『Over the Rainbow』LGBTQA 創作アンソロジー』掲載作品リスト

「ゆらぎ」            赤井キツネ  B

「群雨」             川瀬みちる  LBQA

「最初の事件」          益岡和朗   G

「9・8」            成瀬     L

江ノ電追想」          スイ     B

「「主語」は「君」です」     マルメロ   BA

「n/100」          詩か詩    LGBQA
「黒猫のバラッド」        ぱぴこ    LB
「それぞれの愛のカタチ」     黒江零    GQ
「寒い夜の光とは」        めぐる    LB
サロメの皿」          佐々木紺   LB
「チョコレートブラウニー」    ヘイデン   G
「ふりこ」            詩か詩    A
ジュディス・バトラージェンダー・トラブル』読書会」 ティーヌ LBTQA
アクアリウムの」        朝旅真人   G&H
「唯一の人」           えれる    GQ
「君の隣で」           黒羽カラス  L
「たおやかな手のひらの温度」   柳ヶ瀬舞   LQ
「贋作綺譚・骨抜唐揚仮説序論」  アリエル・リュウ G
「二丁目の日暮れ」        李琴峰    LB
「灯火」             鈴野広美   LA

屋號詠込★お役者川柳

  ★屋號詠込 お役者川柳★(40年以前の戲吟なり)

名人に早く成田屋まだ晩生(おくて)    十二世市川團十郎    
宙乘りをするにはちよつと瀉澤屋      二世市川猿之助

高麗屋かぶきは措いて飜譯劇(あかげもの) 九世松本幸四郎
助六」で意地を播磨屋役降りる      二世中村吉右衞門

甘黨はたつぷり肉を紀伊國屋        九世澤村宗十郎

三河屋といへど立派な大首繪        九世市川團藏

白塗りの役が來るまで松島屋        十三世片岡我童

このへんが關の大和屋⇒演出家       五世坂東玉三郎

痴漢して居直りオレは〇〇屋        十七世???

お返事は「あら、まあ、さう」と成駒屋   六世中村歌右衞門

 

戀の歌とジェンダー


 

 戀の歌は、相聞(あひぎこえ・さうもん)と稱へた『萬葉集』(八世紀後半成立)の昔から女性に優れた作が多いと言はれてをり、中でも小野小町(をののこまち)と和泉式部は名手の譽れが高い。

  いとせめて戀しきときは烏羽玉(うばたま)の夜の衣を返してぞ着る
  色見えで移ろふものは世の中の人の心の花にぞありける

 小町の戀歌は、呪術的なもの(一首目)と分析的なもの(二首目)に秀逸が多く、後世の肥大化した傳説を踏まへて讀むと意外の感を覺えるかも知れない。

  一方、勅撰集に二百七十四首が採られてゐる和泉式部(女流としては首位。家集は約千五百首を収載)は、まさしく歴代女流歌人の第一人者であり、技法は自在かつ破格、調べは奔放にして哀切を極める。

  君戀ふる心は千々(ちぢ)に碎くれど一つも失せぬものにぞありける

  世の中に戀といふ色は無けれども深く身に沁(し)むものにぞありける
 
 この二首などは註釋なしで現代にも通じる歌で、戀の懊惱を味はつたことのある人ならば即座に共感を覺えるであらう。

  黑髪の亂れも知らずうちふせばまず掻き遣りし人ぞ戀しき

 この上句を「房事のはげしさがもたらしたもの」と斷じた批評家がある。私などはそんな勇氣は持ち合はせないし、また女性の心理も能(よ)くは洞察し得ないが、この歌が發する狂熱の烈しさのやうなものは受け止め得る。そして、類似の歌を幾つか想ひ起こすのを常とする。

  くろ髪の千(ち)すぢの髪のみだれ髪かつおもひみだれおもひみだるる

 與謝野晶子の『みだれ髪』(1901年刊)集中の歌で、比べれば更に没我的であり、ナルシシズムの氣配が濃厚である。九世紀を隔てた晶子よりもずつと和泉式部に近い時代を生きた藤原定家(ふぢはらのさだいへ)には、もつと實驗的な本歌取りがある。

  掻き遣りしその黒髪の筋ごとにうちふすほどは面影ぞ立つ

 まざまざと顕(た)ち來るイメージは、さながら映畫のクローズアップ、それも獨り寢の男が囘想裡に見る幻想のやうな趣で、晶子の「千すぢの髪」よりも遙かに近代的な感覺であり技法であると映るが、それは定家の稀有の才能のなせる術(わざ)であらう。これは虚構の作、つまり強(したゝ)かな藝術意識に基づく歌である。

  定家が活躍した『新古今和歌集』(1205年成立)の時代になると、歌は題詠といふ虚を構へたものが主流となり、戀歌も實際に男女が歌の應答をした昔日の相聞とは樣變りして、題詠一邊倒の觀を呈する。甚だしいのは「待つ戀」の題の下(もと)に男が女としての歌を詠む類(たぐひ)で、西行後鳥羽院(ごとばのゐん)も試みてゐるが、やはり定家が抜きん出てゐる。

  あぢきなくつらき嵐の聲も憂しなど夕暮に待ちならひけむ

 若書きの作ながら、讀む者の心にうねうねと絡みついてくる呪詛にも似た歎き、この上句の卓抜なる修辭には舌を捲かざるを得ない。この頃までは、戀愛は男が女の許を訪ねる妻問婚(つまどひこん)の形を採つてゐたから、下句の「なぜに人を待つ習ひを持つやうになつたのか」といふ歎きは明らかに女のものである。假に定家の名を伏せて讀人不知(よみびとしらず)とすれば、女性が詠んだ歌と受け取られてしまふだらう。

 ところで代々の勅撰集には何らかの事情で作者名が伏せられた讀人不知の歌が澤山収められてゐる。風習の反映や詞書(ことばがき)によつて男女の別が判斷できるものは何ら問題は無い。しかし、純然たるエロスの發露といふことになれば男女の差など消失するだらう。現に、讀人不知の過半の作者の性別は判斷不可能と思はれる。専(もつぱ)ら私的感情を盛る和歌、とくに戀歌といふものは一人稱の文藝なのであり、詠者(よみて)の性別は詞書か署名が無ければ不明である。

 それでも、男女間の戀の場合はまだよしとしよう。問題は同性愛の應答、もしくは同性に寄せる戀歌の場合である。そんなものが存在するのかと思ふむきもあらうが、同性愛は歴史と共にあり、殊に宗教の締めつけが緩かつた日本に於いては、古代から男子間の同性愛が記録されてゐる。和歌にも古代以來少なからず見受けられ、江戸時代初期に歌人俳人・和學者として名を馳せた北村季吟(きたむらきぎん)は、歴代の歌書類を博捜し、男色(なんしよく)に關するものを拾集して『岩つつじ』(1713年刊)一巻を編纂、更に後人が幾許(いくばく)かを補遺してゐる。最も古い例は『萬葉集』に載る大伴家持(おほとものやかもち)が藤原久須麻呂(ふぢはらのくすまろ)に贈つた五首と久須麻呂の返歌二首である。家持が贈つた歌は「春の雨はいや頻(しき)降るに梅の花いまだ咲かなくいと若みかも」といつた類のもので、何ら男女間の應答と選ぶ所はなく、詞書と詠者名を伏せてしまへば、同性愛を特定するものなど微塵も認められまい。その後も此の種の歌(多くは僧侶と稚児)は勅撰集にぽつぽつと撰ばれてをり、『續門葉(しよくもんえふ)和歌集』(1305年成立)、『安撰和歌集』(1369年以前に成立)など中世の大寺院で編纂された私撰集の「戀の部」も男色の歌で占められてゐる。この、和歌に於ける一人稱(私性)の問題は、實は現代の短歌にも尾を曳いてゐる。

  荒くれを愛せしわれの斷罪か暗き獄舎を戀ひやまぬなり

  慾望われとひとしからねば若者は先行す茱萸の苗わしづかみ

 詠者は一首目が春日井建、二首目が塚本邦雄。主題は紛れようもないが、嚴密を期せば、荒くれ男を愛した「われ」も、若い相手が先にオルガスムスに達してしまつたので茱萸(ぐみ)の苗を鷲づかみにして耐へてゐる「われ」も、男性たる作者自身でないと同性愛は成立しない。作者の名を女名前に替へれば、これらの「われ」は忽ち女性と變じ、異性愛の光景が顯現するだらう。つまり、「自分は男であり、しかも男を愛する」と一々詠み込むか、或は他者の行爲と捉へて敍景歌のやうに詠むか、そのくらゐしか方法は思ひ中(あた)らない。恐るべきは和歌・短歌の骨がらみ私性である。しかし、

  夕星(ゆふづつ)よあはれ星彦、とうたひいでし詩人プラトー少年を愛す

 と、斯樣(かやう)に客觀に徹してプラトン的エロスの佳景を顯現させた人もあつた。因みに、詠者は昭和隨一の閨秀歌人葛原妙子である。
                             
     週刊朝日百科《世界の文学》90「エロスの誘惑」
     朝日新聞社週刊朝日百科《世界の文学》90:2001年4月15日 發行

レニエよ甦れ――レニエと明治大正の作家たち

 

 歐羅巴の十九世紀末、遠い異邦の百數十年前のこととなると聊か杳(はるか)な思ひに捉はれるものの、其處に日本人の姿を見かけるとき、其の景色が一擧に身近なものと觀ぜられてくる。たとへばルートヴィヒⅡ世がシュタルンベルク湖に於いて謎の死を遂げた當日、ほど遠からぬミュンヘンの酒鋪では森鴎外が杯を傾けてゐた。オスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』が刊行された頃、夏目漱石は倫敦に留學中であつた。十九世紀末の佛蘭西に輩出した多士濟々の作家の中で、私がまづアンリ・ド・レニエに關心を持つたのも、其處に日本の詩人が介在したからであつた。

 ☆君とゆくノオトル・ダムの塔ばかり薄桃色にのこる夕ぐれ

 これは、與謝野晶子が巴里で詠んだ歌である。已に廿世紀を迎へてゐたが、一九一一年(明治四十四年)の末、晶子は、『明星』廢刊後名聲が下降氣味であつた夫與謝野寬の再起を願つて巴里遊學に送り出すが、思慕の念抑へ難く、翌年自らも巴里へ赴き五ヶ月ほど滯在した。一九一二年六月十八日、夫妻はレニエとロダンを訪ねてゐる。

 歸國後晶子が發表した「ロダン翁に逢つた日」と題する一文に「その日は、今から思ふと私の一生に記念の深い吉日で、午前にはフランス現代詩人の雄であるアンリイ・ド・レニエ氏を訪ねて、氏の書齋でお話を聞くことができました。有名な女詩人で、氏の夫人であるゼラアル・ド・ウ・ウヴュ女史にもお目にかゝりました。」といふ一節がある。寬にも會見の印象を綴つた文章がある。其の折、晶子は刊行したばかりの『新譯源氏物語』を獻呈したといふが(おそらく全四巻の内の一、二巻)、此の本は中澤弘光の極彩木版刷插畫を入れた菊判天金の豪華なものであつたから、造本の美しさはレニエにも感受されたに違ひない。因みに巴里では十九世紀末以來日本趣味が受容されてゐた。夫妻はレニエよりも彫刻家のロダンに親近感を抱いた如くにて、其の後、彼らの著作活動の上にレニエとの會見が何らかの影響を及ぼしてゐる樣子は認められない。

 レニエの作品を初めて邦譯したのは、詩篇散文ともに佛文學専攻の徒ではなかつたやうである。詩篇は英文學者上田敏が『明星』に譯出し『海潮音』(1905年)に収めた三篇が嚆矢ではなからうか。小説は森鴎外ヴェネチアを舞台とする短篇『復讐』を『三田文學』(一九一三年)に譯出したのが最初かと思はれ、永井荷風がレニエの詩篇十篇(集中最多)を収める譯詩集『珊瑚集』を刊行したのも一九一三年(大正二年)のことである。一九一二年にレニエと見(まみ)えてゐる與謝野夫妻も含めて、此處に擧げた人たちの間には淺からぬ交遊があつた。すなはち彼らは『明星』『スバル』『三田文學』と續く系譜の央座を占める作家であり、其の交遊の折々には同時代を生きる異邦の作家アンリ・ド・レニエが話題にのぼつたといふことも有りうる――と、これは想像を逞しくすればの話である。稍(やゝ)時間は遲れるものの大正末年にレニエの長篇『燃え上る青春』を譯出し、未曾有の大譯詩集『月下の一群』にレニエの詩篇十篇を収めた堀口大學も與謝野夫妻の門弟であり、『三田文學』を通じて荷風に親炙した一人でもあつた。

 荷風は早く明治四十二年に「レニエの詩と小説」と題する一文を新聞に發表して其の作品を稱揚してをり、堀口大學の譯著『燃え上がる青春』に與へた序文(大正十二年十月)には「若し余をして現時海外著名の文學者の中(うち)最(もつとも)余の心醉するものを擧げしめんか。余は先(まづ)指をレニヱーに屈し此(これ)につぐアナトール・フランス並(ならび)にアンドレジードの二家を以てすべし。堀口君亦(また)よく之を知り其(その)外遊中レニヱーが新作の市に出るを見るや必ず一本を購つて郵寄せらる。歐州大亂の時吾國(わがくに)學藝の士皆舶載の新書を獲るに苦しみたり。然るに余は獨(ひとり)堀口君の海外に在るの故を以て愛好の新書を手にすること毫も太平の日に異らざるを得たり。レニヱーの著作の余に於けるや其(その)感化恰(あたかも)良師に見ゆるが如し。」といふ條(くだり)があつて、其の心醉ぶりが窺ひ得る。

 周知のやうに、死に瀕する水都ヴェネチアをこよなく愛したレニエは過去を歌ひ過去に分け入り、其の幻影にどつぷりと身を涵(ひた)す體(てい)の作家である。其の心理小説には何憚るところなく愛慾の世界が描き出され、それは決して猥雜に墮ちることはないが、道徳不在と申し得るまでに一種隱鬱なる悦樂が追求されてゐる。レニエ自身がさる批評家に「小説は個人的快樂のためにしか書かぬ」と語つたさうである。明治の文明開化を嫌惡した荷風には、レニエのすべてが意に適つたに違ひない。所謂道徳を顧みず個人的快樂に徹するといふ點でも二人の志向は共通してゐるかの如くである。然しながら荷風の小説はレニエの描き出す世界とは殆ど似てゐない。レニエを可(よし)とする見方もあれば、荷風に荷擔するむきもあらうが、私などは荷風に同情を持てない。荷風の場合、現代に對する嫌惡感が強い分だけ文明批評が露骨になり、時として淺薄な觀さへ呈する。そして、決定的な相違は、レニエが過去に分け入る際に獲得する〈幻想文學風〉の妙趣とでも申すべきものが、荷風には微塵も認められぬことであらう。

 私はレニエの長篇小説の中では『生きてゐる過去』を最も愛するものであるが、此の作品に展開される過去と現在の交響から比類なき美的至福を享受する。このたび初めて讀み得た初期短篇集『碧玉の杖』収録の「アメルクール卿」の連作の中に「そのとき私は性愛の雅致と美の喜悦を理解した」といふ一行を見出(みいだ)し、恰もレニエの小説の讀後感を言ひ表したかのやうな趣があつて感慨を覺えた。また、同じく集中の「戸棚でみつかつた手稿」の終章、孔雀の翅の〈眼状斑〉の由來を捏造した條の美しさに更(あらた)めてレニエといふ作家の凜質を知らされた思ひがする。

 上田敏、與謝野夫妻、森鴎外永井荷風堀口大學……錚々たる作家たちによつて紹介されながら、レニエは日本ではさほど讀まれなかつた。如上の作家たちよりも、たとへば郷里の水郷柳川を異邦人のやうな新鮮な眼で捉へて歌つた北原白秋とか、殉情を以て念ずる幻影を引き寄せて書き留め得た泉鏡花などの方が、レニエにより近似した作家と思はぬでもないが、緻密に讀み比べるならば白秋や鏡花のよろしさはやはり質(たち)を異にするものであり、當然のことながらレニエ寫しの日本人作家などは見當らない。堀口先生亡きあと、レニエに言及して下さる方は一人窪田般彌氏のみである。其の昔、鴎外や杢太郎によつて紹介された世紀末墺太利オーストリア)の作家ホーフマンスタールが近年再た讀まれるやうになつた例もあり、レニエにも左樣な復權の時が訪れるべきかと思ふ。このたびの『碧玉の杖』刊行が其の契機とならんことを願つてやまない。(一九八四年五月《フランス世紀末文学叢書》3  月報)