1歳半検診

1歳半検診に行ってきた。
最初チェック項目を見た時、今までの検診から内容がやたら難しくなっていると感じた。
「いいえ」を8個ぐらい付けて会場に向かった。


すると、保健師や医師の様子から、大体の子がクリアしていることに気づいた。
私も曲がりなりにも専門家なのに気づかないもんだね!
毎日一緒だから我が子が標準だと思いがちだし、それに発達については人と比べないよう比べないように心掛けてきたから。


結局1歳半検診では、専門機関への紹介状をもらい、全く検査せず終わった。発達の遅れか偏りがあるということだ。でも、その時はあまり落ち込んでいなかった。遅れがあっても発達障害があっても、今まで出会った子たちはみんな輝いていたし、将来の道筋も知っているし、親が第一の応援団になれば大丈夫、知識ではそう思っていた。


それから数日、毎日通う児童センターで周りの子の様子を観察してみたら、深く落ち込んだ。
人と比べるのは地獄だ。


同月齢で車を走らせたり、ままごとの包丁で野菜を切ったり、見立て遊びをする子たち。きっと親御さんはごっこ遊びに付き合うのも大変、と思われているのだろう。


でも、全く見立て遊びをしてくれないのもそれはそれでツライ。私は段ボールでトンネルを作ったり、100均の材料でジオラマ作ったりした。我が子は今の所全く興味を示さない。一緒にこんなごっこ遊びをしよう、工作をしよう、そう、そんな夢を何ヶ月か前の私は膨らませていたんだ!


他の子の見立て遊びを見ながら、そのことを思い出して泣きそうになった。そして我が子の独特な遊びを見て悲しくなってしまう。


人と比べるのは地獄。
本人の今の楽しみとかけ離れた大人の夢を押し付けることになってしまうから。


今、本人が目を輝かせることを観察して膨らませてあげること。
困った行動もよく観察して許容したり工夫したりすること。
本人を見るのが一番だなって。


今まで「発達に遅れがあっても偏りがあっても何ら悲観することないですよ」と言う立場だったけれど、親が勝手に抱く「普通の夢」は強固で、そこがツライところなんだな、と思わされた。



息子の遊び。箱のシンデレラフィット。

異質な人、他者って言いますよね。その異質な社会観、身体。
つまり、他者って言われる人に対して絶対に無関心であっちゃいけない。無知であってはいけない。
基本的な事は、他者に対して、きちんとコミュニケーションを取って他者のことを知らないといけないっていうか


その前提には、他者に対するよくいうリスペクト、尊敬がないと成り立ちませんよね。
差別するために他者がいるんじゃなくて、違う世界を持った人だから。
違う世界を持っている人というのは知らない人にとってはすごく面白い未知の世界であると。
リスペクトていうものがベースにあって他者、異質な人と関わっていくというような世界になるとこの世界はもっと面白いんだと。


脳性マヒの方のドキュメンタリーを撮った映画監督 原一男
NHK 日本人は何をめざしてきたのか 第6回 障害者福祉より

ワグナーベスト5

らららクラシック、父が美濃さんに萌えているだけかと思ったら、いい番組だった。リムスキー・コルサコフの「シェヘラザード」、オクターブの使われ方の解説があったことで、いかに繊細に作られているかが分かって聞き所満載だった。


そこからクラシック聞きたいモードへ。「桐島、部活やめるってよ」と「メランコリア」を観たことで突如やってきたwagnerブーム。今まで漁った中で背骨に震えが上がってくる順に並べてみた。

  • タンホイザー第一幕overture ガチロマンチックな冒険譚の始まり(展開が早め) 物語が始まりそうなAメロ、切ないBメロ、胸高まるCメロ、どれもが秀逸かつキャッチー。それらが開始約2分で出揃うというドラマチックさ。https://www.youtube.com/watch?v=KTM7E4-DN0o

BIWAKOビエンナーレ

 今まで全く知らなかったイベント。それもそのはず個人が主催。とはいえ今回で6回目ということでなかなかの作品数。展示場間の距離感が絶妙で、徒歩でちょうど一日たっぷり楽しめた。
 最初は不親切さにイラッとした。市営駐車場で配られた地図にも記載が無く、案内板がその場所にしかなく、メイン会場すらなかなか見つけられず…。のぼりも旗も一切なく、町ぐるみで応援している感じもなく、本当にイベントがあるかどうかすら疑うほど。
 でも、回っていくうち、大まかな地図や、ほかの人の流れをヒントに迷って見つけ出すもまた面白いと感じるように。逆に今までの大規模アートイベントが懇切丁寧過ぎたとも。
 作品の完成度は玉石混交(クワクボリョウタを大きくしたもどきの作品には閉口…)。
 それを補うのが、建物の力。江戸期に作られた空き町家や元造り酒屋が効いてる。低予算のためだろう保全は最低限で、雨は漏ってるし、床はギシギシ言うし、掃除も行き届いていない(スリッパが置いてあるがそれも使用感が…)。でもその朽ちた感じが、清潔すぎるリノベーションには出せない雰囲気を出している。生活感あふれるミニ廃墟とでもいう空間が展示スペースの隣にあったりして、それもまた興味深い。
 そして迷路感。分岐したコースの奥行きが深く、進むのをためらうほど。広くて高くて暗い造り酒屋の醸造スペースから、建物間の真っ暗な裏路地へ、続く小さい純和風中庭、靴を脱いで住居スペースへ、その転換が楽しい。
 ボランティアは一会場に一人。迷路だったり2階があったりするので、死角がいっぱい。そしてすべての作品が写真撮影可。お客を信頼したかなり自由な展示姿勢。一つ一つのスペースが独立しているので、それなりに人が居ても、独占して見れる時間帯が多いことも素晴らしい。

 お金をかけていない割には見ごたえがある印象。作品が増えた10年後ぐらいにまた来たいと思った。

TV日本人は何をめざしてきたのか 丸山眞男

 私は教員採用試験に長いこと受からなかった分、いろんな学校で、いろんな先生の授業を見る機会があった。いろんな素晴らしい先生が(もちろん反面なんとやらも)いたが、一番民主主義を貫いてて唸らされたのは20代女子のかとーちゃん(仮)だった。

 かとーちゃんは、多数決を取る場面で、必ず全員の挙手を待った。人数を数えて足りなければ何度でもやりなおす。まどろっこしく感じたが、一回でも全員に挙手させないことがあると、迷ってたり、勇気が出なかったり、話しを聞いていなかったり、面倒くさがったりしてまだ挙手していなかった子が「あ、無視された。私の意見が反映されないんだ。なんか議論に参加する気が萎えてきた」「考えないで済むならそれでいいや」となってしまい、次回からどんどん参加しなくなっていってしまう。
 また、「一人1日1発言」も行っていた。私の支援していた子はこのルールがあることで、授業を何となく聞いて、自分の参加できそうな部分を見つけるとすかさず挙手をしていた(次年度、このルールがなくなると彼は内職に専念するようになった)。

−デモクラシーの考え方は『パートタイム政治参加』です。つまり大部分は職業政治家じゃないわけです。国民であって。人民主権という意味ですね、大部分は職業政治家じゃない人民が、政治について最後の発言権を持つという考え方でしょう。だからアマチュアが「知らねえや」とシラけちゃうと「政治なんて関係ねえや」ということになったら民主主義はおしまいです。すこしの時間を割いて、職業政治家のやる政治を監視しなきゃいけない。やっかいなんですよ。やっかいなことによってデモクラシーは成り立つ。そういう政治の仕組みなんです−丸山眞男 岩手県での講演記録

 そして、多数決の後、少数派の子たちに「これでいいかな? 何か意見があったら言ってね」と必ず確認する。そこで少数派の子たちが納得できる理屈を言って認められることもあったが、たいていは「それでいいよ」とうなづいた。大切なのは、少数派でも「尊重されてる」と感じれることと、自分の考えで多数派を許容したと思えることだ。

「丸山は多数者支配という日本の民主主義の伝統を、少数者の権利から民主主義を組みかえていく」当時東京大学の助手

永久革命としての民主主義は一人一人が主権者として発言できる。ということが民主主義なんだと。その一人一人が発言できるためにはお互いが理解し合わなきゃいけない。対話がなきゃいけない。対話が成立するためには不利な人の立場もその身になって見るということが必要。本当に絶えず一番下から言葉を掘り起こし、主権者としての発言ができるようにするためには、それをくみ上げる他者感覚が必要なんだと。だから私としては『永久革命としての民主主義』と、『永遠の課題としての他者感覚』が、表裏の関係を成しているというのが丸山眞男から今日引き継ぐべき最も重要な遺産だ」政治学者 石田雄

「多数を持っている人たちも自分の考えにあぐらをかくんではなくて、少数、あるいは自分と違う他者へのいっぺん共感してみようという思いを持ってお互いの討論をすると。(そこが今の政治に足りない)」参議院議員 江田五月

 子どもたちは授業が楽しみだった。自分たちの意見で授業ができあがるから、一回一回が手作りの、台本のない冒険だった。
 数学の先生には苦言を呈されていた。「算数の本筋から逸れる意見はもっと軽く扱ったら」と。それでも彼女はどの意見も大切にし、効率を優先して教師から正解を漏らしたり促したり台本通りに進めようとすることがほとんどなかった。
 学校全体での発表会に向けても子どもに任せ、教員が手を入れまくった劇などに比べると完成度は低かった。
 一度、私が側で見ていてグラフのまとめ方のアドバイスをしてしまった。確かに完成度が上がった。そして子どもたちは褒められてこう言った「A先生のアイディアだよ!」…
…待つっていうのはとても忍耐の要ることだ。任せるということも。でもそれをしないと子どもたちが大人の顔色をうかがって正解を探るクイズ大会になってしまう。

−高度成長期以後の日本の政治的社会的現実はですね。ある意味で固定したレールの上を滑るようになっちゃった。軌道が決まってしまっている時代。それはそもそも民主主義ではないのですよ。民主主義とは多様な可能性からの選択でしょう−インタビュー

 極端に専制君主的な教師もいる。大人がビビるぐらいの重圧で、よく子どもが毎日耐えているなと思う。規律正しいが、圧に弱い子は学校に来なくなる。
 授業を工夫するのが、子どもと楽しむのが好きな教師もいる。そういう場合規律が欠けがちで(子どもが調子に乗って軽口叩くんです)、子どもには愛されるが周りの教師からの評価が低くなりがち。
 tossな教師もいる。tossは全員をスモールステップに乗せるやり方で、学習につまずく子の学習量の確保という面では素晴らしいと思う。ただ、授業は完全に台本通りでどちらかというとクイズ大会に近い。
 彼女は、いけないことをすると氷のような目で見、子どもをピリッとさせる。でも根っこは完全に民主主義。その絶妙なバランス。
 もう一人、子どもの議論をひたすら待ってすごい6年生を作りあげていた30代男性も知っているのだけれども、彼女のクラスもその男性のクラスも次年度担任が変わったら、担任に落胆し、「議論への全員参加」「少数派の尊重」という民主主義は見るも無残なことになったんだよな…。
 民主主義は構成メンバーに寄るのではなくて、末端の意見も尊重されるというシステム作り(と、その理念の徹底)にあると思う。

−民主主義は制度としてでなく、プロセスとして、永遠の運動としてのみ現実的なのである−新安保条約から2ヶ月後のノート

−世界中どこも民主化が完了した国はない。し、これから永久に革命していかなければならない。あらゆる国は民主化の過程にある−講演記録

ならずものがやってくる ジェニファー・イーガン 谷崎由依訳

 過去、現在、未来にまたがる群像劇。

 思春期に親友が男に取られるのを間近で見続ける痛さ。思索家で気遣いのできるいい子があっけなく亡くなる理不尽さ。独裁者に堂々と立ち向かう元女優の爽快さ。保守コミュニティを凛と生き抜くマイノリティの子どもや母親。

 それでも死にさえしなければやり直しが効く。死んだとしても、生者の中で何度も思い起こされ色濃く生きている(それこそ忘れ去られた知人以上に)。全くその通りだ。

 PTAのマグノリアのように大団円のようなものを迎える群像劇なのだけれども、PT.Aの登場人物は、一人の人の激情のベクトルの方向が逸れず、ある意味単調、でも単調さを上回る笑えるほどの執拗さがその壁を乗り越えていく特殊な(でも実在感のある)人物という感じ。
ジェニファー・イーガンの登場人物は、一人の人(例えばサーシャ)が時代時代によって様々なベクトルを見せる。それがより身近で、生々しい。

 自分達はこんなに破滅的にはならないなあとほっとしたり、このまま田舎らしいサイクルに何十年か巻き込まれた自分ってのを想像して耐えられるのかと想像したり…とにかく物語と一緒に、自分と周りの人々ももならずもの(時の流れ)にガッと襲われ、現在こういう状態にあり、そしてこれから何十年とならずものに飲み込まれていくのだということが見えて、時折空恐ろしさを感じずにはいられなかった。

 ロックファンは「親子共通の趣味がパールジャムとか暗っ」とか、ちょっとプラスαで楽しめる。

このお題で思い出したのがルシャス・ジャクソン。ヒップホップの影響を多大に受けてて、ビースティーボーイズの妹分的な存在。作曲能力がずば抜けてると思う。youtubeでざっと検索しても何聴いてもかっこいい。
Luscious Jackson - Naked Eye
http://www.youtube.com/watch?v=0NhqN0KcWAE