『シャーロック・ホームズの凱旋』(中央公論新社)

シャーロック・ホームズの凱旋

 

 森見登美彦氏の最新作『シャーロック・ホームズの凱旋』が一月二十二日に発売された。幸いなことに「発売日重版」ということになったが、これもひとえにシャーロック・ホームズという不滅のキャラクターのおかげであろう。

 「森見登美彦シャーロック・ホームズ?」

 「ミステリなんて書けるの?」

 そのような心配は無用である。作中のホームズは深刻なスランプに陥っており、まともな推理は何ひとつできないからだ。そもそも本作は「絶対にミステリを書かない」という固い決意のもとに書かれたのである。少年時代の憧れであったシャーロック・ホームズを「スランプ中のダメダメ探偵」へと引きずり下ろしたのは申し訳ないことだが、そうやって徹底的におとしめられてもホームズは依然としてホームズだった。

 本作を読むにあたって、とくに予備知識は必要ない。

 ・シャーロック・ホームズは名探偵である。

 ・ワトソンはその相棒・記録係である。

 ・モリアーティ教授はホームズの宿敵である。

 ・作者はコナン・ドイルである。

 そんな感じのおおざっぱな知識があればじゅうぶんだろう。どうせ「ヴィクトリア朝京都」などというヘンテコな世界が舞台なのだから……。

 しかし、シャーロック・ホームズについての知識があればいっそう楽しめるのも事実である。『シャーロック・ホームズの凱旋』は、以下に掲げる四冊のコナン・ドイル作品を踏まえて書かれた。機会があれば、ぜひ原典も手にとっていただきたい。

 ちなみに登美彦氏のお気に入りは『四人の署名』である。インドの財宝、密室殺人、テムズ川の追跡劇、ワトソンとメアリの嬉し恥ずかしのロマンスなど、オモシロ要素を「これでもか!」と詰めこんだ、作者コナン・ドイルの若々しい情熱が感じられる一冊である。ジェレミー・ブレット主演のドラマ版も傑作。

 

緋色の研究 【新訳版】 シャーロック・ホームズ・シリーズ (創元推理文庫)

四人の署名 【新訳版】 シャーロック・ホームズ・シリーズ (創元推理文庫)

シャーロック・ホームズの冒険 【新訳版】 シャーロック・ホームズ・シリーズ (創元推理文庫)

回想のシャーロック・ホームズ 【新訳版】 シャーロック・ホームズ・シリーズ (創元推理文庫)

万城目学氏、直木賞を受賞する

八月の御所グラウンド (文春e-book)

 

 昨年、十二月二十一日のことである。
 森見登美彦氏は、万城目学氏と、ヨーロッパ企画上田誠氏との忘年会に参加した。年末の京都に清らかなおっさんたちが集う忘年会も、すでに六回目を数える。
 「六回目といえば」
 ということで、万城目氏が新作『八月の御所グラウンド』で六回目の直木賞候補になっているという話になった。

 しかし万城目氏の顔つきは暗かった。
 「どうせあかんねん」
 「待ち会はしないんですか?」
 「そんなもんせえへんわ。いつもどおりにしてる」
 それはいかん、と登美彦氏は思った。度重なる落選にウンザリする気持ちはよく分かるが、直木賞はようするに「お祭り」なのであって、盛りあがらなければ損である。「待ち会」は落ちてからが本番なのだ。落選したってええじゃないか!
 「何をいじけてるんです。待ち会やりましょう!」
 「なんでやねん!」
 「やるなら東京まで行きますって」
 「あ、それなら僕も行きます」と上田氏。
 「マジですか。どうせ落ちまっせ」
 「落ちたら朝までみんなでゲームしましょうよ」
 三人の中で一番忙しいはずの上田誠氏がそそくさとスケージュル帳を広げたので、さすがの万城目氏も心を動かされたようであった。「そんなら京極さんも誘うか」と呟いてから、「あかん。京極さんは選考委員や」と言った。
 それでも万城目氏は登美彦氏たちが本気なのかどうか、今ひとつ確信がもてなかったらしく、別れ際、「本当にくるんですね?」と、念を押した。
 絶対に行きます、と登美彦氏は言った。
 「どうせなら東京會舘に部屋を取ってください」
 後日、万城目氏から、「東京會舘の部屋を調べたら途方もない値段だったので、新橋駅前の『ルノアール』の会議室を予約しました」と連絡があった。
 「あと、綿矢りささんもくるということです」

 

 年が明けて、一月十七日。
 登美彦氏は奈良からわざわざ東京へ出かけていった。万城目氏から固く口止めされていたので、出版関係者は誰ひとり知らない。なぜか綿矢さんが「脱出ゲームしないんですか?」と言ったので、集合場所は築地の「パズルルーム東京」であった。
 登美彦氏が築地の一角へいくと、万城目氏が店の前のベンチに腰かけて、やる気なさそうにボーッとしていた。登美彦氏は向かいのベンチに座った。
 「緊張してないんですか」
 「ぜんぜん緊張せえへん。いつもどおり」
 そう言いながら、万城目氏はきちんと記者会見用の小綺麗な服を用意しているのだ。どこまでが本気で、どこまでが韜晦なのか分からない。
 やがて綿矢さんがやってきて、登美彦氏たち三人は「脱出ゲーム」に挑んだ。ゲームの性質上、我々の健闘ぶりを描写できないのが残念である。密室を調べまわり、ああでもないこうでもないと暗号を解き、一時間半のゲームを終えると、すっかり全員がヘトヘトになっていた。その疲労を回復するためには「待ち会」よりも前に、「資生堂パーラー」でいちごパフェを食べる必要がある。
 銀座へ向かって歩いていると、ふいに万城目氏が前方を指さし、思わせぶりな声で、「奇遇やなあ」と言った。その指先に目をやると、交差点の角にちょっと古風な建物がある。しかし登美彦氏はピンとこなかった。綿矢さんにいたっては、その向こうにある「すしざんまい」の看板を眺めていたのである。万城目氏に教えられて、ようやくその建物こそが芥川賞直木賞の選考が行われる料亭「新喜楽」だと分かった。
 「ははあ!あれが『新喜楽』ですか」
 「へー!」
 登美彦氏と綿矢さんが感心していると、
 「自分ら、さすがにそれはどうかと思うで」
 と、万城目氏は呆れた。
 そうして登美彦氏たちは、今まさに選考委員が激論を交わしている「新喜楽」のとなりをノコノコ通りすぎて、銀座の資生堂パーラーへいった。
 肝心の「待ち会」は始まってもいないのに、三人ともすっかり口数が少なくなっていた。資生堂パーラーで合流した上田誠氏は他の三人の憔悴ぶりに、「ゲーム中にケンカでもしたのか?」と思ったらしいが、単純に疲れていたのである。

 

 午後五時半、ようやく新橋駅前の「ルノアール」へ入った。
 現地でひとり待っていた担当編集者の柘植氏は、登美彦氏・綿矢氏・上田氏がぞろぞろやってきたのを見て、「え!なんで?」と驚いていた。
 てっきり万城目氏と二人で待つものと思っていたらしい。
 「どうして前もって教えてくれないんですか!」
 柘植氏が言っても、万城目氏はへらへらしている。
 新橋駅前の古いビルの一角にある会議室は殺風景だった。長いテーブルのまわりに椅子が置いてあり、部屋の端にホワイトボードが置いてある。
 それから選考結果が分かるまで、登美彦氏たちは「ルノアール」の会議室ですごした。UNOで激闘を繰り広げ、綿矢さんが買ってきてくれたおにぎりとからあげを食べた。しかし選考が長引いているのか、なかなか電話はかかってこない。これまでに何度か「待ち会」をした経験がよみがえってきて、登美彦氏は手のひらにイヤな汗をかいてきた。
 そして七時すぎ、綿矢さんがちょっと席をはずして、万城目氏が次のゲームを用意していたとき、電話が鳴った。登美彦氏たちは息を呑んだ。
 すかさず上田誠氏が動画の撮影を始め、万城目氏は電話を取った。
 「はい。ええ、そうです。はい」
 万城目氏のやりとりは淡々としていた。
 正直なところ、登美彦氏は「落選か」と思った。これからみんなでゲームをして、新橋の居酒屋で残念会を開き、明日には奈良へ帰ることになる。そしてしみじみとしたブログを書いて万城目氏を慰めてあげることにしよう……。
 ところが万城目氏が、
 「あ、受けます」
 と言ったとたん、部屋の空気が一変した。
 この瞬間、万城目学氏は直木賞作家となったのである。
 登美彦氏は思わず「マジか!」と叫んだが、万城目氏が電話を続けているので声を押し殺さねばならなかった。担当編集者の柘植氏は、「よし!」「よし!」と小さく叫び、何度も床を踏みしめながらガッツポーズをする。それが心底嬉しそうであることに胸を打たれた。
 「今、新橋なんで二十分ぐらいでうかがえると思います」
 そう言って、万城目氏は電話を切った。
 登美彦氏たちが口々に「おめでとうございます」と万城目氏に声をかけているところへ、ドアが開いて綿矢さんが戻ってきた。

 その場にいる全員が叫んだのは言うまでもない。
 「なんで一番肝心なときにいないんですか、綿矢さん!」

 

 そこから先はずっと夢の中のできごとのようであった。
 綿矢さんが「祝❤直木賞」と書いたホワイトボードの前で記念撮影をしてから、おそらく新橋界隈でもっとも高揚感に包まれた集団は喫茶室「ルノアール」をあとにすると、タクシーに分乗して丸の内の東京會舘へ向かった。

 あまりの事態の急変ぶりに、

 「脱出ゲームをしてたのが遠い昔みたいや」

 と、綿矢さんは言ったが、登美彦氏も同感だった。
 面白いのは、受賞の知らせを受ける前後で、万城目氏の雰囲気がはっきりと変わったことである。その変身はあまりにも鮮やかだったので、万城目氏は韜晦でもなんでもなく、本気で「受賞するわけない」と思っていたのだと分かった。
 東京會舘で開かれた記者会見は、登美彦氏も後ろで見学していたが、万城目氏の話しぶりは堂々としていた。さすが幾多の講演をこなして鍛えてきただけのことはある。上田誠氏も「老獪!」と笑っていた。
 会見をしめくくるにあたって万城目氏は、
 「次は森見さんだとバトンを渡したい気持ちです」
 と言った。
 「そんな重いバトン、いらんわい」
 というのが、登美彦氏の正直な気持ちである。

 何はともあれ、万城目学さん、受賞おめでとうございます。

 心よりお祝い申し上げます。

 

 

 ちなみに、森見登美彦氏の新作『シャーロック・ホームズの凱旋』は、一月二十二日発売であります。

 

シャーロック・ホームズの凱旋 (単行本)

エッセイと超短編

 気がつけば、この日誌を更新することもなく、ほとんど丸一年がすぎた。

 その間、森見登美彦氏はいつものように執筆に難渋し、巨大な暗礁に乗り上げていた。あまりに難渋するので、「もうずっとこの暗礁に住みついてやろうか!」と捨て鉢なことを思っていたが、なんとか『シャーロック・ホームズの凱旋』は完成し、来年一月二十二日に発売予定である。またしても怪作になったが、そんなことはもう心底どうでもいい。完成するならなんでもいい。完成こそ正義である。

 あまりにも長く孤立した暗礁で暮らしていたので(なにしろコロナ禍の始まる前から書いていた)、森見登美彦氏の魂はまだ「ヴィクトリア朝京都」から現実世界へと完全には戻ってきていない。しばらくはリハビリの日々が続くだろう。とりあえずは温かな鍋料理をどっさり食べて、英気を養わねばならない。

 そんなことはともかく、お知らせが二つある。

 ポプラ文庫『わたしの名店』(12月5日発売予定)に、登美彦氏のエッセイ「夏の夜を味わう山上レストラン」が収録される。また、小学館文庫『超短編!大どんでん返しSpecial」』(12月6日発売予定)に、登美彦氏の超短編「新釈『蜘蛛の糸』」が収録される。どちらも短めの作品を集めた読みやすいアンソロジーであり、眠る前に布団の中でチョコッと読むとか、電車の待ち時間にチョコッと読むとか、じつにイイカンジの本ではないだろうか。

 こういうものをノンビリ読みながら、年明け刊行の『シャーロック・ホームズの凱旋』をお待ちいただければ幸甚である。

 

 

映画「四畳半タイムマシンブルース」公開中!


www.youtube.com

 

 現在、映画「四畳半タイムマシンブルース」が公開中である。

 (ディズニープラスでは第四話まで配信中)

 すでに本作をご覧になった方は、

 「明石さんがステキすぎる」

 という事実に気づかれたことと思う。

 もはや原作者でさえ恋に落ちるレベルであり、この世のものとは思えない。「大袈裟なこと言ってラ!」と思われる方は、ぜひとも劇場か、またはディズニープラス、あるいはその両方でご確認ください。

 それはともかく、明日から来場者特典として、「ポンコツ映画宣言-ニッポンの夜明けぜよ-」が配布される。作中で明石さんが撮影しているポンコツ映画について、城ヶ崎氏・相島氏・小津・羽貫さん・樋口氏・明石さん・私がざっくばらんに語り合う、座談会形式の掌編である。ポンコツな人々によるポンコツなやりとりを、ゆるゆるとお楽しみいただければ幸いです。

アニメ「四畳半タイムマシンブルース」配信開始、劇場公開版・入場者プレゼントについて

 昨日からディズニープラスにおいて、アニメ「四畳半タイムマシンブルース」の配信が始まった。毎週1話ずつ配信され、全5話+配信限定エピソード1話の予定。

 今月末から劇場公開も始まる。劇場公開版は、ようするに配信版の5話をくっつけてひとつにしたものだ。9月30日から三週間限定ロードショー。

 劇場では入場者プレゼントもあります。登美彦氏が新作『シャーロック・ホームズの凱旋』の執筆を泣く泣く中断し、そのわりには楽しく書いた掌編小説が2篇、用意されている。「ふしぎな石のはなし」は下鴨幽水荘に持ちこまれてきた魔性の石をめぐる幻想譚、「ポンコツ映画宣言」は作中映画「幕末軟弱者列伝サムライ・ウォーズ」の完成記念座談会である。お楽しみいただければ幸いです。