映画ー半機械的身体論:機械を問う理由2デカルト「方法序説」第一部:学問にかんするさまざまな考察

・良識=理性について

「 良識はこの世でもっとも公平に分け与えられているものである。というのも、だれも良識なら十分身に具わっていると思っているので、他のことでは何でも気難しい人たちでさえ、良識については、自分がいま持っている以上を望まないのが普通だからだ」(8)


*良識〔bon sens〕:もともと「正しい分別sens」を意味する。「真偽を判断する能力」と定義され、「理性」と同義。…〔中略〕…ラテン語bona mensに由来する、「知恵」sagesseを意味することもある。(訳注105)

*上記の表現と類似したものは当時多く見受けられた。例えばモンテーニュ『エセー』2巻17章など。(cf. 訳注105)


「この点でみんなが思い違いをしているとは思えない。むしろそれが立証しているのは、正しく判断し、真と偽を区別する能力、これこそ、ほんらい良識とか理性とか呼ばれているものだが、そういう能力がすべての人に生まれつき平等に具わっていることだ」(8)


「わたしたちの意見が分かれるのは、・・・〔中略〕・・・ただ、わたしたちが思考を異なる道筋で導き、同一のことを考察してはいないことから生じるのである」(8)


「理性すなわち良識が、わたしたちを人間たらしめ、動物から区別する唯一のものであるだけに、各人のうちに完全に具わっていると思いたいし、その点で哲学者たちに共通の意見に従いたいからだ。哲学者たちによれば、理性の多い少ないは、同じ「種」における「個体」の、「形相」すなわち本性によるのではなく、「偶有性」どうしのあいだにあるだけである」(9)


*ここでいう哲学者とはスコラ哲学者ないしスコラ哲学の信奉者を意味する。『方法序説』全体でこの意味は変わらない。(cf. 訳注106)


*伝統的なスコラ哲学→人間=「理性的動物」と呼ぶ→「理性的動物」:存在者の区分のひとつの類「動物」、そのなかに「人間」という種が包合(cf. 訳注106)


*「種」「個体」「偶有性」「形相」:スコラの用語。
例)種:人間、個体:ソクラテス、偶有性:そのものの本性に属さない性質、形相:ものの本質を構成する精神的原理(cf. 訳注106)


「人間の職業、純粋に人間としてなせる職業のうちに、たしかに優れた重要なものが何か一つでもあるとすれば、それこそ私が選んだ仕事だと、信じたいほどである」(10)


*「人間の職業、純粋に人間としてなせる」とは人間が生まれながらに持っている能力つまり理性だけを用い、超自然的な力に頼らないことを意味する(cf. 訳注106)


「わたしの目的は、自分の理性を正しく導くために従うべき万人向けの方法をここで教えることではなく、どのように自分の理性を導こうと努力したかを見せるだけなのである」(11)


「この書は一つの話として、あるいは、一つの寓話といってもよいが、そういうものとしてだけお見せするのであり、そこには真似て良い手本とともに、従わないほうがよい例も数多くみられるだろう。そのようにお見せしてわたしが期待するのは、この書がだれにも無害で、しかも人によっては有益であり、またすべての人がわたしのこの率直さをよしとしてくれることである」(11)


「わたしは子供のころから文字による学問〔人文学〕で養われてきた」(11)


*文字による学問=書物による学問=人文学(cf. 訳注106)


「それ〔=文字による学問=人文学〕を終了すれば学者の列に加えられる習わしとなっている学業の全課程を終えるや、わたしはまったく意見を変えてしまった。というのは、多くの疑いと誤りに悩まされている自分に気がつき、勉学に努めながらもますます自分の無知を知らされたという以外、何も得ることがなかったように思えたからだ」(11-12)


→自然科学を代表とした人文学以外の学問(占星術錬金術、手相術、光学的魔術なども含む)への接近、各地への来訪


「文字による学問〔人文学〕をまったく放棄してしまった」(17)


「世界という書物のなかで研究し、いくらかの経験を得ようと努めた後、ある日、わたし自身のうちでも研究し、とるべき道を選ぶために自分の精神の全力を傾けようと決心した。このことは、自分の国、自分の書物から一度も離れなかった場合にくらべて、はるかにうまく果たせたと思われる」(18-19)

映画ー半機械的身体論:機械を問う理由1デカルト「方法序説」

ルネ・デカルト方法序説』(1637)、谷川多佳子訳、岩波文庫、1997年


方法序説の構成

第一部:学問にかんするさまざまな考察

第二部:デカルトが探求した方法の主たる規則の発見

第三部:方法から引き出す道徳上の規則

第四部:神の存在と人間の魂の存在を証明する論拠、形而上学の基礎

第五部:自然学の諸問題の秩序:心臓の運動、医学に属するいくつかの難問の解決、人間の魂と動物の魂との差異について

第六部:自然の探求への深化、本書の執筆理由

メタボリズムについて(八束はじめ「「メタボリズム連鎖〔ネクサス〕」という近代の超克」、in メタボリズム未来の都市カタログ所収、pp. 10-16より)さらにつづき

「こうした自律的な環境をハードとして考えれば、フラーのダイマキシオン・ドームやメタボリストのカプセルとなり得るし、都市および社会にまでスケールを拡げれば、丹下が自ら述べた構造論的段階の次に窺っていた「情報」の都市に行き着く。デザインの対象を「構造」や「生産」から「情報」あるいは「象徴」にシフトすることによって浮上する総合的な「環境」のフィールドである。メタボリズムの提唱した新陳代謝、つまり固定されずに流動する環境像は、これと大きく変わるものではない。ソフト・メタボリズムと言ってよいようなものだ」14-15


メタボリズムが大規模に構想された機会が1970年に大阪で開催された日本万国博覧会である」15

「日本というネーションを、かつての軍事的ヘゲモニーによる海外進出とは逆に、平和裡な世界統合に向けて拓こうとするイベントだった」15

ここでは黒川とGK、あるいは大谷や菊竹のカプセルのようなハード・メタボリズムが会場中に振り撒かれたばかりでなく、磯崎が「ソフト・アーキテクチャー」として構想し、丹下がかたちを与えた大屋根が中心施設としてつくられたが、それは空中都市のモデルでもあった」15

メタボリズムについて(八束はじめ「「メタボリズム連鎖〔ネクサス〕」という近代の超克」、in メタボリズム未来の都市カタログ所収、pp. 10-16より)つづき

「「東京計画1960」以来、丹下は自分の構想する都市を情報ネットワークによって構成される場として構想した。「東京計画1960」の住民は、もはや地域共同体に根差すのではなく、情報のチャンネル(これは菊竹によって使われた概念である)の中を流動的に渡り歩く匿名的な主体である」14



「 1960年代後半に「情報」と並んで特異な意味を帯びていた概念は「環境」である。「情報」といい、「環境」といい、今日では陳腐化して当時持ち得た清新な意味を理解しにくくなっているが、トータルにコントロールされた「場」という意味を持っていた」14


「重要なソースはバックミンスター・フラーのパッケージ化された環境制御単位というアイデアで、これを日本に紹介した美術評論家東野芳明と磯崎は1966年に「色彩から環境へ」と「空間から環境へ」というふたつの展覧会を開催、「エンバイラメントの会」を結成する。これは美術における」ハプニングや音楽におけるチャンス・オペレーションの考えを包括する「場」としての環境を考えるもので、この構想ではハードよりもそこで行われるイベントに重点が置かれており、磯崎は「ソフト・アーキテクチャー」という概念を提唱した」14


「空間から環境へ」展に関する井口壽乃のシンポジウムでのコメント
(参照:http://moriartmuseum.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/1-d8f1.html

「この展覧会は1966年11月11日から16日に銀座の松屋デパートの8階で開催されました。美術、デザイン、建築、写真、音楽の分野から38名が参加し、わずか6日間で35,000人の入場者があったと言われています。
もともと、この展覧会は粟津潔さんたちによるグラフィックデザインの『ペルソナ』という展覧会が企画されていたのですが、グラフィックだけではなくて、美術や音楽、建築がクロスオーバーする展覧会へと発展させたものに変わったと言われています。
展示作品全体に共通しているのは、作品の素材がアルミやプラスチックなどの新しい素材を用いていること、そしてそこに作品が置かれることによって周囲の空間が変容したり、また観客に環境を意識させるものであったり、展示方法であったりすることだと言えます。
多田美波さんの作品に見られるように、観客の姿や周囲の環境が作品に映り込み、作品そのものに観客が積極的に関与しています。この展覧会では、そうした作品が多く展示
されてました。」

1960年代の終わりには万博を意識した展覧会が企画されるようになりますが、そのひとつが1969年4月26日から1カ月間、銀座のソニービルで開催された、「国際サイテック・アート展〈ELECTROMAGICA〉」です。これは先端技術の文化面への活用を強く意識したソニーが銀座に新しく建設した自社ビルを使った国際的なイベントで、山口勝弘さんに企画を依頼し、東レ、日本電子、IBMほか、各企業との協賛で行われたものです。
展覧会はソニービルを立体的ディスプレー装置として、アートを新しい技術と融合させ、視覚と聴覚によって、都市環境を創造する試みでした。したがって、電気、電子機器を用いた作品によってビル全体に、光、運動、音による、いわゆる環境芸術をつくり上げたのです。
こうした60年代末の展覧会には、日本国内の芸術家ばかりでなく、国外作家との交流が盛んになってきます。国際的な現代芸術のひとつの大きな流れのなかで芸術活動を展開していったその記念碑的な出来事として、また1970年の大阪万博に直接的に結びつくイベントとして、1969年2月5日から7日まで代々木体育館で開催された「クロストーク/インターメディア」というものがありました。
・・・中略・・・
音と映像と光のメディアが混然となった21作品が3日間上映され、毎晩3,000人を超える聴衆が会場を占める盛況ぶりだったと言われています。会場の巨大な円形ドームの空間に特別に設置された14チャンネルの音と映像の移動装置によって、観客はディスコティークのような空間で、これまでの芸術鑑賞とは異なる体験をする、当然ながら、今スライドで映していますが、1966年秋の、ニューヨークでEATが開催した「九つの夕べ――演劇とエンジニアリング」を意識しており、EATの「九つの夕べ」をしのぐ内容と規模を目指していたと考えられます。
大阪万博ペプシ館はアメリカのエンジニアリング、先ほど申し上げたEATのビリー・クリューヴァー氏とラウシェンーグが中心となっていたことは、よく知られています。こうした日本とアメリカ、相互の交流を可能にしたのは、日本人メンバーの中谷芙二子さんが重要な役割を果たしていました。
パビリオンの内部にはミラードームによって映像のディストーション効果を演出しているということ、そして中谷さんの「霧の彫刻」が示したように、屋外に新しい環境をつくり出す、つまりギャラリーのような閉じられた空間ではなく、屋外の開かれた空間で環境芸術の整合を見たのです。その意味では「空間から環境へ展」から、このペプシコーラ館に見るような万博へつながるストーリーが描ける。60年代の環境芸術が、1970年の大阪万博で集大成されるというストーリーを描けると思います。



「環境」に関する井口壽乃のシンポジウムでのコメント
(参照:http://moriartmuseum.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/1-d8f1.html

ここで使われている「環境」という言葉は、イコール「都市環境」と言い変えてもいいと思いますが、都市固有の空間を意識したものであって、芸術作品においては観客にドラマのような非日常的な驚き、それまで存在していた空間の見え方が変わるようなものを「環境」という言葉で表現していたと思われます。ですから、作品には観客の参加が求められ、その意味でハプニングへと発展していくものだったと言えるでしょう。」



上記に関するシンポジウムでの浅田彰のコメント
(参照:http://moriartmuseum.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/2-eba1.html

「そもそも、「空間から環境へ展」というときに、「環境」という言葉がどこから来たのか、椹木野衣さんが「浅田孝の『環境』概念からきた」というふうに言ったのが正しいかどうか。それはアカデミックな問題としては重要かもしれないにせよ、本質的には建築・都市計画でも、芸術でも同じようなことを考えていたと見ておけばいいと思うんです
つまり建築・都市計画の文脈でも、日本が満州から南洋まで進出した頃から「環境」というのがキーワードとなり、戦後も南極の昭和基地のプレハブ建築をつくったりした浅田孝らはそれを強く意識していた。と同時に、芸術の文脈でも、フルクサスなどを筆頭にハプニング(今でいうパフォーマンス)が行われるようになり、ハプニングの生起する場をアラン・カプローなどが「ENVIRONMENT」と呼んで話題になった。こうして建築・都市計画において「環境」と芸術の文脈での「環境」がつながって、「空間から環境へ展」という展覧会が成立した。もちろん、「環境」という言葉の起源をめぐる井口さんのアカデミックなお話はそれでいいのですが、ここで話を進める上での了解としては、「環境」概念がどこから出てきたかを問うよりは、今言ったような同時平行性を想定しておけばいいのではないかと思うんです。」

メタボリズムについて(八束はじめ「「メタボリズム連鎖〔ネクサス〕」という近代の超克」、in メタボリズム未来の都市カタログ所収、pp. 10-16より)

メタボリズム
:日本で唯一と言っていい前衛建築——デザイン運動
:構成員(大高正人菊竹清訓槇文彦黒川紀章(以上建築)、川添登(批評家)、栄久庵憲司(インダストリアル・デザイン〔集団GK〕、粟津潔(グラフィック・デザイナー))
:関連する準?構成員(丹下健三、浅田孝、大谷幸夫、磯崎新など)
:1960年の「世界デザイン会議」から15年ぐらいの期間


「未来に対する楽観的な見通しに先導された「ユートピア」的な運動と考えられがちであった「メタボリズム」」10


「国家-民族の建築〔ネーション・ビルディング〕の企ての系譜としてのメタボリズム」11


「〔戦後の〕大都市での人口圧力〔1960年の東京の人口1000万人弱〕は戦前に増して増大し、戦災復興のみならず、新しい生活圏の獲得という課題を旧にもまして引き受けざるを得なかった。生活圏を海外に求めることができないとすれば、残る領域はふたつしかない。海上と空中である」12


「1960年代は戦後復興を完成し、奇跡と言われた経済成長へと転じる時代であった。この時期の初頭に従来の建築の絶対高さの制限が緩和され、都市の空中への伸長、つまり高層化への道が拓かれた」13


「黒川は新陳代謝を意味するグループ名が示唆する生物-生命形態〔バイオフォルム〕のイメージに最もこだわった建築家だが、DNA螺旋を模したメガストラクチャー「東京計画1961ーーHelix計画」や、細胞形は、「山形ハワイドリームランド」や「菱野ニュータウン」にも見られるというように、バイオフォルムは都市から建築まで適用されている」14

「東京計画1961ーーHelix計画」

「山形ハワイドリームランド」



「メガストラクチャーと並んでメタボリズムのトレードマークとなったカプセル(菊竹の言葉ではムーブネット)は、個々の工業的なイコンだけに注目が行きがちだが、むしろ都市あるいは国土全体を生産システムのネットワークとして考える思想の表れである」14

「黒川と並んでこの分野に力を入れた栄九庵のGKは、家具から都市に至るカプセル的な志向を『道具考』としてまとめたが、彼らにとって人間環境はすべてシステム化された「道具」的パラダイムとして包摂される。キッコーマンの醤油瓶から始まって何でもデザインの対象としたGKの仕事は、それがゆえの匿名性を帯びたが、あらゆるものをシステムあるいは生産系として捉えるラジカルな思想であった」14


「 菊竹はムーブネットを徹底的に道具化したが、この共同空間は都市あるいは社会の単位を保証するものだった。この共同空間は、黒川では「道」として実体化され、槇や磯崎では「界隈」として概念化された。これはしばしばユートピア的と形容されがちなメタボリズムの現実的な側面のひとつである」14


「私はメタボリズムユートピア的と形容することをまったく好まないが、そのひとつの理由は、ユートピアと言ってしまうことで、メタボリズムが日本の都市的、社会的現実に密接に関わっていたという重要なモメントが見落とされかねないからである。それは建築家個々人のビジョンの夜郎自大な飛躍だったわけではなく、勃興するネーションとしての日本の社会的野心に結び付いていたのである」14(強調は引用者)

ルネ・シェレール『ノマドのユートピア』(杉村昌昭訳、松籟社、1998年)2

ユートピアというものは未来に照らして活用変化するものではない。それは実現するべき何らかの理想に導かれた予測のなかにあるのではない。そして、ユートピアの思想は「可能か不可能か」といった言葉づかいをするものではないけれども、あえていうなら、ユートピアにおいてはつねに不可能なことの方が念頭におかれているのである。しかし、それは、いつなんどくでもすべてが必要であり、またすべてが現前するということをめぐる不可能性の問題にほかならない」56


「このような空理空論〔=ユートピア思想〕は、それがユートピア戦略のなかに組み込まれ、戦争機械となって、時間の流れに介入するとき、意味をもちはじめるのである。こうした空理空論が、ものごとの流れがかたくなに取り返しのつかない方向に失墜していくことに抗い、その流れを変えることを待望しよう〔*シェレールに従えば生の問題系へ向かう〕。こうした空理空論がそのような流れのなかで起きる出来事に従属するのではなくて、新しい流れをかたちづくることに貢献することを期待しよう。こうした空理空論が本当の出来事を触発し、構築することを願望しよう」57


「彷徨える現実の宿命的な自由落下に対して、ユートピアは解き放たれた自由を対置する。それは予測を座礁させながら偶然を作動させる〔*常に流動的な変化の生の状態。規定的な現実ではなく〕。ユートピアは行方定めぬ運命と手を切って、われわれの情念や欲望と釣り合った「運命」の方向へと——シャルル・フーリエが来るべき近代にむかってそうしたように——向きを定める。ユートピア思想が空理空論だとして、それは浅はかな考え、間違った見方、忘却、愚かさといったものに最終的に打ち勝つだろうと考えることがつねに正しいのは、このような方向性=意味においてである」58