森村敏己「個別事例研究は何を目指すのか:歴史研究における質的アプローチ」『質的研究アプローチの再検討』(勁草書房、2023年)pp. 87-109.

 歴史学の方法論についていろいろ見ている中で引っかかったものとして。本筋は質的アプローチの復権のようなものにあるのだが、量的アプローチの大まかな流れや現在の時点で参考とできる概説なども紹介されていて勉強になった。
 著者はフランス史が専門。往々にしてそうなのだが、中東史だとやはり方法論的なトレンドをまとめるような人があまりいないので、少し自分でもやらなければなあ、という次第。

NHKミャンマープロジェクト『NHKスペシャル取材班、「デジタルハンター」になる』(講談社現代新書2664、2022年)

 自分の守備範囲ではないと思ってややアンテナから外していた感のあるミャンマー情勢。しかしこれなどを読むと、ちゃんとフォローしておくべきだったというのが一番の感想。
 NHKでもOSINT(Open Source INTelligence)と呼ばれる主にインターネットを介した公開情報を手がかりに隠れている情報や出来事に辿り着こうとする手法が試みられてきたということで、その最初のターゲットになったのがクーデター後のミャンマー。軍による民主化デモの弾圧、虐殺と言えるような攻撃などについての情報の制限、隠蔽が行われる中で、断片的なデータから、何が起こったのかを、世界(ととりわけ日本の視聴者)に対してリーダブルな、アクセス可能な情報として提示するまでの経緯が描かれている。
 まあこの一連のOSINT的なものに関しては、第一感として歴史学の手法が親和的でありそうな気がするのだが、歴史学側がこれに対してあまりコミットできていなさそうなのが、忸怩たる思いではある(実際にはコミットしている人たちもいるのかもしれないが)。もう少しちゃんと勉強して、授業などで扱っていいかもしれない。

津野香奈美『パワハラ上司を科学する』(ちくま新書1705、2023年)

 今日店頭で見かけて買ってサクッと読了。理路整然と書かれていたので読みやすかった。
 僕は仕事柄パワハラをしていないかいつもドキドキしながら過ごしているので、定期的にこれ関係のものは買って読むようにしている。
 このへんの知見がちゃんと普及して初めて、というところなのだが、とはいえここで書かれているような理念状の管理職をしっかり勤め上げられる人が人間の何割くらいいるのか、とは思う(常に完璧である必要はないが、とはいえ完璧でなくなったタイミングに当たった部下は「運が悪かった」では片付けられない気もする)。
 管理職が上役ではなく単なる専門職の一つになればある程度解決すると思うけど、日本の組織構造でやるのは相当時間かかるだろうとも。

 しかし、「あなたは存在しているだけで素晴らしい」という教育やメッセージが繰り返された結果起こったのは、期待されていた成績向上や犯罪率の低下ではなく、むしろ「負の効果」でした。高い自尊心、その中でもナルシシズムは、プライドを傷つけられたことへの報復として他者を攻撃すること、そして自尊心の高い人は、低い人と比べて内集団(自分が所属する集団)を優遇する傾向にあり、それが差別や偏見を助長させる可能性があることが示されたのです。(pp. 137-138)

 まあそうだろうなというところですが、自尊心が低ければいいというものでもないのが厄介なところで。

歴史時代以前における骨による性別の見分けと女性の社会的位置

Dental Analysis Reveals Startling Truth About Copper Age ‘Ivory Man’ of Iberia
The body buried with exotic goods and in glorious isolation in Chalcolithic Iberia wasn’t a man. The role of women in emerging civilization needs rethinking, the authors of a new paper say

 銅石器時代の人骨の性別の決定が、実は難しいという話から、これまで武器などの副葬品の存在から男性と考えられていた人骨について、女性であるケースがあることが示されているという。
 正直骨格等で区別可能と思い込んでいたが、当然ながら発掘される骨の状態が完全ではないため、骨格自体での厳密な判別はかなり難しいとのことで、その点はかなり意外な事実だった。再調査されて、随分と当時の時代像が変わるかもしれない(結果として変わらない可能性ももちろんある)。

Amazonへの怒り燃える

 Amazonのやり口にもう耐えられなくなったので、Amazonでの書籍購入(特に電子書籍)をやめる方向で考えています。Primeはすでに離脱しました(まだ有効期間は残っているが・・・)。
 まあ今に始まったことじゃないですが、カスタマーセンターの人は自社商品のはずのAmazonKindle端末について何も知らないし、マニュアルを読み上げるほかになんの権限もない、それが売れようが売れなかろうが、使っている人がどうなろうが、次も買おうと思うかどうかも、まったくなんの関係もない。
 本社は本社で、ただ単に客の苦情をそこで止めるためだけに使っているわけで。僕が望むことは何ひとつ得られなかったわけで。
 随分前から企業と末端の顧客の関係はそういうものになってしまって、採ることのできる選択肢は、とにかくこれ以上Amazonを使わないというただそれだけのことしかなく。あとは、まあいろんなところでAmazonの批判をすることですかね。

詠坂雄二ならこれも素晴らしい

 録画でアメトークを見ていたら、書店員芸人・カモシダせぶん氏によって詠坂雄二の『5A73』が紹介、というか激推しされていました。僕の中で、「もっともっと評価されるべき」の5本の指に入る人(その他には片山まさゆき神林長平施川ユウキなど)なのですが、アメトークで名前を聞くとは全く予想していなかったので、驚愕しました。
 このブログ、というか、その前身のはてなダイアリーのタイトルは、「主に挫折と限界の日々」から始まって、気が向いたらタイトルを変えていたのですが、現在使っている「just one more turn.」は、詠坂雄二の連作短編集『ナウ・ローディング』の一編からとったものです。2015年にこのタイトルにした時には僕はほぼ無職で、色々と区切りをつけて地元に帰ろうかと思っていました。そんな頃に、何がきっかけか、もう少しだけ、という雰囲気が出てつけたタイトルでした。その後2015年のうちに現在の職場に採用が決まったので、今思い返すと不思議なものです。
 で、詠坂雄二作品読むなら、というので三つ挙げようと思います。

『遠海事件 佐藤誠はなぜ首を切断したのか?』
 僕は割とある作者の小説を読もうと思った時は、できるかぎり最初から順番に読んでいくのですが、詠坂雄二の最初の作品である『リロ・グラ・シスタ』は、当時書いた読書メーターの感想を見るかぎり、あまりピンときていなかったようで、どちらかというと『遠海事件』からハマったという感じです。
 この本の主人公(というか話題の中心となる人物)である佐藤誠は、比較的小さな書店の店員なのですが、長年にわたって数十人の人間を殺している人物でもあります。その彼にとっての特別な事件になった殺人事件が、その書店で万引きをして別の店員に捕まった学生の視点から描かれます。
 とにかく佐藤誠が魅力的な人物で、不思議な読後感になります。もしかするとカモシダせぶん氏も、自身が書店員であるので佐藤誠から入ったのではないかという気もしないではありません。逆に、佐藤誠に影響されて書店員になったのかもしれませんが。

『電氣人閒の虞』
 読みは、でんきにんげんのおそれ、です。こちらは多分読む人を選ぶと思いますが、僕個人としては平成ミステリベスト10を選んだ時に挙げているくらい好きな作品です。
 電氣人閒という都市伝説を調べていた大学生が死亡した事件について、ライターの主人公が調査していくが・・・といった、割とありがちな出だしではあるのですが、最後の方の展開がめちゃくちゃ僕好みの展開で、たまに読みかえしていたりもします。

『インサート・コイン(ズ)』『ナウ・ローディング』
 3つと言いつつここで2冊挙げているわけですが、やっぱり『ナウ・ローディング』を読む前に『インサート・コイン(ズ)』を読んでおいた方がいいと思うので。両方とも「ゲーム」を題材としながら、さまざまなところに発想を広げていくタイプの短編が集められています。
 『インサート・コイン(ズ)』は、柵馬というライターがゲーム雑誌の記事を書いていく日々で浮かんだ疑問を追求していく中で、日常ミステリ的な形になっていくというものです。題材はマリオ、ぷよぷよスト2ドラクエ3など、主に80年代後半〜90年代くらいの空気感を元に描かれたレトロ的なものなのですが、そこに独特の切り口が絡んできて、読ませるものになっています。
 『ナウ・ローディング』は、そのゲーム雑誌が廃刊になった後に、柵馬が下世話な雑誌に連載していたゲーム関係の記事とそれを書く際のもろもろ、という感じの連作短編集です(最初の一編である「もう一ターンだけ」はそこに至る助走のような感じですが)。こちらは2000年代の雰囲気の元に書かれており、よりマニアックな題材もとりあげられています。こちらは、そうした過去に関する考察とともに「リスタート」についてさまざまな考えられた作品群となっており、そのあたりが、当時の僕にグッと刺さったのでしょう。
 「もう一ターンだけ」は、柵馬が昔通っていた「文化系の」専門学校に講師として一コマ授業を担当するようになり、そこで、昔書かれた「タイムレター(タイムカプセル的に封印された文章)」を処分するように頼まれる、というところから話が始まります。
 また、もう一つ『ナウ・ローディング』の中で好きなのがRTAを題材にした「悟りの書をめくっても」です。RTAは、本来はそういう目的では作られてはいないゲームをタイムアタックで、どれだけ早くクリアできるかを競うという遊びで、この作品は、ドラクエ3でRTAをやっている人の一人に対するインタビューという形で始まり、現在の記録保持者の不正発覚という事件の不可解な部分を追求していく、という展開になっています。やはり「リスタート」の形、というのが最終的な焦点になるのですが、僕も歳をとる中で、この短編で表されたような感覚というのを覚え始めていた頃でもあり、ある種の指針でもあるかもしれません(僕はそういうふうにはなっていませんが)。

 ということでダラダラと書いてみましたが、詠坂雄二を最初に読むなら『遠海事件』が、『5A73』を先に読んで面白かったなら『電氣人閒の虞』が、古いゲームにある程度知識(とノスタルジー)があるなら『インサート・コイン(ズ)』がおすすめです。

東大作『内戦と和平:現代戦争をどう終わらせるか』(中公新書2576、2020)

kindleで読了。主に国連の立場からの和平構築について著者の調査体験をベースに書かれたもの(著者は元NHKで、その後海外で博士号を取得している)。
紛争当事者の言葉などに興味深いところはあったが、国連の役割に投げかけられている疑問に十分答えられているとは言えないのでは、という印象。しかしまあ現代の紛争の構図を理解するには良い一冊かと。

形式と意味

文学批評家たちの間に、文学作品において「表現法(ラフズlafẓ)」と「思想(マアナーma‘nā)」のどちらがより重要かという議論があって、例えばジャーヒズは、文学は表現法や形式によって評価されるべきとしている。それは作者が表現する思想は普遍的なものであって、だれでも到達できるものであるのに対し、形式のほうは熟達した作家にしかなしえないものだからである。このように考えられていたから定式的な文体が成立したのであり、また成立しやすかったのである。こうして、文学の最も重要な側面は形式であると見られるようになり、内容の重要性のほうは二の次になった。
(ケース・フェルステーへ『アラビア語の世界』(三省堂、2015年)pp. 121-122.)

この研究書ではジャーヒズの何を引用しているのかは示してくれていないが、ジャーヒズを読むときには頭の片隅に置いておくべきかもしれない。

Twitterの変容によせて

ここ八年ほど、スマートフォンの導入とともにTwitterが何かを書くときの主戦場となっていたのですが(それ以前はTwitterもパソコンでやっていたので)、いろいろな変化で、脱Twitterの感じになってきています。とりあえずあるものを活用ということで、なにか研究的に書いておきたいことがある場合は、こちらになるかもしれません。まあただそんなには書くことはないでしょうが・・・。

宗教をどう定義するか

宗教とは、一体、何なのだろう。そしてもっと大切なことだが、それを決めているのは誰なのだろうか。宗教がヨーロッパ、ひろくいえばキリスト教のつよい影響下にある歴史的産物であるとすれば、このカテゴリーの有効性はどの程度あるのだろうか。このような定義を規範的に決定するときに、宗教研究者はいかなる役割を果たしているものなのか。また、宗教とは社会・政治的に自律したもの、すなわち他の要素に還元できない固有のものなのか、それとも歴史における人間の行為の一側面をさす学問的で分類学的なカテゴリーにすぎないのか、という議論が長期にわたってなされているが、そこで問題になっているのは何なのだろう。
ラッセル・マッカチオン「「宗教」カテゴリーをめぐる近年の議論:その批判的俯瞰」『宗教概念の彼方へ』(磯前順一ら編、法蔵館、2003)、pp. 45-46.)

アミーン・ギアツは分析的定義の利点を論じた論文「樹木崇拝と定義について:口承伝統の研究視点から」の冒頭で、「宗教の定義の問題は、宗教研究における方法と理論的範囲の問題に他ならない」と、うまく論点を要約している。
(同上、p. 76.)

最近イスラームにおける「政教問題」について考える機会があり、宗教学の方からいろいろ教えてもらっていろいろ読んでみている。自分の論文で「宗教」という言葉を使うことにはややためらいがあるものの、やはり使ってしまう部分はある。イスラーム史研究の立場からの「宗教」理解というものを考えていくことだけでも大変だが、それと「政治」の関係を考えるのはさらに難しい。
まあとりあえずは、一応の対応概念であるディーンとスィヤーサの意味範囲を考えることから始めるしかないだろう。