白馬の民

使張遼・關羽前登、撃破、斬(顔)良。遂解白馬圍、徙其民、循河而西。
(『三国志』巻一、武帝紀、建安五年)


曹操袁紹に包囲された白馬県の民を移住させた、という。



袁紹に取られないようにしたということだろう。



ところで、この移住した(させられた)民はいったいどこへ行ったんだろうか?




元の土地には戻れないわけで、流民と同じ状態とも言える。


もしかして屯田民に編入されたのではないか?*1

*1:もしかするとどこかに行先が明記されてるのかもしれないが。

王莽と伊尹

王莽は皇帝になった直後、漢・周・殷・夏の天子、五帝の子孫の他に、孔丘先生と周公旦と伊尹の子孫を諸侯として封建している。



孔丘先生と周公旦については王莽からすると尊重して当然なのだろうが、天子の廃立を行ったとされる伊尹も同列というのはちょっと面白い。



王莽は皇帝廃位は一応していないと言えないこともないが、「有徳の者が天子にふさわしく、徳無き天子は交代すべきだ」という理念は王莽の即位を正当化する、ということだろうか?