漢字しりとり・その3

A:きょうは弁論大会です。

B:大会の前には会議をします。

A:会議をして議論します。

B:議論には論理が必要です。

A:論理があれば理解できます。

B:理解して解決します。

A:解決して決定します。

B:私はてんぷら定食が食べたいです。

A:どうして急に食事の話になるんですか?

B:それにはいろいろ事情があるのです。

A:それについて情報がありますか?

B:裏の事情は報道されません。

A:それは道徳に反します。

B;徳川幕府の時代から裏の事情はあるのです。

A:そういう事情は川柳で知ることができます。

B:柳に風と受け流しましょう。

A:風速30メートルの風なら柳だって折れますよ。

B:それは速度違反です。

A:違反には反対します。

B:反対して対応します。

A:対応して応答します。

B:応答して答弁します。

A:弁論大会に来てくださって、

A・B:ありがとうございました。

 

漢字しりとり・その2

A:日本へ行きたくて、日本語を勉強しています。

B:日本語は本当にむずかしい。

A:当たり前ですよ。外国語だから。

B:前日習ったこともすぐ忘れてしまいます。

A:がんばりましょう。決意は日々新たなり。

B:新宿でラーメンが食べたいです。

A:その前に、宿題をやらなければ。

B:宿題の作文の題名は何ですか?

A:ウズベキスタン名物料理

B:理論的に書くんですか?

A:大丈夫。私は論理学を勉強しました。

B:どんな学校ですか?

A:校長先生がりっぱな人。

B:でも、あの先生はいつも長っ尻

A:この尻取りはいつまで続くの?

B:取り敢えず、ここまでにしましょうか。

A:敢えて言います、

A・B:(いっしょに)漢字は面白い!  

(B:(小声で)むずかしいけどね。)

 

 

 かんじ天国(「おさかな天国」替え歌)

かんじ・かんじ・かんじ、かんじを まなぶと

あたま・あたま・あたま、あたまが よくなる

さあさ、みんなで かんじを まなぼう

かんじは ぼくらを まっている

夢中偶成

 

魯鈍先生轉轉記 魯鈍先生 轉轉記

有人世界有良師 人ある世界には良師あり

寒山熱海爽高原 寒山 熱海 爽高原

又喜又哀生死理 又喜び又哀しむ 生死の理

 

 平仄は合ってないだろう。辞句を並べただけだから。

 寝ている間にこんなものができた。巧拙以前に(むろん拙であるが)、これでいろいろ推敲したから(踏む韻を変えてみたりして)、眠ってはおらず覚めていたのだと思うけれど、しかし起きたとき寝足りない感じはなかった。半睡半醒か。おもしろい体験だった。

「勝達いくみ遺稿集」あとがき

 遺稿を整理していたら、大量の手稿があった。当人や家族親族、地域の歴史を伝えるものとなるし、一周忌の供養にもなると思い、遺稿集としてまとめることにした。

 その中のノートにこんな詩を見つけた。

 

  新しき年 

一、ひとはみな 憩ひ楽しむ

 新しき 年の初めは

 毎年の ことゝは云へど

 寒き終日 机に向ひ

 冷える酒庫 ホースを運ぶ

 手は荒れて 爪も痛みぬ

 酒造りの 業の故か

 人はみな 楽しむ日なれど

 我のみは いよゝ忙がし

 

二、あらたまの 年の初めに

 追打ちを かけるが如く

 増税の 時期は迫れり

 報告の 書類はたまり

 売る酒の 在庫少なし

 綿のごと 体は疲れ

 眼底は 鈍く痛みて

 気のみぞ いよゝ嵩ぶる

 我のみは 何故か忙がし

 (昭和51年)

 

 いわゆる「ミドルエイジ・クライシス」であったのだろうか。それはちょうど句作や詩吟、漢詩を始めた時期とも重なる。同じノートにこんな句もある。

 

 不断着の まゝ元旦を 迎へけり

 

 また、詩作のごく初期に書いたと思われる次のような詩もあり、韻を踏んでいないから習作だろうが、そのころの著者の環境心境がうかがえる。

 

  偶成

 祖母長患余命僅 祖母は長く患いて 余命僅か

 母亦病弱視力衰 母も亦病弱にして 視力衰ふ

 晩春忽然慈父逝 晩春 忽然と慈父は逝き

 家業不振双肩重 家業振はず 双肩は重し

 (昭和51年)

 

 所収の「ロータリークラブでの卓話」に見えるように、研究者がおそらく天職であって、酒屋の主人には向いていなかったと思しい。だが、境遇のしからしめるところ、その仕事を全うすることとなった。悶々はあっただろうが、それを救ったのが漢詩作りであったと思われる。何かにつけ、ことあるごとに詩を詠み、詩友もできた。「悲しき玩具」ではないけれど、詩作を手のものにしてからはさまざまに遊んでいる。次韻や連環体のような伝統的なものから、漢俳、小唄や寮歌を漢詩にするなどの試み。遊ぶのは楽しく、遊んでいるのを見るのも楽しい。喜ばずにはいられない。

 さまざまなことを漢詩に詠んだけれども、なぜか妻についての詩はない。考えてみれば、それももっともだと思う。詩にするには対象との距離が必要だ。そんな距離は夫婦の間になかったのだ。妻の側からもそうだったのだろうと思う。そんな夫婦のあり方は、昔はごく当たり前でごく自然だったのに、現今いつの間にか失われていってしまっているのではなかろうか。そんな「自然な」夫婦の最後の世代だったのかもしれない。そのためでもあるまいが、一方の四十九日が他方の初七日であるような逝き方をしていった。「ホトトギス」の投稿句に二人の名前が並んでいるのを見るのは慰めである。

スピーチの採点なんてできるのか?

 この国のスピーチコンテストの季節が近づいてきた。一大イベントが迫るこの時期、実際のところスピーチの採点なんて本当にできるのかということは真剣に考えられていい。

 

 トーストマスターズでは、こんな項目に分けて審査採点するらしい(100点満点):

・内容 50点/スピーチの展開(構成、展開、支持材料)20・効果(目的達成度、聴衆の興 味と受容度)15・スピーチの価値(アイデア、論理、独自の考え方)15

・話し方 30点/身体表現(見た目、ボディランゲー ジ、スピーキングエリア) 10・声 (柔軟性、大きさ)10・態度(率直さ、自信、熱心さ)10

・言葉遣い 20点/適切さ(スピーチの目的と聴衆に合わせた適切な言葉)10・正確さ(文法、発音、言葉の選択)10

 

 国際交流基金では(30点満点):

1.言語力部門

 (1)発音(5点) ①母音・子音の発音 ②アクセント・イントネーション ③話す速さ・間の取り方
 (2)文法・語彙(5点) ①正しい文法や語彙の使用 ②スピーチに相応しい表現や語彙 ③さまざまな表現が使えているか(意図的に同じ語彙を繰り返す場合は除く)
2.内容

 (1)聞き手への意識(5点) ①聞き手の興味を引く内容か ②構成・展開的に分かりやすいか ③聞き手の背景知識を考慮しているか
 (2)内容の深さ・説得力(5点) ①主張がはっきりしているか ②主張の根拠が明確かつ十分か ③大学生らしい視野の広さや思考の深さが感じられるか
3.運用力・表現部門

 (1)プレゼンテーション力(5点) ①態度(姿勢・視線・顔の表情・声の大きさなど)は適切か ②視覚および聴覚的にアピール力があるか

(2)質疑応答(5点) ①正しく適切な日本語を用いているか ②質問に対する回答として十分かつ相応しい内容か ③積極的に理解してもらおうとしているか ④日本的な常識から外れることなく、友好的かつ自然な対話を成立させることに貢献しているか

 

 それぞれよく考えられていると思うし、「審査基準」そのものとして見る限り間然とするところないとも思う(餅の絵としてなら)。だが、問題は運用である。外国での日本語スピーチコンテストの審査員は多く「当て職」だ。日本人会会長とか日本の機関の所長とかが、その職務の一環として依頼され勤めることが多い。初めて外国人の日本語スピーチを聴くなんて人もいるだろう。何より、素人である。

 素人が悪いと言っているのではない。逆だ。日本語教育の素人こそ審査員であるべきだ。外の空気の導入、社会経験や一般常識こそが審査員の必須条件である。日本語教育ズレした面々がずらりと並んでいるなら、それはおぞましい風景だ。問題は、そんな素人がこういう細分化された審査項目を当日示され、審査するということである。ひとつのスピーチを聞いて、次のスピーチが始まるまでのわずかの時間に、訓練されたプロフェッショナルなどでは全然ない人がそんなに多くの項目を審査できるのか?

 体操やフィギュアスケートなどの採点競技の審判は、毎年研修を受けて訓練される。採点こそしないけれど、サッカーなどの競技の審判も同様だ。そうまでしても本当に公正な判定かいつも喧々諤々となるというのに、生まれて初めてスピーチ審査なんてものをする人にこんな細分評価を期待するのは、(こういう言い方をするなら)「ごっこ遊び」なんじゃないか、という疑いがある。

 ある大会で、審査員が協議して採点の合計で出た順位を入れ換えた、なんてことがあった。それでは何のための採点か、と思うが、しかし、1.採点尊重、それによるべきという妥当性のある思想に対し、2.審査員というものがいるのだから、その話し合いで決めてよい、採点合計は参考資料にすぎない、という考え方もありうる。審査員によって点が甘かったり辛かったりするし、重視するポイントが特異である審査員もいる。中には満点連発などという審査員もいるので、大多数の人がAよりBのほうがよかったと思っていても、集計してみるとその逆だった、などということは実際に起こる。そういう採点の不都合を防ぎたい、正したいと思うのは正当なことではある。ただし、話し合いということになると、声の大きい人、地位の高い人の意見が通りやすく、公正であるかについて疑問なしとはしえない。

 

 さらに言うと、「内容」なるものの審査は必要か。それにも大いに疑問を持っている。剽窃や盗作が横行しているこの時代に。今はインターネットというものがあって、そこからいろいろなアイデアのみならず、文章までも取ってくることができるのだ。大多数の学生は自分で考えたスピーチをしていると思うが、少なからぬ優秀な作文に盗用が疑われることはままある。

 NHKの弁論大会でのトルコ人学生のスピーチと同じ内容を島根県の地方都市のスピーチコンテストで聞いた。調べると、彼女のスピーチはネット上で見ることができるのだ。それを見て書いたに違いない。また、シベリア極東大会で優勝したイルクーツクの学生のスピーチと酷似したものをバンガロールの学生がして、全インド大会で入賞していた。

 また、「うそ」もよく見られる。友だちの経験を自分の経験として話して、モスクワCIS大会で優勝したリシタンの学生もいた。スピーチでも作文でも、ある程度の脚色は当然あるだろう。いわゆる「盛る」というやつで、それを一概に排斥はしない。どこまでが許容範囲かの問題だが、私はこれはアウトだと思う。正直に友だちの経験として紹介していてもいいスピーチだったと思うが、入賞はしても優勝まではしなかっただろう。「騙し取った」感が強い。

 もはや今の時代、教師が作文し学生に言わせるなんてことはないだろうと思うけれど、絶無とは断言できず、可能性として排除できない。自分自身の経験でも、アルメニアでスピーチ作文が書けず困っている学生に、ある教師が自分が学生のとき書いた作文を与えたことがあった。モスクワ大会のエントリーが終わってからそのことがわかったが、そこまでことが進んでいてはどうしようもなく、練習の過程で書き直し書き足しを指示して3分の1はオリジナルになっていたから、そのまま出場させ、入賞した。うれしくはあったが、そこにはかげりもあった。

 インターネットにとどまらず、このAIの発達した時代、ChatGPTなんてものも出てきた中で、「内容」の「オリジナリティ」を問うのはかなり虚しい。

 

 だから、こういう案を持っている。

1.内容については審査しない。それは順位点(6人入賞なら、1位に6点、2位に5点、6位に1点というぐあいに配分)でカバーすることとする。順位点では、1位にはさらに1点2点のボーナス加算をする。

 発音・話し方・発表態度はある程度客観的に審査できるから、それは採点する。質疑応答も採点。ただし、質問の難易度にはどうしてもばらつきがあるから、そこに過度に配点はしない。

2.採点はしない。全然しない。順位点のみで集計し、順位をつける。これならスピーチコンテストが初めての審査員も自信を持って評価することができる。審査員の真面目は、入賞に漏れたスピーチの中から特別賞を選ぶことに発揮される。これは得点を超越した「審査員特別賞」であり、まさに合議の話し合いで選ぶべきものであるから。点数が少ないので同点が出る可能性が高いが、そのときは1位をつけた人の多いほうを上位とする。それも同じなら2位の数で決め、それもまた同じなら、審査員の多数決で上位を決める。

 結局のところ、その年の出場者中のいちばんよかったスピーチを決める相対審査なわけである。審査基準を厳密にして採点するのは絶対審査であり、それならば去年と今年のスピーチを数字で比べることができるはずだが、そうはいかない。審査基準や配点が年によって微妙に変わるということもあるが、何より審査員が毎年変わるのだから、比較などできない。つまり、絶対審査を用いた相対審査を毎年しているのである。相対審査でしかないのなら、1案にせよ2案にせよ、これで十分であろう。相対的順位決めであるなら順位点だけで足りるのであって、個人的には第2案を推す。順位点は審査員それぞれが出場者全員につけた点の総計はまった同じであり、細分審査のように全出場者につけた点の総計が多い人と少ない人で大きく違う(3桁も違うということもある)ということはない。公平性はむしろ高いはずだ。

 そういう方式を採用しているコンテストもあるだろう。それが主流になってほしい。「ごっこ遊び」はやめていい。

 

広い世界の片隅に

 日本とのつながりの薄いウズベキスタン、国名を言ってもどのくらいの日本人がその存在を知っているか怪しい国の中でも、首都から450キロ、2200メートルの峠越えをしなければたどりつけない地方都市で、20年前に日本語を教えていた。

 フェルガナ国立大学の、後任に人を得ず2年で打ち切りになった幻と言ってもいい講座のことである。必修ではなく自由選択であった。そのころはまだオタクもおらず、彼らはただ日本や日本語に漠然と興味を持って履修したに違いない。

 20年後に縁あってまたその町で教えることになり、赴いた。当時学生だった日本語教師らに招かれてのことである。昔の学生9人に会った。うち7人はまだ日本語が多かれ少なかれ話せる。そのほか5、6人いたはずで、彼らにはまだ会っていない。その中でも2人はたしかに日本語ができる。それ以外の人はおそらく日本語を忘れたのだろうが、無理もない。20年は長く、ことばは使わないとすぐ忘れるから。まだ忘れていない人が半数もいるほうが驚きだ。

 日本へ留学したのは2人だけ。2人はその後旅行などで行った。近くもう1人日本へ行く。若さはこの上ないメリットだ。在学中や卒業後すぐにはそれを使う機会が得られなくても、20年後にそれを役立てることができる(今のこの学校のスタッフのように)。

 首都がきらいで、田舎が好き。だからタシケントで教えていたときにフェルガナに来てくれないかと声をかけられたら、ふたつ返事で引き受けた。いろいろなところで働いてきたけれど、ほかは前任日本人教師の後任として赴任したのであり、行った先には現地人教師もいた。ゼロから独力で始めた講座はこれだけだ(チークセレダもそうだったが、あのときはまだ駆け出しだった)。

 かつての学生のうち3人は日本語教師になっている。つまり、「子」であるその教師たちにフェルガナに招かれ、「孫」ができてきているわけだ。

 わずか2年でも、夢まぼろしではなかった。種がまかれ、育っていた。これがうれしくなくてどうする。「うれしさは中より上なり おらがフェルガナ」、というところだ。

 

漢字を検索する

 与えられた課題は「外国語教育における革新的アプローチ」だが、私の話は革新というより退嬰かもしれない。このIT時代、もはや紙の辞書の需要は薄れているであろうこの時代に、紙の辞書を作ろうというのだから。

 

 日本語は世界でもっともむずかしい書記体系を有していると言われ、実際そのとおりである。ひらがなとカタカナという固有文字のほかに、漢字も使うし、数字はアラビア数字で(数字にも漢字がある。漢数字)、適宜アルファベットも用いる。漢字は本来中国の文字であるから、当然中国語でも使われるが、中国語は漢字だけでひらがなのようなものと混用されることはないし、日本の漢字の場合、ひとつの字に音読みや訓読みのいくつもの読み方があることも混迷をさらに深くする。

 3つあるその文字も、もとは漢字である。ひらがな・カタカナは漢字からできた。表意文字の漢字を表音文字にしたのがかなで、漢字をくずして書いたものがひらがな、漢字の一部をとったものがカタカナである。

 本来それほどむずかしくない日本語をむずかしくしているのは疑いなくこの書記体系、なかんずく漢字である。文法では敬語もややむずかしいが、漢字こそ、ゲームで最後の最大の敵として主人公に立ちはだかる「ラスボス(final boss)」だと言っていいかもしれない。

 「消しゴム」(eraser)という単語には短い4文字の中にひらがな・カタカナ・漢字の3つが惜しげもなく使われている。「アリは銀行(ginkou)へ行(i)った」(Ali went to the bank.)という簡単な文にもこの3つが用いられ、しかも「行」の字は「コウ」「い(く)」と音訓ふたつの読みがなされる。

 そんなむずかしい漢字をなぜ廃止しないのか。ひらがなだけで書くか、アルファベット(ローマ字)だけで書くことにしないかと外国人はいぶかしむかもしれないが、漢字は便利なのである。漢字を覚えるのには、外国人日本語学習者だけでなく日本人の子供も非常に苦労するのだけども、その苦労に見合うだけの便利さがある。まず1000ぐらい習得してみるといい。そうすれば漢字の便利さに気づくだろう。ただ、それまでがたいへんなのだが。

 漢字の最大の特徴でありメリットであるのは(それは同時に最大のデメリットでもあるのだが)、文字に形・音・義(意味)の3つがあることだ。アルファベットのような単音文字の場合、文字には形と音しかない。「e」はこの形で、「エ」という音である。「エ」と発音する漢字には、絵(picture)・恵(grace)・会(meeting)・依(depend)… など形の異なる字がたくさんあって、それぞれ意味を担い、その意味は字ごとに違う。形として「e」に似ている「巳」の字は、「シ」「ミ」と読み「snake」の意味である。

 アルファベットにもそういう「漢字的特徴」を持つものがある。それは数字だ。「5」という形の文字は、英語なら「five」、ロシア語では「pyat’」、ウズベク語では「besh」、日本語では「ご」という音であり、その意味である。それを考えるといい。

 日本語の場合、そのうえひとつの漢字に音読みと訓読みがあるのが状況をさらにむずかしくしている。ある漢字、たとえば「作」makeを中国語では「zuo」と読み、日本語で「サ/サク」と言うのはそれが日本語によって少し変化したもので、これが音読みである。しかしこれはまた「つく(る)」とも読まれる。日本語の意味による「翻訳」と考えればよく、これが訓読みだ。

 このように意味をもつ漢字(表意文字)と、音はあるが意味をもたない文字(表音文字。音節文字である)であるひらがな・カタカナを混用すると、意味は漢字が担い、ひらがなは文法要素、格関係や動詞・形容詞の活用、助動詞を示し、カタカナはそれが外来語や外国の固有名詞であることを示す、というように役割分担をする。このようであると、漢字を多く知る人には文章が把握しやすくなるのだ。これは大きなメリットである。

 さらに、文字に意味があるため、専門用語も理解がしやすい。たとえば、英語の母語話者でもどのくらいの人が「pectoralis major」ということばを知っているだろうか。これは漢字で書けば「大胸筋」で、「筋」は「muscle」、「胸」は「breast」、「大」は「big」であるから、何であるか一目瞭然だ。あるいは「limnology」、漢字で「陸水学」。「陸」は「land」、「水」は「water」、「学」は「science」なので、だいたいどんな学問か想像がつく。英語では、「-logy」だから「学問」なんだろうが、それ以上はわからないだろう。加えて、「陸」の字は「上陸(landing)」「着陸(landing of airplanes)」「離陸(takeoff)」「大陸(continent)」「陸軍(army)」「陸橋(overpass)」などでも用いられる。「陸軍」に対し「海軍(navy)」「空軍(air force)」という語もでき、不統一な英語の対応語に対し、整然として意味明瞭な体系を提供する。漢字はプロダクティブproductiveなのである。

 反面、同音異義語が多くなるという看過しがたい欠点もあるのだが、そのことが逆に漢字廃止をむずかしくする。漢字をやめて、かななりローマ字なりの表音文字だけでかくとすれば、同音異義語が区別できなくなってしまうのだ。聞いてはわからない。しかしどんな字か見ればわかる。盲人にはきわめてやさしくない文字であり言語であることは言わなければならない。

 日本語の語彙は、和語・漢語・外来語からなる(日本古来の語である和語に対し、漢語も本来「外来語」ではあるのだが、漢字で書くことのない外来語を別立てにする)。日本語の語彙に占める漢語の割合は47.5%で、和語は36.7%(異なり語数で。延べ語数ではそれぞれ41.3%・53.9%)。乗っ取られていると言ってもいいぐらいの大きな比率で、これをなくすのはもうほとんど不可能だ。うまくつきあっていくしかない。

 

 漢字の構成法には象形・指事・会意・形声の4つがある。象形・指事は要するに絵文字で、象形は形のあるもの、指事は形のないものを表わす。象形はたとえば「子」(child)や「鳥」(bird)、指事は「上」(top/above)・「下」(down/under)のようなものである。

 会意と形声は2つ以上の要素の組み合わせによる二次的生成で、会意字は意味と意味、形声字は意味と音の組み合わせである。「人(man)+木(tree)」(人が木の陰にいる)で「休」(rest)、「宀(house)+女(woman)」(女が家の中にいる)で「安」(safe)のようなものが会意、形声は「机」(desk:「木(tree)」が意味、「几(キ)」が音)・「時」(time:「日(day)」が意味、「寺(ジ)」が音)のようなものである。

 中国でなく日本で作られた漢字(国字:「働(人man+動move=はたら(く)work)」など)、日本で作られた英語(和製英語:「ベッドタウン(bed+town=suburb)」など)が会意の手法によっているように、2つの要素の組み合わせの方法として会意は非常におもしろい。会意文字はしかし少なく、漢字の90%以上(常用漢字の60%以上)は形声の方法による。ひとつが意味、もうひとつが音を担うのである。意味を示す部分を意符、音を示す部分を音符と言い、意符を「部首」として、漢字検索のしるべとする。

 5万とも10万とも言われる無数にある漢字をどう検索するかは古来人の悩むところで、漢字索引には、ふつう音訓索引・部首索引・総画索引の3つがある。このうちもっとも使いやすいのは音訓索引で、音にせよ訓にせよ読み方がわかっていればこの索引で目指す漢字に到達できる。しかし、字があってその読み方を知りたい場合にはこれは使えない(このことは英語にも言えて、見えない聞こえない話せないヘレン・ケラーを教えたサリバン先生は、自身も目があまりよくなくて、単語の綴りに自信がなかった。しかし教えなければならないので、夜辞書を引いてスペルを確認しようとするのだが、「綴りがわからないから辞書を引くのに、その綴りがわかっていなければ辞書が引けないのはどういうこと!」と辞書を投げ捨てて嘆く。「イナフ」なら「inaf」であろうに、「enough」と書く英語は決して漢字を嗤えない)。

 総画索引はよほどのことがない限り使わない。部首索引がもっともオーソドックスであるが、しかし「開」(open)は「門」(gate)が部首、「聞」(hear)は「耳」(ear)が部首というように、似た形でありながら異なる部首であるのには困ってしまう。そのため、どの構成要素からも検索できる、いわば意符音符索引というものを採用する辞書もある。

 それをさらに進め、細分した要素索引を作っている。たとえば前に挙げた「安」「時」は、それぞれ部首である「宀」や「日」のほかに「女」「寺」でも引けるし、「寺」は「寸」(手の形)でも引ける。ただし、「寺」の上の部分(「土」)はもと「止」(足の形)だったので、「止」のほうに出る、という一見不整合に見える不都合はあるが、字源優先とした。索引には、各要素の配列をどうするかという根本的な問題がある。画数によるという「無機的」方法がもっとも簡便で統一的だが、同じ画数にあまりに多数の要素が並んでしまい、そこでの配列がまた問題になる。ここでも字源による「有機的」な分類と配列を試みた。各要素を、人(ひと・女/子ども)・身体(手・足・頭・体)・自然(天・地・植物・動物)・文化(衣食住・交通・武器・器具・信仰)・記号/その他に分けて並べた。だから「寸」は手の項、「止」は足の項に出るわけだ。面倒だが、慣れれば使いやすいと思う(初めむずかしく、習い覚えていくうちに便利になる漢字そのものと同じである)。字源を知る助けにもなる。字源を知ることは、漢字を習得する上で大きな助けとなるはずだ。この辞書にはもちろん音訓索引・総画索引も備わっていて、この要素索引は部首索引としても使える。ほかの索引を使いつつ、この要素索引に「読む辞書」のように親しんでいけば、必ずや漢字習得に効果があると信じるが、どうであろうか。ぜひ完成させたいと思っている。