例えば

『どうせ私の気持ちなんて誰にもわかりっこない』とか云う。
云う人間にとっては極めてパフォーマティブだが、すれっからしの人間からすればそれはコンスタティブである。
……と思っていた(すれっからしとしては)
が、しかし、『どうせ私の気持ちなんて誰にも分からない』よりも然るべきルールが共有されたならば『実は私の気持ちは誰にも分かってしまう』という事の方が遥かに絶望的ではなかろうか。
キノの旅で、心が通じ合ってしまい結局皆離れて各々暮らす事になった国の話があった。しかし、冷静に考えれば始めから互いの心に醜がある事くらいは始めから分かっているわけで、そんな程度の事で人間は別々に暮らしたりは出来ないのではなかろうか?
真に恐いのは科学的であれなんであれ、根拠を信じる事だ。根拠には、どうせ根拠など存在しないのだから。常にいつも必ず仮説だ。心が通じ合ったくらいで、心が通じ合ったなどと信じられるだろうか? そして、僕は思えない。
だから僕は『どうせ僕の気持ちなど誰にだって分かる』と云う。分かって欲しいと分かって欲しくない事の境界的文学的絶望と希望はそこにはない。ただただ事実として分かられ得る。
然るべき(ただし根拠はない)ルールによってそれは前提としてそこにある。

超電波

現実とはなにか? それは営まれる言語ゲームの総体である。ゲームにはルールがある。ルールを客観視するゲームが蔓延したときボードリヤール的世界は浮上する。ルールを利用するのではなくルールが生き延びるためにゲームが利用される。だが、ルールはルール自身に根拠を持たないためときに別の言語ゲームによりルールを変える。その総体が現実である。現実から逃れる事は出来ないし真実を知る事は部分言語ゲームである。確実な足場など確実にないとして部分言語ゲームを営々と組み立てる事とするならそれはある種の祭司でありペテン師でありそこに実存的意義があるとしてもその実存的意義を維持することなど可能なのだろうか?

http://www.mainichi-msn.co.jp/science/rikei/news/20070207ddm016070095000c.html
しかし、水に話かけて水が変わるわけがないが、水に話し掛ける自分は変わってしまうかもわからんなぁ。……ていうか、ありえねえ。僕はこの類の話を聞くたびに腰が砕けそうになる。
この手の議論のとき、科学側をただ鵜呑みにして良いのか? という理屈を良く聞くんだが、これを云うヤツは必ずどう考えても科学じゃない側を鵜呑みにしていてしかもそれを自覚してなかったりする。つか、ぶっちゃけ死ぬまで騙されてて良いんならもうそれで良いと心の底から投げたくなる。ていうか、害が無い限り僕は投げる。
……どうなんですかね? シツコク否定すると投げるのと、どっちが良いんですかね? 例えば友人がそういう状態になったのなら

いつか、届く、あの空に。

コンプ。面白かった。
色々考える事があったので、ちょっと書いてみる。

1,ギャルゲー的日常の性質
序破急、起承転結、筋、どう呼んでも良いが、これがひとまず物語を作る単線形だとしよう。そしてその中にギャルゲーをギャルゲー足らしめるギャルゲー的『日常』があるとしよう。つまり、『日常』は本来物語に添えられた刺身のツマみたいなものとしてあったとする。
それが膨張したとき、あるいはメインディッシュと意志する事こそギャルゲーを成立させたする。
そうしたときようやく物語と『日常』は敵となる。つまり、主客が逆転したならば。端役が主役を食い殺すような関係となったならば。だから『日常』と筋を少々うっとおしい方程式の絡まりとして描かなければギャルゲーは面白くならない(フェイト、水月、クロチャン)。例えば『日常』だけでは退屈になり(アンダーバーサマー)『筋』だけではもはやギャルゲーではない(菅野ひろゆきの作品は年月を経る毎にギャルゲーでなくなるw)

2,物語とギャルゲー的日常は並び立つか?
タイトロープの上を渡るバランスに細心の注意を払い、成立する。ただし、並び立つが実は両者は別個のものだ。一つの作品として組み上げられたとき、ようやくそれは同じものとして処理される。
が、処理能力、読み手如何によって綻びる。筋が上手く行っていれば寒いジョークも笑えるし、下手に行ってれば寒くないジョークも寒くなる。ちなみに、僕は『いつか、届く、あの空に。』のジョークは結構面白かったと思う。ともあれ、この意味で、やはり別個ではない。

3,
ここに、凡てのギャルゲーを『日常』と筋の方程式として俯瞰する視線があり得るだろう。
その解は『日常』を物語においてどのような位置にさせるかによって揺らぐだろう。


……うん、実は『いつか、届く、あの空に。』すごく面白いとは思えなかったんだよね。ギャルゲー的『日常』は及第というか、おもろい。ただ筋は現代にやる事なのかな? 街や家に縛られた主体ってもう扱うにはカビが生えすぎている。ただ、ギャルゲー的『女の子』自体がそういう制度的なものだから相性は良いんだけどさ。その意味でもギャルゲーってどうなのかという二重の意味で課題というか、不可能性があるのかもしれんね