漢字しりとり・その2

A:日本へ行きたくて、日本語を勉強しています。

B:日本語は本当にむずかしい。

A:当たり前ですよ。外国語だから。

B:前日習ったこともすぐ忘れてしまいます。

A:がんばりましょう。決意は日々新たなり。

B:新宿でラーメンが食べたいです。

A:その前に、宿題をやらなければ。

B:宿題の作文の題名は何ですか?

A:ウズベキスタン名物料理

B:理論的に書くんですか?

A:大丈夫。私は論理学を勉強しました。

B:どんな学校ですか?

A:校長先生がりっぱな人。

B:でも、あの先生はいつも長っ尻

A:この尻取りはいつまで続くの?

B:取り敢えず、ここまでにしましょうか。

A:敢えて言います、

A・B:(いっしょに)漢字は面白い!  

(B:(小声で)むずかしいけどね。)

 

 

 かんじ天国(「おさかな天国」替え歌)

かんじ・かんじ・かんじ、かんじを まなぶと

あたま・あたま・あたま、あたまが よくなる

さあさ、みんなで かんじを まなぼう

かんじは ぼくらを まっている

夢中偶成

 

魯鈍先生轉轉記 魯鈍先生 轉轉記

有人世界有良師 人ある世界には良師あり

寒山熱海爽高原 寒山 熱海 爽高原

又喜又哀生死理 又喜び又哀しむ 生死の理

 

 平仄は合ってないだろう。辞句を並べただけだから。

 寝ている間にこんなものができた。巧拙以前に(むろん拙であるが)、これでいろいろ推敲したから(踏む韻を変えてみたりして)、眠ってはおらず覚めていたのだと思うけれど、しかし起きたとき寝足りない感じはなかった。半睡半醒か。おもしろい体験だった。

「勝達いくみ遺稿集」あとがき

 遺稿を整理していたら、大量の手稿があった。当人や家族親族、地域の歴史を伝えるものとなるし、一周忌の供養にもなると思い、遺稿集としてまとめることにした。

 その中のノートにこんな詩を見つけた。

 

  新しき年 

一、ひとはみな 憩ひ楽しむ

 新しき 年の初めは

 毎年の ことゝは云へど

 寒き終日 机に向ひ

 冷える酒庫 ホースを運ぶ

 手は荒れて 爪も痛みぬ

 酒造りの 業の故か

 人はみな 楽しむ日なれど

 我のみは いよゝ忙がし

 

二、あらたまの 年の初めに

 追打ちを かけるが如く

 増税の 時期は迫れり

 報告の 書類はたまり

 売る酒の 在庫少なし

 綿のごと 体は疲れ

 眼底は 鈍く痛みて

 気のみぞ いよゝ嵩ぶる

 我のみは 何故か忙がし

 (昭和51年)

 

 いわゆる「ミドルエイジ・クライシス」であったのだろうか。それはちょうど句作や詩吟、漢詩を始めた時期とも重なる。同じノートにこんな句もある。

 

 不断着の まゝ元旦を 迎へけり

 

 また、詩作のごく初期に書いたと思われる次のような詩もあり、韻を踏んでいないから習作だろうが、そのころの著者の環境心境がうかがえる。

 

  偶成

 祖母長患余命僅 祖母は長く患いて 余命僅か

 母亦病弱視力衰 母も亦病弱にして 視力衰ふ

 晩春忽然慈父逝 晩春 忽然と慈父は逝き

 家業不振双肩重 家業振はず 双肩は重し

 (昭和51年)

 

 所収の「ロータリークラブでの卓話」に見えるように、研究者がおそらく天職であって、酒屋の主人には向いていなかったと思しい。だが、境遇のしからしめるところ、その仕事を全うすることとなった。悶々はあっただろうが、それを救ったのが漢詩作りであったと思われる。何かにつけ、ことあるごとに詩を詠み、詩友もできた。「悲しき玩具」ではないけれど、詩作を手のものにしてからはさまざまに遊んでいる。次韻や連環体のような伝統的なものから、漢俳、小唄や寮歌を漢詩にするなどの試み。遊ぶのは楽しく、遊んでいるのを見るのも楽しい。喜ばずにはいられない。

 さまざまなことを漢詩に詠んだけれども、なぜか妻についての詩はない。考えてみれば、それももっともだと思う。詩にするには対象との距離が必要だ。そんな距離は夫婦の間になかったのだ。妻の側からもそうだったのだろうと思う。そんな夫婦のあり方は、昔はごく当たり前でごく自然だったのに、現今いつの間にか失われていってしまっているのではなかろうか。そんな「自然な」夫婦の最後の世代だったのかもしれない。そのためでもあるまいが、一方の四十九日が他方の初七日であるような逝き方をしていった。「ホトトギス」の投稿句に二人の名前が並んでいるのを見るのは慰めである。

スピーチの採点なんてできるのか?

 この国のスピーチコンテストの季節が近づいてきた。一大イベントが迫るこの時期、実際のところスピーチの採点なんて本当にできるのかということは真剣に考えられていい。

 

 トーストマスターズでは、こんな項目に分けて審査採点するらしい(100点満点):

・内容 50点/スピーチの展開(構成、展開、支持材料)20・効果(目的達成度、聴衆の興 味と受容度)15・スピーチの価値(アイデア、論理、独自の考え方)15

・話し方 30点/身体表現(見た目、ボディランゲー ジ、スピーキングエリア) 10・声 (柔軟性、大きさ)10・態度(率直さ、自信、熱心さ)10

・言葉遣い 20点/適切さ(スピーチの目的と聴衆に合わせた適切な言葉)10・正確さ(文法、発音、言葉の選択)10

 

 国際交流基金では(30点満点):

1.言語力部門

 (1)発音(5点) ①母音・子音の発音 ②アクセント・イントネーション ③話す速さ・間の取り方
 (2)文法・語彙(5点) ①正しい文法や語彙の使用 ②スピーチに相応しい表現や語彙 ③さまざまな表現が使えているか(意図的に同じ語彙を繰り返す場合は除く)
2.内容

 (1)聞き手への意識(5点) ①聞き手の興味を引く内容か ②構成・展開的に分かりやすいか ③聞き手の背景知識を考慮しているか
 (2)内容の深さ・説得力(5点) ①主張がはっきりしているか ②主張の根拠が明確かつ十分か ③大学生らしい視野の広さや思考の深さが感じられるか
3.運用力・表現部門

 (1)プレゼンテーション力(5点) ①態度(姿勢・視線・顔の表情・声の大きさなど)は適切か ②視覚および聴覚的にアピール力があるか

(2)質疑応答(5点) ①正しく適切な日本語を用いているか ②質問に対する回答として十分かつ相応しい内容か ③積極的に理解してもらおうとしているか ④日本的な常識から外れることなく、友好的かつ自然な対話を成立させることに貢献しているか

 

 それぞれよく考えられていると思うし、「審査基準」そのものとして見る限り間然とするところないとも思う(餅の絵としてなら)。だが、問題は運用である。外国での日本語スピーチコンテストの審査員は多く「当て職」だ。日本人会会長とか日本の機関の所長とかが、その職務の一環として依頼され勤めることが多い。初めて外国人の日本語スピーチを聴くなんて人もいるだろう。何より、素人である。

 素人が悪いと言っているのではない。逆だ。日本語教育の素人こそ審査員であるべきだ。外の空気の導入、社会経験や一般常識こそが審査員の必須条件である。日本語教育ズレした面々がずらりと並んでいるなら、それはおぞましい風景だ。問題は、そんな素人がこういう細分化された審査項目を当日示され、審査するということである。ひとつのスピーチを聞いて、次のスピーチが始まるまでのわずかの時間に、訓練されたプロフェッショナルなどでは全然ない人がそんなに多くの項目を審査できるのか?

 体操やフィギュアスケートなどの採点競技の審判は、毎年研修を受けて訓練される。採点こそしないけれど、サッカーなどの競技の審判も同様だ。そうまでしても本当に公正な判定かいつも喧々諤々となるというのに、生まれて初めてスピーチ審査なんてものをする人にこんな細分評価を期待するのは、(こういう言い方をするなら)「ごっこ遊び」なんじゃないか、という疑いがある。

 ある大会で、審査員が協議して採点の合計で出た順位を入れ換えた、なんてことがあった。それでは何のための採点か、と思うが、しかし、1.採点尊重、それによるべきという妥当性のある思想に対し、2.審査員というものがいるのだから、その話し合いで決めてよい、採点合計は参考資料にすぎない、という考え方もありうる。審査員によって点が甘かったり辛かったりするし、重視するポイントが特異である審査員もいる。中には満点連発などという審査員もいるので、大多数の人がAよりBのほうがよかったと思っていても、集計してみるとその逆だった、などということは実際に起こる。そういう採点の不都合を防ぎたい、正したいと思うのは正当なことではある。ただし、話し合いということになると、声の大きい人、地位の高い人の意見が通りやすく、公正であるかについて疑問なしとはしえない。

 

 さらに言うと、「内容」なるものの審査は必要か。それにも大いに疑問を持っている。剽窃や盗作が横行しているこの時代に。今はインターネットというものがあって、そこからいろいろなアイデアのみならず、文章までも取ってくることができるのだ。大多数の学生は自分で考えたスピーチをしていると思うが、少なからぬ優秀な作文に盗用が疑われることはままある。

 NHKの弁論大会でのトルコ人学生のスピーチと同じ内容を島根県の地方都市のスピーチコンテストで聞いた。調べると、彼女のスピーチはネット上で見ることができるのだ。それを見て書いたに違いない。また、シベリア極東大会で優勝したイルクーツクの学生のスピーチと酷似したものをバンガロールの学生がして、全インド大会で入賞していた。

 また、「うそ」もよく見られる。友だちの経験を自分の経験として話して、モスクワCIS大会で優勝したリシタンの学生もいた。スピーチでも作文でも、ある程度の脚色は当然あるだろう。いわゆる「盛る」というやつで、それを一概に排斥はしない。どこまでが許容範囲かの問題だが、私はこれはアウトだと思う。正直に友だちの経験として紹介していてもいいスピーチだったと思うが、入賞はしても優勝まではしなかっただろう。「騙し取った」感が強い。

 もはや今の時代、教師が作文し学生に言わせるなんてことはないだろうと思うけれど、絶無とは断言できず、可能性として排除できない。自分自身の経験でも、アルメニアでスピーチ作文が書けず困っている学生に、ある教師が自分が学生のとき書いた作文を与えたことがあった。モスクワ大会のエントリーが終わってからそのことがわかったが、そこまでことが進んでいてはどうしようもなく、練習の過程で書き直し書き足しを指示して3分の1はオリジナルになっていたから、そのまま出場させ、入賞した。うれしくはあったが、そこにはかげりもあった。

 インターネットにとどまらず、このAIの発達した時代、ChatGPTなんてものも出てきた中で、「内容」の「オリジナリティ」を問うのはかなり虚しい。

 

 だから、こういう案を持っている。

1.内容については審査しない。それは順位点(6人入賞なら、1位に6点、2位に5点、6位に1点というぐあいに配分)でカバーすることとする。順位点では、1位にはさらに1点2点のボーナス加算をする。

 発音・話し方・発表態度はある程度客観的に審査できるから、それは採点する。質疑応答も採点。ただし、質問の難易度にはどうしてもばらつきがあるから、そこに過度に配点はしない。

2.採点はしない。全然しない。順位点のみで集計し、順位をつける。これならスピーチコンテストが初めての審査員も自信を持って評価することができる。審査員の真面目は、入賞に漏れたスピーチの中から特別賞を選ぶことに発揮される。これは得点を超越した「審査員特別賞」であり、まさに合議の話し合いで選ぶべきものであるから。点数が少ないので同点が出る可能性が高いが、そのときは1位をつけた人の多いほうを上位とする。それも同じなら2位の数で決め、それもまた同じなら、審査員の多数決で上位を決める。

 結局のところ、その年の出場者中のいちばんよかったスピーチを決める相対審査なわけである。審査基準を厳密にして採点するのは絶対審査であり、それならば去年と今年のスピーチを数字で比べることができるはずだが、そうはいかない。審査基準や配点が年によって微妙に変わるということもあるが、何より審査員が毎年変わるのだから、比較などできない。つまり、絶対審査を用いた相対審査を毎年しているのである。相対審査でしかないのなら、1案にせよ2案にせよ、これで十分であろう。相対的順位決めであるなら順位点だけで足りるのであって、個人的には第2案を推す。順位点は審査員それぞれが出場者全員につけた点の総計はまった同じであり、細分審査のように全出場者につけた点の総計が多い人と少ない人で大きく違う(3桁も違うということもある)ということはない。公平性はむしろ高いはずだ。

 そういう方式を採用しているコンテストもあるだろう。それが主流になってほしい。「ごっこ遊び」はやめていい。

 

広い世界の片隅に

 日本とのつながりの薄いウズベキスタン、国名を言ってもどのくらいの日本人がその存在を知っているか怪しい国の中でも、首都から450キロ、2200メートルの峠越えをしなければたどりつけない地方都市で、20年前に日本語を教えていた。

 フェルガナ国立大学の、後任に人を得ず2年で打ち切りになった幻と言ってもいい講座のことである。必修ではなく自由選択であった。そのころはまだオタクもおらず、彼らはただ日本や日本語に漠然と興味を持って履修したに違いない。

 20年後に縁あってまたその町で教えることになり、赴いた。当時学生だった日本語教師らに招かれてのことである。昔の学生9人に会った。うち7人はまだ日本語が多かれ少なかれ話せる。そのほか5、6人いたはずで、彼らにはまだ会っていない。その中でも2人はたしかに日本語ができる。それ以外の人はおそらく日本語を忘れたのだろうが、無理もない。20年は長く、ことばは使わないとすぐ忘れるから。まだ忘れていない人が半数もいるほうが驚きだ。

 日本へ留学したのは2人だけ。2人はその後旅行などで行った。近くもう1人日本へ行く。若さはこの上ないメリットだ。在学中や卒業後すぐにはそれを使う機会が得られなくても、20年後にそれを役立てることができる(今のこの学校のスタッフのように)。

 首都がきらいで、田舎が好き。だからタシケントで教えていたときにフェルガナに来てくれないかと声をかけられたら、ふたつ返事で引き受けた。いろいろなところで働いてきたけれど、ほかは前任日本人教師の後任として赴任したのであり、行った先には現地人教師もいた。ゼロから独力で始めた講座はこれだけだ(チークセレダもそうだったが、あのときはまだ駆け出しだった)。

 かつての学生のうち3人は日本語教師になっている。つまり、「子」であるその教師たちにフェルガナに招かれ、「孫」ができてきているわけだ。

 わずか2年でも、夢まぼろしではなかった。種がまかれ、育っていた。これがうれしくなくてどうする。「うれしさは中より上なり おらがフェルガナ」、というところだ。

 

漢字を検索する

 与えられた課題は「外国語教育における革新的アプローチ」だが、私の話は革新というより退嬰かもしれない。このIT時代、もはや紙の辞書の需要は薄れているであろうこの時代に、紙の辞書を作ろうというのだから。

 

 日本語は世界でもっともむずかしい書記体系を有していると言われ、実際そのとおりである。ひらがなとカタカナという固有文字のほかに、漢字も使うし、数字はアラビア数字で(数字にも漢字がある。漢数字)、適宜アルファベットも用いる。漢字は本来中国の文字であるから、当然中国語でも使われるが、中国語は漢字だけでひらがなのようなものと混用されることはないし、日本の漢字の場合、ひとつの字に音読みや訓読みのいくつもの読み方があることも混迷をさらに深くする。

 3つあるその文字も、もとは漢字である。ひらがな・カタカナは漢字からできた。表意文字の漢字を表音文字にしたのがかなで、漢字をくずして書いたものがひらがな、漢字の一部をとったものがカタカナである。

 本来それほどむずかしくない日本語をむずかしくしているのは疑いなくこの書記体系、なかんずく漢字である。文法では敬語もややむずかしいが、漢字こそ、ゲームで最後の最大の敵として主人公に立ちはだかる「ラスボス(final boss)」だと言っていいかもしれない。

 「消しゴム」(eraser)という単語には短い4文字の中にひらがな・カタカナ・漢字の3つが惜しげもなく使われている。「アリは銀行(ginkou)へ行(i)った」(Ali went to the bank.)という簡単な文にもこの3つが用いられ、しかも「行」の字は「コウ」「い(く)」と音訓ふたつの読みがなされる。

 そんなむずかしい漢字をなぜ廃止しないのか。ひらがなだけで書くか、アルファベット(ローマ字)だけで書くことにしないかと外国人はいぶかしむかもしれないが、漢字は便利なのである。漢字を覚えるのには、外国人日本語学習者だけでなく日本人の子供も非常に苦労するのだけども、その苦労に見合うだけの便利さがある。まず1000ぐらい習得してみるといい。そうすれば漢字の便利さに気づくだろう。ただ、それまでがたいへんなのだが。

 漢字の最大の特徴でありメリットであるのは(それは同時に最大のデメリットでもあるのだが)、文字に形・音・義(意味)の3つがあることだ。アルファベットのような単音文字の場合、文字には形と音しかない。「e」はこの形で、「エ」という音である。「エ」と発音する漢字には、絵(picture)・恵(grace)・会(meeting)・依(depend)… など形の異なる字がたくさんあって、それぞれ意味を担い、その意味は字ごとに違う。形として「e」に似ている「巳」の字は、「シ」「ミ」と読み「snake」の意味である。

 アルファベットにもそういう「漢字的特徴」を持つものがある。それは数字だ。「5」という形の文字は、英語なら「five」、ロシア語では「pyat’」、ウズベク語では「besh」、日本語では「ご」という音であり、その意味である。それを考えるといい。

 日本語の場合、そのうえひとつの漢字に音読みと訓読みがあるのが状況をさらにむずかしくしている。ある漢字、たとえば「作」makeを中国語では「zuo」と読み、日本語で「サ/サク」と言うのはそれが日本語によって少し変化したもので、これが音読みである。しかしこれはまた「つく(る)」とも読まれる。日本語の意味による「翻訳」と考えればよく、これが訓読みだ。

 このように意味をもつ漢字(表意文字)と、音はあるが意味をもたない文字(表音文字。音節文字である)であるひらがな・カタカナを混用すると、意味は漢字が担い、ひらがなは文法要素、格関係や動詞・形容詞の活用、助動詞を示し、カタカナはそれが外来語や外国の固有名詞であることを示す、というように役割分担をする。このようであると、漢字を多く知る人には文章が把握しやすくなるのだ。これは大きなメリットである。

 さらに、文字に意味があるため、専門用語も理解がしやすい。たとえば、英語の母語話者でもどのくらいの人が「pectoralis major」ということばを知っているだろうか。これは漢字で書けば「大胸筋」で、「筋」は「muscle」、「胸」は「breast」、「大」は「big」であるから、何であるか一目瞭然だ。あるいは「limnology」、漢字で「陸水学」。「陸」は「land」、「水」は「water」、「学」は「science」なので、だいたいどんな学問か想像がつく。英語では、「-logy」だから「学問」なんだろうが、それ以上はわからないだろう。加えて、「陸」の字は「上陸(landing)」「着陸(landing of airplanes)」「離陸(takeoff)」「大陸(continent)」「陸軍(army)」「陸橋(overpass)」などでも用いられる。「陸軍」に対し「海軍(navy)」「空軍(air force)」という語もでき、不統一な英語の対応語に対し、整然として意味明瞭な体系を提供する。漢字はプロダクティブproductiveなのである。

 反面、同音異義語が多くなるという看過しがたい欠点もあるのだが、そのことが逆に漢字廃止をむずかしくする。漢字をやめて、かななりローマ字なりの表音文字だけでかくとすれば、同音異義語が区別できなくなってしまうのだ。聞いてはわからない。しかしどんな字か見ればわかる。盲人にはきわめてやさしくない文字であり言語であることは言わなければならない。

 日本語の語彙は、和語・漢語・外来語からなる(日本古来の語である和語に対し、漢語も本来「外来語」ではあるのだが、漢字で書くことのない外来語を別立てにする)。日本語の語彙に占める漢語の割合は47.5%で、和語は36.7%(異なり語数で。延べ語数ではそれぞれ41.3%・53.9%)。乗っ取られていると言ってもいいぐらいの大きな比率で、これをなくすのはもうほとんど不可能だ。うまくつきあっていくしかない。

 

 漢字の構成法には象形・指事・会意・形声の4つがある。象形・指事は要するに絵文字で、象形は形のあるもの、指事は形のないものを表わす。象形はたとえば「子」(child)や「鳥」(bird)、指事は「上」(top/above)・「下」(down/under)のようなものである。

 会意と形声は2つ以上の要素の組み合わせによる二次的生成で、会意字は意味と意味、形声字は意味と音の組み合わせである。「人(man)+木(tree)」(人が木の陰にいる)で「休」(rest)、「宀(house)+女(woman)」(女が家の中にいる)で「安」(safe)のようなものが会意、形声は「机」(desk:「木(tree)」が意味、「几(キ)」が音)・「時」(time:「日(day)」が意味、「寺(ジ)」が音)のようなものである。

 中国でなく日本で作られた漢字(国字:「働(人man+動move=はたら(く)work)」など)、日本で作られた英語(和製英語:「ベッドタウン(bed+town=suburb)」など)が会意の手法によっているように、2つの要素の組み合わせの方法として会意は非常におもしろい。会意文字はしかし少なく、漢字の90%以上(常用漢字の60%以上)は形声の方法による。ひとつが意味、もうひとつが音を担うのである。意味を示す部分を意符、音を示す部分を音符と言い、意符を「部首」として、漢字検索のしるべとする。

 5万とも10万とも言われる無数にある漢字をどう検索するかは古来人の悩むところで、漢字索引には、ふつう音訓索引・部首索引・総画索引の3つがある。このうちもっとも使いやすいのは音訓索引で、音にせよ訓にせよ読み方がわかっていればこの索引で目指す漢字に到達できる。しかし、字があってその読み方を知りたい場合にはこれは使えない(このことは英語にも言えて、見えない聞こえない話せないヘレン・ケラーを教えたサリバン先生は、自身も目があまりよくなくて、単語の綴りに自信がなかった。しかし教えなければならないので、夜辞書を引いてスペルを確認しようとするのだが、「綴りがわからないから辞書を引くのに、その綴りがわかっていなければ辞書が引けないのはどういうこと!」と辞書を投げ捨てて嘆く。「イナフ」なら「inaf」であろうに、「enough」と書く英語は決して漢字を嗤えない)。

 総画索引はよほどのことがない限り使わない。部首索引がもっともオーソドックスであるが、しかし「開」(open)は「門」(gate)が部首、「聞」(hear)は「耳」(ear)が部首というように、似た形でありながら異なる部首であるのには困ってしまう。そのため、どの構成要素からも検索できる、いわば意符音符索引というものを採用する辞書もある。

 それをさらに進め、細分した要素索引を作っている。たとえば前に挙げた「安」「時」は、それぞれ部首である「宀」や「日」のほかに「女」「寺」でも引けるし、「寺」は「寸」(手の形)でも引ける。ただし、「寺」の上の部分(「土」)はもと「止」(足の形)だったので、「止」のほうに出る、という一見不整合に見える不都合はあるが、字源優先とした。索引には、各要素の配列をどうするかという根本的な問題がある。画数によるという「無機的」方法がもっとも簡便で統一的だが、同じ画数にあまりに多数の要素が並んでしまい、そこでの配列がまた問題になる。ここでも字源による「有機的」な分類と配列を試みた。各要素を、人(ひと・女/子ども)・身体(手・足・頭・体)・自然(天・地・植物・動物)・文化(衣食住・交通・武器・器具・信仰)・記号/その他に分けて並べた。だから「寸」は手の項、「止」は足の項に出るわけだ。面倒だが、慣れれば使いやすいと思う(初めむずかしく、習い覚えていくうちに便利になる漢字そのものと同じである)。字源を知る助けにもなる。字源を知ることは、漢字を習得する上で大きな助けとなるはずだ。この辞書にはもちろん音訓索引・総画索引も備わっていて、この要素索引は部首索引としても使える。ほかの索引を使いつつ、この要素索引に「読む辞書」のように親しんでいけば、必ずや漢字習得に効果があると信じるが、どうであろうか。ぜひ完成させたいと思っている。

龍の文明圏

 龍/ドラゴンは想像上の動物であって、巨大爬虫類、だいたいは大きな蛇で、脚があり、翼はあることもないこともあるが、空を駆けるというところが特徴である。水との関りが深い。キメラ(ライオンの頭、ヤギの胴、ヘビの尾から成る)のごとき合成怪物で、中国の龍は九似が言われる。『爾雅翼』によると、「龍の角は鹿に似たり、頭は駝に似たり、眼は鬼に似たり、項は蛇に似たり、腹は蜃に似たり、鱗は鯉に似たり、爪は鷹に似たり、掌は虎に似たり、耳は牛に似たり」という(諸橋徹次『十二支物語』、大修館書店、一九六八、九七頁)。また、「玉を愛し燕の肉を嗜んで食べるということで、嫌いなものは、鉄と蜈蚣と、楝の葉と五色の糸」だそうだ(同前、一〇一頁)。大蛇に最もよく似るが、『王書』で「お前はたかが鰐ではないか」と罵られるように鰐にも似ていて、インドネシアのコモド島のオオトカゲがコモドドラゴンと呼ばれるように蜥蜴にも似る。

 南方熊楠が「竜は今日も多少実在する鱷等の虚張談に、蛇崇拝の余波や竜巻、地陥り等、諸天象、地妖に対する恐怖や、過去世動物の化石の誤察等を堆み重ねて発達した想像動物なりと言うを正しと惟う」(『十二支考』一、平凡社、一九七二、一九八頁)と言っているのが当たっているだろうけれど、それはいわば経験則的(「自然科学的」)な推定で、「社会科学的」には、「龍とは政治化された蛇である」(荒川紘『龍の起源』、紀伊国屋書店、一九九六、一一一頁)と言える。「階級発生以前の民族のいずれにもドラゴンは存在しない。存在するのは巨大な蛇であり(たとえばオーストラリア)、幻想的な色合いをもつ大蛇にまつわる観念であって、ドラゴンのような雑種的な存在は見られない。(…)複数の動物が組み合わさってできた動物の萌芽はもっと早くにたとえばメキシコやエスキモーに見られるとはいえ、ドラゴンというこの空想上の動物は、人間が動物との親密で有機的な結びつきを失いはじめた後世の文化的産物であり、都市文化の産物とさえいえる。このような存在はエジプト、バビロニア、古代インド、ギリシア、中国といった古代国家において全盛期を迎え、そこでは大蛇が国家を象徴するものとして紋章にまで姿を見せている。反対に、ほんとうに原始的な民族にはそれは存在しない」(プロップ『魔法昔話の起源』、せりか書房、一九八八、二四九頁以下)。

 東の龍に対して、西にはドラゴンがいる。このふたつはよく似ていて、西洋語の「ドラゴン」を漢語に訳せば「龍」となり、漢語の「龍」を西洋語に訳せば「ドラゴン」になるという関係だ。角や髭があるのは東方の特徴で、西方では毒を吐いたり火を吐いたりする。ドラゴンは人に害をなす悪の存在で、聖ゲオルギウスの竜退治に代表されるように英雄に退治されるべきものであるのに対し、東方の龍は、荒れ狂うこともあるが、むしろ善で、神聖なものであり帝王の象徴であって、怖れられても決して否定されるべきものではない。インドのナーガは神的なコブラであり、これも仏典で龍王と訳される。龍にはこのような翻訳による混乱がかなりある。

 それぞれの文明国が他国他文化の大蛇怪蛇を「竜」と書くのは困りものだ。大蛇怪蛇と龍は違うのであって、日本人は八岐大蛇を龍としないのに、他文明の七岐コブラであるナーガは龍王となる。ヴェーダの神話中、「七河を解放して流れしめ」るため、インドラが金剛杵で退治したヴリトラは、「足なく手なき」「蛇族の初生児」であるから明らかに蛇形の怪物だが、しばしば「悪竜」とされる。そのように比喩的に拡大することなく、たとえば新大陸のケツァルコアトルなどを無造作に「竜」とすることなく、名称を単位に追っていくのがよい。「竜」は現実には存在しなくても、それを伝承する人々にとっては具体的な「実在」なのであるから。他国の水妖について、河童に似ているところがあるからといって「どこそこの河童」などと言うのは、比喩にすぎないとすぐわかる。しかし、竜については他種多種の同一視が許容されているのだ。「竜」と等置できるかどうかわからぬものは、怪物なり怪獣なり怪蛇なり、抽象的な名称で呼ぶのがよくて、せいぜい竜蛇ぐらいにとどめておくべきだ。ナーガのようにすでに「龍王」という訳語が確固としている場合はやむをえないが。

 東と西、中華文明圏と西欧文明圏の龍/ドラゴンについてはよく知られているので、ここではその中間地帯の竜を見ていくことにする。それはいわゆるシルクロード地帯と重なる。

 

 中国の龍は新石器時代からある。少なくとも前五千年紀の仰韶文化ではその形跡が確認できる。「甲骨文字の「龍」が象るのは、頭上に茸形の角を戴き、口を開いた頭をもち、S字形にくねった身体をもつもの」(林巳奈夫『龍の話』、中公新書、一九九三、七五頁)であり、そのような特徴のあるものとして認識される。

 東方はすべて中国の龍の影響下にある。日本がそうだし、チベットブータンの龍もまったく中国式だ。ブータンの国旗には龍が描かれている。「住民たちは、自分らのことをチベット文語体でドルック・パと書く。発音はドッパまたはルッパである。ドルックは竜とかいなづま(電光)の意味なので、ブータンを竜国とも書く」(中尾佐助『秘境ブータン』、社会思想社、一九七一、二五九頁)。

 ベトナムには、「涇陽王は洞庭君の女神竜を娶って貉竜君を生む。此君が帝来の女嫗姫というものを娶り、百男を生む、これが百越の祖先となった(百男は俗に百卵と伝えている)。一日貉竜君が姫に対し、我はこれ竜種、お前はこれ僊種、水と火はたがいに相いれない道理であるといって別れることとなった。すなわち五十子を分ち母に従い、山に帰せしめ、他の五十子は父に従い、南に居らしめ、その長を封じて雄王となし君王をつがしめた」(「大越史記全書外記、巻一。松本信弘『ベトナム民族小史』、岩波新書、一九六九、一一頁)という開祖神話がある。

 宮崎市定はこれらを「龍祖伝説」として、内陸乾燥地帯の「鳥獣祖伝説」や「棄子伝説」「感生伝説」「降神伝説」と対置している(『アジア史概説』、中公文庫、一九八七、三十九頁以下)。それによれば、ビルマのメン・マオ国、タイ、チャムパ、ラオス、哀牢夷などにそれがあり、新羅でも、「東海中に龍城国があり、その王妃が大卵を生んだので、不祥としてこれを櫃に入れて海に流したところ、それが新羅海岸に漂着して老母に拾われ卵より生まれた子が成長し」脱解王となったという話がある。「龍祖伝説はインド付近を中心として発し、南洋海岸に沿い朝鮮半島にまで達していることがわかる」(同前、四一頁)。日本神話で、火折尊の子鸕鶿草葺不合尊を産むとき、海神の娘豊玉姫は八尋鰐の姿になったというが、別伝では龍の姿だったともいう。豊玉姫が龍ならば、日本もそこに含まれるだろう。

 富士山より高いボルネオのキナバル山にも竜の伝説がある。「竜の持っている玉を奪ろうと思い、中国人がいく人もいく人も山にのぼっては帰って来なかった。そのために中国人の寡婦がひじょうに増えたというのである。中国のことをこのあたりではチナといい、それが訛ってキナとなり、ナバルというのは新しいという意味で、転じて寡婦を意味するというのであった」(堺誠一郎『キナバルの民』、中公文庫、一九七七、六四頁)。誤伝があるようで、バルが寡婦という意味である。竜でなく山霊とすることもある。中国の王子が竜の玉を取りに登り、首尾よく奪って船で逃げる。竜が追ってきて尾を振って海が荒れるが、逃げおおせたという話もある。この竜の姿形はわからないが、中国と関りがあるのだし、長い尾があるところからも、中国風の竜であろう。この竜は玉をもてあそんでいたのだから、手もある。

 

 アラブでは、一三世紀の学者カズヴィーニーの『想像の驚異』にこうある。

「ティンニーンはペルシア語でazhdarhā(アジュダルハー)と呼ばれ、恐ろしい外観をした海の動物である。長さは大きいものは三〇メートル、小さいものは五メートルほどで豹のように黒い斑点があり、魚のように二つの鰭があり、耳は長く、首からはヘビの頭の形をした六つの首がさらに出ている。目は大きく稲妻のように光り、その口は牛を呑み込んでしまうほど大きく、目にした動物はすべて吞み込んでしまい、呑み込んだ動物の骨を砕きつぶすために木に巻きついた。満腹すると海から陸に上がり、太陽で体を熱した。陸上でのティンニーンはその熱で行く先々のものを焼き払ってしまった。ティンニーンの悪業・悪事が極まった時、神は雲を送り、彼を持ち上げて遠ざけた。またイル汗国時代に出現したといわれる龍は大きな蛇体であり、目にした駄獣はなんでも食べてしまった。悪業が重なると神は天使を遣わし、彼を海に投げ込ませた。しかしティンニーンは海でも悪事を働いたので神は再び天使を遣わし、ティンニーンをマゴグとゴグのところに連れてゆかせ、彼等の餌食とさせた」(ヤマンラール「イスラーム美術における龍」、『アジアの龍蛇』、雄山閣、一九九二、二〇〇頁)。

 イラン圏では、竜は「エジュダハー」と言われる。トルコ(テュルク)族もそれに倣っている。この語はさかのぼればアヴェスタ神話に至る。

「ザッハークは『アヴェスタ』では「アジ・ダハーカ」(竜ダハーカ)の名で現われ、三頭、三口、六眼、千術の怪物で、悪神アハリマンが人類と地上を滅亡させるために創った最も強力で邪悪な魔物として登場する。この竜はバウリ(バビロン)の地にあるクリンタ城に住み、暴虐の限りをつくし、ジャムシード王の黄金時代とは反対に、恐怖の時代を築く。(…)神の光輪を得るために、アフラ・マズダの子・火神アータルとこの竜との闘いも名高い。魔王は悪逆非道の末、遂にファリードゥーンに捕えられデマヴァンド山に縛りつけられる」(『総説 世界の神話伝説』、自由国民社、一九九二、九二頁)。「彼はこの山に世界の週末まで幽閉されるが、そのとき、彼は再び世界を攻撃し、創造物の三分の一をむさぼり食い、火と水と植物に襲いかかる。しかし、最後には、復活したクルサースパに殺される」(ヒネルズ『ペルシア神話』、青土社、一九九三、一一二頁)。『シャー・ナーメ(王書)』では、ザッハークはアラブの王で、料理人に化けた悪魔(イブリース)に肩に口づけされ、両肩から黒い蛇が生えたと語られる。

 また、『アヴェスタ』の「ヤシュト第十九章、「ザミヤード・ヤシュト」には、「勇ましき心のケレシャースパは、馬を喰い、人を食し、黄色く毒ある蛇、黄色の毒が親指ほどの厚さに流れるスルワラの蛇を殺せり」とある。スルワラとは「有角」の意である」(前田耕作『巨像の風景』、中公新書、一九八六、一九三頁)。角ある怪蛇なら「竜」の萌芽と言える。

「竜は大蛇で、称号をザッハークという。編者曰く、ザッハークはエジュダハーと呼ばれてきた。次のようにも述べられている。バビロンで育ち、魔術を習っていた。顔つきが竜のようになったと思えたので、父親が魔術の勉強を禁じた。師匠である鬼が言った。「魔術を教えてほしいのなら、親父を殺せ。」彼は自分の父親を殺し、理不尽な血が夥しく流れた。そして、エジュダハーと呼ばれるようになった。後に、アラブ人がアズダハークと呼び、アラビア語化してザッハークとなった」(『社会辞典』。ヘダーヤト『不思議の国』より。『ペルシア民俗誌』、平凡社、一九九九、三〇九頁以下)。

 のちの竜(エジュダハー)の伝説では、次のようなことが言われる。

「カールーンの財宝はホスローの七宝物で、地下に沈んだ。そして、それを見張るために竜がその上で眠っている」。「竜は大きな図体の動物で、恐ろしい形をしており、大きく開いた口に多くの歯、目は光り、身の丈が長い。最初はヘビだったが、時の経過によって竜になった。形が変わったのである。これについては次のように言われている。「ヘビは時代を経て竜となる。」『万物の驚異』によると、ヘビが身の丈三十ガズ、齢百歳に達すると、竜と呼ばれ、徐々に大きくなり、陸上の動物が恐がる事態となった。全能の神は竜を海へ投げ落とした。竜の体格は海でますます大きくなり、身の丈二千ガズに達した。そして、魚のように二枚の羽が生えた。竜が動けば、海に波が起きた。竜の害が海でも広がったので、全能の神はヤージュージュとマージュージュの国へ送って、彼らの食べ物にしようとした。このことから彼らが性格の良い民族であると類推できる。すなわち、彼らの身体の各部がそのような健全な動物の肉から成っているのであるから、当然、同じように良い性格であるはずである。竜の心臓を食べたら勇気が増大する。そして、魅入られた動物はその餌食となる。その皮を恋人に結べば、その愛は消える。その頭をどこに埋めても、その場所が吉となる」(『魂の散策』。同前、三〇八頁以下)。

 こんなとぼけたような遭遇譚もある。「昔、砂漠を歩いていると、何か赤いものがやってきた。我々の方にやって来た。そして、よく見ると、それが龍であることがわかった。体は赤く、口からは火を吐き出していた。怖くて逃げたけれども、龍がどんなで、どこへ行くかを見ていると、ターレバーバードのカナートの方へ行った。その後、どこへ行ったかはわからない」(竹原新『イランの口承文芸』、溪水社、二〇〇一、六九四頁)。現地調査で伝承を聞き集めたこの本には、龍が「公正の鎖」を揺らして悩みを訴えに来たというもっととぼけた話もある。雌の龍が山羊の角が喉にひっかかって飲み込めずに難儀していたのである。それを切り取ってやると、お礼にメロンの種をもらったという(同前、五五八頁以下)。

 英雄叙事詩における竜の形姿について、ハーレギー・モトラクはこう記しているそうだ。

 「通常一つの頭と口を持ち、その恐ろしい口からは煙や炎が吐き出され、一頭の馬とその騎士、あるいは水に住むワニや、空を飛ぶ鷲を吸い込むほどの力を持っていた。その身体は巨大で山のようであった。髪の繁みが頭を被い、剛毛は下に垂れ下がっていた。木の枝のような二本の角があり、その目は車輪のように大きく、星やダイヤモンドのように輝いていた。二本の牙は英雄達の腕、あるいは雄鹿の角ほどもあった。外皮は鱗があって魚のようであり、一つの鱗は盾ほどの大きさであった。八本の脚をもち、それが動くと地面が振動した。龍の色はさまざまで、濃い黄色、灰色、黒、青などであった。水や火、あるいはいかなる武器にも耐えることができた。時には人の言葉を解することもできた。その巣は山の上、通常は龍の誕生の場である海の近くにあった」(ヤマンラール「イスラーム美術における龍」、二〇一頁)。

 また、「太陽や月が食になるのは、竜がそれを歯で噛むからである。竜を恐がらせてそれを吐かせるためには、花火をするか、楽器を奏でるか、矢を射るか、金盥を叩かなければならない。そうすれば、竜は恐がってそれを放す」(『ペルシア民俗誌』、二九八頁)。

 日蝕月蝕を怪物が日月を呑むからとする説明は各地にあり、インドでは、「神々が甘露(アムリタ)を飲んでいる間に、ラーフという悪魔が神に変装して甘露を飲み始めたのであった。しかし、その甘露がラーフの喉まで達した時、太陽と月がそれと気づいて神々に告げた。ヴィシュヌ神はこの悪魔の巨大な頭を円盤で切り落とした。このことがあって以来、不死となったラーフの頭は太陽と月を恨み、今日にいたるまで、日蝕と月蝕をひき起こすのである」(上村勝彦『インド神話』、ちくま学芸文庫、二〇〇三、八四頁)。ただし、ラーフは頭だけしかないので、太陽も月も吞み込まれてもしばらくすれば切り口から出てくる。

 イランの周辺を見てみると、バーミヤンの竜の谷(ダレ・イ・アジダハ)の話がある。「この竜は火を噴きながら谷から谷へとはいまわり、いたるところを焦土と化せしめた。竜の去ったあとには胸のむかつく悪臭が残り、収穫はことごとくだめになった」(前田耕作『巨像の風景』、一八四頁以下)。その害を逃れるためには、日ごとに一人の若い娘、二頭の駱駝、五三〇キロの肉を供さなければならなかった。この悪竜はアリーに退治された。

 『宋雲行紀』に、

「漢盤陀国の境界に入り、西行すること六日で葱嶺山に登り、また西行三日で鉢孟城に至った。(さらに)三日進むと不可依山に至った。そこは非常に寒く、冬も夏も雪が積もっている。(この)山中に池があり、そこに毒竜が住んでいる。

 むかし三百人の商人がやってきて、池のほとりに泊ったが、たまたま竜の忿怒にあい、全ての商人が殺されてしまった。漢盤陀国王はこれを聞き、王位を捨てて子に与え、(自らは)ウジャーナ(烏場)国に行き、バラモンの呪術を学び、四年間でことごとくその術を学ぶことができた。(そこで王は)帰国して王位に復し、池に行って竜に呪をかけた。竜は変化して人となり、王に過ちを悔いた。そこで王はさっそく竜を葱嶺山に徙した。この池から二千余里の地であった」(『法顕伝・宋雲行紀』、平凡社、一九七一、一六九頁)。

 漢盤陀国はタシュクルガンのあたりだという。葱嶺はパミールである。『法顕伝』には、「葱嶺山は冬夏積雪あり。また毒竜あり。もしその意を失えば、則ち毒風を吐き、雨雪沙を飛ばし、この難に遇えば、万位に一も全きものなし」(同前、一七八頁)とあるが、この竜はインド的(ナーガ)なものか、イラン的か、それとも中国式か、はたまた独自か。三者の中間だけにどうともわからない。

 トルコでは竜はejderhaとかevrenという。東アナトリアのニシャタシュ村には「まるで蛇のようにとぐろを巻きながら村の上手までのびる積石がある。蛇の骸骨とも言えるその形は驚くほど蛇によく似ている。村の内部までのびている先端部はまるで蛇の頭を想い起させる。全長は一〇〇メートルほどもある」。「土地の人が竜と言っている大きな蛇が村にやって来るのを見た者たちは家を捨てて逃げだした。年老いていたためにあまり遠くまで逃げられなかった一人の女は、途方に暮れてとある場所にしゃがみ込んだ。老婆はその場に竜がやって来て食べられるのを待つことにした。その一方で神に祈りを捧げ、こんな風に懇願した。「神よ。このわしを石にし給え。さもなくば竜のやつを」。老婆の祈りはかなえられた。竜がやって来てあわやという瞬間、竜は石化してしまった」(勝田茂訳「トルコの伝説」、『世界口承文芸』五、一九八三、一八九頁)。

 同様の話で、願いがかなえられれば七頭の犠牲獣を捧げると誓って神に祈り、襲いかかってきた竜を石に化してもらった牧童は、助かったあと七匹のシラミを殺して犠牲獣の代わりにしようとして、家畜とともに石に化せられたというものがある。石になった竜と牧童と家畜の姿を今も見ることができる(同前、一九〇頁以下)。

 トルコ美術における竜にはセルジューク系とモンゴル系があり、セルジューク系の竜の形態は、「口は長く、開いているが、頭部そのものはオオカミや馬に似ており、大きなアーモンド型の切れ長の目や、馬のようにピンと立った耳を持っている。そしてライオンや虎のような剛健な前足が付けられ、その前足の付け根から頑丈そうな、古代のグリフィンの翼を思わせる翼が上方にのびている。しばしばその尾は再び龍の頭となっている」そうだ(ヤマンラール「イスラーム美術における龍」、二〇四頁)。モンゴル系はは中国式の龍であり、それがユーラシアのここまで勢力を広げている。

 中国の龍、ヨーロッパのドラゴンに対して、ペルシャおよびそこと深く関わってきたテュルク諸族の地域は、アジュダハー竜の圏域である(オスマン・トルコを通じてブルガリアにもアジュデルの語がある)。害意のある悪竜である点、ドラゴンと同じく西アジア古代文明から出た同根の存在で、形姿の点で中国の龍の影響を受けている、ということだ。それにはシルクロードを通じて運ばれた文物、龍の描かれた陶器や絵の影響があるだろうことは容易に推測できる。

 

 バルカンの「竜」はおもしろい。昔話で語られるものと伝説とでは「竜」の様態が異なり、ふたつは峻別されなければならない。ハンガリーの昔話に登場する「竜」はいくつもの頭(七つとか十二とか、ひどいのになると三百六十六の頭とか)を持っている。「竜」であることもあれば、馬に乗ったりして人間の形であることもある。ルーマニアの昔話に出る敵役「ズメウ zmeu」も、怪物であって、まま人の形をしている。「えたいの知れない姿をした、文字どおりの化け物のこともあるが、背格好が普通の人と変わらないような場合も多い」。「龍人の国は地下にあった。彼らはどこまで巨大なのか見当もつかないようでいて、普通人のようでもあり、語り手はそのあたりをいささかも気にかけない」(住谷春也「ルーマニア民話の世界」、『ルーマニアの民話』、恒文社、一九八〇、三六七頁)。ズメウという名前はスラヴ語の「蛇」(例えばロシア語 zmiya)に由来し(ラテン語 draco 起源の語 drac は、ルーマニア語では「悪魔」の意味になった。なお「竜」を意味するルーマニア語は一般に balaur)、明らかに「竜」の外観特性を有している場合もある。だがそうでないことのほうが多く、伝説にも両様に登場する。蛇と竜とズメウの関係は、蛇が七年の間人に見つからずにいると、尾がなくなり足が生え、牛を呑む。さらに七年人に見られないでいるとバラウル竜になり、さらに七年たつとズメウになる、というふうに説明される。他のバルカン地方の昔話にもこの龍人(ズメウ)が出る。「ドラコスdrakosは民話に現われる正体不明の怪物で、古典ギリシア語のdrakōnは「龍」または「蛇」の意味であるから、語源的に「龍人」と訳してもいいが、実際には人喰い鬼と考えられる」(森安達也「解説 ギリシアの民話」、『バルカンの民話』、恒文社、一九八〇、一一三頁)。セルビアブルガリアも同じだ。ロシアの昔話に出るズメイも、複数の頭を持っているが、馬に乗るところを見ると人の形であるらしい。一方で、明らかに「竜」であることもある。

 ハンガリーの伝説で語られる「竜」は、たしかに竜だ。ハンガリー語で「竜」を意味するsárkányは、ブルガール・テュルク語で「シューシューいうもの、毒のある唾をはくもの」という意味の語から出たものであり、だから蛇のようなものであったと思われる。「シャールカーニュ」でなく「ゾモク」という名前の竜は、その名はスラブ語の「ズメウ」に由来し、短くて太い体の蛇のようなもので、沼に棲み、放牧の豚や羊を食べる。

 おもしろいのは、嵐を起こす放浪の男(天候師とでも呼ぼうか)が乗る竜である。天候師は放浪の道で立ち寄った家で施しを得られないと、すさまじい荒天を引き起こし、その家を破壊する。施しをした家は被害をまぬがれる。彼は竜の背に乗り、黒雲の上を飛ぶ。七年あるいは百年人に見られることのなかった蛇が竜になる。脚があり翼がある。天候師は銜をかませることでそれを飼い馴らす。天候師は別の天候師と雄牛の姿になって闘うともいう。シャーマンを思わせる行動だ。同様の天候師やその戦いはブルガリアを始めバルカンの各地で知られている。ルーマニア人は、山々の奥深くにショロマンツェという悪魔の学校があると語る。十人の学生がそこで魔術を学ぶが、十番目の弟子は悪魔の片腕として留めおかれ、イスメユ竜Ismejuに乗って荒天を呼ぶ手伝いをする。

 ドイツでドラックDrackというのもドラゴンから出た名前だが、竜ではなく、炎の尾を長く引いて火のように空を飛び、煙突から入ってくる。それを飼う人に奉仕し、財物や物を主人のもとに運んでくる精霊である。主人はそれに食事を供さなければならない。それを怠ったり、熱いミルクを与えたりすると、怒って家を焼いてしまうという(Peuckert: "Deutscher Volksglaube im Spätmittelalter". Hildesheim/New York, 1978, p.151ff.)。飼われている家に財宝を運んでくるクダ狐やゲドウを思わせる。トランシルバニアにもこの同類がいて、火を吐きながら空を飛ぶ「竜」が、あるルーマニア人の女中に「取り憑いた」。その母は娘を棺台に死人のように載せ、葬式を執り行うことで治したという。ミナルケン(モナリウ)のザクセン人はスモーというものについて、人の頭に蛇の体をした長い火のような竜ないし夜の悪霊だと語る。それが音を立て火花を撒き散らしながら夜空を飛んで、すぐそばに降り立つのに出くわしたら、馬車の部品を小さな釘に至るまでひとつ残らず数え上げれば、何もできずに退散する。それを呼び寄せることのできる者もいる。スモーは村に恋人の女をもっていたりもする。この名は明らかにルーマニア人のズメウに由来する。トランシルバニアルーマニア人が言うイスメンないしヒスモーは、空を飛ぶ炎であり、悪魔である。好きな女のところへ通い、煙突から入ってくる。通われる女は、痩せて顔色悪く、頭が変になるらしい。

ハンガリー:Erdész: 'Drachentypen in der ungarischen Volksüberlieferung', "Acta Ethnographica ASH" 20, 1971、ブルガリア:Dukova: 'Das Bild des Drachen im bulgarischen Märchen', "Fabula" 11, 1970、トランシルバニア:Müller/Orend: "Siebenbürgische Sagen", Göttingen, 1972 参照)。

 竜でもある一方、「竜人」という奇妙なありかたをする点で、バルカン・スラブのズメイ圏というのは西欧のドラゴン圏とは別に考えていいだろう。

 多くの頭を持つ妖怪ということでは、モンゴルのマングスが思い出される。「マングスは、多頭の妖怪である。早く「(元朝)秘史」にもこの語は現われる。(…)「靫背負うものを丸ごと呑みこんでも、のどにもつかえず、大の男を一呑みにしても、気にもとめない」という「並みの男とはさも異なる、グレルグゥの山にいる蟒蛇(マングス)に生まれついた、ジョト・ハサル」という文である。(…)「秘史」の傍訳には、「マングス」の箇所に「蟒」という漢語があてられていることから、またこの行文自体からも想像できるが、どうやら龍蛇イメージの怪物のようだ。(…)モンゴルの英雄物語においては、マングスは、英雄の財産を略奪し、妃や家来、支配下の牧民たちの拉致をもくろんで襲撃してくる。物語のなかで、なるべく変化をこらした闘いが用意され、最後にはマングスは負けてしまうという筋書き自体は同じである。ともあれ、この怪物は多頭で、その頭の数も、十、十二、十五、十七、二十五、二十七、五十三、七十七、はなはだしきに至っては九十五あるいは百九など、まさに変幻自在という感じで次々に変わるのである」(原山煌『モンゴルの神話・伝説』、東方書店、一九九五、一五〇頁以下)。

 前に触れた龍祖神話でも、竜女は人の姿で男と結ばれている。ビルマのシャン族の話では、竜たちは年に一度、水祭りのときだけはどうしても本来の姿にならなければならず、見るなの戒めを破って男はそれを見た、ということになっている(『世界神話事典』、二八五頁)。

 

 「竜」と訳されはするものの竜とは言いがたいインドのナーガ圏を別にして、竜には東方の龍圏、西欧のドラゴン圏のほかに、西アジアのアジュダハー圏があり、さらにバルカン・スラブにズメイ圏もあるらしい、というわけだ。

 こう見渡してみると、竜が文明圏ごとに異なる名を持ち、異なるあり方をしているのがわかる。文明圏それぞれが重なりつつもいささか異なる独自の竜を発生させているわけだ。その中で、図像学的にはイラン文明圏(テュルク諸族も)の竜は東方の影響を受けている。