遭遇の事

会社からの帰り道、駅でばったりとタカハシさんに会った。
妙に厚着をしていた。急に涼しくなったから、おそらく電車の冷房対策だろうと思う。
先月は、ビアガーデンで奢ってもらったので、もし今から時間があったらどこかで夕飯がてら飲みませんかと誘ってみた。
タカハシさんは、少し思案していたが、どこか上の空な様子で頷いた。
駅から少し歩いて、おいしい焼き鳥を出す店に入った。
店は珍しく空いていて、四人がけのテーブル席に通された。


最近は仕事上のあれこれで煮詰まっていて困るというような話をしているので、毎日忙しいのかと聞いてみた。タカハシさんは少し笑って、僕ほどではないですよなどと言う。
どこか上の空だったのは、疲れが溜まっているせいだったのだろう。
違う仕事をしているのだから、比べようもないと返すと、静かになってしまった。
何か悪いことを言ったかなと思っていると、肩とか背中とか、凝りませんかと言われる。


確かに仕事柄、肩や背中は凝る。
けれど、早朝と夕方、時には夜になってしまうこともあるが、リンと散歩をするようになってからは随分楽になったと思う。
タカハシさんは、自分の背中の辺りを指さして、ここのところが妙に凝るんですと言う。隣の椅子に移動して少し触らせてもらったら、確かに凝っている。
指先に力を入れて押してみると、ごりごりと固い。なんだか辛そうなので、そのままマッサージをしていたら、タカハシさんに笑われてしまった。
会社員にしておくには惜しい腕前だと言われて、一瞬何のことかと思ったら、マッサージのことだった。


いつものように、話題は本のことになりしばらく盛り上がる。あまり遅くならないうちにと散会する。
帰り際に、飛べそうなくらい背中が軽くなったと言いながらにこにことしている。
少し元気が出たようなので良かったと思う。

蜻蛉の事

昼間はまだ真夏のように暑いが、朝晩はだいぶ涼しくなってきた。
リンと散歩に行く時間帯は、だいたい涼しいので、とても快適だ。
夕方、散歩に出掛けた時、川の脇を通ったら蜻蛉がたくさん飛んでいたので驚いた。
見上げると、随分と空高くまで、飛んでいる。
僕が立ち止まったので、リンも立ち止まって、僕の方を見る。
見上げた時に、リンも蜻蛉に気がついたらしく、嬉しそうに尻尾を振って小さな声で一度吠えた。
しばらく眺めていたら、藪蚊に喰われたので、あわてて退散する。


家に帰って庭を眺めていたら、庭木の一本にツクツクボウシがとまって鳴いている。
陽が傾くにつれ、コオロギなどの秋の虫も鳴き始める。


風が通るのが気持ちいいので、家中の窓を開け放って夕食をとった。
居間の風鈴が鳴ると、リンとサカエダさんが耳を澄ましているので、つけていたテレビを消した。
風の音と、虫の音。それから近所の家の音が微かに聞こえてくる。
夏と秋の境目は、どことなく寂しいような気がしていたが、思いの外賑やかだ。

くしゃみの事

夕方近く、タカハシさんから連絡があって、飲みに行きませんかと誘われた。
秋の気配も微かに漂い始めたので、行く夏を惜しみつつ、ビアガーデンに行こうということになった。
僕が好きそうな、いい所があると案内してもらったのは、信濃町駅を降りてすぐの、森に囲まれた場所にあるビアガーデンだ。
木立は影になり、夜の空を背景にしてさながら絵のように見える。時折吹く風に、さらさらと葉擦れの音がする。それでいて、人の楽しげな熱気が満ちていた。確かに僕の好きな雰囲気だ。
毎夏、森のビアガーデンとして開店しているそうなのだが、近場でばかり飲んでいるので知らなかった。


早速ジョッキを一杯ずつ注文し、乾杯する。
タカハシさんは一息に杯を空ける。
それをなんとなく眺めていたら、空のジョッキを置いたタカハシさんが、不思議そうな顔で小さく首を傾げる。
相変わらずの飲みっぷりですねと言うと、にこにこと笑い返された。
本当においしそうに飲むので、一緒に飲んでいると酒がおいしくなる。
僕もジョッキを半分ほど空けて、そういえば先日会った時にはヨネヤが一緒に居たのを思い出し、彼の話をする。他愛のない話だったが、タカハシさんは、いちいち頷いたり感心したり笑ったりしながら聞いている。


僕は、昔埋められてしまった庭の池を掘り返してみたことや、仰向いて寝る飼い犬のリンのこと、風鈴を土産に買ってきてくれたのに、次に来た時にはそのことをすっかり忘れていたキスミの話、それからモチヅキの作った洋菓子についてなど、とりとめもなく話した。
タカハシさんは時折相槌を打ちながら黙って聞いていたのだが、僕が一息ついた時にふと、いつもと逆ですね。と言った。
そういえば普段は主にタカハシさんが話し、僕はちょうど今日のタカハシさんのように相槌を打ちながら興味深く耳を傾ける、というのが常だった。


話を聞いている間にタカハシさんはジョッキを四杯空にしていた。
僕はといえば、話すのに夢中で、ようやく一杯目がなくなるかという程度だった。すっかり温くなっている。
僕がもう一杯を注文すると、タカハシさんも一緒に注文する。
最近読んだ本に話題が移り、二人で運ばれてきたジョッキを飲み干したあたりで、ふいに風が変わった。
湿った冷たい風に雲行きが怪しくなってくる。
タカハシさんが見上げた空から視線を戻し、そろそろ帰りますかと言った直後にくしゃみをした。


その瞬間、タカハシさんの鼻から何かが飛び出して、空になった枝豆の皿の上に落ちるのが見えた。
とくに深い意味もなく目で追うと、今目の前にいるタカハシさんとまったく同じ格好の、頭の上から足の先までそっくり同じな、それはとても小さいタカハシさんだった。
非常に小さいタカハシさんは、僕と目が合うと、人差し指を一本立てて唇に当て、ぴょんと皿から跳ね、テーブルの下に見えなくなった。ほんの一瞬のことだ。
今日のタカハシさんが無口だったのはあれのせいだったのだろうかとぼんやり思う。
酒には強い方だと思うのだが、もしかして酔っているのだろうか。


タカハシさんは何事もなかったように、鼻の下をこすると、ぼんやりしている僕に、雨が降らないうちに帰りましょうと言って、さっと伝票を掴んで立ち上がってしまう。
僕がもたもたしているうちに、タカハシさんは会計をすませてしまった。
買ったばかりの本を持っているので、雨は極力避けたいのだろう。
早足で駅に戻り、ちょうどホームに停車した電車に乗り込んだ。
飲み代の半額を払おうとすると、つけいる隙もないほど丁重に断られてしまう。なんとも困ったことだ。
次は僕が払うと心に決め、タカハシさんにもそう告げると、ちょうど乗り換えの駅だった。


家に帰り着いた頃合いを見計らっていたように雨が降り始める。
タカハシさんは濡れずに帰れただろうかと思う。
玄関に走ってきたリンが小さく吠える。
リンが吠えるのは珍しいので、どうしたのかと声を掛けてみる。どうやら鞄が気になるらしい。
何か変わったものでも入っていたかと開けてみると、文庫本の陰から小さなタカハシさんが出てきた。
小さなタカハシさんは人差し指を立てて唇に当てると、真面目な面持ちのまま鞄から飛び出し、そのまま見えなくなった。
リンも一緒に見ていたはずだったが、それきり平気そうな顔になってのんびりと尻尾を揺らしていた。

夏休み最後の日の事

 夏休みらしいといえば夏休みらしい連休だったけれど、気が付くと最後の日だった。
 リンと朝の散歩に行き、戻って来ると座敷では妹がごろごろしている。布団は畳んであるが、起きているとは言い難い。
 そう思って眺めていると、リンが妹に飛びついて、遊んでほしいと要求しているので笑ってしまった。
 いつの間にか、寝室から桃色のボールを持って来ている。
 妹も観念して起き上がり、縁側でリンの相手をしていた。
 犬は色の判断ができないという話だが、家の中では桃色、外では水色のボールと自分で決めた様子だった。
 水色のボールは、やはりいつの間にか、玄関の僕の靴の隣に置いてある。
 匂いで判断しているのだろうか。


 午後は、食材の買い出しに行っただけで、あとは居間で本を読んでいた。
 サカエダさんが一度、僕の手元をのぞきにきただけで、リンは一日妹にくっついていた。
 熱心にボール遊びにつき合ってくれるので嬉しいのだろう。
 夕方、空が見事な夕焼けになり、蜩の音が雨のように降り注ぐ公園まで、妹と一緒にリンを連れて散歩に出掛けた。
 夕飯は、妹のリクエストにより、カレーライスと枝豆にした。
 妹に、いつまでいるのかと訊ねると、決めていないという答え。
 大学生の夏休みは長いので、まだしばらく居座るつもりだろう。

送り火の事

 朝、リンと散歩へ行こうとすると、リンが水色のボールをくわえている。
 昨日、父と遊んでいた桃色のボールの色違いらしい。リンに、ボールふたつももらったのか?と聞いてみるが、しっぽをぱたぱたと振るばかりだった。目が笑っているようにも見えた。
 今日も土手の方まで足をのばして、土手で少しだけボール遊びをする。
 僕が投げると、リンがすかさず取りに行って持って帰ってくる。世間で言うところの「とってこい」という遊びだが、どちらかというと「投げてくれ」のような気もする。
 リンはこの遊びが余程気に入った様子で、普段は大人しいのに、この時ばかりは妙な角度に前足を上げてみたりジグザグに走ってみたりと、随分はしゃぎ回っていた。
 ひとしきりボール遊びをして満足したのか、帰り道では普段通りに戻っていた。
 あとで父に、お礼を言っておこうと思う。


 祖父母が、今日送り火を済ませたら、静岡に帰ると言う。
 夕方、迎え火を焚いたのと同じ場所で、送り火を焚く。
 煙を見送りながら、祖母が、ゆうべ曾祖父の夢を見たと言った。二階で、資料の整理をしたり、本を読んだりしていたのだという。懐かしくて嬉しかったと言って笑っている。
 二階は、二部屋の間を仕切っている襖を開け放つと、一部屋になる。
 妹が、ひいお爺ちゃんの部屋は二階だったの?と聞くと、二階はお弟子さんが来た時に使っていたのだという。今、座敷兼客間にしている部屋が、当時の曾祖父の仕事部屋だったそうだ。
 気がつくと、祖母が僕の方をじっと見ている。どうしたの?と聞くと、お前も遠慮して奥の間に引っ込んでないで座敷で寝起きしてもいいんだよ、と言う。
 広すぎて落ち着かないし、座敷は真っ先に朝になるし、と答えると、祖母は可笑しそうに笑って、実はあんたたちのひいお爺ちゃんも同じ事を言っていたのだと教えてくれた。
 つまり、知らないうちに僕は、曾祖父が寝起きしていた部屋で寝起きしていたらしい。
 ゆうべの二階の物音は、祖母の記憶だったのか、それとも曾祖父だったのか。
 お盆だからそういうことにしておくのもいいかも知れない。
 

 祖父母を、妹と一緒に駅まで見送りに行く。
 今度、静岡にも遊びにおいで、と言われた。

夏休みらしい一日の事

 朝早くに目が覚めた。まだ誰も起きて来る気配がない。いつものようにサカエダさんに挨拶をして、リンと散歩に行くことにした。
 人が多くても、サカエダさんの方は一向に気にしていないようで、風鈴の見える窓際でにこにこと座っている。


 リンとのんびり土手を歩いていると、土手の端に立っている杭の上に五位鷺が休んでいた。
 赤い眼をじっとこちらに向けて、まったく動かない。こちらが気づいていないと思っているのかも知れない。
 リンが少し立ち止まって、杭の方へ鼻を向けてくんくんと匂いを嗅いでいる。それでも五位鷺は動かない。大したものだ。
 気づかないふりをしてそのまま通り過ぎた。リンが僕に、ちらりと目配せをしてくる。行こうと言うと、また杭の方角の匂いを嗅いでから歩き始めた。
 充分離れてから、振り返ってみると、やはり五位鷺は動かずに杭の上にいる。まるで作り物のようだった。


 家に帰ってみると、母が朝食の支度をすっかり整えていたので、なんとなく据わりが悪いような、変な気持ちになる。
 久しぶりに母の作った料理を食べた。なんだか、学生の頃の夏休みを思い出す。
 食事の後片付けは僕と妹の二人で、食後のお茶は祖母がいれてくれた。
 気づくと父が、また座敷の縁側でリンとボールを転がして遊んでいる。リンはすっかりボール遊びが気に入ったようだ。そして、父もすっかりリンを気に入ったらしい。
 しばらくそれを眺めて座敷を出ると、廊下の突き当たりに妹が座り込んで本を読んでいる。廊下が冷たくて涼しくて快適なのだという。
 居間では母と祖母が二人で世間話をしていた。サカエダさんは、それを聞いているのかいないのか、きちんと座ってそれを眺めている。
 その横で、祖父はテレビを見ている。
 本当に、子供の頃の夏休みの風景そのままの雰囲気で、のんびりとした気分になった。


 午後になると、庭の池で未草が咲いた。
 小さいけれど、楚々としていて好ましい佇まいの花だ。
 金魚が花の下をくぐって泳いでいた。


 夕飯の後で、父と母が帰って行った。リンが名残惜しそうに玄関で見送っていた。
 夜更かしして、カネダさんに借りた本の続きを読む。座敷の電気が消えて、祖父母と妹が寝静まってからしばらくすると、二階から幽かな物音が聞こえてきた。
 耳を澄ませると、畳の上を歩くような、そんな音に聞こえる。リンは自分の寝床の上で仰向けになって眠っていたが、物音に気がついたのか目を覚まして、くるりと体勢を入れ替えて伏せた格好になった。
 何か聞こえないかい?とリンに話しかけてみると、耳をひょこりと立てる。
 読みさしのページに栞を挟んで、二階へ上がってみることにした。リンは自力では階段を上り下りできないのでここで待っているように言って、そっと廊下へ出て階段を上がる。
 二階の六畳間の襖を開けてみると、昼間誰かが開けて閉めるのを忘れたのだろう、窓が開いていた。そこから入った風の音が、偶々あんなふうに聞こえたのだろう。
 窓を閉めて一階へ戻ると、伏せの格好でずっと待っていたらしいリンが、小さく鼻を鳴らした。
 大丈夫、窓を閉め忘れていただけだったよ。と言うと、もう一度鼻を鳴らして起き上がり、僕の方へやって来る。物音で不安になったのだろうか。今までにあまりこういうことはなかった。
 二階を見せたら納得するだろうかと、今度はリンを抱えてもう一度二階を見に行った。
 六畳間の襖を開いた時、瞬きよりも短い一瞬、部屋の中がぼんやり明るかったような気がした。月明かりでそんなふうに見えたのだろう。
 リンは部屋の中を見ると、空中の匂いを嗅いでいたが、すぐに納得したようだ。
 一階へ戻ると、さっさと自分の寝床に戻り、くるりと伏せている。
 それで僕も、休むことにした。二階の物音は、それきり聞こえなかった。

両親とリンの事

 リンと朝の散歩に行き、朝食はまた祖母の用意してくれたものを四人で食べる。なんとなく、学生の頃の夏休みを思い出した。
 昼頃、両親が顔を出した。一泊していくと言う。
 リンと両親は初対面だったのだが、リンはいつものように訪ねてくる人間には歓迎の意を表している。父は、「おう、犬」というよく分からない挨拶をしていたが、母は、リンちゃんはじめまして、まあ、可愛らしい。と大喜びしていた。
 昼食は、そうめんと天ぷらを僕が作った。出汁をとって、簡単なそうめんつゆも用意する。妹が、薬味を用意するのを手伝ってくれた。リンに冷ました出汁を少しあげると、大喜びであっという間に飲み干してしまった。
 座敷に大きな座卓を出して、六人で食べる。
 両親は、昼食後に墓参りへ出掛けて行った。祖父母も妹も、ちょっと出てくると言って出掛けて行く。午後は、カネダさんに借りた本を少し読み進める。

 夕食後、抗いがたい眠気に襲われて、座敷でつい、うたた寝をする。すると、妙にくっきりとした夢を見た。
 夢の中でもリンと、この家の座敷に居るところだった。

 余所の家を訪問するには少し遅い時間に、玄関の戸を控え目に叩く音がする。
 リンはちらりと玄関の方に顔を向けたが、なんだか物分かりの良さそうな顔でその場に伏せてしまう。
 かと思えば、僕が玄関の様子を見に行く後ろを、面白そうについて来る。
 玄関の外の電気を点けると、人影が二つ並んでいる。
 門柱と、玄関戸の横に呼び鈴がついているのに気がつかなかったのだろう。
 僕が、どちら様ですかと尋ねると、このほど近くに越して参りました者です。夜分に失礼とは存じますが、御挨拶に伺いました。と、やけに丁重な物言いの落ち着いた男性の声が答えた。
 框を下りて玄関の戸を開けると、僕より頭一つ高い男性と、それに寄り添うように立っている小柄な女性の姿があった。
 僕がこんばんはと言うと、二人もこんばんはと言う。
 男性は精悍な印象を受ける引き締まった顔立ちで、その顔をしっかり見る間もなく深々と頭を下げ、たっぷり十秒ほどして頭を上げる。隣に立つ女性もそれに倣う。
 僕が慌ててご丁寧にどうも有り難うございますと頭を下げると、二人は嬉しそうに笑う。
 これは御挨拶の品です。どうぞお納め下さい。と言って女性が小さな箱を差し出して来る。ほっそりとした手をしている。礼を言って受け取ると、二人はまた揃って頭を下げ、夜分に大変失礼致しました。と言い残すと、帰って行ってしまった。
 包みを解き、箱を開けてみると梅の花が詰まっている。
 これは一体、と思ったところで目が覚めた。
 目を覚ましてみると、座敷の縁側で、父がリンと遊んでいる。いつの間に買って来たのか、犬が噛んでも壊れない、ゴムでできた桃色のボールを転がしていた。