誰の為にブログを書くかについて

ブログを日記として書いている人もいれば、収入の手段として書いている人もいる。自分の名前を上げる為に書く人もいるし、限られたコミュニティの情報共有の手段として書く人もいる。

私の場合、自分の為に書くというのが第一の目的だ。自分の考えたことをまとめておく手段として最も手軽で便利なのがブログであるからだ。

しかしながら、自分の為に書いた記事も公開されている以上誰が見ても読みやすいように努力する必要はあると考えている。これが第二の理由につながるのだが、自分がまとめた思想に他人からのリプライが運よくもらえた場合その意見は非常に価値のあるものと考えるからである。

自分の為に書きつつも、複数のメリットを期待してまた書き始めよう。
久しぶりに文章を書いたからなんだか書きにくいなぁ。

ダビンチ・コードはソニーにとって幸か不幸か

ダビンチ・コードが昨日から公開された。私はまだ原作も映画も見ていないので、ストーリーについてはよく分からないが、カトリック教がこの映画の内容を反カトリック思想として問題視しているらしい。その表れとして、ダビンチ・コードの配給会社であるソニーピクチャーズの親会社ソニー製品の非買運動をしているとのこと。

このニュースに対し、ソニー製品の売り上げが多かれ少なかれ減少することはソニーにとってマイナスであるという見方がある一方で、これだけ大々的に取り上げてくれればタダで映画とソニーの宣伝してくれているのと同じためプラスに働いているとも考えられる。

私独自のせまーい考えで思いついたのが、反カトリック教の人たちからの支援がソニーにとってプラスになるのではないかということだ。ついこないだソニーの発行済み株式の半分以上が外資になったことに関連して、中東あたりの大金持ちの人たちが株を買うのでは?なんて考えてしまった。

どちらにしろ、ダビンチ・コードが全く注目されずヒットしないよりはソニーに対し良い方向に働いているような気がするのだが、そこんとこどうなんでしょう?

変化または安定を望む人

公務員で安定した生活ができるとか、ベンチャーで波乱万丈な人生を歩むとか現代は多様な価値観があるものだ。20数年の人生の中で共に働いてきた人達を見て良く考えることは、「ルーチンワークや時間給で働く人たち」と「変化を望み様々なことにチャレンジしたり学んでいる人たち」の違いである。

その違いとは人間の奥深みである。前者も後者もどちらの方がが頭が良いとか正確がどうとかといった基本的な人柄にはあまり傾向がないように思えるが、その人が持つ魅力というか、その人に対する興味が全く異なってくるのである。例えば僕がアルバイトで働いていたサービス業の社員に対する印象だ。決して悪い人柄でもなく色々なことを知っている人だったのだが、その人がそれまでの人生をどう歩み、どのようにして考えてきたのかということに対し興味が持てなかった。そして、これからどのように生きてゆくのかということにも興味が持てなかった。また、そのような話が聞きづらいというものあったのだろう。その理由は、ルーチンワークという閉塞感から聞いてはいけないという暗黙のルールが自分の中にあると同時に、相手にもそのようなオーラが出ているからだったと思う。

逆に、様々な新しいことにアンテナを張り、未来について多くのことを考えている人には色々な興味がわく。僕が勤めていたベンチャーのスタッフは皆それぞれに会社のことや人生について考えており、これまでも、おそらくこれからも激しい変化の中で生きていく人たちだろう。彼らがどのようにして今まで歩んできたのか、これからをどのように考えているのか。そのような話をすることが楽しくてしょうがない。

色々な経験をするということは、同じことを繰り返すことに比べ失敗や挫折を経験することが多い。同時に、成功や成長する機会も多くなるだろう。そのような経験を多く得た人の人格は自ずと魅力的なものになるだろう。一般論や理論を永遠説明するよりも、その人の経験談を話される方が感動しやすいのと同様に、その人に対する興味も、経験の多さが重要なファクターになるのだ。

常に新しいことにアンテナを張り続けることの難しさ

つい1ヶ月ほど前まで、プログラマーとして生活していたが、最近コーディングをすることから離れるようになった。その結果、自分が恐れていた状況がこんなにも早く訪れるようになるとは・・・。

それは業界から取り残されるという状況である。

今現在、僕は新入社員として企業に勤めているが、今度配属される部署や会社の僕に対する評価が優遇されているのはプログラマーだったという経験からくるものがかなり大きい。その優位を今後も持ち続けたいと思っていたため、いまでもはてなを始めとして現役時代から利用していた情報リソースには目を通すようにしている。

しかし、最近どうも感覚が鈍ってきたように思える。というのも、現役のときは「おお、このニュースは熱い!」と気づいたことに対し、その感覚が鈍ってしまい、見過ごすことが起きてきたのだ。当時Web2.0とはいかなるものかと毎日考え、次世代のWebサービスについてあれこれアイディアが浮かんできたが、今ではそのようなことを考える時間はめっきり減ってしまった。それが、この感覚の鈍さを生じさせたものだと思う。

さて、このような状況で昔(といっても一ヶ月ほど前だが・・)のような間隔を取り戻すためにはどうすればいいのか。今のところ解決法は一つしか思い浮かばない。

もう一度プログラマーになるしかないのだ。

仕事で使わなくとも趣味でWebページを作るなど、コーディングをしなくてはならない状況を強制的に作り出し、PCに・プログラムに触れる時間を増やす必要がある。さもなければ、僕の長所となっているフィールドの時代に取り残されてしまう。

僕が働いていたベンチャーの社長にこんな話を聞いたことがある。

「技術の最先端を走っていられるのはせいぜい40歳ぐらいまで。それ以降はそれまでで一山をあてて、その山を運用して暮らしてく人が多いよ。」

この話が本当だとしても僕にはまだ、そのときまで20年ある。いつ実際に役に立つかは分からないが、それでも技術の最先端を走る姿勢を保ち続けたい。

論理の範囲を広げるとは

クリティカルシンキングという本を読んだ。

[新版] MBAクリティカル・シンキング

[新版] MBAクリティカル・シンキング

今まで私は“論理”に関して狭義の意味でしか捉えていなかった。ある限られた範囲内で論理を構築することは多くの人ができるものだと考えていたし、実力差を生むのは論理を持った上でのクリエイティビティーだと思っていた。

しかし、この本で述べているのはそのような狭義で初歩の論理ではなく、かなり広がりを持つ範囲内での論理を構築することの重要性であった。通常様々な要因が存在する状況下で思考するとき、論理的に考えると錯覚し、実はあらかじめ自分で限定した条件下で、条件の漏れに気づかず、安易な論理構築を行っている。

例えば、「営業部の営業効率を上げる」という命題を与えられたとき、「では売上高を向上させるために、情報共有システムの導入をしましょう」といきなり解決案を挙げその案に関して論理的に議論を行うといったケースが安易な論理構築である。そもそも、営業効率とは何か、その結果の効果測定が売上高向上でいいのか、なぜそのような命題が出てきたのかという考察を行わなければ、真の目的(この場合真の目的も明確でない)を達成することはできない。

上記の本はあらゆる事象を全体的に把握するためのフレームワークを提供してくれている。

  • MECE
  • ロジックツリー
  • ピラミッドストラクチャー

MECEとはMutually Exclusive, Collectively Exhaustiveの略で、「ダブりなくモレなく」という意味である。ある要素を分解して考えるとき、分解したパーツでその要素を構築できるか、パーツに重なりはないかと考えるのである。例えば人間を分けるならば、男と女であったり、成人と未成年がMECEである。社会人と学生ではニートがモレているのでMECEでない。

ロジックツリーはMECEを用いてある事象や要素を分解し、重要な問題やその原因を突き止めるフレームワークである。種の分化のような図を書くことによって詳細を把握しながら全体を捕らえることができる。

ピラミッドストラクチャーとはある主張をするメインメッセージはどのようにして導かれたかを、論理的に伝えるために用いられるフレームワークである。例えば、

  • B社のサービスを調査することによって効率的なオペレーション案を考えましょう

であれば、

  1. 非常に市場の見通しが難しく、各社ともサービス方法を模索している
  2. そのような状況下でB社は突出して売り上げ高が良い
  3. 自社もいくつかサービスプランを導入したが効果が現れない

のような3つの結論からメインメッセージを導き出すのである。さらに、自社のサービスプランが失敗した根拠を細分化することによって、その根拠を確かなものにするのである。

重要なのはこのクリティカルシンキングの考え方を理解するだけでなく、時間が許す限り使うことなのだ。このブログでも世の中のあるイシューに対してクリティカルに考えたい。

キーボードをたたく意欲

しばらくこのブログの更新が滞っていたが、また書き始めようと思う。

滞っていた理由は、書く意欲が全く沸かなかったことにある。ここ数ヶ月はインプットに比べアウトプットが非常に多く、特に、そのアウトプットの内容が自分のコアに関することが多かったため、文章化して表現するモチベーションが上がらなかった。

さて、なぜまた書こう思ったのか。それは、自分の知のストックがどんどん減少している気がしたからだ。知のストックとは、考えたことに対して論理的に考察を加えてまとめることで、すぐにその内容を出し入れすることができるものである。この知は時が進むにつれて自動的に少なくなっていくため、常に増やし続けなければいつかは枯渇してしまう。

そしてもう一つ、書く意欲につながったのが、キーボードをたたきたくなったというなんともオタクな理由である。最近はメッキリPCに触れる機会が減ってしまったため、タイピング速度が著しく低下した。しかし、やはりカタカタとテンポ良くたたけると気持ちがいいものだ。

以上関連性がない2つの理由から、また書き始めようと思う。

時間がないときに如何にして情報を得るか

ずっとPCの前に座っているときは、多くの情報を得ることができる、または得ようとする気力が出る。
しかし、PCから長時間離れて一日中働いていると、外部の情報を得られないし、帰ってきてから得ようという気力がわかない。
今後如何にして情報を収集しそれを見るか工夫をしなければならないのだが、それを思って初めて気づくのがRSSやケータイでのインターネットの有用性である。
ブログの更新も時間があればお気に入りのブログ一つ一つにブックマークを貼り、見ることが可能だが、時間がなくなってくるとその作業さえ負担となりえる。
ケータイRSSは最近やっと注目を得てきたが、もっと簡単に、かつ、自分にあったケータイRSSリーダの開発が望まれる。