いっしょに寝てほしい
夜ひとりで寝るのって怖いですよね! というわけで今日は、「だれか僕といっしょに寝てほしい」という話をしたいと思います。
なぜひとりで寝るのが怖いのか
正確に言うと怖いのは中途覚醒です。夜中にふと目が覚めることが恐ろしいのです。それも時間帯によるものが大きくて、たとえば12時に寝るとして、4時に目が覚めるのは全然平気です。4時だとなんか、もう朝だって感じだし、それに4時間も寝たんだから中途覚醒だとかなんだとか言ってんじゃねえよボケナス、という気にもなります。
小学生のころ、一時期「朝ファミ」がマイブームでした。これは「朝早く起きてファミコンをやる」の略です。これをやると、朝から頭と体にちょうどいい具合の刺激を与えるので、一日中冴えた感じですごすことができます。そのため4時くらいに起きていました。だから今でも、朝の4時というのは起きてゲームをやる時間だというのが自分の体のどこかに残っていて、それで4時に目が覚めるのは怖くないんだと思います。
でも2時とか3時とかに目が覚めるとなると、これはとてつもなく恐ろしい。なぜかというと、とても単純な話で、3時というのはおばけの出る時間だと、幼いころ大人に執拗に教え込まれたからなんですね。たぶん。そういうわけで3時とかに目が覚めちゃうと、言い知れぬ不安におそわれて、やばいどうしようって感じになって、ついつい「ひとりかくれんぼ」をやってしまったりして、余計まずいことになる。これは良くないですね。
ですから、そういうのを防止するためにも、いっしょに寝てくれる人が必要です。
『ワールド・オブ・ライズ』
リドリー・スコット監督の最新作『ワールド・オブ・ライズ』を観てきた。
この人の作品、それとは知らないうちにけっこう観ている。『エイリアン』『キングダム・オブ・ヘヴン』『アメリカン・ギャングスター』『ハンニバル』あたり。有名な『ブレードランナー』と『グラディエーター』はまだ観てないのだけれど。『ブレードランナー』は、高名なSF評論家のゼミ生として、一刻も早く観たいなあと思っている。
さてそんな、代表作も見てない人間が『ワールド・オブ・ライズ』について何を書くかだが、率直な感想として思うのは「戦いがカタい、めっちゃカタい」ということだ。これが僕の見出したリドリー・スコット監督の特徴である。一切のユーモアが排除された戦い。ユーモアだけじゃないな、描かれている「戦い」についての文脈をすべて忘れさせてしまうような、ほかのヤワな要素を全部排除してしまうような、「カタい」戦いを、監督は描くのである。正義なんかどこにもなくて、悪もどこにもいなくて、ただひたすら人間が生きるか死ぬかするだけ、観客はどっちにも感情移入しようがない、そんな「カタさ」である。
『ワールド・オブ・ライズ』はCIAと中東テロリストの戦いを、フィクションと事実のスレスレの線で描いた作品である。僕たちははっきりと思い出させられるのである。テロとアメリカの戦いっていったって、他の戦いにはない特殊な正義感情とか、歪んだ宗教意識があるわけじゃないってことを。現代のテロとの戦いだって、あくまでも人類が営んできたあまたの戦いのうちのひとつに過ぎないんだってことを。冷徹な頭脳戦があり、信頼があって裏切りがある、普遍的な人間の本質がそこにあるっていうことを。
ヘンな意味でいろんな「聖性」をはらんでしまった対テロ戦争を、ひとつの普通の戦争というところにリセットする効果を持っていたんじゃないかと思う。対テロ戦争も、宗教的な嘆きを抜きに、スリリングな情報戦としてハラハラすることができる、というのはもしかしたら希望なのかもしれない。
それにしてもディカプリオが、このカタい映画によく合う硬派な役者になってる。『タイタニック』のころの、甘くとろけるような風貌はもはやどこにもない。なんか「ディカプリオ」という名前も全然似合ってないように思える。純粋に年をとったということかもしれないけど、味のある役者になったんだと思う。
冬の市街
松本さんのことを知ったのはだいぶ前で、外山恒一のトークイベントに行ったときにゲストとしていたんだけれども、そのときに知った松本さんの活動がまさに「市街劇」の精神を受け継ぐものであったので僕はいたく感動したのでありました。
なにやら、先日わが慶應でもなにか活動されたようなんですが、残念なことに私は風邪で寝込んでおりました。冬になると風邪ばかりひく弱い子です。強くなりたい。
現代のアングラ活動家を追わなきゃ、とは思ってるんだけれども、そのために使うツールがインターネットでいいのか、という疑問はぬぐいきれない。けだし市街劇は市街にて求めるものではないのか。
だけども冬に秋葉原とか下北沢を長時間うろちょろすると、弱い子なんですぐに風邪をひきます。強くなりたい。
つくりばなし
ウソかホントかわからないことが、あまりにも多い世の中で「どうせ作り話でしょ?」とかいちいち指摘する気になる人はある意味すごいんだと思う。ポピュラリティのある話に対して、そういうやっかみをもつ気持ちはわかるけど。
だいじなのはウソかホントかじゃなくて、どうしてこんな話が出てくるのか、流行るのか、ってことだろう。
嘘を嘘と見抜けない人がインターネットを扱うのは難しい、っていうあの人の言葉がインターネットの黎明期に流行ったわけだが、最近の実感としては「嘘と本当をいちいち区別しなければ気が済まない人には、インターネットを扱うのは難しい」といったところじゃなかろうか。
レンズと水滴
とある映画の、二人の男女が海で水をかけあって戯れるシーンで、水が一滴、二滴、カメラについて画面がぼやけた。
ありふれた映画の、ありふれたシーン。カメラに水滴がつくことも含めて、ありふれている。けれども、僕は怖くなってしまった。
広い浜辺に、男女が二人っきりというシーンなのかと思いきや、カメラが確かにそこにあるという現実を、思い知らされたからだ。
カメラなしに映画は存在しえないという現実を思い知ったからだ。
なぜ、水滴がついたショットを、そのまま映画本編に使ったんだろうと、撮影者の無頓着さをなじりたくなる。
映画における「カメラの存在」っていうのはけっこう深刻な問題だと思うが、どうなんだろうか?