ひとこと

列侯の国(県)の長官は「相」なのだが、曹操の「武平侯」にも「相」がいたんだろうか?



どうも『三国志』等にはその存在を示す記事が無いように思うが、実際にはいたんだろうな・・・。



あと最大4県分の侯になってたわけだが、それぞれに「県令」または「県長」がいたのか、それともそれぞれに「相」がいたのか、あるいは「武平相」だけがいたのか。



どれなんだろうな・・・?

ひとこと

曹操が最初の挙兵の時に兵5000を集めたのも多分かなりのものなのだが、サラッと「家兵1000以上」を持っていた曹洪ってかなりすごいのでは・・・。下手すると戦乱の前からそれくらいの家兵(隷民)を抱えていたということになるのかもしれない。



曹操が負けた際には曹洪の兵に頼るしかない状況になっていたのでは?

ひとこと

しかし、かつての恩への対価として贔屓した琅邪王が、詳細不明ながら最終的には背く形になっているの、何というか無常感がある。



建安21年か22年頃の事らしいので、魏公や魏王になったことで心が離れたか?

私物化

(建安十一年)秋八月、公東征海賊管承、至淳于、遣樂進・李典撃破之、承走入海島。割東海之襄賁・郯・戚以益瑯邪、省昌慮郡。
(『三国志』巻一、武帝紀、建安十一年)

初、(劉)邈至長安、盛稱東郡太守曹操忠誠於帝、操以此徳於邈。建安十一年、復立(劉)容子熙為王。在位十一年、坐謀欲過江、被誅、國除。
(『後漢書』列伝第三十二、琅邪孝王京伝)


曹操は建安11年に琅邪国(郡)の領土を拡大した。


曹操は建安11年にいったん断絶していた琅邪国に新たに王を立てた。琅邪王たちに恩を感じていたからだという。



この2つが同年の出来事だということは、おそらくは同時にあったことなのだろう。



つまり、曹操は自分を褒めたたえる等で恩を感じていた琅邪王一族の王国を復活させてやり、その際におそらくは恩に報いるために領土まで増やしてやっていた、と。



曹操個人の恩義という事情で郡県が左右された、と見た者も少なくなかったのではないか。