松井冬子という日本画家


 先日、藝大の博士展(松井冬子は今年修了)があったので、見に行ってきた。実は、彼女の絵を、直で見るのは初めてだったので、そこそこ楽しみにしていた。なぜ、「そこそこ」だったのかと言えば、昨今のネオ・ジャポニズムならなんでも良いといった風潮にうんざりしつつあるからだ。日本画の境界は曖昧である。その曖昧さについては、松浦寿夫岡崎乾二郎の対談集でわかりやすく語られているので、ここでは割愛する。最近は、日本画の特性に着眼して、戦略的見地から絵を描いている人が増えてきている様に感じる。デザインや現代美術といった分野から、日本画に参入してくる人も目立つ。戦略的な絵は、無知蒙昧な絵より、マシと言えばマシかも知れないが、見ていて心に迫ってくることが少ないのも事実である。図版などに見る松井の絵は、そういった典型の一つで、戦略的にこの手段(日本画クラーナハ的残酷さ、そしてゴシック・ホラーの融合)をとっている画家に過ぎないのではないか、という気もしていた。


 実際に見て思ったのは、この画家は、勤勉で厳しいということ。もちろん、戦略性も感じたが、思いのほか嫌らしい感じはしなかった。それは、本当に日本画が好きで、興味を持って筆をとっていることが、はっきりと伝わってきたからだろう。松井冬子の絵は小さい。絹本がほとんどだ。一般に、小さいサイズの絵で感銘を与えるには、技術的に卓越したものがないと難しいと言われている。その点で、安定した技巧を活かし、丁寧かつ繊細に作品を制作していた。商品的な価値が発生する水準である。


 日本画とは何か。もっともわかりやすいのが線描の豊かさにある。西洋はマッスを中心に描写していくが、日本画は違う。そうせざるを得ないのは、岩絵具の貧弱さによるところが大きいが、基本的に線描で遠近感や質感を表現していたという伝統がある。それを端的に示しているのが、大家の水墨画だろう。一筆でどれだけの要素を表せるかが、画業の到達点を如実に示している。松井は、古典ともいえる日本画水墨画を熱心に研究し尽くした上で、自らの画風を設定した様に思える。その絵は強靱な古典性を備えていた。「日本画的な要素が部分的にあれば日本画」という曖昧な現状に対し、圧倒的なまでに「日本画」だった。ストレートに、古典性を発揮することの強みを誰よりも知っているのだろう。熱いぜ。その熱さが、ただの雰囲気だけの絵に終わらない魅力を生み出している。

渡る世間は鬼ばかり 第45話

 「渡る世間は鬼ばかり」は、どうしようもないドラマだと本当に思う。よくこうも事件ばかり起こるな…と呆れつつ、ついつい見てしまう。ああ、恐ろしや。この45話は、非常に意欲的だったのではないだろうか。演出は、荒井光明だが、良くも悪くも冴えないこのドラマの演出に、新しい風を蒸かせようとしているのではないだろうか。冒頭の、加津の無駄な着替えシーンから笑える。あからさまなサービスカット(実際、サービスになっていたかはあやしいが)だったし。タキさんがホストクラブに行く(!)ときの嬉々とした表情も笑えた。壮太と父の和解もよく描けていたのではないか。目まぐるしく展開していったけれど、最後まで盛りだくさんで面白かった。


 この人の演出は、細かい所に気が回っていていいと思う。大吉を撮る時も、構図を決めて反復させることで意味を表出させようとしていたし、長子と壮太を厨房で撮る時も、中心に視線の操作のために小道具を置いたりしてたし。ウルトラマンシリーズともかもそうだったけれど、筋立てが決まっているからこそ、自由にやれることというのも必ずあると思う。こういった、保守的・反復的な内容のドラマを解体する人とかいないのかな。面白いと思うのだけれど。やったらクビかもしれないけど。

オルセー美術館展(東京都美術館)


 うーむ、うーむ。期待して見に行ったのだけれど、なんだか感じ入らなかったなあ。すごいゴッホとホイッスラー楽しみにしてたのだけれど。ホイッスラーは「灰色と黒のアレンジメント(母の肖像)」が思ったほどの作品ではなく、がっかり。あまりに幻想を抱きすぎていたのかな。油彩的な技法に終始していて、こう描くならば、まずは見えてきて欲しい輪郭線が曖昧で違和感があった。このホイッスラーの様式をさらに推し進めたのが、クノップフなのだろう(ちなみに、クノップフも小品が来ている)図画的には抜群に魅力的な構図だとは思うけれど、じっくりと見ると、部分的にプロポーションが歪んでいたのが気になった。


 ゴッホに限らないけれど、展示方法に問題があった様に思う。どうもセレクションがちぐはぐで、観覧しながら印象が分断されていく感じがした。もっと焦点を絞った方がよかったのでは?せっかく、面白い写真があっても、集中して見れる環境とは思えなかったし。信じられないくらい淡泊な印象だったので、もう一度は行くつもり。

ギメ東洋美術館展(太田記念美術館)


 浮世絵で有名な太田記念美術館で、北斎の「龍虎図」が展示されている。「龍」と「虎」が対幅だということは、近年はじめてわかったらしい。それを記念しての展示だそうだ。作品は、北斎特有の、重力を強く感じさせるもので、充実していた。ただ、良くも悪くもこの人らしく、力業でものにしている感じも否めず、感心するに留まった。この「龍虎図」より、すばらしいと思ったのが、隣に掛けられていた「猿回しの図」である。あいにく、図版がないのでここには載せられないのだが、晩年の作で、猿をおんぶした旅芸人と子供の様子を、水墨画を思わせる筆致で描いた作品だ。


 融通無碍なんて言葉を使うことは、滅多にないけれど、この「猿回しの図」を評するにはこれが一番しっくりくる。北斎ほど、卓抜した構図感覚や技巧を持っていた日本人を私は知らないが、その有り余る才が、時に作品をぎらつかせることもあった。


 「猿回しの図」は、力みが全くなく、滔々と流れるような筆遣いで描く。垂れる衣服の皺、くるぶし、憎たらしい子供…線の強弱に、無限のニュアンスが迸っている。構図も、最小限ながら、緻密に考え抜かれている。旅芸人(猿回し)は、私たちに背を向けて立っている。手には、猿回しに使う3mはあろうかという木の棒が握られている。背中には、まるで泣き疲れた赤子の様な猿がおんぶされていて、とてもかわいい。芸人の表情も、忘れられない。満たされているような、くたびれたような、なんともいえない微妙な表情である。味わい深い!この背を向けた芸人と対照的なのが、ほくそ笑んでいる子供だ。芸人の向こう側から、こちらを向いて手を振っている。この子供の突き出し方がまた秀逸で、猿回しに使う棒とで、逆三角形を構成している。その中心にあるのが、芸人の草履を履いた足で、ここが絵をしっかりとつなぎ止める役割をしている。余分なものは何もないけれど、非常に見事な構図である。


 要するに、滾る様より、どこか力の抜けた、ひなびた味わいが魅力の絵だといえる。ただ、その線描の自在性、光をも感じさせる感性の鋭さは、画狂人を貫いた男の、底知れぬ凄みがあった。

テンポについての覚書

 最近、フルトヴェングラーをよく聴く。その特徴である、テンポの動かし方について考えることが多いからだ。そのきっかけを与えてくれたのが、戦時中に録音されたブラームスの4番[Delta/Melodiya]と晩年のブラームス3番[DG]だった。共に終楽章の盛り上げ方が凄まじく、ブラームスのロマンティシズムが最大限に活かされている。私は、ムラヴィンスキーという指揮者がとても好きだけれど、その対極ともいえるフルトヴェングラーにも、魅力を感じる。


 ブラームス交響曲4番の終楽章の変奏について、二人の指揮ぶりを比較してみたい。フルトヴェングラーは、各変奏をキャラクタリスティックに描き出すのではなく、変奏全体の統合を目指して演奏していたはずだ。その結果、猛烈なスピードのアクセルをかけてみたり、フレージングを犠牲にしてでもオーケストラをドライブさせることが多くなる。一方、ムラヴィンスキーは違う。個々の変奏をきっちりと性格付けをすることに終始しているといえる。一番おもしろいのが、フルトヴェングラーで加速させるところを、ムラヴィンスキーは逆に、テンポを落として、はっきりと聴衆にフレーズを印象づける様に演奏することだ。そして、二人とも、そのテンポの移行によって、他の演奏家にはない、豊かな情感を獲得している。


 テンポを速めることは、一番わかりやすい形の盛り上げ方だと思う。その点で、フルトヴェングラーほど、それを意図的に用いた指揮者はいないだろう。ムラヴィンスキーは、テンポを落とすことで、盛り上げていく。遅くなった瞬間、感情がスローモーションで沸き上がってくるのだ。ここに二人にの指揮者の考え方の違いをはっきりと見て取れる。


 フルトヴェングラーのテンポの移行は、高揚感をそのままテンポに反映していると言われている。もちろん、それには同意するけれども、一部では「だからフルトヴェングラーはわかりやくて嫌」という人もいるらしい。ただ、有名なシューマンの第4番のスタジオ録音を聴けば、この指揮者の実像が少しは感じられると思う。ただヒステリックに泣き叫ぶ指揮者とは違う。これほど計算されつくした演奏は、そうそう聴けるものではない。第一楽章が最もわかりやすい。この楽章は、入り組んだ構造を持っており、整理して演奏をしないと、すぐによくわからなくなってしまう。フルトヴェングラーは、反復の強さや漸強など、常に一定の音量でコントロールしている。アッチェレランドのかけ方も、タイミングで切り上げたりと安定している。常にこういった理想や戦略があったのだろう。つまり、感情にまかせて、走り抜けているだけではないのだ。最近、テンシュテットのライブはフルトヴェングラーに匹敵する、なんて意見を聞くけれど、私はそうは思わない。テンシュテットフルトヴェングラーに比べれば、純粋すぎる。

 DELTA復刻のウラニアのエロイカ

 ウラニアのエロイカは話題に事欠かない。フルヴェンが怒ってウラニア社を訴えた、ピッチが高い、CD復刻は山ほどあってどれを聴くべきか…とか。私も、ダイレクトに演奏が伝わってくる復刻に出会えず、新しい復刻が出るたびにいろいろ聴いてきたクチだ。評判になっていたGRAND SLAM盤も買ったが、ピークで音が潰れるのが嫌であまり聴いていない。そもそも、このウラニア盤を無遠慮に楽しめたことがない。音質の歪みやピッチ、針音とかいろいろ気になって、どうも落ち着きが悪い。


 今回、DELTAが復刻したものを聴いた。評判の良い「第2世代復刻」盤だ。これはとても良い。ほとんどはじめて、ノイズを気にしないでウラニア盤を集中して聴けたと思う。まず、ピッチ修正に成功しており、あのせせこましい感じがしない。ノイズも最小限に抑えられているけれど、刻まれている音を削ったりはしない。自然な音がする。その結果、細部まで聴き通すことができて、この演奏の実像がはじめてわかった気がする。52年スタジオ盤に比べると、やたら燃えている様な印象があったのだけれど、しっかり聴くとそんなことはなかった。その特徴であるテンポの移行は、ゆとりのある中で行われ、押しつけがましくならない。それが活かされているのが、第二楽章フガートである。じっくりと、各声部が一つの螺旋を描いていく。煽り立てるわけではないので、なにかがゆっくりと氷解していくような、厳しさと摂理を感じる。これは52年盤にはない表現だ。こういった発見が、多々ある。素晴らしい復刻だと言い切っても問題ないだろう。

宮下誠「20世紀絵画」を読む


なんだとは言っても、「20世紀音楽」は力の入った本だったので、「20世紀絵画」も買ってみた。こちらは、流石に専門分野だけあって、文章が自信に裏付けされている。きっと音楽の方で足りなかったのは、この自信だろう。これは入門書を踏み越えた面白さがある。図版があるのも大きい。


マーク・ロスコ、フランツ・マルクがしっかりと取り上げられている。ロスコは、実物を見たことがない人から、どこがいいのかちっとも理解できない、という話をよく聞く。どうしてああいった、カラー・フィールド・ペインティングの中でも異端な絵画を志向せざるを得なかったのかが、出自を含めて触れられている。


マルクは、日本で軽視されている画家の一人だ。カンディンスキーと共に「青騎士」のメンバーとして知られる。激しい色彩を活かし、動物や自然の生々しさを鮮烈にデフォルメしていく。「ティロル」や「動物の運命」といった巨大な存在感を持った作品は、もっと評価されてもいい。(画像は「動物の運命」) 宮下は「熱い抽象」として取り上げている。


旧東ドイツの芸術についての一節が、この本の読みどころだと言いたい。「20世紀音楽」の方でも、東ドイツの作曲家を多く取り上げていたので、興味があるのだろう。自分も興味がある。社会主義が生む、遮断・閉塞・停滞・反芻といった作用にそそられるからだ。それは時に狂気を生む。宮下も、その異常さや過剰さに惹かれているに違いない。紹介されている、ベルンハルト・ハイジヒの作品なんかは、見ているだけでもしんどい。狂っている振りをしているのか、本当に狂っているのか。ゲルハルト・リヒターが世界的に高い評価を獲得する裏で、母国で生き抜くことを選んだ画家達の叫びを無視するのは許されない気がする。