゲリオンにおいて庵野秀明が提示した「気持ち悪い」というメッセージを、一方で"エヴァ的"なものとして受け入れながら、他方においてそれが示したメッセージに背馳してきたのがこの10年間であったといえよう。」と述べたのでございます。

以上、わたくしの表現ではせっかくのメッセージが陳腐なものになってしまって大変心苦しいばかりなのですが、多少なりともご理解の一端を担えればと思い、ご説明させていただきました。

古木の虚様

トラックバックありがとうございます。興味深く読ませていただきました。
「「人」と「世界」が物語の両輪」、まさにその通りだと思いました。そして、大事なのはその両輪を持って何を描くか、ということだと思いました。「両輪」という比喩はとても重要で、「両輪」というのであればその向かっていく先がどこになるのかが最も関心事であるからです。あるキャラクターを創りだすのも、ある世界(ストーリー含む)を創りだすのも、何か目的があってのことだろうと思います。その目的とは、実は広い意味のことで、何かのメッセージを伝えたいという思いはもちろん、ギャグを描きたい等といった部分にまで及びます。そう考えると、両輪と目的とは密接不可分のもので、相互連関しているものといえそうです。その意味で、「人」も「世界」もそれ自体が目的ではなく、単なる手段に過ぎないといえるでしょう。
ある目的を達成するために「人」を描く必要があるのなら、その「人」には深みがなければいけません。なぜならば、薄っぺらい「人」の演出するメッセージやギャグは陳腐だからです。例えばわたくしが、その場のアドリブで思いつくような話を、わざわざアニメを通じて観たからといっていかほどのものがあるでしょうか。らき☆すた上で話題に上る話は、確かに高校の休み時間で話されていても不思議ではないかもしれません。しかし、彼女たちもいつもその水準の話をしてばかりいるわけではなく、もっと真剣に様々なことを考えながら生きているはずです*29らき☆すたでは、そういったことまで描かれるべき、手段たる「人」が余りに記号的に過ぎ、薄っぺらいのです。らき☆すたに限った話ではないですが、例えばツンデレとかいった言葉*30のようにらき☆すたのキャラクターに存在している要素自体が、既にある程度定型化していることも一因でしょう*31
ですから、単純に「このキャラならこう言いそう」と思えたからといってよいわけではありません。「人」の描き方が足りないと、「このキャラ(=記号)ならこの程度のことしかいえないよね」となってしまいます。おそらくこの点に関係するのだと思いますが、「「そだね〜」という一言が、つかさというキャラクターを良く描いている、何ともつかさらしい一言だったから、面白かった」というのがどういう意味合いなのかわかりかねました。わたくしには、「つかさというキャラクターの口調がそういうふうに設定されている」以上のものが読み取れないのです。
とりとめもなく文字を重ねてしまいましたが、いただいたトラックバックの中に既に答えは出ていました。それは、「単純であるとか、思考停止であるとか言われるかもしれないが」の部分です。おっしゃられるとおり、あの作品を思考停止であるとか言うような人には、きっと面白いとは思えないのでしょう。以上のことをアニメの場合にひきなおして、かつ別の言い方にすると、「何も考えなくても楽しい作品を作るには、作り手の側はいかにして楽しいと思う心をつくのか、ということまで考える/られる」といったあたりでしょうか。さらに、これをらき☆すたの場合にひきなおすと、「(楽しいという人たちがいるから)楽しい原因を探してみたけど、キャラクターも記号だしそれ以外もたいしたことないし、もしかして作り手の側が楽しいと思う心をつく努力をしたというより、観る側が積極的にそう思ってくれたんじゃないのかな」となります。
アニメは「人」を描くものです。「人」とは決して単純なものではありません。わたくしたちが生きるこの現実世界は、非常に複雑に出来ています。そうした外的な面に加え、人間たるわたくしたちの内的な面もまた、決して単純なものではありません。アニメというフィクションは、1話30分のなかで、しかも作り物の世界の中で描かれるものです。自然、それなりのものを描いていただけないと「日常」レベルの人間にも達しえません。したがって、わたくしは、「素直に楽しめばよいだけの話」ということができないのです。奥行きのないキャラクターや、与太話が重ねられる"だけ"のストーリーに価値が見出せないからです。ですから、きっと「素直な感受性が鈍磨している」んでしょう*32
ちなみに、人が空が青いというだけでなくことが出来るのは、空の青さの先に万感の思いあるからだと思いました。

*1:どころか、むしろごめんなさいという他ございません。

*2:京アニがロトスコを用いたということを前提としています。

*3:アニメーション独自の力学が働いて、ということ。

*4:ことばとしての適切性はひとまず置いておく

*5:この点について、本当に幸せといってよいものかは問題があるように思われます。むしろ、もはや惰性としてアニメを見ているといったほうが適切なオタクは多く存在するのではないでしょうか。つまり、アニメを見ているのは面白いということを肯定しても、具体的なこの作品はどこが面白いのかということまで逐一考えているか(逆に言えば、どのアニメが面白くないかまできちんと)については甚だ疑問がある、ということです。それこそ「らき☆すたは物語はさして面白くないが」という話を聞くにつれ、わたくしなどは「じゃあ魅力はどこにあるの?」と首を傾げてしまいます。その疑問を口にすると、確かに回答はいただけるのですが→以下本文へつづく

*6:もしくはこれに類する言葉を含む。

*7:明示的にそこまでを意識していなくとも、アニメをみることが習慣化している(逆に言うと、みないでいることに抵抗を感じる)ということを含む。

*8:というか、わたくしとて"アニメが好きな"オタクであればそういう快楽自体は多少なりとも肯定してもよいとは思います。なぜなら、"アニメが好き"だからこそ"オタク"なのですから。しかし、それをオタクでない人々にまで要求する、逆に言えば、そういう快楽を有していない人を最初からはずすような姿勢についてははどうかと思います。また、オタクに対して快楽の存在を肯定したとしても、一般抽象的に「アニメ」ということだけで満足してしまうというスタンスは首肯しかねます。

*9:この一文は、蛇足だったかもしれません。しかし、一応説明いたしますと、(引用もとの伊藤剛さんの文章がどのような文脈・どのような趣意のものであるのかは図りかねるところはあるのですが)より正確を期するならば、「(特定の、ないし内輪内の)単に慰撫するようなマンガはよくない」、「(特定の、ないし内輪内の)願望充足的なマンガはよくない」ということをわたくしは言っているのです。その意味で、これはメタ的な話(魅力を感じないひとにとっては退屈な作品だと最初から開き直っていない「単に慰撫するようなマンガ」、「願望充足的なマンガ」がよくないというのとは次元を異にしているということ)といえるでしょう。

*10:かといって、このような転化が起こってしまうのはわからないわけではありません。上述したように、アニメが好きであれば「アニメ観ること自体の快楽」は否定できないからであります。したがって、問題はそれをもって評価しようとした結果、評価のラインが崩壊してしまったことにあるように感じます。後述の庵野秀明氏の言葉「「アニメファン」と呼ばれる人達の低意識」とはこういうことも含まれているのではないでしょうか。

*11:だからこそ、「あたかも、何気ない日常のように演出された物語世界。そういうものに対する欲望をもたない、あるいはそこに魅力を感じないひとにとっては、『らき☆すた』は退屈な作品でしょう。」という評価をする人との間で齟齬が生じているように思われます。

*12:詳細は後述。

*13:否定論者に「これがおれの考えだ!どうだ、肯定しろ!!」と迫るものであるため。

*14:肯定論者に否定しろ!と訴えるのではなく、否定論者に肯定しろ!と訴えるでもなく、ただ単に「いま、ここ」を是とする人が「いま、ここ」に浸るということであるため。

*15:ストーリー性とメッセージ性は異なる概念であることは一応付言しておきます。ここではあまり問題となりませんが。

*16:山賀博之氏風にいえば、幸せになる権利があるといったところでしょうか。

*17:その時点で一般的性をもつ。

*18:誤解を招きそうなので付言しておきます。チョココロネの食べ方を端緒としても、ネタとしてきちんと昇華できているのであれば、それは面白さとなりえます。でも、実際の作中をみてみると「チョココロネの食べ方」というネタ振りは、「細い方をちぎって食べんじゃないの(柊かがみ)」というところへ着地しただけでした。もっとも、チョココロネから派生していろいろなものの食べ方に話題がつながっていったのですが、それも食べ方を論じる対象が変わっただけにすぎず、チョココロネの場合と同次元の雑談でしかありません。これに対して、例えばあずまんが大王では「痔のひらがな表記の仕方」をネタ振りとして、「途中イルカ話にシフトしていたのにいつの間にか痔の話に戻っちゃってた!(榊))がオチの着地点になっています。両者を比較した場合、ネタ振りからオチまでの落差に違いがあることがご理解いただけるのではないでしょうか。

*19:惰性的にアニメをみる、ということも含まれる。

*20:アニメ内における製作会社の別作品の宣伝をするとか、一定の層を前提としたパロディの多用とか。少なくとも話題性はあります。

*21:動画投稿サイト等の存在(これも制作サイドは意識的に前提としているのかもしれませんが)、過去作品のおかげで制作会社の新作に対し放送開始前から一定の評価ないし期待が存在したこと、角川の強烈タイアップによってできた流れ等。他にももっとあるかとは思いますが。

*22:アスカは「(シンジが)気持ち悪い」といったのであって、「(世界が)気持ち悪い」と言ったのではありません。

*23:逆襲のシャア友の会という庵野秀明氏責任編集の同人誌

*24:表現が下手なので語弊を招くかもしれません。

*25:正直に言ってしまえば、この所信表明が全て語ってくれているので、わたくしなどが言葉をつむぐ必要は本来まったくなく、単純に全文を引用すればよい話ではあるはずなのですが。

*26:これについては、実際に「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序」をご覧になればご理解いただけるかと存じます。

*27:前作でさえ到達できなかった境地に、より困難な状況である現在に至ることが出来るのかは、わたくしも1ファンとして見届けるべきであると思っています。

*28:むろん、わたくしを含めたファンたちが件のメッセージに気づきながらも何も出来なかったことも責任の一旦であろうと思います。

*29:作中では、進路の話とか、かなりなあなあのうちに終わってしまいました。

*30:らき☆すたツンデレがいるかどうかという話ではなく、わかりやすい一例として挙げました。

*31:要素的なキャラクター形成が先行すると、キャラクターの言動が予想できてしまうため。

*32:ところで、結局のところ木菟様との見解の相違は、「物書きをはじめとする表現者が何か表現をするということは、そこに何がしかの"事件性(狭い意味ではありません)"がある」という命題を肯定できるかどうかということに由来するように思われます。蛇足ですが。

8月7日・8月9日・9月6日の日記に対していただいたコメントへの返信

まずはじめに、実質1ヶ月以上なんらの更新もできなかったことをお詫び申し上げます。また、思わず時間の取れた今日という日の午後に急遽返信を用意した経緯から、内容に精査行き届いておらぬ可能性のある点も重ねてお詫び申し上げます。
らき☆すたも最終話を見終わったことでもありますし、ここに以前の日記へコメントを下さった方々へ返信いたしたく存じます。



>MIYA様
コメントありがとうございます!
らき☆すたのような作品の需要は確かにあろうかと思います。ただ、需要と作品の肯否が必ずしも一致しないところに歯がゆいものを感じずにはおられません。
パロディについてですが、らき☆すたはパイオニア的な存在ではないと思っております。分かりやすい例でいえば、当サイトで以前述べた「トップをねらえ!」は存在自体がパロディでありました。タイトルからも分かるとおり、「エースをねらえ!」と「トップガン」のパロディです。むろん、これ以外にもパロディとして良作・秀作とされる作品は多々あろうかと思われます。その意味で、あの作品におけるパロディは斬新では決してありませんし、その質自体も低いものであるからこそ否定的な見解を採らせて頂いているということであります。仮に方法論として新しいものでさえあれば、少なくとも「頑張ってるよね。結果は失敗だったけど」という評価は下せるのですが、そういうものでもありません。MIYA様におかれましては、らき☆すた以前にいかなるパロディ作品があったのかお調べになってみるのもよい勉強になろうかと存じます。
ところで、MIYA様のおっしゃる「何も考えずに気楽に見れる」とはすなわち思考停止ということではないのでしょうか。
また、「スケッチブック」につきましては、おそらく鑑賞している時間が確保できない(現在らき☆すたのような作品を是とする作り手のアニメは控えたいという心情が強く働いておりまして、時間に余裕のない近頃ではおそらく観ることはないと思われます)ために必ずしもコメントを寄せるとは確約できない状況にあります。また、実際に観ることなく申し上げるのも憚られて申し訳ないのですが、おそらくMIYA様の期待にこたえられるような内容を述べることはなかろうとも存じます。申し訳ありません。
次に、9月6日分にいただいたコメントに対しての返信でございます。
まず、MIYA様がおっしゃっているように意識的に考えていないとしても、あるいはそうでなくとも、それは結局思考停止以外の何者でもないのではないと存じます。
さて、MIYA様のコメントをみさせていただきますと、わたくしが当初より「面白い」という言葉を文脈によって多義的(あるいは文脈ごとに異なるニュアンスを用いているといったほうが適切やもしれません)に用いてきたことがいまいちご理解いただけていないような印象をうけます。MIYA様のおっしゃる「面白い」という言葉と、わたくしの申し上げる「面白い」という言葉は、そもそもなにを「面白い」とするかが異なっています。MIYA様のおっしゃる心的作用としての「面白い」と感じる心理がどういったものかということを知りたいのであれば、その方面におけるものの本をお調べになるのがよろしかろうと思います(わたくしもそちらの学にはくらく、必ずしも適切な説明はしかねるためでもあります)。対して、わたくしが「面白い」というのは、各表現にどのような意図があるのかとか、それが適切な演出によって表れているかとか(観る側がきちんと読み取れるか)、それらが全体として整合性をもって物語を織り成しているかといった観点が満足されたような場合であります。わたくしが説明であるとか理屈であるとかいう言葉を用いてきたのはまさにそういうことで、そういったものを「面白い」というのならば言葉に引きなおすことは十分可能であろうと存じます。
「面白さ」というものは、確かに究極的には理屈ではございません。感覚的なものであります。しかし、ただ「面白い」というよりも、「○○だから面白かった」といわれたほうが他の人は納得できようと思います。さらに、「○○だから××で、だから面白かった」といえばなおさらでありましょう。例えば、ある美術品がなぜ価値があるかといえば、それは「美術史的にこういう意義がある」だとか、「技巧が秀逸である」といった様に説明できましょう(今は例でありますので、非常に簡略化しておりますが)。それらに個々人が価値を見出すどうかは別として、そういった説明は現になされており実際に通用しているものです。仮に美術商や研究家、解説員などといった者が「なんとなくよい品だと思われます」とか「何も考えないでみるとよい作品です」とか「空気がいい品物です」といった場合にはいかがでありましょう。絵画や文学や音楽でも何でもよいと思いますが、そのような作品解説がされているものは凡そ存在しなかろうと存じます。1枚の絵画をぼーっと眺めて綺麗だなと感じるような楽しみ方を否定する気はありませんが、少なくともそれでは作品解釈にはなりえません。時代背景、なぜその絵が描かれたのか、どのような技法が用いられているのか。そういったことを考える営みもまた必要だろうと思う次第でございます。そして、アニメに対してもそういうスタンスで向き合おうというのがわたくしの申し上げていることなのであります。
なお、「バナナの皮で滑って転ぶ」の話がなぜ面白いかについてですが、これにも説明は可能であると思います。基本的にギャグというものはギャップを感じることに面白さを見出すものです。人は思い込む生き物です。歩くあるいは走っている姿をみるとその動作が続くものと思い込みます(人が歩く映像やアニメーションが流れていたら、何か新しい映像が与えられるまではそれが続くものと思うわけです)。そこへバナナの皮が登場し、本来だったら歩き続けるはずの人間が滑って転んでしまう。そのギャップに人は意表をつかれ面白さを感じるのであると思います。後はバリエーションにより、嗜虐心であるとかいたずら心といったものが加わったりすることもあろうかと存じます。この説明は細部を簡略いたしましたが、MIYA様におかれましては、もしさらなる疑問がございますればご自分でお考えになるともよかろうと思います。


>mawo様
情報ありがとうございます!
以前どこかで見かけて以来、タイトルに興味を覚えましていずれ読みたいとは思っていたのですが、どうにも機会と執念が及びませんで、お恥ずかしながら探してすらいない状況でありました。これを機会に読んでみようと思います。ありがとうございました。


>nonno様
コメントありがとうございます!
nonno様のおっしゃる通り、そういった意味では同情されるべき作品やもしれません。アニメの制作環境というものは、昔から商業的に成功する要素を取り入れながら如何によい作品を作るかという制約のなかにありますので、彼らにはその制約を跳ね除けるだけの作品作りを期待したいところです。ただ、仮に彼らがこのような作り方を面白いと思っているのだとしたら、そこに同情の余地はなくなってしまうかと思います。わたくしとしても、そうでないことを切に祈るばかりであります。
とはいえ、現在よりアニメ技術的に劣り、しかもらき☆すたより実質予算も少ないであろう機動戦士ガンダムが(放送時はともかく)いまだあれほどの人気を保っていることを考えると、もう少し他のやり方があったのではないかと思わずにはいられません。
サザエさん」につきましては、わたくしが最後に観たのは数ヶ月前でしたが、そのときは"何か"とはいわず、それなりの理由をもって面白いといえる作品でございました。


>nag様
コメントありがとうございます!"King"のお話、興味深く拝見させていただきました。
まず、「天皇陛下」や「エリザベス女王」は、言ってみれば「(自分にとっての)その王」あるいは「(自分にとっての)このKing」というような場合の話であって「王(あるいはKing)」という言葉それ自体とは次元の異なる話であります。「萌え」という言葉に置換すると、「(自分にとっての)その萌え」ということになろうかと思います。では、「王(あるいはKing)」といった言葉自体の意味は何かというと、辞書等にきちんと意味が記載されていると思われますのでそちらをご覧いただきたく存じます。それに対して、「萌え」自体の意味はなにかという柊つかさの質問に対して、泉こなたは「好きってことの感情表現には違いないけんだど、わたしも詳しくはわかんないなー」ないし「とりあえずこの単語を自然に捉えている」と返答しておりましたが、こういう言い方では「萌え」という単語の意味はないといっているようなものではないでしょうか。もっとも、「萌え」という言葉の是非は当サイトの内容に直結はしないのであまり深く追求する必要はなかろうと思います。
日常についてですが、一方で現代の高校生は3年間通っても精神的に成長がないと一般的にいっているにもかかわらず、他方で人間関係や個人の趣味によって千差万別であるというのは矛盾であるように思われます。また、日常という概念をそのように広域的(広義的という意味に解させていただきます)に理解してしまうと、それこそわざわざ日常という言葉を用いた意味がなくなってしまうように思われます。つまり、「その世界(空間的な意味と時間的な意味を包含)で」「その人たち」にとって「描かれている内容」が「日常」という言い方をしてしまっては、汎そなんでも該当してしまうことになり、実質的な意味を没却し何も言っていないのと同じなのではないかと思われます。日常という言葉についてなぜいけないのかは、以前の日記やコメントでも言及させていただいておりますので、さらなる疑問がございますれば、詳細についてはそちらをご覧くださすようお願い申し上げます。


>さめかけ様
コメントありがとうございます!
要するに、あれらの演出は「確かに何か違うことをやっているしやろうとしたのかもしれないんだけど、それはやっても無駄あるいは失敗だよね」ということであります。制作サイドがいかなる意図でやったのかは、それが明言されていない以上(作品における他の演出等から読み取れない・作品外で言葉にされていないなど)、わたくしたちの側からしてみればわかりかねる話でありますので、「仮想的な身体性をもたせることも難しい萌えアニメに対する批評性を持たせよう」という意図を読み取るにしろ、「なんにもわかってないからあんな演出するんだ」などと読み取るにしろ、それらは単に推測にすぎず結局善意解釈あるいは悪意解釈でしかないと思います(もっとも、結果を示せていない以上、理解しないでやってしまったという誹りを免れ得ないといえばその通りかもしれません)。そして、外形的なものをみる限り、こと「身体性」というものに対しては、彼らの方法論は矛盾する結果を生み出しており、失敗だったということでございます。さらにいえば、他の萌えアニメはそういったことを理解していて京アニのような方法論をとらずにいたのかもしれませんし、逆に京アニはそこの理解が不十分だったのかもしれないともいいうるわけでございます。
共通言語のお話についてですが、さめかけ様がおっしゃるのは、オタクと非オタクそれぞれの認識・価値判断があるにもかかわらず、オタクの側のそれを非オタク側の基準にあわせろというのはおかしいという主張でよろしいのでありましょうか。まず、「共通」言語なので、オタクであるとか非オタクであるとかいう単語を持ち出す言い方をする時点でいかがなものかと思わざるを得ません。すなわち、「今まさにコメントにおいてさめかけ様がわたくしを説得しようとするのに用いている言葉(方法といってもいいかもしれません)」でアニメを語っていただければよい、ということです。そして、その言葉(方法)はオタクであろうと非オタクであろうとすでに「もっている」ものであるにもかかわらず、なぜかアニメを語るときにはそれが「用いられない」ので、もうちょっとよく考えてみてよ、というということでございます。仮にオタク独自の認識があるんだということを肯定したとしても、認識とは、見えている、触れている、わかる、といったものであって決して思考ではございません。そして、認識のままでは、オタクでない人間はもとより、同じオタクですら共通のものを抱いているとは必ずしもいえないと存じます(個々人が別個の存在たる人間である以上、同じ認識を共有しているかは確認のしようがないからです)。であれば、結局言葉に表してみなければなにもわからないということであり、そういったことを否定し、認識の段階でとどまることを肯定する以上、「思考停止」といわれても致し方ないのではないかと思われます。オタク独自の認識があるのなら、そしてそれを「思考」していたというのならそれは言葉に出来るはずで、であればその言葉にできる思考を声に出してみてよ、ということです。


>ジラ様
コメントありがとうございます!
ジラ様がおっしゃっているのは、結局「共感できる人だけ共感してね」ということであろうかと存じます。それは、結果として共感を得られなかったこととはそもそもの次元が異なり、ただの制作者側の怠慢にすぎないと思います。例えば、ジラ様から寄せていただいたコメントは、「わたくしという反対の意見を持つ人間を説得するために書いたもの」であります。これが、ジラ様と同一の考えを持つ方に対して寄せる場合であれば、それはただの確認行為であって余りたいした意味を持ちません。相手が既に分かっていることをもう一度言ったからといって新しく得るものはないからであります。何が一番重要かといえば、共感していない人をいかに引き込むか、換言すれば、自分の言説に説得力を持たせどうやって相手を納得させるかであります。そういう営みを否定し、共感してくれる人だけを前提とした作品作りをするというのは、説得的に表現することの放棄すなわち表現の敗北ではなかろうかと存じます。また、受け手の側もそれでよいとしてしまうのは同様に怠慢に過ぎないものと思われます。
さて、お祭りの例えですが、おおむねジラ様のおっしゃっている通りでよいと存じます。思いますに、「思考停止」といわれて「いや、この作品にはこういった考え方があるんだよ」としっかり立論できればよし、あるいはそういった楽しみ方は駄目なんだと改めるのもよし。しかしながら、具体的な中身に言及しないまま「空気だけを楽しんでいる」としながら、いざ「思考停止」といわれると憤るというのはいささか都合が良すぎるといわざるを得ません。
最後に、レスの方式についてのご返信でございます。当初はジラ様のおっしゃるような形で返信させていただこうと思っておりましたが、個別的に返信した方がコメントを寄せていただいた方の疑問に思っている点にダイレクトに返信できることをより重視しようと考えさせていただきました。結果、返信に時間がかかるという時間的な問題にはまことに申し訳なく存じておりますが、総括的な返信による同旨の再コメントがよせられるといった場合もありえることを考えますと、必ずしも時間の節約になるとも言い難かろうということで、なにとぞご甘受いただきたく存じ上げます。


>いばら様
コメントありがとうございます!
客観的説明という部分につきまして、いばら様のご理解をいただけるよう特に分かりやすい形で説明するよう心がけたいと思います。いくら理屈理屈と唱えても、終局的には感覚的なものに寄りかかっていることは否定しませんし、むしろ肯定するところですが、それは最初から感覚的部分でしか語らないということとは決定的に異なります。簡単にいってしまえば、MIYA様に対する返信で述べたように、「らき☆すた面白かった」といわれるよりも、「○○だかららき☆すた面白かった」といわれたほうが分かりやすいということです。さらにいうなれば、「○○だから××で、だかららき☆すたは面白かった」といえばさらに分かりやすくなります。自分の感覚的な部分での納得が得られるか得られないかはともかくとして、そういう言い分もあるんだということが理解できようかと存じます。車の改造の例をとってみても、客観的な説明をつけることはできますし、それが返ってこないということはいえないでありましょう(「○○だから車の改造がすき」と自分の好きな理由を説明する人は、いばら様の思っておられるよりも存外多かろうと思います)。心理学という学問分野があろうかと思いますが、これはまさに人間の心理状態に説明を加えようとする試みではないのでしょうか。ギャグアニメについても、「なぜ人はこれをギャグとして面白いと思うのか」ということには説明をつけることが可能であると思います。あずまんが大王はギャグアニメでしたが、あれは面白かったですし,その面白さも十分説明できるものでありました。そうであれば、説明が出来ないアニメがあるとしてしまっている時点で、そこは思考停止であるといってしまってよいのではなかろうかと思います。疑問なのは、感動というのも人間の心理であるのになぜ感動系のアニメには理論が成り立つとされ、他方らき☆すたには理論が成り立たないということになっておられるのでしょうか。この点、らき☆すたが破綻しているアニメだからという意味合いであれば、確かにわたくしも首肯いたすところです。したがって、そもそもアニメを理屈で語るという次元では、アニメをそのような2種類に分類することには疑問が生じます。返信中でも引用いたしましたが、できうるのであれば、MIYA様への返信もあわせてご覧ください。また、繰り返しになりますが、理屈と感覚の話はわたくしが本来意図しているところはそこまで厳密な"理論"というものではないので、ある程度感覚的な部分に依って立つ必要があることも上述したとおりご留意いただきたく存じます。
最後の点についてですが、わたくしも見ている人がどうであろうが、その作品の良し悪しとは関係ないはずであると思うのですが、そうであれば、仮に私がらき☆すたの信者は馬鹿だという偏見を有していたとしても、前回の文章内容がそれに左右されることはないと存じますがいかがでありましょうか。
また、蛇足かと存じましたが、必ずしも返信内容と無関係ではないとも思われるので、相対論の例えについて一点述べさせていただきたいと存じます。相対論は、「実験結果と矛盾しない体系を論理法則に則って説明する」という共通のルールに則って発表されたものであります。それが当時理解されたか否かは、理論自体の成否とはまったく関係のないものでありましょう。わたくしが申し上げているのは、そもそもその共通ルールで語ろうよという次元での話であるのではないかと考えました。


>河童様
コメントありがとうございます!
河童様の言葉を借用させていただくと、おっしゃるとおり「自由度の高い」ということかもしれません。ただ、残念なことに自由度が高いことでなにを生み出すことが出来たかといえば、結局何も生み出せていないと感じております。らき☆すたはアニメ業界の縮小再生産を示す象徴的なものであるように思われます。ある意味で究極的、悪い言葉で言えば末期的な作品で、この作品が世に示したことは「現在においてはこのような作品でも商売になるんだ」ということが一番ではなかったかと考える次第でございます。


>いちげん様
コメントありがとうございます!
おっしゃる通り、ただの一視聴者であればわたくしもあまり批判する気はございません。ただ、わたくしはアニメに興味をもっていて、かつほんの少しですが一定の本数を観ている人間であります。そういったある程度アニメーションに触れ合う機会のある者が、そうでない者と同程度のことしか語れないのはいかがなものかと思うわけです。しかも、たとえ一定量アニメーションに触れる機会がある人間に対しても、「どう面白いか語れ」とまで強い主張をするつもりもございません(わたくしが勝手に、ある程度アニメを観ているのにろくに観ていない余人と同程度のことしか言えないというのは自分の知能を疑ってしまうという感覚に個人的にとらわれているにすぎないためでございます)。しかし、そうであるのに、「君たちろくに語れないんだね」といわれた際に、その部分を否定しにかかるのはいかがなものかとは思います。
また、わたくしはらき☆すたがオタクの全肯定を描いているものとは理解しかねます。というより、あの作品がなにを描いているのかすらわかりかねます。わたくしにとっては、そういった破綻した作品を肯定することが「気持ち悪い」のではないかと思います。
また、いちげん様の言葉を借用させていただけば、むきになって肯定するほど論じるに値する部分があるとも思えない、ともいえそうですが、わたくしとしては、決して少なくもない労力と時間と予算をかけて作成されたアニメーションが、無いものは語れないといえる程度のものでしかなかったことは十分に批判に値すると思うのですがいかがでありましょうか。

報告2

わたくしの個人的な事情によりただいま多忙な時期となっているのですが、そのためにコメントを寄せていただいた方々及びトラックバックをしていただいた方々には返信をお待たせしてしまい、心より申し訳なく思う次第であります。
本日、やっとらき☆すたが最新話まで追いつきまして、これでようやくコメントの方にとりかかることができます。したがって、まだ多少のお時間をいただいてしまうことになりますが、数日中にはアップしたいと思いますのでお待ちくださりませ。
なお、その際はまずいただいたコメントに対しての返信を、次にいただいたトラックバックへの返信(あるいは言及)という形をとるつもりでおります。重ね重ね、遅延をお詫び申し上げます。

らき☆すたに対する当サイトの見解への皆様方の反響によせる

個人的にはハイピッチで書いてはいたのですが、おそらくコメント欄に寄せていただいた方々、ご自分のブログ内にて言及していただいた方々、ないしブックマークにいれてくださった方々には待ちかねる状態であったやしれません。お待たせしてしまって申し訳ございませんでした。さしあたりの返信分をアップいたします。少々急いで書いたものですから、荒い内容になってしまったかもしれません(下手をすると変なことを言っているかもしれません)。また、都合により10日より9ないし10日間ほど家をあけることとなります。そのため、次回の返信も可及的速やかにいたしたいとは存じますが、状況によってはお待たせしてしまうかもしれません。あらかじめお断りし、ご了承いただきたく存じます。なお、コメント欄へと返信を書き込むこともできかねる状態ですので、今回はこうして日記欄に返信を掲載させていただくと言う方法を採用させていただきます。
ところで、多くの方に誤解を抱かせてしまったようなので、わたくしの主張を、簡単にですが改めて明記しておこうと思います。
1.わたくしはパロディという手法自体を否定するものではございません。
2.わたくしが最も問題としたい点は、animationを語る上での共通言語をもとうよ、ということでございます。これまでわたくしが「説明」や「理屈」といった言葉を用いてきたのはそういう意味でございます。したがって、商業的云々といった言葉がでてくるような箇所は、「わたくしはあまり好感をもてないけれど、ご本人がよいのであればお互いなにをかいわんや」くらいのニュアンスしかございません(商業的な意味は、作品内容それ自体とは一応別の話ですので)。どうも感情的に書き綴った"愚痴"の部分が誤解を生じさせてしまったらしく、わたくしにとって本意ではない部分がございます。すべてはわたくしの不徳といたすところでございますれば、皆様方におかれましては何卒お許しくださりますようお願い申し上げます(本音を申し上げますと、はてなダイアリーに間借りして間もないサイトがここまで反響をいただくことになろうとはまったく予想しておりませんでした。たかをくくって筆の向くまま心情を吐露してしまったのですが、それが実にうかつなことに皆様のご不興を買うとは、ただただお詫び申し上げるしかございません)。
つまるところ、そういう問題意識もあるんだなあ、くらいのことを皆様方が感じてくださればわたくしとしては本懐であります。


つい先日、こちら様の本を買いにいこうと、数年ぶりに件の会場へ足を運ぶことを決めたのですが、その矢先にまさか執筆者の一人でおられるkaien様(海燕様との表記の方がよろしいのでしょうか)よりリンク(下記)をいただけるとは思いもよりませんでした。恐縮しきりでございます。
ところで、都合によりSomething Orange様の該当記事へのコメント欄ではなく、当サイトの日記欄をもっての返信とさせていただきたいと存じます。

『らき☆すた』ファンは思考停止しているのか(Something Orange様)

まず、当サイトの主張としては、感覚的なものでは作品の良さは伝わらないから、きちんと説明できるようにしましょうね、ということであります。象徴的だと思うのですが、らき☆すた第18話「十人十色」には柊つかさ泉こなたに「萌え」という言葉の意味をたずねる、というものがありました。「好きってことの感情表現には違いないけんだど、わたしも詳しくはわかんないなー」、「とりあえずこの単語を自然に捉えている人がオタクじゃないかというのがわたしの意見」というシーンです。「萌えってなに?」と問われて「自然に捉えてください」というのは説明としてはちょっと…ということであります。ですが、そもそも「感覚的なものだけでいいんだ」という主張もあろうかと存じます。その場合には、それはそれでかまわないのですが、思考停止といってしまってよいといえるのではないかと思うわけでございます。kaien様におかれましては、ありがたいことにそういう段階での主張ではなかろうかと思いましたので、それを前提として話を進めさせていただきたく存じます。
次の段階の話ですが、らき☆すたのよさを説明したものとして「女子高生の"日常"だからよい」あるいは「オタクな女子高生の"日常"だからよい」といったものがみうけられました。実は、kaien様ご指摘の部分については「日常」という言葉に比重を置いて言及をしていただきたかったということがあります。すなわち、わたくしは「女子高生の"日常"だからよい」という主張は肯定できないよと答え、かといって「オタクな女子高生の"日常"だからよい」といったように「オタク」という単語をつけたからといって肯定できるものでもないよとわたくしは主張するわけであります。
そこで、そもそも「オタク」という概念が成立するかどうかを検討しようと思います。この点、自らを「オタク」と称するないし自認する人間が多数存在することは周知ですし、なにより、らき☆すたという作品内において泉こなたが「オタク」という単語を用いていることから(「十人十色」の回で用いられていたのは上述の通りです)、当作品はこの概念の存在を予定しているものと考えることができます。
では、「オタク」概念が存在するとすれば、それはどういったものでありましょうか。この点は、kaien様のおっしゃる通り一口に「オタク」といっても、その態様はさまざまであることでしょう。そうであれば、知識と、識見と、性格と、価値観と、その他いろいろを必ずしも共有していない「オタク」という概念を持ち出して評価を下そうとしても、「12%くらいのオタクだから、わたしはあまり元ネタがわからなかったけど楽しかったよ」とか「92%くらいのオタクだから、わたしは元ネタがだいぶ分かったから楽しかったよ」ということとなってしまい、畢竟、それぞれの「オタク」によって下す評価がこととなってしまいます。したがって、「オタク」という語を用いたからといって正当化できるものではないよ、ということなのです。そして「日常」という言葉もその意味をもうすこし掘り下げてみると不適切なんじゃないの?ということにつながっていくということでございます(なお、「日常」性についての言及は日記本文中ないし各コメント欄にてさせていただいておりますので、おそれながら省略させていただきます)。
※ところで、この部分にご意見のうち、「オタクたちに親和性があるからといって知らない人(あるいは自分)が楽しめないというわけではない」旨のご主張をいただくことがございます。しかしながら、この場面でわたくしが論じておるのは、「オタクたちに閉じられている"から"らき☆すたはいいんだ」という主張に対する否定的見解でありますので、「元ネタを知っていなくても楽しめる」旨のご主張に対するわたくしの見解はまた別の次元で論じられるべきものと存じます。
そこで、kaien様はらき☆すたのテーマを、こなたたちの人間関係を描くことじたいが目的と設定なさいました。そうであるとすれば、かがみたちがメイド喫茶にいっても問題はないということになるというご趣旨だろうと思います。ところで、kaien様のそういった主張とはまったく別に一応明記しておきますと、わたくしが彼女がメイド喫茶にいくだろうかと書いたのは、柊かがみは「一般人」だという見解に対して、そうではないのではないかということから言及した次第であります(ところで、以上の点は、kaien様が誤読をしている等の意味ではなく、他の皆様方にわかりやすくしようとして申し上げたことをご理解いただきたく存じます)。
さて、kaien様がおっしゃる通り人間関係を描くこと自体が目的というのはいえなくもなさそうであります。例えば、作中の(便宜的にそう呼びますが)"あるあるネタ"は、彼女たちがそういったことをいいあう友達関係にあることを描写したと解釈できそうです。ただ、そう解した場合、あまりに冗長にすぎやしないかと思われます。第1話の段階ですでにそういった"あるあるネタ"がでてきましたので、第2クールも後半に差し掛かった段階でいまだに"あるあるネタ"メインに話が展開していく様は、なんというか物語のメリハリがないというか、(人間関係の)情報量が増えていないというか、下手をすると「第2話以降話が進んでいないんじゃないの?」と思ってしまいます(実際には多少も多少で、まったく進んでいないということはないといった具合でしょうか。それは、泉こなたがゆたかと同居するようになった回で、どうやら年相応の自覚が芽生えてきた"らしい"描写がみうけられたことでしょうか。もっとも、それはメイド喫茶のところには無関係でありますので、蛇足説明でございました。申し訳ございません)。したがって、かなり迂遠にはそういったテーマを肯定しうる余地がある、換言すれば、人間が複数名登場する以上、およそ人間関係をテーマにしていないとはいえないのは確かでございます。ですが、そのレベルで肯定してしまうと、実質的には作品のテーマという概念自体の成立を否定するようなものとかわらなくなってしまうのではないでしょうか。とはいえ、その次元での肯定が絶対不可能であるというほどのものでもないことも確かであろうかと思いました。


以下は、前回の日記のコメント欄に寄せられたご指摘への返信となります。
>いばら様
お早いご返信ありがとうございます!ご指摘は本当に参考になります。
いばら様のおっしゃるような言い様をされてしまうとわたくしとしては反論できないというのが正直なところです。animationはエンターテイメントです。老若男女楽しむことのできるものだと思います。しかし、例えば未成熟の子供であれば「面白い」「面白くない」だけをいっていればよいのですが、いやしくもanimationを好きだと自称するいい大人が、いつまでたっても子供と同じ言語しか繰ることのできないのでは、いかにもお粗末ではないかと思います。何年、何十年とanimationを観続けてきたにもかかわらず、いまだに「面白い」しかいえないのでは進歩がないのではないかとも思えるところであります。もちろん、"感想"にすぎないならばなんの問題もありませんし、自分自身がなんと"思う"(まさに"思う"であって"考える"ではないといってよかろうと思います)かは個々人の自由だからであります。ただ、それがいざ他人に対して作品を"語らなければならない"場合には、"感想"では人は納得できないのではないかと思います。「自分はこう感じた」という"感想"に対して、「いや、わたしはこう感じた」といったのではいつまでたっても問答は平行線のままでありましょう。これはある意味当然で、もともと"感想"は個々人に絶対的に帰属するもので、それを他人がとやかくいう筋合いのものではないからです。これに対して、"説明"であれば、(完全に趣味嗜好といった部分を排しきれないとしても)一定の水準では他人への説得に資することとなります(そしてそれは十分常用に供しうるでしょう)。そして、"説明"のためには「なぜ」とか「意味」とか、そういったことを考えなければならないということなのです。もちろん、最終的には、こういう考えに則る・則らないということは個人の自由ということになりますが、もしそれでいいんだといわれてしまうと、わたくしとしても如何ともしがたくなってしまうわけです(嫌なものは嫌なのだからしかたありません。かといってそう思うのが悪いわけではございません)。その場合もはや、わたくしの側として言えるのは別の国へいけと。"説明"を用いなくても分かりあえる人たちだけで成立する理想郷を作ってください、と割り切らざるを得なくなってしまうのです。ただ、こういう問題意識があることを理解してくださる方がいらっしゃるかもしれないと思ったので、そういう人がもし当サイトをごらんになってくれれば、と願ってこういう風に書き散らしてきたわけでございます。
比喩については蛇足かなとも思いましたたので、ご不快でしたらご勘弁いただきたく存じます。ただ、上述したように、感覚的に作品の当否を論じてしまうと、「ここが気に入らないからだめだ」といった不都合に陥りやすいとは思いますが、"説明"に依った場合には「いや、そこは○○じゃないでしょう。なぜなら××」といった具合に話ができ、いばら様のご懸念もある程度払拭できるのではと思っております。
ところで、わたくしは「日常」とは何を意味するのか疑問に思っております。近年よく耳にする「日常を描いた」とは一体なんのことでしょうか。「日常を描いたからこれでいいんだ」というのは、「日常」という言葉にごまかされてしまっている部分がないかと思われます。animationを制作する場合には、物的な意味でも内容的な意味でも一定の制約が存在します。そういった制約の中で物語を組み立てようとする以上、必ず描くものと描かないものに選別がなされます。その際には、なぜこれを描くべきものに選ぶかという理由が必要です(理由がないのに選別することはできないためです)。つまり、作品内に描かれている事柄には何らかの意味があるはずであるということがいえると思います。現実に生きるわたくしたちにとっては、よしんば「日常」を観念しうるとしても、わざわざ事柄を切り貼りして作られる"作品"の場合には、それを切り貼りして盛り込んだことに特別の意味があるのであるから、そうであれば「日常」という言葉で直ちに納得して良いものではなく、その意味を考える必要があるのではないでしょうかと思ったわけでございます(「日常」概念につきましては、過去にも当サイト内にて多少言及しておりますのでよろしければご覧くださりませ)。


>ブーメラン乙様
ご指摘ありがとうございます!わたくしの書き方が至らないばかりに誤解を生じさせてしまった様で申し訳ございません。
そこの部分につきましては、「祭り」に参加する人、すなわち「面白いと思う人だけ面白いと思える作品である」と主張する人が評価していることをもってらき☆すたを面白いとはいえないのではないか、という意味でございます。(便宜的に)分類してみると、このような主張をする人のほか、納得できる肯定論をきけば肯定、納得できる否定論を聞けば否定の評価を下す人、感情的には否定的であるものの納得のいく論を聞けば肯定の評価を下す人、そもそも感情的に受け付けず説明をしても聞かない人に分けられると思います。「面白いと思う人だけ面白いと思える作品である」と主張する人では、自分にらき☆すたがあっていると思えば肯定するでしょうし、そうでなければ否定することになろうかと思います。しかし、その場合には評価に組み込むことはできません。逆に、納得できる肯定論をきけば肯定、納得できる否定論を聞けば否定の評価を下す人、感情的には否定的であるものの納得のいく論を聞けば肯定の評価を下す人たちについては、説明の正当性によって左右されることとなるため問題はないと考えます。そもそも感情的に受け付けず説明をしても聞かない人については、これもまた説明によらない以上評価から省かざるを得ないのではないでしょうか。したがって、肯定論を上回る否定論、否定論を上回る肯定論のいずれが出てくるかということになろうかと思います。このように考えると、「祭り」であることに肯定の根拠を見出す論は、論として不成立である以上、今現在のわたくしの立場としては前者です、ということなのです。


>date様
コメントありがとうございます!date様のご指摘には、わたくし自身ギクリとするところがあります。
それは、おっしゃる通りわたくしは勘違いしているからではないかと思います。animation業界が今日のような状況に陥ることは、二十年前既に、庵野秀明氏や押井守氏らが予見しておりました。その間、彼らは自らの作品をもってこれを打破すべく戦ってきました。しかし、残念ながら彼ら自身は偉大な作品を残すことに成功しましたが、それによって流れをかえることまではできませんでした。それなのになぜわたくしごときが、という思いがあります。こんなことをしても何も生み出せないかもしれない、とも思います。ですが、何かしらに資することとなれば、という願いをこめて駄文拙文を人様の前に送り出した、ということなのです。偏見等につきましては、内容の適正化・独善防止の観点から、ご指摘いただければ幸いであります。


>てか様
ご指摘ありがとうございます!わたくし自身、その点実に失敗したと痛感しております。
書いているときには、分かりやすく必要十分のように思ってはいるのですが、いざ皆様からいただいた反応をみてみると、誤解、齟齬、説明不足等実に欠点だらけの文章らしくご迷惑をおかけしているようです。加えて、返信ではできるだけその点を解消しようとして、本文の解説・補足・反復を書くものですから却ってわかりにくくなってしまっているようです。大変申し訳なく思っております。ただいま返信内容の充実とコメント欄の効率との調整をすべく対策を考えておりますので、今しばらくお待ちいただきますよう。


>通りすがり様
ご情報ありがとうございます!
ただ、その話につきましては、わたくしは初耳でございます。ですので、申し訳ないながら真偽のほどは分かりかねます。申し訳ございません。


>椛様
御指摘ありがとうございます!椛様のようなご指摘を受けると、本当に穴ばかりの自分の文章に嫌気が差します。確かに、そうやって抜き出してみるとそのような意味になってしまいます。
まず、「1週間、いや、」から「のおかげである」の部分(第1パラグラフ)は愚痴ないし感情論といったものと考えていただいて結構であります。はっきりいって、商業的にのせられて搾取されようが、本人たちが良いと思ってさえおればわたくしがとやかくいうのは大きなお世話ですので(自分としては「戸惑い」「辟易」「感心」といった主観的な用語を用いてニュアンスをあらわしたつもりでしたつもりでしたが、分かりにくくて申し訳ありませんでした)。したがって、パロディを商業的なニュアンスから捉えた場合には、「わたくしは唾棄していますがお好きな方はどうぞ」ということになります。なので、その意味では「ただただ全てをネガティブな要素として捉えようとしている筆者の感情だけが伝わってきます」、「一事が万事この調子」「ただのヘイトスピーチ」、「らきすたを憎む」といったご指摘はまったくもって正当なものでございます。なお、なぜ「憎む」のかとのご質問に対しては、答えはひとつです(とはいえ、「憎んでいる」というわけでもないのですが)。それは「つまらない」からです。この場合の「つまらない」というのは、共感できないという意味ではなくて、内容として評価できないという意味でございます。
次に、ご指摘のパロディの部分についてです(説明の便宜上、この部分について特に抜き出してみました。)。「それ以上に他作品に頼らなければ視聴者を喜ばせることも出来ない力量のなさに辟易するばかりである」の意味ですが、一応「この作品に出てくるパロディは〜」「これ以外のパロディについては〜」といった感じで、らき☆すたにおけるパロディに限定した(つもり)でおりましたのでそのように解していただけるとありがたいです。「それ以上に(このような形で)他作品に頼らなければ視聴者を喜ばせることも出来ない力量のなさに辟易するばかりである」といった風に、「このような形で」という語句を補完していただけるとわかりやすいやもしれません。要するに、書いた当人にしてみれば一般論ではなく、らき☆すたという枠内での話のつもりでしたので、特に理由を明記しないままでおりました。わたくしの不徳により誤解を与えてしまったこと、謹んでお詫び申し上げます。けだし、「他作品に頼らなければ〜」の意味は、(事実ハルヒとかいった類のものがでてきただけで喜ぶ方々がいるので)パロディがされただけで肯定する人々を前提としていると思われる点で感情的に気に食わないし(ただし、念のため、内容自体に説得的な意味づけを要求するのがわたくしの立場であることは改めてご認識いただきたく存じます。したがって、もしただ単にそういった人々が喜ぶから程度の意味しか制作者の意図が存しないのであれば、内容としても直ちに否定します。そうでない場合であっても→)、そうではなくて「いやいや、それは制作者の意図とは違うんだよ」とこの点を否定されたとしても、らき☆すたにはその意図が読めない(すなわち用いられるパロディの意味が整合的に説明できない)点で、感情的ニュアンスを排して観てみても(感情以外の部分で)肯定できないよね、ということなのです。
今回の日記に具体例の指摘がないのは、いやしくも主張をなす人間として不誠実であったかと思われます。これまで1話単位でらき☆すたについて述べるというスタイルをとってまいりましたが、その際に多少なりとも具体例を挙げてきたつもりでおりました。そこで、過去に記述したことを読み手たる皆様にとっては既知のものとして論を進めてきてしまっておりました。(これを書いてしまっていいのかわかりませんが)まずパロディを用いている箇所が多くていちいち指摘していくのが負担であること、しかもそのわりに同じようなことを何度も繰り返さねばならなくなるということで、つい省きがちになってしまいました(弁解になっていないのは承知しておりますのでご勘弁ください)。しかしながら、当サイトに来ていただいた方すべてにそれを前提にしてわたくしの拙文(それも皆様の鋭いご指摘がありますので、コメント欄まで含めて)を読めというのは、単に傲慢でしかないと気づかせていただきました。本当に申し訳ないことでございます。そこで少々具体例を摘示してみると、例えば、「リング」ではメイド喫茶(?)で泉こなたetcが「ハレ晴れユカイ」のダンスをしていましたが、この場面ではこれを踊らなければ描けないような何かがあったのか甚だ疑問です(必然でなければならないとまではいいませんが、そこまで蓋然性の高いものではないかったように思われます。まして、これが彼女たちの人間関係とりわけ友情を描いたようなものであると解する場合には、それがどう繋がっていくのかということが必要になるのではないかと考えます)。あるいは「十人十色」の放送回から具体例をみてみますと、選挙の話→勉強しろという流れの話で、"なぜか"スーパーロボット大戦がでてきたということがありました。この点につきましても、スーパーロボット大戦によらなければ表現できないような場面であったとは到底思われないのです。


>shaba69様
コメントありがとうございます!
上述の通り、わたくしはパロディそれ自体を否定するものではございません。誤解を与えてしまって大変申し訳ありませんでした。


>AB/CD様
コメントありがとうございます!AB/CD様の御意見にわたくしも共感を覚えずにはいられません。
応援をいただくことは大変嬉しいことでございます。animationに興味のない方にとってみれば深く足を踏み入れて考えていく必要はなかろうと思います。しかし、わたくしは(詳しくはないとしても)animationは好きでありますし、そうであるならば、しっかりと好きなものは好き、嫌いなものは嫌いと説明できる自分でありたいのです。AB/CD様のおっしゃられるように、まさに「たかがアニメ、されどアニメ」でございます。


>いばら様
承りました。削除しておきました。


>tmkb様
コメントありがとうございます!確かに感情論と理由付けの関係性についてはご説明する必要があろうかと思いました。
「信者がウザい」ということは思わないでもないので格別否定はいたしません。そこの文章は、「(わたしにしてみれば、理由付けをもって肯定できる根拠があるとはいい難い状況で、むしろ否定する材料が見受けられるにもかかわらず)こんなanimationいりません!と声高に主張できず、むしろ与えられるものを(感覚的に合致すれば)肯定する前提でみること」はいかがなものかという意味でございました。つまり、当人の内心といたしましては、理由付けの有無に立ち入ることなく、感覚的な一致・不一致でanimationに向き合い、それに合致したからといって満足しているのはどうかなということです。もっとも、tmkb様のおっしゃるように両者を連結させて考えていただいても、わたくしの意図するところではないとはいえ、実際上何らかの影響が出るようには現段階では思えませんのであえてお止めする程のことではないかなとも思っております(おそらく、究極的な部分では感覚的なものに頼らざるを得ない部分が出てきますので、その際には多少問題となりえるのではと思われます)。
animationという言葉については、以前別の場所において、「(最近言われている)ジャパニメーションという言葉は幻想じゃないの?」ということを論じて以来、その見解の表明として用いてきました。当サイトにおいては立ち上げた趣旨からすれば、このような表記に拘泥する理由はございませんので、皆様へのご理解の妨げ等支障になるようでしたら改めますのでご指摘くださいませ。また、「否定すべきではなかろうか」という部分はわたくしの価値観もとい信条的なものでございますので、必ずしもご共感いただく必然性はございませんのでご理解ください。


>さめかけ様
ご指摘ありがとうございます。実は、そのご指摘はもっとも返答しにくいもののひとつであります。
まず、全体としてらき☆すたが何を描いた作品であるのかいまいち理解しがたいという前提があります。例えば、らき☆すたの一コーナー(?)であるらっきー☆ちゃんねるでは、「どこにでもいる普通の高校生の日常を、ゆるーくまたーり描くアニメ」といわれていました。ですが、そういう風にはいえないのではないかというのは日記中(過去の分・コメント欄も含む)に記述させていただいた通りでございます。
では、そうかといって話にふくらみがない等といった批判をしていいとはならないのではないかといわれてしまうと、確かに返答に窮してしまいます。といいますのも、およそ"ないこと"を証明するのには困難が伴うためです。ですので、本当に何もないとはいえないんじゃないの?といわれればそれまでなのです。したがって、わたくしとしては、ブログ等でいわれている「らき☆すたはこういう話なんじゃないの?」という見解をピックアップしてそれについて検討を加えるという方法論を採用させていただきました。こうした試みをしてきた中で、いまだに何を描いたのか明確な解答が得られていない以上、らき☆すたは表現として失敗しているんじゃないの、ということで否定の立場をとるということでございます(なぜならば、制作者は、受け手に対して表現を駆使して「ここはこういうシーンだ」といった風に視聴者に対して積極的に理解をさせる立場にあるからです)。
商業主義のことに関しては、わたくしもうまく峻別してご理解いただけるような表現ができていなかったので申し訳なく思うのですが、改めて一言で述べますと、「商業的な意味合いで作品を作るのは良いけれど、それとは別に作品内容における表現上の意味合いも考慮してね。もし商業的な意味合いしかないのであれば、内容評価と言う意味ではその表現は評価し得ないよ」ということでございます。
新房監督の黒板ネタについては、商業的なニュアンスからの批判ではなく、作品内容における表現上の批判でございました。これについてはいずれ記述しようと思っているところでございますのでご理解くださいませ。


>AB/CD様
さらなるコメントありがとうございます!
わたくしの未熟のせいでコメントをくださる方々に誤解等を生じさせてしまい、コメント欄が長大なものとなってしまいました。結果としてAB/CD様のご不快を誘うような事態になってしまったのであれば誠に申し訳なく思う次第であります。


>流れ者様
コメントありがとうございます!肯定論の成立不成立はらき☆すた評価上重要な意味を有しますので、そのようなご指摘は大変ありがたいものです。
例えばわたくしは、元ネタもある程度知っておりますし、CMも観ております(ただし、原作には目を通しておりません)。しかしながら、あの話を楽しいとは思えませんでした。そういうときに、面白さをどうやって伝えるのかという問題意識が「祭り」論の立場ということになります。しかし、その場合には「祭りだからいいんだ」といわれても、「いや、というか、なんでこれを祭るのかわからない」としかいえないということなのです。


>さめかけ様
再度のコメントありがとうございます。どうもわたくしの用いた言葉でご不快にさせてしまったようで申し訳ございません。
いかなる意味で各語を用いたかについてですが、思考停止という言葉については、およそそのままの意味で用いております。無思慮・無分別という言葉については、前者は意味づけを考えてほしいということで、後者はただお約束を破ればいいというものではないだろうということを意味しております。救いようがない(救済の余地がないという言葉を用いたことをさしていらっしゃると思いますが)というのは、肯定の根拠を見出せないので、わたくしにはらき☆すたを否定評価から救済できないという意味で用いております。もっとも、これらの言葉を用いたことがご不快のようですので、わたくしとしてはお詫びした上、思考停止を「もっとよく考えてほしいなあ」、無思慮を「もっとよく考えてほしかったなあ」、無分別を「もっとよく考えてほしかったなあ」、救済の余地がないを「考えたつもりだけど肯定の根拠を思いつかなかったなあ」と訂正し申し上げてもなんら支障はございません。
なお、思考停止については、わたくしの共通言語をもとうよという主張を容れないのであれば、自らそれを肯定したということでありますので、さして問題はなかろうと存じます。無思慮・無分別という言葉につきましては、用いられた場所は確か本編の内容に言及している部分でありますので、根拠等につきましては当該付近をご覧くださりませ。救済の余地がないという言葉につきましては、これまで記してきた内容全編を通してのことですので、根拠等につきましては過去の日記ないしコメントをご参照ください。


>よもひろ様
コメントありがとうございます!よもひろ様におかれましても、わたくしの言葉でご不快になられてしまったようで申し訳ございません。
該当箇所を確認いたしましたところ、「引用についてですが」とお断り申し上げた上でのkefu様へのご返信とさせていただいておりました。引用元のサイト様方は、おおむねらき☆すたに対して好意的でございました。当時は、そういったサイト様のご意見について当サイト内で言及しようと思い引用いたしました。その際、全文を引用することはできかねましたので、一部分を引用するという手法を採用した次第です。その場合には、(抜粋だけをみては文脈を見失うことがあるので)必ずしも各サイト様のおっしゃられたいことが完全に伝わるとは言い切れないことがございます。しかしながら、それを知りながらもあえて引用した=わざと、ということでございます。あくまで「引用について」とお断りさせていただいている以上、わたくしの内心には解釈を意図的悪意的におこなったつもりはございません。また、「意図的」や「悪意的」という言葉につきましても、これを用いたのは、kefu様が用いられた言葉をそのまま肯定した方がわかりやすかろうと愚考した故でございます。いま思えばよもひろ様のように言葉に敏感なお方には誤解を生じせしめてしまう以上、kefu様の返信には、「その言葉ではニュアンスが違う」と申し上げた上、別の表現におきかえておけばよかったと後悔しきりでございます。
さて、よもひろ様が提示なさった具体例についてでございます。一言で言えば、時をかける少女におけるピンクのパジャマはあえてそうしたということを要求するだけの重要性が作中になく、例えばらき☆すた第16話「リング」におけるダンスにはあえてそうしたということを要求するだけの重要性を求められる労力がかかっているということでございます。つまり、前者についてはピンク色を採用せずとも単に別の色がセル(便宜的にセルといいます)の上に乗っかるだけであったのに対して(なお、10代の女性ということも考慮すると、色の選択肢としてもさして不自然ではなかったように思われます)、後者については、「あれだけの枚数をつかい、音楽もあわせ、時間もさきました。よく手間暇かけました。では、それに見合うだけの効果(あるいは意味)は?」と問われてしまうと疑問符を打たざるを得ないということなのです。
さて、そもそも皆様方に与えてしまっているわたくしの印象として、「気に食わないから批判する」というものがあるようです。しかし、心情的な好き嫌いとわたくしが「内容を検討してから批判する」こととを結合させるが如きは当サイトで主張している趣旨とは異なりますこと改めて明記させていただきたく存じます。好意的に"思っている"からといって好意的に"解釈している"ことはないつもりではおりますし(ですが、そうでないと思われた場合にはどうぞご指摘いただきたく存じます。確かにわたくしがそう思っているだけでは保障としては十全ではございません)、好意的に"思っていない"からといって悪意的に"解釈している"と受け取られてしまわれるのは誤解であり、そのような誤解を生じさせてしまったことは大変申し訳なく思います。とはいえ、「気に食わないから批判する」とお考えになるのは、あえてとめるようなものではないと思っているのもtmkb様に対する返答内で申し上げたところでございます。
「野球中継の延長」については、あれは本編中のテーマ(狭義でのテーマとでも申しましょうか。話題と言い換えてもいいかもしれません)が2007年のこの御時勢にそんなことをいっているようでは…ということでございます。翻って、「ピンク色のパジャマ」は本編中のテーマどころか、それに関連するさしたる要素ですらない、ということなのであります。また、「タイムリープ」は「少女の成長」というテーマを説明する手段であって目的ではないのに対して、「話にオチが無いこと」は(狭義のではありますが)テーマといった違いがございます。後者については、自ら話題を振っておいて、オチがなければ結局話が進んでないのですけど…というツッコミが成立してしまいます。前者については、描きたいものがあるので(科学)理論的には矛盾するけどそこには目をつぶってね、ということであります(そうでなければ、例えば現代日本を舞台にしたもので、魔法とか超能力とかそれこそSFとかいったものが描かれている作品などは、そんなの存在しないから矛盾だよということで排斥される結果となることでしょう)。目的と手段の違い、と一言でいえばそうなりましょうか。
なお、時をかける少女に関するよもひろ様のご批判のうち、「千昭の行動の不可解さ」「後半の編集のドタバタ感」についてはいまいちご趣旨がわかりかねますので改めてご教授いただきたく存じます。「声優の拙さ」につきましては、あれは細田守監督が実写的な撮り方をanimation内に取り入れてきたという経緯がございまして、その上で声優ではない人間(多くは俳優であったと思いますが)を採用し、業界的な常識たる声優を用いるという形式を打破しようとしたところに新たな技術の開拓を目指した意義があるかなと思っております。舞台で映える声の出し方であてると「このようになる」とは思ってはおりましたが、確かにご指摘のように、上述したアニメ史における技術開拓以上のことはあまり考えておりませんでした。おっしゃる通り、声優っぽくない声のあてかたが気になる方は気になるのではないかと思います。

>さめかけ様
わざわざのご追記ありがとうございます!
京都アニメーションの演出と身体性の話ですが、これもいずれ日記中で言及しようと思っていたところ、よい機会ですのでこの場を借りて言及させていただきたく存じます(とはいえ、わたくしも演出論は詳しくないのですけれど)。
おそらく、この点を最も象徴的にあらわしているのは涼宮ハルヒの憂鬱のエンディングにおけるダンスであろうと思います。なので、これを引き合いに出して話を進めていくのがわかりやすかろうと思います。古今東西、ダンスに挑戦したanimationは数あれど、なかなかその試みが成功した例にお目にかかったことがございません。そもそも、animationという表現方法はダンスには向いていないところがあります。なぜか、と問われれば言葉で表現するのは難しいのですが、ハレ晴れユカイについては多くの方々が実際に踊ってらっしゃる動画が多かろうと思いますので、京都アニメーションが制作したそれと見比べていただければわかろうかと存じます。実際に踊っているダンスのほうは、例えば、手を動かす(伸ばす)というひとつの動作にしても(当たり前ですが)動きが滑らかなのにたいして、ハレ晴れユカイの方はひとつの動作をするにもいちいち動きが小刻みにみえるというか、枚数が多い分、枚数の分だけ手を動かし終わるまでに段階が生じ断続的な見え方をしていることと思います(ぱらぱら漫画をご想像ください。手を伸ばす前と手を伸ばし終えた後の絵2枚でanimationをつくれば、一瞬で手が伸びたようにみえます。しかし、これを例えば10枚でつくってみると、1枚目は手を伸ばす前=0/9、2枚目は手を少しだけ伸ばした=1/9、3枚目はさらに少しだけ伸ばした=2/9…9/9=手を伸ばし終えた後、といった具合に、いわば少しだけてを伸ばすという動作を9回するような見え方がすることになります。実際のダンスを我々がみた場合には、当然ながらこういう風にはみえず、手を伸ばすと言う動作が"ひとつの動作"としてみえることとなります。上手い表現が思いつかず申し訳ございません)。個人的には両者の違いがもっとも分かりやすいのは、最後の決めポーズに"至る"部分を比較することだと思います。ダンスをanimation上で表現することは、枚数を多くすれば解消できる問題ではないのです。したがって、試みとしては評価しうるのですが、結果からみてしまうと「実写だと問題なくできるようなことをわざわざanimationでやった意味はなかったじゃん」というつっこみを回避しづらいということがございます(むしろ、方法論としては、静止画や少ない枚数でいかに動いているように見せるかというアプローチのほうがanimationに適合的なように思うわけでございます。分かりにくい表現で申しわけありませんが、この点につきましては「ガーゼィの翼」のDVD中において富野由悠季監督が語っておられます。興味ある方はご覧くださいませ)。次に、ダンスの内容についても、上半身の動きに比して下半身の動きがおざなりにみえました。あのダンスをみると、基本的にダンスというものは全身を動かしてするものだと思うので、下半身の振り付けまでしっかりつくってほしかったといつも思います。身体性を全面に押し出しているのなら、もう少し下半身にも目をむけ、ステップに気を回しても良かったのではないかなと思えるからです(ダンスにおいて足の動きは魅せる意味でも、踊る際の体重移動の意味でも重要だと思います)。また、ロトスコープは人間の動きを取り入れるためにするのだと思うのですが、その理想形は京都アニメーションとは別のところで既に実現されていると思われます。すなわち、アメリカ(?)のanimation等においてでございます。わかりやすい例としては、発音に合わせて口ないし表情が動く、といったあれです(ああいうアプローチは十分ありだとは思うのですが、個人的にはちょっと気持ち悪いです)。そうではなくて、我々が普段目にするanimationはそういったアプローチとは別の方法論を確立したはずではなかったか、と疑問に思わざるを得ないわけであります。かと思いきや、「サムデイ イン ザ レイン」の本編ラストで見せたあっかんべー(?)らしき涼宮ハルヒの表情があったりします。このシーン、できる方は映像をいったん止めてご覧頂きたいのですが、あっかんべーをしている(と思われる)のに左右の目がまったく同じです。もしあれで舌を出していなかったら、下手をすると「わたしの目をみて!」という意味の絵かと思いかねなかったです。身体性というわりに、なんでそこはおざなりなの?と思えてしまうあたり、結局、確かに手間・暇・金額をかけていることはわかりますが、京都アニメーションの目指す身体性というものが、およそどのようなところにその意図があるのかわかりかねる状態にある、ということなのです。

>まゆた様
コメントありがとうございます!
日常云々はおいておくとして、両者の違いは、時をかける少女が積極的に高校生活の空気を醸し出そうとしているのに対して、らき☆すたにはあまりそういったものがみられない、ということがあろうかと存じます。ですが、おっしゃる通り、確かにその点だけの議論に終始する議論は乱暴なものかもしれません。

>余計なことだが様
リンク(?)わざわざありがとうございます!とはいえ、ここでその内容について言及してもよいものか少々わかりかねますが。
リンク先のブログ様のおっしゃっていることはまったく正しいと存じます。わたくしのいっていることは、規範的な部分で受け入れられないとすれば、当方としてはそれを否定することはできませんし、むしろしてはいけないものだと思います。すなわち、「もうちょっと意味あいとか考えて説明できるようにしようよ」という主張に対し、「そんなの考えなくてもいいんだよ」と返答するということですので、終局的には、これは個々人の内心に属する問題だからです。どちらを選ぶにしろ、そういう問題意識もあることを認識していただければ、ということであります。

8月3日の日記に対する皆様方の反応によせて

1日サイトを覗いていない間になにやら予想以上の反応を皆様方からいただいていたようで心底驚いております。本日はコメント欄にいただいたご指摘に返答させていただくべく、暇をみつけてはちょこちょこ拙文を書き記しているのですが、こうして返信を用意している間にもさらなるコメントをいただくと言った次第でございます。わたくし自身必ずしも自らの言説が正しいと言いきれるものではないと思っておりますが、そもそもは問題提起をなすところに当サイトの趣旨がございますので、このように反響を頂き嬉しいことこの上ありません。
とはいえ、正直なところを申し上げれば、さきほども申し上げたように返信のタスクを消化している間にも新たなコメントが到着するといった具合でありまして、現段階で既に時間的にも厳しいものがあります。ただいま用意している返信分につきましても、急いだこともあり普段以上に程度の低いものとなってしまいました。あまりこのような返信を続けていくと、さらなる誤解・齟齬・疑問点の浮上等を招くこともありえ、却ってコメント欄の混迷を深めることも予想されえます。もし、かような状態が長引くようでありましたら、必ずしも皆様方へコメントをお返しできなくなる事態も生じうるかもしれません。その場合には何卒ご甘受頂きますようお断り申し上げさせていただきます。もっとも、おそらく一両日中には人の流れも以前の状態に戻るのではないかと勝手に思ってはおりますけれども。
要するに、ちまちま書いておりますので追いつくまでまっててください、ということをお願い申し上げたく存じます。

らき☆すた第16話「リング」について

作品を批評しようとすると、どうしても人間に対して非難が向いてしまう現状がなんとも悩ましい。
一 らき☆すた第16話「リング」はおそらくこれまで最もひどいものであった。天元突破グレンラガンはこれまでの負債を返しきれないまま新たな展開に突入してしまった。さよなら絶望先生は瑣末な演出にこだわって肝心の本編中がお粗末、といった具合で本当にうんざりしているというのが本音ではある。いい作品はいいときちんと説明できない人たち、あるいは悪いものは悪いときちんと説明できない人たちが観ることを前提に作られたanimationのなんと多いことだろう*1
二 らき☆すた第16話「リング」について。
1週間、いや、2週間近く遅れてのアップになるので申し訳ないのだが、今回は「リング」についてである。この作品に出てくるパロディはすっかり涼宮ハルヒの憂鬱ケロロ軍曹コンプティークアニメ店長に固定してきた。無論これ以外のものもあるが、基本的にはこれらがパロディの主軸となっている。なんともわかりやすい資本主義構造であると思う。これ以外のパロディについては、例えばスペシャルサンクスに「サーカス」などとクレジットを入れて用いることで、作品同士が相互補完しあっているという構造も見て取れる。いまさら「D.C.〜ダ・カーポ〜」がネタとしてでてきて視聴者が喜ぶということも少々戸惑いを覚えるが*2、それ以上に他作品に頼らなければ視聴者を喜ばせることも出来ない力量のなさに辟易するばかりである*3。今回の話を面白いとする人々は、下手をすると一生制作サイドの思惑通りに踊らされ搾取され続けてゆくのだろうか。こんなanimationいりません!と声高に主張できず、むしろ与えられるものを肯定する前提でみることはどうなんだろう*4(もっとも、この点もたぶんに感情論ではあるが)。このエピソードのおかげでまた新しいCD販売にこぎけられるし、コンプティークの宣伝にもなるし、アニメイトも嬉しいし、といった具合で商業的には確かに感心しきりだ。それもこれも手のひらの上で踊ってくれるお客様のおかげである。
さて、らき☆すた肯定論にはいくつか類型がある。それは、1.らき☆すたはいわゆる「祭り」であることに肯定の根拠を見出すもの、2.らき☆すたは(例えば)ニコニコ動画といった媒体の存在を前提としており、そこに訴えかけていることに肯定の根拠を見出すもの、3.らき☆すたは現状を皮肉っているところによさがあるとするもの、である*5
1について考えてみると、以前にも述べたように、観てくれる前提の人間に対してしか門戸の開かれていないanimationというのは否定されるべきである。少なくとも、「祭り」に参加することが前提となっている人間の評価を作品の評価に含めるのはおかしい*6。参加しない人間をいかに説得できるかということが作品の評価であるからである*7
次に、2について考えてみる。これによれば、確かに断絶しているらき☆すたの各ネタを整合性があるかのように説明できそうではある。ところが、まず根本的な疑問として、なぜニコニコ動画の媒体があることがらき☆すたの肯定につながるのか不明である。この点についていわれているのは、らき☆すたはMAD等の素材としてのよさがあり、またそれを発信することが容易かつあらかじめ予定されている現状があることを根拠にして、作品自体をも肯定できるというものである*8。しかし、必ずしも作品と一体でないMAD等を作品を肯定する上で根拠として当然に組み込むことが妥当であるとは思われない。MADというのは、そもそもMADを作ろうとする人間が恣意的に素材を組み立てるものではなかったか。MADを作ろうとする人間が"使えそうだ"と感じたもの*9を使って面白さを演出するのであって、その作品がMAD用の素材を提供しているかどうかはまったく関係ない。作品自体の肯否を論じるときに、それとは別の場所から要素をもってきて根拠とすることは不自然である。というのは、例えば、らき☆すたが用いられたMAD作品場合には、MAD自体がよいからこそ用いた素材が良い*10ということになるのであって、らき☆すたがよいからMADがよいのだとはなるまい。敷衍してみれば、タイアップ作品は、animationがよいからといって原作も面白いといわなければならなくなり、これは不当だからである。
最後に、3についてであるが、これは単純な誤読である。なぜなら、皮肉と解釈しようとしても、作中にはそういった描写がないためである。そうである以上、皮肉ととるのは解釈としてはおかしい*11。むしろ皮肉とは反対に、ああいったあり方を肯定しているとみるのが自然である。皮肉というからには、だめな部分を肯定する描写*12と、それを否定する描写*13がなくてはならないが、この作品では後者がないので、単純な肯定ととるのが正しいのではなかろうか。というか、皮肉だとしたら、もってけ!セーラーふくのCDがあんなに売れるものだろうか?ましてや"一般人"も購入したといわれるのであればなおさらである。
ところで柊かがみについての一
柊かがみコンプティークをなんの抵抗もなく手に取ったし、「コンプ」と呼称しているし、もはや完全に一般人という虚偽は通用しなくなってしまったといえよう。第一、一般人の女子高生がメイド喫茶(?)にいったりするのであろうか*14。女子高校生の何%がかがみと同じ体験をしているかデータがほしいところである*15
柊かがみについての二
(比較論として)時をかける少女の主人公・紺野真琴に現実味がないという感想がしばしば見受けられるが、そう主張する人々二対してはb、らき☆すた柊かがみ(たち)にこそ、とりわけ恋愛ということに関しては現実味がないのではなかろうかと問いたい。かがみやこなた達には(設定上)絶対に彼氏はできないと思うのだがいかがであろう*16

*1:以上はただの感情論もとい愚痴であるので無視していただいた方が幸いである。そして、わたくし自身も必ずしもきちんと説明できているとは思っていない。ここをご覧になってくださる方々に対しては、力量のなさを申し訳なく思うほかない

*2:それに「D.C.〜ダ・カーポ〜」自体もそこまで浸透しているものなのか甚だ疑問だ。パロディをするときに、これはパロディだと前面に押し出す形で持ち出しているにもかかわらず肝心のパロディのネタが必ずしも視聴者にとって認知されていない場合はどうなのだろう。検討を要するように思える。普通に見ている人にとってはそれがパロディであるとわからせない使い方でパロディをする場合にはその度合いに応じて元ネタがマイナーになってもよいように思えるためである。パロディに用いるネタと用いられ方は相対的に解釈した方が適切だと直感的には思えるので、この点、いま少し根拠の裏づけを考えてみようと思う

*3:この点に関連して、京都アニメーションあるいは山本寛監督に関しての云々はまたいずれしようと思っている

*4:animationが本当に好きなのであれば、程度の低い作品は「こんなものをanimationと呼ぶな!」と否定すべきではないだろうか

*5:他にもあるとは思うがさしあたりこの3つについて考察する

*6:肯定することが前提の人間のなす評価は評価になっていない

*7:何度でも繰り返すが、面白いと思っている人間に対して面白いと言えば共感を呼ぶし、反対に面白いと思えない人間に面白いと言ってもなしのつぶてである。だからこそ、「なぜ、どういう理屈で」を示して説得的に作品の肯否を論じることが必要となるのである

*8:とはいえ、この論によったものが全てこれを根拠にしているかどうかはわからない

*9:多くはanimationの映像、音楽・音声、静止画など

*10:ここでは、素材をうまく用いているの意

*11:自分が勝手にそう読み取りたいのは否定しないが、あくまでそれは自分の内心に限った話のことであって、一般的にそう読み取れるものではない。なぜなら根拠がないからである

*12:これがなければ単純に否定である

*13:これがなくては単純に肯定である

*14:以前にも述べたように、コミケに2回もいっているという事情もある

*15:その場合には、きっと日常という虚偽も通用しなくなるであろう

*16:こなたがよくかがみをからかっているが、あれはむしろこの点を肯定しているもののように思われる。なぜなら、それ以上の話がまったく出てこないためである