マーブルブルーム

 

美しいほうの夢に触れられている。夢の前では肉体は些細なこと、衣服はもっと微々たること。それでも美しいほうの夢にも肉体があって、伸びてきたその腕が私の胸板を撫でるように滑った。肩や鎖骨といった硬いものを避けて乳房に触れる。当然のこと、皮膜が破れてしまっては危ないから。美しいほうの夢は周到に危険を避けるため、神経を澄ませているようだった。誰にも自分を守らせないための仕草なのかもしれない。他人に触れられたら濁るというのは美しさの性質のひとつで、だから自ら触れにゆく。美しさを守ろうとして迂闊に触れては破壊して、凡庸なかたちに落とす罪人たち。あの群れに混ざりたくなくて自分の手を握っていた。触れないために、触れられるために。


あなたに触れると肌が解けて血が混ざるような気がした。汚いものがたくさん混ざった血。その綺麗な血とざらざら交換して濃度の差が少し埋まる、息がしやすくなる。同じ分だけあなたの高潔さにも不純なものが混ざって、やっぱり息がしやすくなるはずだ。そう、そんな隅にいる必要はなくて、誰かに野次を飛ばされても汚物を吐きかけられても堂々と中心を歩けばいい。汚れようとも落ちぶれることはないことを私は知っている。高潔であること。そうだね、理想、理想は素晴らしいでも理想でしかない。道を歩きやすく均すよりもどんな道でも背骨を伸ばすように調節するほうが簡単だよ。あなたにそれを伝えたくって血を混ぜる。そのために少しでも肌が薄いところがよくて。


美しいほうの夢が必ずしも明るい夢とは限らない。哀しくてやりきれない、地獄のような怒り、この世ならざるおぞましいものの宴の夜。明るい感情を微塵も持てない中、それでも美しいと感じる器官を持っている。どんな内容にせ美しい、美しさ以外の指標ではうまく計測ができない。自分の指先を握り続ける私の指先に触れてくる、触れ返してこないかを確かめているように感じられた。ゆっくり指先をほぐされて、手のひらまで深く触れられてしまうのは時間の問題だった。呼吸が伝う、上下する気配。静謐で獰猛。もっと下品な言葉もよく似合う。美しさは内包するたくさんのものたちで白濁していた、それでも純度が高いのだ。まだもっとたくさん飲めるよと言う。
驟雨のなかパーカーを被って手ぶらで出かけた日、思いがけずたくさん水を飲んだパーカーは色を深く鮮やかにしていて美しいと思った。その晩私は風邪を引いた。


あなたの見ている夢を肌が吸い上げる、触れた端から伝って流れてくるよ。それがまたこの血になってあなたの夢に少し近くなる。尽きることのない夢だ、何度も触れてきたけれどまだ新鮮に豊かで、これは尽きないものだってぴんときた。そんなにあるなら少し分けて欲しくって、レートもわからないまま交換し続けている。つまり自分も何かを渡しているはずなのにそれが何かはわからない。あなたの肌の内側で起きていることをまるで想像できない、あなたみたいに澄まして生きてこなかった血だから。あなたはみんなと高さの違う足場、一段高いのか低いのか、とにかくただ他の誰とも違うところにいて、そこから目線を寄越してくる。真新しい新雪にはしゃいで飛び出したりせず佇み続けている。真新しい雪を踏みたくて転々とした私の足元はただ酷くぬかるんで悪い春。
気圧線の隙間に挟まっていた薄い肩を見つけた雪の日、最初は小雨だったのにと呟くあなたは鼻声だった。一晩で世界の色が変わると窓の外とあなたが教えた。


私の頬を撫でながら、顔にほくろがあるんだねと美しいほうの夢が鳴った。左の泣きぼくろを指でつつく。ねえ知ってる、写真撮るときって左顔を向けたほうが写りがいいらしいよ。
知っていた、知っていてこうした。ピアスも左側に寄せた、これでようやく左右のバランスが取れるはずなのだ。


ああ、これ。あなたの目線の先にあったのは私の左胸のほくろだった。さっき頬をつついた手を少しずらして、次は胸元のほくろに触れた。お揃いみたいだよね、同じ位置にあるし。もっと言うならこれ以外に私たちの接点はないように思えた。

「お揃いだって感じはしない、同じものって感じがする」
「シェアってこと?」

美しいほうの夢の身体に空いた黒い点に根が生えていて、それを辿ると私のほくろと繋がっている様子を思った。うん、同じものという感じがする。美しいほうの夢はたまたま美しいほうの夢で、それが私でも別によかった。

「なんか前世や魂がどう言われてるんだって」
「前世で何だったかによるよね」
「他人の可能性もあるしね」

今もだよ、と言いかけて飲み込んだ。あなたは他人でなくてはいけなかった、そうでないと何も交換できない。本当に同じ人間になってしまったら、倍に膨れた血の袋を肉に詰めて路頭に暮れてしまうだろう。そのうちに巡りが悪くなって腐って終わる。

「つまりあなたが他人だった場合とそうでなかった場合があるんだ」
「いまはどっちだろうね」

聞いてから別に興味がないことに気づいた。このほくろを深く伝ってゆけば同じ根に辿り着くことを確信していたから、この問いも肉体同様に些細なことだ。ひとつの根が割れて、美しいほうの夢と私がある。美しいほうの夢は私ではない、私ではないほうの美しい夢。そんなふうに考えをぱちんぱちんと転がして遊んでいた。ひたすら大きい世界で呼吸がままならない、酸素が足りないから曖昧なことを考える。

「どっちでもいいよね」

あなたは目眩を起こしているようだった。深い眼をして潜ってゆくことで頭を固定しているみたいに見えた。あなたのほくろが最近できたものならいいのに、と思う。前世も魂も関係ない、今を生きる私が今を生きるあなたに蒔いた種。血を混ぜているのだからそれくらいの情報がこっそり書き写されていても不思議はないのに。

「同じものがあるってことに変わりはないしね」

自分で言ってくらくらする。根を同じくするこの黒い芽が左胸で芽吹いているのが今なら、未来ではもっと育って違う何かになるだろうか。例えば、花は咲くだろうか。美しいほうの夢に咲く花と私の花はどう違うのだろう、それとも同じ花になるのか。どちらにせ咽せ返る香りのする話だ。いつかこうなるように、既に種は撒かれていた。このおぞましさは、きちんと美しい?

「大袈裟な話すぎて、なんかよくわからないや」

あなたの胸に触れ続けている手のひらには脈打つ感覚が伝わってきていて、さっきよりも早い気がする。果てしないものの前にひとは無力だから小さい話にまとめて片付けようとしたらそんな言葉が出た。
もう遅いよと俯いたあなたが言う、「そんな風に看過できないよ」。
あ、目線が同じ高さになった。
新雪を踏むようにゆっくりと同じ足場に乗り移ってきたあなたは、背筋の傾斜を整えながらようやくこっちを向く。あんなにずっと高潔でいたのに黒い交点ひとつで血の行き交う量が途端に増えてしまって、汚いものを含んだ血があなたの脳の深くまで到達したのかもしれない。ということは同じだけこちらにも流れ込んできているはずで、ねえ、もっと交換して遊ぼうよ。いまおもってるこというね、

「もう他人でいられないかもね」

突風。美しいほうの夢の言葉を真っ向から飲まされたのを、どうにか嚥下して頷く。違う色のリップが混ざって唇でむらになっていて、私たちが可視化されたようだった。そして、これからもっとむらになる。

 

 

:::

 

 

あるイラストに寄せて。

wasted love

 

浅い角度に焦点を合わせている、そこにあるのは空間だけで見るべきものはないように思えた。緩く浅く呼吸するあなたの上下する胸に耳を寄せる。心臓の音がうるさくて肺胞の伸縮する音は聞こえなかった。少し開いた口に唇をつけて、じゅっと空気を吸い上げる。肺から肺に最短距離で収めて、そうやって俺のなかがあなたに置き換わるのを期待した。死んでゆく細胞が生まれた細胞に語り継いで新陳代謝をする、覚えたり忘れたりするのは脳ではなくて細胞の仕事。初めてキスをしたように感じたのは伝言ゲームの過程で生じた齟齬のせいだ。圧縮機のように吸い出し続けてみたいと思う、根こそぎ奪ったからくったりして動かない。知らない空気を吸うくらいなら俺の血液を飲んでよ。ほとんど残っていない口紅を舐めとってからまた唇をつけて次は息を送り込む。俺の血液を濾して集めたんだよ、どんな味がするの、苦しいなら光合成してみせて。全部口移しであげる、なんでもあげるから一回空になってよ。丁寧に潰してあげる、畳んであげるから。

あなたはこほこほと咳をして俺の血液を押し出してしまう。まだここを見てくれない。愛していると囁いたら頷くから何度でも試みる。手を繋いで没頭する行為に昼も夜も掻き消えた、次はできるといつだって本気だから続けつづける。過多も余剰も無駄もない。高めた濃度でその他が薄くなり始める。最初の呼吸で壊れた肺を開いて見せた日から総ての細胞が望み続けている。奪って与えてやまないさめない。

この密室でひと知れず俺たちは完成に到達する。

逃げ砂糖水

睦子が文庫本を繰る音が清潔に響く部屋にて、私はといえばペディキュアが乾かないので暇だった。動くとすぐに傷をつけてしまうため、爪先まで細心の注意を払ったまま体育座りをするほかない。表紙を覗こうと彼女の手元に目線を向けたけれど、長い指で覆われていて何も読み取れなかった。


「何してるの」
「夏」
「動詞で答えてよお」
「読書」
「名詞では」
「さあ」


本を閉じる音がして、彼女の足裏が畳を滑るざらついた音が続いた。

八月に生まれたたくさんの光たちは私からも彼女からも遠く離れている気がする。そのくせ、汚れに布を当てて叩き出す染みのように憧憬を確実に浮かび上がらせてくる。
目を閉じるといつでも海が見えるの、睦子が嘯いた。彼女の瞼の裏に飛び回っているのは無数の星と波形であることを知っている、でもそれを加工して海だってなんだって作れるのだろう。それを錬金術と呼ぼうとして、でも照れくさくてやめてしまう。


「ね、何か聴かせてよ」
「何もないわよ」


正方形の講堂があるならそこで大きい音を出してみたい、時差を帯びたひどい反響音で全身を貫かれて銃撃戦のあとみたいにふたりで死ねたらきっと楽しいね。身勝手に思っていることをちゃんと自覚している、彼女なら一蹴するだろうって知っている。
でもこの部屋ならもっと丸くてちゃんと身体に優しい音で聴けるだろうから、ねえ何か聴かせてよ。そこにラジオがあるって知ってるよ、アンテナ伸ばしてよ、いま動けないから取ってよ。
今日も低血圧で怠そうな睦子は眉を顰める、でもそこにさしたる感情はなくてただの癖。押入れの上段に腰かけているラジカセを足元に降ろしてくれて、少し考える素振りをする。


「充分うるさくないですか」
「ああ、虫とか」
「それもだし、他にもいろいろ」


彼女には何が聴こえているというのでしょうね。温められた土が体積を歪める音、逃げ場を失ったみみずの身体から水分が抜ける音、流星がトタン屋根にぶつかる音、夜半の草木が呼吸する音、ペディキュアの端が剥がれる音。その他些細なものに至るまで、総ての現象を睦子は感知し切り分けて捉えることができるのだと、疑問をさしはさむ余地もなく事実として受け入れていた。なぜだろうか、当然のように。あるいはこれは、彼女には総ての現象を感知していて欲しいという願いなのかもしれない。
最高感度のアンテナで受信し続けて、溜め込んだら一気に反転して放出する。不健康にしか見えない彼女から放たれるエネルギーの圧は何よりも強く、誰もを均等に潰してゆく。いつも隣で見てきた景色。彼女が口を開くたびに世界の綻びは可視化されて、もはや彼女が綻びを作っているとさえ感じられた。

その口に差し込むためにと持参した水色のアイスキャンディーは、二三口齧ったところで気を惹く力を失ったようで、コップに突っ込まれたまま放置されたためにすっかり砂糖水となっている。
透明な水を飲もうとしたのだろう睦子は、そのグラスを取りかけてやめた。カロリー摂りなよ、いつか死んでしまうよ、まあ私もいつか死んでしまうけれど。どうせなら同じ講堂で殉職しようよ。私たちには時間しかなく、時間は有限だ。従って何もないと言い換えてもいいのかもしれなくて、彼女から放たれたものが身体中に突き刺さって死ぬのは若い自分には似合いの仕舞いかたに思えた。

グラスを通り過ぎた手先はそのままラジカセへと着地して、ボタンを押し込む音がした。かちゃん、カセットの回る音。睦子が立ち上がる。
流れ出さない音楽と、ああ何も録音されていないのか。ざらざらした時間に混ざる気泡のようなぷちぷちしたノイズ。


ソーダ水になればいいのにね」


砂糖水をシンクに流しながら彼女は言う。半渇きのペディキュアにノイズが積もって細かい傷がついていた。錬金術で練り直されたい骨たちが軋む音が身体に響く。部屋いっぱいのソーダに溺れたいな。ケミカルチェリーの心を抱いて、私は排水溝に引っかかる。

習作

君はどうして僕の夢から這い出てきたの、夢は夢のままでって思っていたのにそんな風に登場されたら敵わない。それなら実態を伴って見せて、ガラスの煌めき、遠くの声が蝉の求愛、君は誰より素敵なにんげん、アンドロイドみたいでとっても愛しい。何度も何度も殴打して繰り返すたびに嘔吐して辿りつけなくて音速よりもっと先の話をしている。不自然で不親切で不透明な音楽みたいな僕らの関係性。水に触れば溶け出す丁寧な紙。何かの花と同じ色だと言ってたけれど肝心の花の名前が思い出せない。そういうことを許さないで欲しいのに慈しむように微笑むから君と僕はふたりのままで、もちろんひとつになりたいわけじゃないのに、それでも輪郭線を淋しく感じるのはどういう浅ましさだと言うの。いっそ水溜りに落ちてしまえば線条だって絡まるかもしれない。そうして絡まって柔らかく解れて、静かに見失う未来。死ぬまで愛してあげたから、死ぬまでには消えて欲しい。僕、ここにいる、花の名前が思い出せない。適当な花を千切って水に浮かべた。花も羽も大差ないなと欠伸をしたって終わらない、殴打殴打の蝉の音、分け合って口付けた逃げ水。

君の眼


君が何を見ているか僕はついぞ最後まで理解することができなかった。途中からは諦めていたということもあるし、君は理解を求めてはいなかった、少なくとも僕にはそんな風に見えた。


その眼は気儘に情念を燃やし、ぬらぬらと炎を揺らし続けた。鎮火したらいいのにと思ったことさえある、でもとにかく燃え続けた。何を燃料に燃えているのかと触ろうとして手を引っ込める。君に触れること、君に僕が干渉してしまうこと、それは堪え難いことだ。万が一にでも、僕なんかのせいでその眼が腐り落ちようものなら、僕は自分を恨んでも恨みきれないだろう。この眼をふたつ抉ったとて全然足りない。


僕は君と言葉を交わしたことがない。なぜなら君は、酷く残忍に眼を細めているから。ナイフを渡したら、きっと造作もなくその兎の一羽や二羽くらい屠るだろう。眼の色ひとつ変えないで行われるであろうそれに思いを馳せると、僕は少しだけ心が軽くなった。しかもだ、あろうことに、傲慢なことに、僕はそれが君の本性なんじゃないかとすら感じていたのだ。兎の耳を切っては血に塗れている君。瞼の奥で思い描く。ああ、やっぱり笑っているもの。そういう暴力を強く望みながら、君は退屈そうに情念を燃やす。瞳に映った世界を燃やす。


君の眼球が僕の姿を反射させたことは、あるのだろうか。
僕も、君に、燃やされたことが、あっただろうか。柔らかな髪の毛、君の見ている世界に君はいない。鏡に映っている?それは、だって、君が見たいものじゃないだろう。


君が何を見ているのか知りたくて、同じ方角を向いたりしたけれど、僕の眼はそんな風には光らなかった。だから、理解できなかった。
でも、最後まで理解できなかった。
最後まで。
最後まで、僕は、諦めながらも理解を試みていたのだ。
君はある日忽然と消えた。僕が最後に見た君の姿は、やっぱりいつも通り、鋭く光る眼をふたつはめ込んだ顔を首の上に乗せていた。


ここにはもう君の痕跡は残っていない。
叩きつけられ踏みつけられた肉の塊と、汚く悪臭を放つ二枚の細長い何かが残されているだけだ。あとは血痕。だからたぶん、あれは兎の動体と切断された耳。


最後に酷く非人道的なことをしたね、僕は耳をつまみ上げようとしゃがみ込んだけれど、気持ち悪い亡骸に触れる気になれずにまた立ち上がる。


誰が君にナイフを渡したのだろう。
あれ、もしかしてそれは、僕だったっけ。


君を導く兎はもういないからさ、君は、どんなに憎くてもそれを惨殺してはいけなかったんだ。だから、いま、君はここにいない。
でも、君が暴力する瞬間を、その眼の色を、見たかった。何を燃料にどんな風に一際燃え上がったのだろう。あるいは本当に眼の色ひとつ変わらなかったのだろうか。見たかった、見たかった見たかった。


でも、とにかく君はもういない。新しい兎を探しに行ったのなら、ここに戻ってくることもないだろう。


僕は残念に思って、でも最後まで君の世界を脅かさずに済んだことにほっとした。終幕はこんな風にそよそよと訪れるものなのだもの。
突然、首筋にひたりと冷たいものが当てられて、振り向くこともできずに固まる。



「兎は手足が短いのよ」



初めて聞く声だったが、僕にはきちんとそれが君だとわかった。
ナイフ、のように冷たい君の指がそっと首から解かれる。僕は振り向いた。君はやっぱりぬらぬらと燃える眼を少し眇めて、僕を見た。
僕を。


君の世界に僕がいる。



「兎は私を抱き締めないけど、それくらいの長さがあれば足りるんじゃない」



瞳のなかで僕をうらうらと燃やしながら言った。僕は、ああ、君の燃える情念の、燃料の一端に、いま、触れてしまった。その炎が鎮火することはないと悟ってしまった。


君を抱き締めることなんて、兎じゃなくたって、こんな風に手足が長くたって、不可能だろう。僕の手足が燃えてゆく、君のなかで確実に。僕のなかで燻っていた炎が貰い火をして大きく大きく膨れ上がる。そしてやっぱり末端から燃え落ちてゆく。


僕は君の兎になる。心から安心した、よかった、僕は君の美しい瞳の色を濁らせてしまうことはおろか、干渉することもなかったのだ。


最後まで、君の眼が何を見ているか理解できなかった。ただ、一瞬だけだとしても僕が映ったことがあるのを、知っている。


そして、僕が最後に見たのは君だった。



:::



ある絵描きの誕生日なので、その方の絵によせて。

スウィング

別にどうってことないの、ののこちゃんはブランコを蹴る。僕はピアノを弾き続ける。左手がひっきりなしに2オクターブ違いの音を乱打する曲だったが、僕の親指と小指は正確に位置を捉え続けた。


「ロマン派がいい」
「ののこちゃんはそればかり」
「きりくんが訳のわからないものばかり打鍵するから」
「まったく訳がわからない曲ばかりだ」
「たまには間違えなよ」
「確かに」


僕はののこちゃんの方を見る。右手は単調なメロディを繰り返し続けるように調節して、左手にはもう意識を払わない。さあ飛びまわれ。その低音をどうにか打ち続けて、不格好な不協和音を鳴らしたらおしまいにしよう。


「よそ見をしてもいいかな」
「してるじゃない」
「部屋って狭いね」
「見尽くすまでには結構あると思うけど」
「例えば?」
「ブランコの金具とか」
「ブランコの金具」
「高い天井とか」
「高い天井」


この梁で首を吊ったご先祖様もいたらしいよ、と思い出したことを僕は口にする。ふうん、とののこちゃんは相槌を打った。金具は手入れしたばかりなのだろう、軋むことなく滑らかにスウィングし続ける。

もっと肩を揺らして弾いたほうがいい。
スウィング、スウィング、軽やかに揺れてリズムリズムに乗ってどこまでもゆく、刻んでゆく。その心地よい程度の振れ幅は、機械に打ち込むよりも弾けるひとが弾いて演奏したほうが早いんだろうなって僕は昔から思っていた。肩を使う、しなやかに跳ねる。そして親指と人差し指でまた、正しい音を、捉える。まだ、正しい音を、捉え続けている。


「ののこちゃん」
「なあに」
「ブランコって、楽しい?」
「楽しいわよ」
「僕の左手と似てるなって、思っただけ」
「きりくん」
「なあに」
「ピアノって、楽しい?」
「よくわからないけど、気持ちいい」


それはいいね、と彼女はからから笑いながら、楽しいけど気持ちのよくないことをいくつか教えてくれる。蝉の羽をもぎ続けること、熱湯のなかで長く潜ること、首を絞めて酸素の供給を止めること、それに近しいいくつかのこと。


「あと、仕分けしづらいのがひとつあって」
「うん」
「誰かが首を吊ったブランコで遊ぶこと」
「ああ、遺言だったんだって」


左手が飛び回る。早く間違えろ、と僕は思い出す。右手は決められたメロディに飽きてしまって、何か適当に爪弾いてる。


「愉快なひとだったのでしょうね」
「もしくはジョークが好きか、どちらかだ」
「じゃあ楽しいことでいいのね」
「ののこちゃんって単純だなあ」
「誰かの左手みたいに?」
「ちょっとしたゲームをしているんだよ」


流星みたいに素早く動いても、それはちっとも光らない。綺麗に消えてゆかずに反復をし続ける。慰めるような高音が単調な作業を間違わない僕を慰めてくれた。僕は鍵盤から目を逸らし続ける。目の前の僕の正しさを、僕は、認めたくないと思った。


「きりくん、目を瞑って」
「どうして」
「そろそろ見尽くしたかなって思ったから」
「そんな気もする」
「見えるもの、まだあるかもよ」
「ないよ」
「私には見えるよ」


ひゅっと風を切ってののこちゃんのブランコは揺れる、スウィングする。僕の肩よりずっと軽やかに。目を閉じて三半規管がおかしくならないのか、それとも目を閉じたほうがましなんだろうか。
目を閉じる。
左手は行き来し、右手は申し訳程度に何かを演奏し、風を切る音がし、暗闇によぎるものを待つ。


「きりくんには見えないかしら」
「音がする、ブランコの音」
「それは聞こえないけど、私には流れ星が見えるよ」
「流れ星は行き来しない」
「行き来するものなんてひとつもないもの」
「まさか」


これが行き来じゃないのなら、反復運動ではないというのなら、僕はなぜ正しく鍵盤を打ち続けることができるというのだろう。


「ブランコは少しずつ違う位置で落下し始めるし、音はどこかへ消えてゆく」
「消えた分をまた弾いている」
「上塗りは、じゃあ違うものだよ」
「それなら僕らはいま何をしているっていうの」
「反復でない以上、ゆっくり落ちるかゆっくり上がるか、でしょうね」


真っ暗な視界いっぱいに低音が広がる、それは紺色の濃淡を伴って見えた。寄せては返す紺色の嵐がすぎるのを待つ右手の、ささやかな高音。


「きりくんのピアノは安心する」
「ロマン派じゃなくても」
「それ、ジャズじゃないの」
「まさか」
「教えてあげるそれはジャズっていうのよ」
「でたらめだ」
「きりくんは、自分で、ジャズを発明した」
「大袈裟だ」
「だってこんなに流れ星が見える」


きりくんは気づいていないだけ、とののこちゃんの声が近づいて遠ざかって。
同じ音を弾き続けているわけじゃないのよ、あなたの指は瞬間瞬間、その音を選び続けている。しかも正しく選び抜いた鍵盤に触れる力がある。それってとっても豊かなことだよ。

本当にそうだろうか、と思った。
僕は自分の意志で、この厄介な低音を弾き続けている。確かに、それは確かにそうだけれど。間違えてくれることを望んでいる、こんなに望みながら、僕は間違えずにいる。


「きりくん、もっと揺れて」


スウィング、スウィング。きらめいている、あとは艶だけ。スウィングして、もっと揺れて、揺らして。選び続けて、選び抜き続けて、左手もだし右手もだよ。でたらめで大袈裟でいいから、もっと揺らしてみせてよ。

僕は深呼吸をする。右手に大ジャンプをさせようと思って、正しく着地できるかを考え、考えなかった。肩の揺れに任せて飛ばしたらきちんと小指は欲しかった音を掴んだ。そのまま下ってゆく。五本の指が踊り始めて、それを支えるのは単調な左手で、きちんと選んで触れ続ける。


「あ」
「どうしたの」
「いまから鳴るよ」
「なにが」


不協和音が。

目を見開く。
左手は叩きたかった鍵の隣を勢い良く弾いた。数分間繰り返し続けた運動が終わって、そういえばくたびれた左手を残して右手が音階を下りきってゆく。


「わかるものなんだね」
「違うって思ったから」
「それは、選んだのじゃなくて」
「どうだか」
「疲れたんでしょう」
「飽きちゃったのかも」


即興演奏にも満たないただのゲームが終わる。不協和音を伴って。


「ゆっくり落ちるのと上がるのと、どっちがいいのかな」
「どうせなら落ちてみれば」
「どうして」
「だって落ちたら上がるだけだし」
「ねえそれ、ブランコの話でしょ」
「バレちゃった」


ののこちゃんは床に着地する。空気中に溶けた不協和音を散らしているみたいだと思った。

もう一度目を閉じてみると、瞼の裏に何か焼きついたものが線状の痕が残っていて、僕にも流れ星が見えていたことにようやく気づいた。

また、ジャズを聴かせてね。
口約束を交わして僕らはティーカップに口をつける。

青成り

繰り返す夏にどんな意味があるのかと問われたところで、私は困るばかりなので、質問の意図を問いなおす。質問で返されてたじろいでいる葉子が滑稽だった。


「睦子は暑さに弱い」
「ああ、滅びればいいと思います」
「でも夏は好きなんでしょ」


なつ、ナツ、夏。声に出してみる。その響きを舌で転がすと飴玉をなめているような気分になった。
葉子は少し首をひねって、よくわからないなあと呟く。わからないと言われても、自分でもどうしてこうなのか説明できないのだった。


「暑さに弱いのに、夏が好き、ねえ」
「葉子さんは急所……そうですね、こめかみ。こめかみを突かれたら脳震盪を起こす可能性が高い、つまり弱点です。さて、ではこめかみを嫌いますか」
「いや」
「同じことですよ」
「わからないですよ」
「わかってくださいよ」
「弱点だから嫌いとは限らないって言いたいんでしょ」
「理解しているじゃないの」
「慣れた」


私が丁寧に説明したからだ、と言い放っても良かった。でも、別に言わなくてもよかった。

光化学スモッグ注意報の警報が鳴っている。
葉子はそれを気に留めたこともなかったというが、私はあれで具合が悪くなったことがあるから過敏になっているらしく、この耳は注意報をきちんと捕らえた。
ガラスを一枚隔てたあちらの景色が向こう見渡す限りきらきらきらきらむやみに反射している。光化学スモッグの発生している世界。その仕組みを化学の授業は教えてくれない。

積乱雲と入道雲が同じものを指すことくらい、葉子だって知っている。空の高いところに発生する夏に特有の雲。
夏。夏。焦る。飛び出さなくちゃいけない、そんな気がしてくる。

夏よ、葉子。どこへ行こう。葉子は軽やかな生地で出来た夏服の腹の部分をそっと浮かせて、暑い暑いと言いながらパタパタと下敷きで風を送り込んでいた。


「睦子、今年はどこかへ行く?」
「涼しいところがいい」
「避暑地で高山病になるの誰だ」
「私ですけど」
「あ、あなたですけど」


私の兄は虚弱体質だった。光化学スモッグに弱いのはもちろん、三半規管がとにかく弱くて、気圧の変化に弱い上に音楽を長い間聴いていられないらしい。父は低俗なテレビ番組を酷く嫌っていたので滅多に電源を入れなかった。あの家は新聞を捲る音で満たされていた。

家を出て気づいたのは、新聞がないと家は酷く静かだということで、仕方がないので葉子を招き入れたら今度はうるさすぎた。特に自分の声が。
一度うるさく聞こえた声は、家を出てもやけに耳について、喋るのがほとほと嫌になってしまう。


夏の空は高いので、私たちの声だって遠いところに向かって抜けてゆくはずだと、信じていた。
あの青い青いところに吸われてゆくどうでもいい雑談を思う。くだらない冗談が青く染まってゆく想像をすると手を伸ばしたくなった、憧れてしまう。焦がれてしまう。夏、コンクリート、焦げつく私たち。
私、たち?葉子も一緒に?


「8月は葉月じゃないですか」
「9月は長月っていう、あれですか」
「あら、知ってた」
「古文でやったからね」
「葉子は、半分、葉月だね」


へ、と素っ頓狂な顔で聞き返す。葉っぱの月と書いて葉月だから、と解説をしようかどうか悩んでいる間に葉子は合点がいったらしく、ははあと誇らしげな顔を向けた。


「それはねえ、ふふ、そうだね」
「でも葉子は8月生まれじゃない」
「睦子だって1月生まれじゃない」
「ねえ、全部言える?」
「睦月、如月、弥生、皐月」
「卯月が抜けた」
「うん、4月がないなって思ったところだったんだよね」


8月を背負わされたような葉子と、1月を背負わされたような私と、翻るスカートと。注意報の解除はまだかしらん、じゃないと下校もままならない。でももうすぐ閉門時間が訪れる、夕方、涼しくなってくる時間のはずだ。


「ねえ葉子」
「なあに」
「夏のこと、あんまり好きじゃないんですよ」
「嘘を」
「じゃあ、葉子はこめかみのことを愛していますか、好きだと言えますか……や、これは詭弁に過ぎますね」
「おや、弱気だ」
「太陽が低い位置に来ると目に痛い」


そうだねえ、視線を窓の外に向けたまま、葉子はスクールバッグの中からペットボトルを取り出す。もう飲み干して空になっていることに気づいて、あら、という顔をした。

夏休みにまでわざわざ校舎に来たのは印刷機を自由に使えるからだった。逆に言うと他の理由はない。とっくにここを帰る準備ならできている。


「睦子、暑いね」
「夏」
「なつ」
「夏」
「死にそうな顔してていいよ」
「心外な」


でも、いいよ。葉子は微笑む。サディストかしら。


「もしかして、殺してみたいんですか」
「まさか」
「私も嫌です」
「殺されないでね」
「夏にですか」
「ああ、あああ、サイレンがうるさい」
「だからいつだってサイレンの音はしているって」
「夏になるとさあ、サイレンの音が」
「前も言ってたけど、それ、頭の病気ですか」


甘い非難を込めてじっとこちらを見る様子が愉快だ。
彼女は自分の頭をノックするようにとんとんと叩いた。


「こめかみのこと、やっぱり愛せないかも」
「こめかみは頭じゃない」
「ざっくりと頭部ってことで」
「まあ、そうですね」
「だから」
「でもこめかみが病巣だなんて聞いたことない」
「確かに」


夏の青さがにんげんの身体をばらしてゆく。ゆっくり解体して、そうだ、あの青色に染めてくれないだろうか。あの青に酷く憧れ、思い焦がれ、アスファルトに焦げつく、黒い、染みと、染み。

てん、と小さく音がした。


「ア、土砂降り」


アスファルトに、黒い染みがちらほらとできたと思ったら、もう、葉子が口にした頃にはざあざあ降りで。


「雨宿りしなくちゃ」
「ここ屋内ですよ」
「わかってるけど、帰るとき」
「すぐ止むわ、通り雨だもの」
「下校時間までに止むかな」
「止むわよ」
「じゃあ、きっと止むんだね」
「勘ですけどね」
「え、根拠ないやつだ」


青空が遠のいていっても、土砂降りも含めて、どうして夏はこうも青いか。

海を見に行きたいと声に出してみたら、そうだねえと返事があった。
今年の夏も一緒に過ごすのだろうか。どうして別々の個体と一緒に過ごすことがあるのか今でもわからないけれど、葉子は結構便利だし、葉子も別に嫌がっていないようだから、いいかなと思う。彼女は、なんだか、好ましい。


「下校時間までに雨が止まなかったら」
「お」
「何か賭けてもいいですよ」
「じゃあ」
「ただし帰り道の飲み物はなしで」
「けちー」


この賭けに負けたら、海の家でかき氷くらい奢ってもいいかなと、ふとそんな風に思ったのだ。
甘くて嘘くさいべとべとのシロップを葉子はきっと好いているだろうし、私もあれは嫌いではないので、ちょうどいい。


結局、閉門のチャイムが鳴る前に雨が止んだので、賭けは呆気なく私が勝った。
海に行く約束は宙に浮いたまま、私たちは帰路につく。口実にもならない雨は、アスファルトを真っ黒に染めただけだった。


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「黒い踊り場/白い団地 - http://d.hatena.ne.jp/aas28/20140709」と同じ女の子。