私物化

(建安十一年)秋八月、公東征海賊管承、至淳于、遣樂進・李典撃破之、承走入海島。割東海之襄賁・郯・戚以益瑯邪、省昌慮郡。
(『三国志』巻一、武帝紀、建安十一年)

初、(劉)邈至長安、盛稱東郡太守曹操忠誠於帝、操以此徳於邈。建安十一年、復立(劉)容子熙為王。在位十一年、坐謀欲過江、被誅、國除。
(『後漢書』列伝第三十二、琅邪孝王京伝)


曹操は建安11年に琅邪国(郡)の領土を拡大した。


曹操は建安11年にいったん断絶していた琅邪国に新たに王を立てた。琅邪王たちに恩を感じていたからだという。



この2つが同年の出来事だということは、おそらくは同時にあったことなのだろう。



つまり、曹操は自分を褒めたたえる等で恩を感じていた琅邪王一族の王国を復活させてやり、その際におそらくは恩に報いるために領土まで増やしてやっていた、と。



曹操個人の恩義という事情で郡県が左右された、と見た者も少なくなかったのではないか。

白馬県民の立場

袁紹曹操の争奪の対象となった白馬県だが、袁紹が占領した場合には、ある程度の乱暴狼藉は起こるだろうが、占領行政のため、ある程度平穏に占領を進める可能性は大いにあるだろう。



そもそも、袁紹だって今後支配を固めていく上では、漢王朝に属する民を手酷く扱っても基本的に得は無い。余裕さえあればむしろ手厚く扱うかもしれない。



一方既に支配している曹操は、袁紹に民を取られまいとして、当時極めて評判の悪い強制移住を行った。


この時点の曹操は余裕の無さからなりふり構わない行動を取った可能性が高いのではないか。




どちらの支配下になった方が白馬県の民の幸せだったのだろう?

白馬の民

使張遼・關羽前登、撃破、斬(顔)良。遂解白馬圍、徙其民、循河而西。
(『三国志』巻一、武帝紀、建安五年)


曹操袁紹に包囲された白馬県の民を移住させた、という。



袁紹に取られないようにしたということだろう。



ところで、この移住した(させられた)民はいったいどこへ行ったんだろうか?




元の土地には戻れないわけで、流民と同じ状態とも言える。


もしかして屯田民に編入されたのではないか?*1

*1:もしかするとどこかに行先が明記されてるのかもしれないが。