自死について


ドゥルーズゴダール・・・ 「ストア派自死」。

成田悠輔的に社会保障軽減目的やら、三島由紀夫風自己顕示パフォーマンスやらの「自死」は、醜悪極まりない。
社会保障費軽減の為に「集団自決」しろだぁ?! なんで政府の財政失敗を死を賭して修復してやんなきゃいけないんだよ! くだらん。
そして、そのモデルが三島由紀夫?! 冗談じゃない。三島由紀夫なんて、自分ひとりでは死ねなくて、ヘルパーさんの介助でようやく死んでる。「自死」ですらない。

しかしそうは言っても、ストア派的な「自死」は選択できていい筈だろう。
「もう死ぬべきだと決断したので死ぬ」っていう選択。
末期延命治療拒否の「ストア派自死」。

イスラーム法学者の中田孝は、決して「自殺」を推奨していたわけではないが、無理やりの未練たらしい延命処置を回避した上での死をすすめていた。

フーコーは、ニッポンの「ハッテン場」のゲイセックスに似て快楽に満ちた「死」に憧れていたようだ。華美狂瀾の集団自殺
桂米朝「地獄八景亡者戯」の「ふぐ自殺」的な自死

僕は、どれでもなく、「救いも希望もない社会で、苦しみのたうちまわりながら生きるより、死んじまった方が楽だし愉しいし、なにより安いから」と、死んでしまいたい。
怠惰に悦楽的な「自死」。
これだ。





「もういいや。つかれたよ。じゃ!お先に!」



たまさんの夢をみた


娘は、高岡の元妻実家に住んでいる。
元妻実家は、高岡駅前の旧い大きな「町家」。間口が広く奥行きも深く部屋数もかなり多かった。空き部屋を利用して、娘の祖母(=元妻の母)は、副業に駅前旅館を営業していた。
大きな家で小さな旅館。
高岡駅前「川崎旅館」。


新幹線開通に伴い旧JR高岡駅は廃止された。
そして元妻実家は、再開発にともなう「立退」(=地上げ?)で廃業し、すこし離れた場所へ引っ越してしまった。
娘も一緒に引っ越して、祖母と一緒に暮らしている。
娘は、引っ越し後も「たまさん」たちにお昼ごはんをあげに川崎旅館跡地に通っていた。


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「たまさん」の説明。
「たまさん」は、高岡駅前下関町界隈の「地域猫」。
町内の人たちにかわがられていた野良猫、何代も前から。
昭和の街には、こういう「地域猫」がいっぱいいた。
「たまさん」のお母さんも「たまさん」と呼ばれていた。
お母さん「たまさん」のお母さんも「たまさん」だった。
もちろん「たまさん」以外に何家族も代々下関長界隈をテリトリーにしている「地域猫」はいた。
何匹もいる「地域猫」の中でも「たまさん」は、下関町の人たちから可愛がられていた。
「たまさん」は、とても行儀の良い猫だったからだ。

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JR在来線の廃止に伴い、高岡駅前はすっかり寂れてしまった。
徳川時代からその地に住み続けていた元妻実家も再開発にともなう立退=地上げで引っ越しを余儀なくされた。
町内の美容院も電気屋もスナックも飲み屋もすでにない。
住民も客もいない。
荒涼とした空き地駐車場だけが広がる旧高岡駅前下関町。
それでも「たまさん」は、娘に逢いに下関町に来ていた。
娘も「たまさん」に逢いに下関町に通っていた。



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娘の声が聴きたくて、数年ぶりに娘に電話をした。

「最近、たまさん、どうしてる?」と、訊いてみた。


「たまさん、来なくなっちゃったの」と、娘は言っていた。


エサやりも、もうしていないそうだ。


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「たまさん、来なくなっちゃったの」







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その夜、たまさんの夢をみた。


夢の中で、たまさんは、どっかのイエ猫になっていた。
おばあさん猫になったたまさん、陽だまりの縁側でうつらうつらしながら、ノラ猫だった頃の事をぼんやりと思い出していた。

「昔よく遊びに行ってた旅館があったなあ。
 あれはどこだったんだっけ?
 旅館には女の子がいた筈。
 あの子は、どうしてるんだろう?」と。


そんな夢を見た。

















「写真がインデックス記号のわけがない。何かの似姿・・・」展開催予定

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「写真がインデックス記号のわけがない。何かの似姿であることだけが写真の取り柄。故に一義的に写真はイコン記号に決まっている。顔写真が、指紋ほどに、当人の顔貌に相似性がないと思うトンチキだけが、『写真はインデックス記号』と言うが良い。そしてもちろん写真を見て何かをイメージしてしまうのは、個人の勝手なので、『写真はイメージ記号』と妄想するのは何ら問題はない。以上を踏まえて、何にも似ず、なにも想起させず、そしてもちろん何も指し示していない写真にこそ、写真の彼方がおぼろげに浮かぶ。誰もそんなモノを望んではいない。しかしそこにこそ写真の本体が潜んでいる。みすぼらしく弱々しい写真の本体が~~遠藤弘先生の論議学講義に捧ぐ」展


近日開催。


Title ; "There is no way that a photograph is an index symbol. The only thing a photograph has going for it is that it is a likeness of something. Therefore, in a sense, a photograph is an icon. Only those who think that a mug shot has no more similarity to a person's face than a fingerprint can say that a photograph is an index symbol. And of course, it is up to the individual to imagine something by looking at a photograph, so there is nothing wrong with imagining that a photograph is an image symbol. Based on the above, it is the photographs that do not resemble anything, do not remind us of anything, and of course do not point to anything, that give us a vague idea of what is beyond the photograph. No one wants to see such things. But that is where the body of the photograph lies. The body of photograph that is shabby and weak"
(Dedicated to Professor Hiroshi Endo's lecture on Argumentation)

イエスはよく知っていた、マルクスも知っていた

(ねられない)
フェミニストたちに、「もっとたのしんで運動すれば良いのに」って書いたら、「あーら、男性さまは余裕がおありで。あたしらそんな余裕はございません」とイヤミをかまされた。
+
堀田善衛「路上の人」に、「イエスは笑った」を証明する為に、命がけで、アリストテレス「喜劇論」を探すフランチェスコ会の修道士が登場した。
僕は「イエスはよく笑った」と思っている。
そもそもイエスは、会食が大好きでしばしば人を集めて宴席を開いている。そして「酒とご馳走を用意してくれなきゃダメじゃないか!」と母親(聖母マリアの訳だが)を叱りつけたりもしてる。「だっておまえ、そんなものうちにはないわよ!」と困り果てたマリアがオロオロすると、「仕方ねえなあ、、、」とばかりに、どこからともなく自分で調達してくる(聖書では超能力で作り出した事になってるが)。
ただただありがたい説教をする為なら、酒も料理もいらないだろう。しかし歓談の為には絶対に必要だったのだ。笑いと愉しみの中に包まれていたからこそ、イエスはあそこまで突っ走れたのだろう。
+
マルクス資本論」は、切迫感のある本だ。ひたすら暗い重い貧乏と弾圧と不潔と疫病と絶望の状況が報告され、マルクスが、その現況を分析突破しようと格闘する様子が、この上なくスリリングな本だ。
しかし、この本、そこら中にギャグが仕込んである。「マルクスは、『ガリバー旅行記』のスウィフト並みに罵倒の天才だ!」って誰かが書いてたけど、論敵をコケにしまくった罵倒芸やら、いかめしい古典文芸のパロディやらが満載されたテキストでもある。
+
「笑い」「愉しさ」なしには、「生きていたくない」「もうダメだ」という切迫した状況の突破なぞ、思い至れる訳がないのだ。
エスはよく知っていた。
マルクスも知っていた。

小山田圭吾問題、そして「和光」

なんか時間軸がズレてるよなあ。
「ネットで話題」が、2000年代初頭〜で、
「雑誌のインタビュー」が、90年代。
でも、「小山田圭吾らによる障害者いじめ」の舞台は、70年代。
70年代の差別いじめ全盛時代への猛省が出てたのが、90年代「言葉狩り」で、それへの反発が「90年代悪趣味志向」。

90年代って、世界中で「ポリコレ」が問題になり始めた時期でしょ?
筒井康隆の「断筆宣言」って、1993年。この頃、ようやく「障害者をいじめたり、障害者差別を笑いにしたりしちゃダメだよ」って話がで始めた。

東浩紀が「批評空間」にデビューしたのも、1993年だけど、当時の「批評空間」では、ポリコレ論評いっぱい出てたよ。
絓秀実や渡部直己が、筒井康隆の差別表現を話題にしてたのも90年代。
むしろ「90年代は、ポリコレ全盛期」。
クイックジャパン」や吉田豪が所属していたサブカル業界は、「ポリコレ」「言葉狩り」への反発・逆張りで「悪趣味嗜好」に走っていた。


さらにそれらに先行するのが、「和光学園」の教育方針。
「障害児童」の受け入れ態勢が、まるでなかった昭和(大日本帝国時代~日本国昭和後期まで)の中にあって、積極的に受け入れていたのが、「和光学園」。
だから、小山田圭吾のインタビュー内でも「ヤバいヤツらいっぱいいた」みたいな話が出て来る
小沢健二なんか(飛び抜けた秀才児童だったらしい)が、秀才児童向けの小学校(お母さん慶応出身だし、普通なら慶応へ進学してたんでしょう。もしくは中学から筑駒とか)ではなく、「和光学園」へ入学したのも、当時の進歩的なインテリ家庭(父・小澤俊夫は児童文学に近しいドイツ文学の民話研究、母・小沢牧子は国立精神衛生研究所児童精神衛生部の研究員で「子ども差別」問題に取り組んだりしてる心理学者)の選択。
小沢健二の両親は、「この子は、障害者や『小山田圭吾』なんかと混じって子ども時代を送らせた方が良い」っていう選択だったのだろう。
21世紀的には「ダイバーシティ教育」とでも言うの?そういう教育を実践しようとしてたのが、「和光学園」。

しかし、昭和の「和光学園」の実態は、「小山田圭吾」(彼自体、ダウンタウンに「変なヤツ」と弄られるような、公立小学校ならイジメの対象になるような児童だったのだろう。但し極端な障害はなかった)らによる障害児童に対する壮絶なイジメが、繰り広げられていた、って事。

小山田圭吾」問題、オザケンのお母さん=小沢牧子にインタビューして欲しいよね。
「子ども差別」問題の研究者で和光学園で非常勤講師もしてた児童心理学者が、息子の中学生時代の友人(ひょっとすると家に遊びに来てたかもしれない)が、壮絶な障害者いじめをしていた実態に就て、なんて言うだろ?


https://twitter.com/WORLDJAPAN/status/1415680102872981520

ミュージアムのこと

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10年前のmixi日記読み返したら、平木さんや川崎市市民ミュージアムのことを書いてたのを発見。面白いんで再録。

ミュージアムのこと
2009年02月27日15:18
最初に平木さんにあったのって、はじめて川崎市市民ミュージアムへ行った時。
「おまえか、履歴書に似顔絵貼って来たのって? ワハハハハハ」っていうのが第一声だった気がします。その時は「なんでこのおっさん、そんなことで笑うんだろ?」と思ったのを覚えてます。まあ笑うか。早大漫研の先輩だった細萱さんのコネでミュージアムへバイトで行くことになったんだけど、履歴書のために写真撮るの面倒だったから履歴書の写真貼付のところに似顔絵描いて送ったのでした。今思えば、無茶苦茶だよな。何考えてたんだろ。
バイトとは言いながら、僕は思いっきり遊びに行ってました。
愉しかったよなあ、20年前のミュージアム。マンガがあって、写真があって、映画があって、濱田庄司の皿もあって、ひそかに安田靫彦の「草薙の剣」なんてすごい絵まであったりしました。元妻と知り合ったのもミュージアムの訳だし。いやあ、よく遊んだよなあ。バイトやめてだいぶ経った95年、ひさしぶりにミュージアムに顔出したら、そこらじゅうに僕が描いた落書きが貼ってあって。「・・・・仕事してねえよな、コイツ・・・」とつくづく思いましたです。
いちばん愉しかったのは、MAMA展の準備かな?
予定してた写真部門の展覧会が急に出来なくなって(借りる予定だったコレクションをまるごと創価学会の美術館が買っちゃったんだったと思います)、「スケジュールにふた月穴があく! さあたいへん!」っていうんで、ミュージアムの収蔵品使って一ヶ月ででっちあげたというすごい企画でした。連日終電近くまで作業があって、最後は徹夜だったんじゃなかったっけ? 僕は合宿気分でずっと遊んでました。ホワイトボードに落書きしたり、似顔絵描いたり、写真撮ったり。
平木さんが書く筈の図録原稿があがらないあがらない。平木さんは準備期間中ずっとカンヅメにされてて、それでも終わらなくて、展示終了後ふた月くらい経ってできたんじゃなかったっけ? 個人的には、複製技術時代の芸術史の流れが、すごくわかりやすい良い展示だったと思ってます。あれから大して勉強してないから、僕は、平木さんの「MAMA展」で、近代美術史の流れを抑えてるのかもしれない。まあ、あそこまでばたばたすると身体に染み込んで歴史を覚えますです。身体を酷使するってのは大切なことなのかも。
多摩川河畔でやった「芋煮会」も想い出深いです。
平木さんの奥さんが山形出身で、映画部門の立木さんが東北大出身で、「じゃあ、山形の芋煮と仙台の芋煮をしましょう」ってことで、多摩川芋煮会をしました。竹川さんが持って来た沖縄土産の泡盛をがぶがぶのんで、すげえ酔っぱらって、平木夫人を口説いたような覚えがちらちら。いろいろ思い出すと、なんかむちゃくちゃだよな、あの頃の私。

それにしても愉しかったです、あの頃のミュージアム
あの愉しかったミュージアムの雰囲気を支えてたのが、平木さんだったんだと思います。
平木さん、死んじゃったなあ、と思いながら、いろいろ思い出しました。

経堂「吉野家」について

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 久しぶりに入った吉野家は、お昼時をすぎていたので空いていた。
(中略)
「ナミとタマゴ」
と、言った。
 牛丼の『並』と卵が来ると、私は丼の表面に大地にしみ込む慈雨のように、あまねくトキ卵を広げてかけ、その全体としての味のハーモニーを楽しむべきか、それともご飯の真ん中に石油採掘井戸のような穴を掘り、そこに卵を流し込んで、最初は牛丼を食べていたがある層まで食べ進むと突如濃厚な黄金の卵の鉱脈につき当る、発見と感動に満ちたアプローチを選択すべきかで、しばし思い悩んだ。
 結局、後者をとった。

新井千裕「復活祭のためのレクイエム」1986



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吉野家牛丼再現レシピ

黄金だし10
薄口醤油2
みりん2
白ワイン2
りんごジュース2
砂糖1
塩・味の素・醤油・白胡椒・生姜 各少々

(「吉野家牛丼」作り方 ]より)


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