「グリッドマンユニバース」

最初に立場を明らかにしておくと、「電光超人グリッドマン」は原体験作品として偏愛しており、「SSSS.GRIDMAN」は楽しく観て、「SSSS.DYNAZENON」は最低だと思っている人間です。

 

世界の謎という全体を通す大きなストーリーがあった「SSSS.GRIDMAN」に対し、大きなストーリーが存在せず、個々のキャラクターの小さなストーリーの連なりでしかなかった「SSSS.DYNAZENON」は、ドラマ部分とバトル部分の著しい乖離、そもそものキャラクター造形の薄さ、そのストーリーの無理矢理さ、「視聴者の想像に任せる」と言えば聞こえはいいがただ単に描写を疎かにしているだけのいかにもアニメ的な怠慢とが重なった、本当に酷い作品だったと思っています。

 

また、アニメシリーズを通して過剰なアニメ演技を廃した声優陣の“自然”な演技には多少好感は持っているものの、声はそうでも演出面ではいかにもアニメなまま(顔を赤らめる、過剰なリアクション等々)でとても声優演技同様の“自然”なものでは到底なく(そもそもキャラクターデザインからして自然でもなんでもありませんが)、特にドラマ部分を押し出していた「SSSS.DYNAZENON」では、不自然なキャラクターが自然な声で不自然な台詞を喋る、という状態になっており演出のバランスが完全に破綻していました。

 

そんな2作が共演することになった「グリッドマンユニバース」、一体どういうバランスになるのか不安半分、期待半分で観に行ったわけですが、結果としては制作陣は「SSSS.DYNAZENON」を失敗作とは思っていないということがよくわかり、上記のような立場の僕としてはとても評価できる作品ではありませんでした。

 

グリッドマンユニバース」が目指していたのは明らかに「SSSS.DYNAZENON」の路線のその先でした。個々のキャラクターの小エピソードの連なり。しかし、「SSSS.GRIDMAN」のキャラクターたちには既に語れるような物語は残っておらず(一番大きなドラマを持っていたキャラクターが退場済みなので)、「SSSS.DYNAZENON」のキャラクターたちに至っては元々物語がありません。全てのサスペンスは「ご想像にお任せします」で放り投げられており、個々のエピソードにしても「リアル」というにはあまりにも陳腐、「エピソード」というにはあまりにもありきたりであり、注目すべきものが元からないのです。その証拠に、「グリッドマンユニバース」に於いて主人公の響裕太以外のキャラクターは「告白される役」という大変陳腐な役割を与えられているヒロイン以外は全員単なる応援役。せっかく他作品のキャラクターが共演しているのにも関わらず、「同じ画角にいる」以上の意味はなく、キャラクターの共演によるアンサンブルなど微塵もありません。互いに何の影響も与えず、ただ互いの感想を述べるのみ。キャラクター同士の関係性が、発展どころか発生すらしないのです。

 

そもそもの問題として「SSSS.GRIDMAN」のキャラクターたちは響裕太を中心にしか関係性が成立しておらず、「SSSS.DYNAZENON」のキャラクターたちは記号的な役割しか与えられておらず操縦するという申し訳程度の役割すら剥奪されました。主人公以外の全員の存在に劇的意味がないのです。キャラクターとしてそもそも面白くないのに、ドラマの役割もないのだから文字通りの役立たずとなっています。

 

その中で語られるエピソード自体も、初っ端から雰囲気だけの会話で時間を稼いでるだけで、状況的には前に一切進みません。そもそも「告白するかどうか」という状況自体が、生身の人間が演じているのならともかく、記号的演出で全てが察せてしまうアニメでは何も興味が持てません。正直、グリッドマンが出ていない時間は退屈を通り越して苦痛でした。

 

じゃあグリッドマンが出ている時間はどうだったかと言えば、もちろん総出演のシーンや力の入った戦闘シーンは楽しいですが、その楽しさは言うなれば「スーパーロボット大戦」の戦闘アニメーションを観てるときと同じ楽しさであって、ドラマ部分と乖離しすぎていてストーリーの感動には結びつきません。いくらバトル演出がすごかろうと、その先で闘うのが無個性でぽっと出の新キャラでは盛り上がりようがありません。てっきり、カーンデジファーでも出てくると思ったら……。

 

この新キャラの設定にはメタ的な意味があるのでしょう。というか、このキャラに限らず、後半の種明かしと展開はヒロインたちが自分たちの体験を元に演劇の台本を書いているという大変わざとらしい設定や、後半の説明台詞の嵐からして、そこにメタ的な意味があるのは明らかです。しかし、近年多用されがちなこういうメタ展開すべてに言いたいのですが、だから何なんですか?

 

敢えてやっている、実はこういう意味がある、こういう設定が隠れている。なんでもいいですが、全部どうでもいいです。それらは全て副次的なものであるということを全ての制作者はもう一度肝に銘じるべきです。それらは本線が強固に成立しているからこその傍線でしかないということ自覚するべきです。

 

グリッドマンユニバース」に関して言えば、そもそも本線のストーリーがほぼ存在しないのに、傍線の話ばかりされても困ります。元から世界設定をボヤかしているくせに(「世界」なのか「宇宙」なのか「星」なのかすら安定していない)、まるで伏線回収のような顔をされてもこちらは知りません。ただただ白けるだけです。

 

また、これは本当に余談ですが、後半でキーワードとなる「グリッドマンの記憶」に電光超人グリッドマン」が一切含まれていないことは大変不満……というか、憤りすら感じます。知らないうちにグリッドマンの記憶がなくなった設定でもあったのでしょうか。響たち以前の仲間たちについて一切言及しないどころか、過去のフラッシュバックにすら登場しないのは一体どういうことでしょうか。後半にある怒濤の説明台詞を全て飲み込むなら、特撮版の世界も再現されて然るべきだと思うのですが。

 

まあ、僕もいい大人ですので、大人の事情で出来ないだろうということは分かります。ただ、そうであっても自分たちが作ったアニメシリーズのみを「世界」と(結果的に)定義している作品の中で繰り出される「グリッドマンは誰のものでもない!」という台詞は大変に虚しいと同時に、とても傲慢だなと思いました。

 

先日観た「べいびーわるきゅーれ」の続編もそうでしたが、語るべき物語が無いのにキャラクターだけあれば成立すると思い込んでいる続編は、志が低いなあと感じざるを得ません。「グリッドマンユニバース」に至っては、元々物語がなかったことすら反省していなかったことが明らかにしてきた分、更にタチが悪いと感じる作品でした。ファンムービーとしてはそれが正解なのかも知れませんが、僕がファンだったのはあくまで過去に描いてきた物語であり、そこに奉仕していたキャラクターです。ストーリーに奉仕せず、キャラクターがただ存在しているというのは机にアクリルスタンドを飾っているのと変わらず、少なくとも僕にとってはわざわざ大スクリーンで観たいものではありませんでした。本当に残念です。今後も続編が作られる可能性はあるのかも知れませんが、この路線が続くのであれば、大人しく「電光超人グリッドマン」を再見するだけに留めておこうと思います。さようなら、グリッドマン……。

「シン・ウルトラマン」

映画としては不出来だと思うし、明確に「これはアウト」な描写もある。やりたいことが全然うまくいってないところもたくさんあるし、「期待はずれ」とばっさり言っちゃえば簡単なんだけども。
 
なんだけども……あまりそういうところをつついて批判する気になれないあまりに直球で、あまりに愚直なその姿勢に、なんだか変に感銘を受けてしまったから。
「オレたちはこういうものが好きだったんだ」「こういうものに憧れたんだ」とキラキラした顔で、なんの含みも無く言ってきて、更には「だから、キミにも出来ることなら分かってもらいたい。そして伝えてもらいたい」という継承の意思が画面に溢れ出ている。還暦過ぎた、もしくは近いおじさんたちがここまで純粋にものづくりをしたという事実に打ちのめされる。
 
翻って自分はどうだ? 気付けば「好き」という感情に色々と理由付けをしてこなかったか? 作劇がどうだとか、スタッフがどうだとか、レビューがどうだとか、世間がどうだとか、「〇〇さんが評価している」とか、自分の感情に何か後ろ盾を求めてこなかったか? むしろ、何か後ろ盾がなければ「好き」は表明しちゃいけないものだといつの間にか思い込んでなかったか?
 
でも、誰とも遊ぶ友だちもいない夏休みの昼間、「ウルトラマン」の再放送をかじりついて観ていた小学生の頃。あのとき、あの瞬間に抱いていた気持ちは、そんな尺度で測れるものだったのか? はじめてBタイプのマスクの美しさに震えたとき。メフィラス星人の策略に密かに心躍ったとき。テレスドンを操る地底人に恐怖したとき。あのときの、それは確かに、僕だけのものだったはずなのに。
 
もはや僕自身はあのときの気持ちを純粋な形で思い出すことも抱くこともできないけど、この人たちはそれをずっと、何十年も、この世界で抱き続けてきたこと。そして、それをノスタルジーだけにせず、なんとかして次の世代へ渡そうとしている。
 
それは言ってしまえば「愛」と呼ぶものなのかも知れないけど、あらゆる情報が錯綜し、あらゆる行動が常に「他者」を意識してしまう現代に於いて、この純粋さってそんな単語ひとつでは表現できない、なんか尊いものなのではないかと(錯覚だとしても)思う。愚直さを無意味な客観で「恥」として、「とにかく破壊」な言い訳じみた旧作リメイクが多い中だからこそ、なんだか妙に感動した。と同時に、自分の中のウルトラマンになんて仕打ちをしてきたんだろう僕は……というよく分からない後悔すら呼び覚まされた。もう戻れないのかも知れないけど、それでも心意気だけは好きなものに素直でいようと改めて思った次第です。これで映画とても傑作だったら言うことなかったんだけど……ま、それはこの意思を受け継いでいく人たちに期待するということで。

機種変更の季節ですね

今、すげー悩んでいることがあって、でも誰かに相談するほどでもなく、しかし、ウンウン唸りながら悩むだけなのは無意味なのでどうしようかななどと考えていたら、ここの存在を思い出しました。そうだ! ブログって日常のことも書いていいんだった!

というわけで、何でも無い話を書きます。

現在、色々と検討した結果、通話専用のガラケー、通信専用のスマホiPhone)と分けた方が料金的にお得であるのと、スマホで通話すると画面に顔の脂がつくのが嫌だという結論の下、7年ほど(それぞれ機種変を重ねながら)2台持ちを続けてきました。そして現在はMARVERA2(ガラケー)とiPhone 6 plusというコンビと一緒に生活しているんですが、その二年縛りがまもなく解けるという段になって、ふと思ったんです。というか、正直4年目ぐらいから思ってたんですが、

2台持ち、めんどくさい。

ガジェット好きなので、複数台のデバイスを持ち歩くこと自体は良いのですが、下記のような状況が頻発。

1)iPhoneでラジオやら音楽やらを聴きながら生活していると、ガラケーの着信に全然気付かない。
2)電話番号しか知らない人にiPhoneでSMSすると、相手に「電話番号違うけど……」と言われる
3)ガラケーは電話しやすいが、iPhoneの方が圧倒的に文字が打ちやすい(フリック入力が性に合ってる)
4)何かの手違いで電話番号が間違って伝わると、iPhoneの方に掛けられたりガラケーに掛けられたりでわちゃわちゃする
5)ガラケーは別途で電話帳を管理しなきゃいけないので、片方にあるのに片方にない連絡先があったりする

その他、細かい不便さが色々重なってきて、その都度対策を立てたりはしてきたのですが、それすらもう面倒になってきていまして、昨年末から年始に掛けて「もうiPhone1台にしよう!」と決意したわけです。

そしたら、つい先日、こんなニュースが……

ASCII.jp:auのタフネスケータイ「TORQUE X01」がアウトドアで最強な理由 (1/2)

ちょー欲しいんですよ、コレ。

以前、CASIOが出していた「G'z One Type-X」も使ってたんですけど、こういうゴツくて、如何にもガジェットという感じ……まぁ、言うなれば「変身できそうなアイテム」は大好物なわけなんですよ! 折角、「もうiPhoneに絞ろう」と思ってたのに! 欲しい! 全然アウトドアとか行かないけど、ちょー欲しい!!

このTORQUE X01の登場によって、僕の決意が揺らぎまくり。7年目も2台持ち継続か……!? というところで、ここ数週はずっと悩んでます。

しかし、そこで悩んでばかりでは前に進めないと、原点に立ち返ってみる。何故、2台持ちを始めたのか? 料金が安く抑えられるからです。ならば、より料金を抑えることで2台持ちの煩わしさを「まぁ、安いから我慢するか……」という状態に持って行こうと。

というわけで、ここ数日はそのラインナップについて悩んでいます。一番安いパターンとしては、

TORQUE X01 + iPhone格安SIM

なんだと思うんです、普通に考えて。でもね、これには重大な欠点がありまして、それは「テザリングができない」という点。

別に、公衆Wi-Fiが充実してきた昨今、「絶対にテザリングしなきゃいけない場面」ってそうはないんですよ。年に数回なんです。だけど、その「年に数回」は必ずやってくるです。しかも、ほとんど使わないにも関わらず「絶対にテザリングしなきゃいけない場面」というのは確実に切羽詰まってるわけですよ。何せ、「絶対」だから。

恒常的にテザリング環境が必要なら、モバイルルータの導入とかも考えるところですが、そこまでじゃない。でも、年に数回は必ず使いそう。じゃあ、その数回のためにどこまでコストを掛けられるか? それが最近の脳内議題であります。

どうせなら、カブトゼクターにJ.A.R.V.I.S.的AIを搭載したデバイスが出てくれれば即決なのにな……着信したらどこからでも飛んできてきてくれて、あらゆることは音声認識でも対応してくれて、変形・変身機構も備えて、ちょっとした危機からは助けてくれて……ああ、欲しいな、カブトゼクター。悩みすぎて、現実から目をそらす日々です。

「スーサイド・スクワッド」

「悪党」と口々に言うのだけど、実際に「どういう悪事を働いてきた悪党なのか」「どういうレベルでの悪党なのか」は、具体的描写が一切ない。説明文と、セリフで説明されるだけ。むしろ、子供を盾にするバッドマンの方がよほど悪党に見える。わざとそういう描写にしているのかも知れないけど、そのお陰でスーサイド・スクワッドの面々は“変化”に乏しい。最初からそういう人が、取るだろう行動を取って行っているだけ。各々のキャラクターが魅力的ではあるから観ちゃうんだけども、冷静に考えると映画の構成としてだいぶ壊れていると思う。

例えば、同監督の「エンド・オブ・ウォッチ」の主人公2人は、「ルールに縛られず、不正も多少働くけど、それぞれに譲れないもの、守りたいものがある」というキャラクター付けがあって、それぞれが配偶者に出会ったり、信じられない現実に出会ったりすることで“変化”していく。その結果、招くのは悲劇だけど。スーサイド・スクワッドの面々にも、そういう“変化”が欲しかった。

その他にも、出てきた瞬間に死亡フラグ立ってる奴がやっぱり死ぬとか、本当にスーサイドしてるのが全然関係無い奴とか、敵に魅力が無さすぎるとか、ジョーカーが本筋に関係無いとか、色々と問題は多いかったが、個人的に一番気になったのは、政府(体制)の描き方。明らかな不確定要素を支配下に置くにあたって、次善策が何も無いとか、インフラ潰されただけで驚くだけが仕事になる会議室とか、とにかくスーサイド・スクワッドを操る側の人間たちにバカしかいない

こういう描写、ただ陳腐なだけとか雑なだけとか、そう言ってしまえば簡単ですけども、最近思うのは、これってただの願望でしかないと思うんですよ。「公権力を振るう人間はバカばっかり……なハズだ」という。

でも、公権力を振るう人間というのは、時に必要以上に狡猾だということを。だからこそタチが悪いわけで。あいつらはバカだ、何も分かってない、で切り捨てれば楽なのかも知れないけど、それって何の解決にもならないんじゃないかなぁ、と思うのです。

バカに振り回される可哀想な悪党たち……ということなのかなぁ。それにしては、悪党たちの縛り方があまりにザル。結局、「見せたい構図」だけが浮いていた。惜しい映画でした。

「悲しみの忘れ方」

2015年に公開された、乃木坂46ドキュメンタリー映画

アイドルのドキュメンタリーって初めて観たのですが、観終わって一番最初に思ったのは「なんでも“物語(ストーリー)”にしちゃうんだなぁ」という薄気味悪さでした。

本人たちは頑張っている。とっても頑張っている。色々ツラいこともある。忘れたい過去もある。人間的に変わっていく。でも、そういうものって、明石家さんま師匠の言葉を借りるならば「それが最低限」です。あらゆる人はもともと「フツーの人」だし、あらゆる表現者は努力しているし、色んなことを乗り越えている。「本当の自分はこうだけど、これだけ頑張って今があります」みんなそうでしょう。その上で、何を表現するかが勝負なのだから。

どんなに頑張っても作品が面白くなければ負けだし、どんなにサボっていても作品が面白ければ勝ち。それが「表現」というものの残酷なところであり、面白いところ。「本当の自分」がどうだろうと、表現されたものが全てであるという、表現活動が持つ“平等”さです。

なのに、この映画では殊更にそこが強調される。時に感傷的な音楽に乗って。絞り出した言葉に乗せて。そりゃアイドルのドキュメンタリーなんだからそうだろ、ファンはそれが見たいんだと言われればそうなんだけど、そういう表現を続けていくと、段々作品内でアイドルたちが遭遇するあらゆる状況が「自然災害」であったり「神の意志」であったり、そういう感じに見えてくるのです。

え、違うでしょ、と思ってしまうんですね。

その「状況」には、必ずその「状況」を作った「誰か」がいる。グループのコンセプト。選抜のメンバー。楽曲の制作。企画立案。全てにそれをそれだと決めている人がいるわけです、間違いなく。だけど、この映画には、その「誰か」が全く出てこない(写り込んでたりはするのかも知れないけど)。秋元康だって出てこないし、乃木坂46の楽曲を作った人のインタビューもひとつもない。バナナマンすらほぼ出てこない! ただひたすら、メンバーの気持ちだけで“物語”が綴られていく。

「悲しみの忘れ方」とか言うけれど、じゃあその「悲しみ」を作り出したのは誰なの? その人は、どういうつもりで作り出したの? 例えば、オーディションだって、サイコロ振って決めたとかでない限り、「誰か」たちによる喧々諤々の議論があったわけですよね。ならば、どういう意図で選ばれた人がどう変化していったか、という“物語”の方がよっぽど面白いし、観たいです。 僕はそのことが観ている間、ずーーーっと気になったのだけど、一度も触れることもなく映画は終わってしまった。

この映画には、ひたすら「過程」が描かれるけど、「結果」であるはずの「作品」にほとんど触れない。なのに、「物語」としてしまっていることに、非常に薄気味悪かったです。

グループ自体は存続しているわけだから、グループの「結果」を描くわけにはいかないけど、でもそれぞれの状況下で生まれてきた作品群があるわけですよね。その状況下でしか生まれなかった作品もあるはずじゃないんですか、という気になる。

敢えて言うならば、アイドルっていうのはプロジェクトの“最終出力先”でしかない。雑に言えば、彼女たちは大きな渦に巻き込まれているに過ぎない。その中でどう足掻いているかは描くのであれば、その「渦」が人為的なものである以上、その「渦」を起こした人たちも、彼女たちと同様に顔と名前を出して、自らの言葉を紡いで、「責任」を取るべきなんじゃないの。「自分たちは、こういう意図で彼女たちにプロジェクトを与えた」と。「試練」なんて都合の良い言葉で逃げずに、その成功と失敗にどう向き合ったのか。そして、彼女たちにどう向き合い続けたのか。そして、それらがどうぶつかって、どういう結果となったのか。そこのコミュニケーションを描かない理由って何?

僕のように「アイドルのパーソナリティー」というものに別段興味のない人間は、ターゲットじゃないってだけの話なのかも知れませんけど。少なくとも僕にとっては、画面の中で過程も結果も否応なく映し出すバラエティの、バナナマンを通してゲラゲラと笑い飛ばせる「乃木坂46」の方が、よっぽど意味があるし魅力的だなぁと思いました。

「仮面ライダー×仮面ライダー ゴースト&ドライブ 超MOVIE大戦ジェネシス」

多分面白くないし、観たら観たで絶対に文句たらたらになるし、1800円払って良いことひとつもない映画なのに、不毛とわかりつつ、やはり観てしまう。こういうのがいるから、この手の映画は廃れないんだな。少しでも予想を裏切ってくれれば、と根拠のない思いを毎回抱いてはいるけれど……。

基本的に、「なぜ、その人がその言葉を発するのか」「なぜ、その人がその場所へ行くのか」という理屈が、全く成立していない。作ってる本人は省略話法のつもりかも知れないけど、「アイツを倒さなきゃ!」→どこかも明示されない現場、というのはただのサボリです。クライマックス、「10年前からこの場所だと分かっていた」とベルトさんは言うが、観客には一切わからない。敵に囲まれていたかと思ったら、しょーもないギャグが挟まれ、次のシーンではもう別の場所。その危機的状況をどう乗り切ったのかが一切描かれない。挙句に敵の強さは「すごい強さだ!」とセリフでしか説明されない。いちいちツッコミ出したらキリがないほどに話運びが穴だらけ。

キャラクターの扱いも酷い。一年かけて育てあげたロイミュードたちのキャラクターを全て無にした上で単なる雑魚に格下げ。しかも、タイムスリップの影響でとかなんとか杜撰な設定で改悪復活させてるのに、なぜかチェイスは元のまま。「バタフライ・エフェクトが起こったんです!」と知ったようなセリフを叩くが、誰の記憶も書き換わらないし、重大なタイムパラドックスも起きない、改変された記憶は都合よくロックが掛かる。「電王」以下の杜撰さ。

この辺りで、「ああ、もう真面目に作る気ないんだな」ということが分かる。

先日、「クリード チャンプを継ぐ男」を観て大号泣したばかりなこともあって、本作で描かれる父子の受け継がれる魂のあまりの薄っぺらさにうなだれるしかなかった。タイムスリップとパラレルワールドという安易な設定を用いているせいで、色々なことがブレてしまっている。設定に齟齬がが起きているせいでテレビシリーズで培っているキャラクター性が全く活きていない(劇場版や特別編で顔を合わせていることが無かったことになっている)。安易に子供時代のタケルが出るせいで、タケル本人の父への思いがブレる。設定上は同一人物でも、映画上では別人だからだ。

その上、父が具体的にどう「尊敬すべき父であり、ゴーストハンターであったか」が描かれない。肝心の戦闘シーンはばっさりカットされているし(てっきり眼魔に成り代わられたのかと思ったら、本当に倒したことになっていて愕然)、言動に何かタケルの人生を決定づけるものがあったかと言えば何もない。あるとすれば都合よくワームホール開くぐらいで(そして誰も疑問を持たない)。何なら、タケルが決意するときに吐くセリフは進之介のものだし。

こんなものが、「クリード」と同じ劇場で同じ料金取ってるかと思うと泣けてくる。

話も酷ければ、アクションも酷い。「ウィザード」ぐらいまではカンフーやマーシャルアーツ、パルクールなんかを取り入れて、なんとか新しいものを見せようという努力があったように思うけど、いつの間にかすっかり「殴って、よけて、防御して、殴る」という旧来のつまらない殺陣に戻ってしまった。「ニンニンジャー」の方がよっぽど頑張っている。強いて言えば、ゴーストがふわ〜っと飛ぶのが新しいのかも知れないが、それってフォーゼの二番煎じでしかない。派手なことと言えば巻きつけて叩きつける、最後はフルCGの巨大な敵を倒してハイ、いっちょあがりってなもんである。

恥を知れ、と言いたい。

結局、何も挑戦する気もなく、真面目に作る気もなく、キャラクターさえ揃ってれば見にくるヤツら(自分含む)で興行収入が見込めて、スケジュールさえ埋まればなんでもいいや、というのが現在の姿勢であることがよーくわかった一作でありました。

……ああ、不毛だ。こんなこと、毎回毎回書いている。じゃあ観なきゃいいのに、なぜか観てしまう。いや、「なぜか」というのは嘘だ。分かってる。ずっと幻影を追っているのだ。かつてこのシリーズに本当に面白くて、心動かされたことがあったから。でも、その姿勢もそろそろやめ時なのかも知れない。僕らの「好意」は、既にあちらには「ただの餌」と見なされているんだから。

この前、本作の某プロデューサーが「フォースの覚醒」を槍玉に挙げて「あの世代が作るものはこんな程度。期待しすぎ」などと揶揄していた。その面の皮が本当に羨ましい。

「芸人キャノンボール」のおもしろさって。

元旦に放送された「芸人キャノンボール」が大変おもしろくて、久々に色んな人の感想を見て回ったりしたのですが、絶賛する人もいれば、当然ながら「面白くない」「つまらない」「不快だ」みたいな感想に当たったりします。

別に感想は個人のものだし、基本的にはそこに正しい間違っているだのは無いと思っております。

……なので、以下に書くことも当然ながら個人の考えであります。という前置きをして言いたいのは、「芸人キャノンボール」の評価すべきポイントは、「おもしろさ」なのは勿論のこと、その「おもしろさ」が「時間の蓄積」と「感情の演出」で彩られていたことです。大袈裟に言えばそれは映画的なおもしろさであり、簡単に言えば「3時間見続けていないと機能しないおもしろさ」という、おおよそ最近のテレビバラエティの主流とは思えない構成を用いた点だと思うわけです。

例えば、最初のお題である「にらめっこの強い人」というお題での、通りすがりの素人を片っ端から「面白いかどうか」で判断するシークエンスを「不快だ」というのは理解できます。正直、僕も多少そう思った部分はあったから。だけど、3時間見終えるとこのシークエンスは全体の構成演出的には絶対に必要なシークエンスであることがわかります、

何故なら、この最初のシークエンスは、各チームの「ゲームに臨む姿勢」の説明であり、各チームの「性格」を如実に説明するのに必要だったのです。ロンブーチームは真剣に自分たちの人脈で、おぎやはぎチームは漁夫の利狙いの上から目線、というような。劇映画でいうところの世界観説明に当たる部分。

それがどう機能していくか。1日での集中ロケのため、メンバーが中抜けしたりしていく。メンバーが中抜けしたチームは特性が変化する。最初のシークエンスでの戦術が通用しなくなったりする。じゃあ次をどうするか? 愚直に今までの戦術を続ける者、策を弄する者……時間やシークエンスが進むごとに登場人物が変化していく。それはつまりは時間を追って展開しているということです。その展開をするためには、物語の基本設定を理解する必要がある。そのために、最初のシークエンスの(敢えて言えば)「不快さ」は必要なものであると言えます。

この「展開」は、最初のシークエンスから続けて観るからこその「展開」、もっと言えば「感情と思考のうねり」であり、それぞれのシークエンスをザッピングなどで単体で見てもそのおもしろさの3分の1も味わえないという作りなのです。過去、現在、未来の時間の連なりの中で、そこにいる人間がどう変化していくか? それはまさしく「物語」なわけです。

それが如実に現れるのは、「とにかく辛いものを食べられる人」のシークエンス。感想を見回ったときに「素人がもの食ってるだけでつまらなかった」というのを見て「そーじゃないんだよ!」と思ったりしたのですが(個人感想につき、多少の傲慢はご容赦を)、このシークエンスの醍醐味というのは、ここまでの時間の積み重ねの中で各チームの特性が反転し始める点。見事なまでに起承転結の「転」になっているのですね。

通行人をある種(誤解を恐れずに言えば)下に見ながら選んできたチームが、その素人の意外な活躍に感動したり、卑怯を重ねてきたチームが最終的に圧力を使い始めてヒールとしての到達点を迎えたり。もちろん、勝負そのものも(僕は)おもしろいのだけど、そこに更に各チームが自然と背負った物語、そして物語内でのキャラクターがスパークしていく。

そこに「最後」という言葉が彼らに文字通り最後の鞭として投入される最後のお題。これまでの展開によって背負った各人の「物語」は、決戦の地に向かう車内トークという形で表現される。「勝ちたい」という気持ちが強くなる人。今まで通りの姿勢を貫く人。「終わり」を宣告されたことによって気を抜く人。

それぞれの、自分が背負わされた「物語」に向かう姿勢が、最後のお題「ガチ相撲」にそのまま結実していく。最後に勝ったのは、最後まで諦めなかった人たちだった。こうして書くとなんだか美しい。誰なんだ雷電とか言ってたけど。このシークエンス単体であれば、ただ単に相撲の結果でしかないけど、これまでの展開の積み重ね、そして直前のトークを把握していると、不思議なことに同じ映像が物語の結末へと姿を変えるのです。

繰り返しますが、これらはそれぞれを単独で見ても十全には楽しめないんです。3時間、全てのチームの動向を見守っていないと感じられない種類のおもしろさなのです。見ている方に「考えること」「想像すること」を要求しているんです。今、この人はどう考えているだろう? 何を思っているんだろう? ならば次はどう出るのだろう? 考え、想像することで世界が始めて開ける仕様。不快を感じたからこそ訪れる快感。快感を感じたからこそ訪れる不快。高揚のあとの落胆。落胆のあとの高揚。変化と静止。「盛り上がりがなかった」と感じるならば、映画を途中入場じゃ楽しめないのと一緒で、大事な部分を見逃しているのです。

「テレビなんだから金太郎飴のようにどこを見ても面白く、浴びてるだけで楽しめるべき」という意見はあろうかとは思いますが、別に僕も全てのテレビがこうであれ、なんてことは思いません。でも、こういうのがあってもいいと思うし、こういうものが楽しめる素地はあったっていいじゃない、と思うわけです。だって考え、想像してこそ人間であると思うし、それに挑戦してこその「表現」だと思うから。

僕個人の感想としては、久々にテレビの前から離れられない感覚を味わったテレビ作品でした。来年もあればいいなぁ。

参考:CM前後の煽り、振り返り、過剰なテロップもない 『芸人キャノンボール』に見る視聴者第一主義(てれびのスキマ) - 個人 - Yahoo!ニュース