[本」「ザ・テレビ欄」と共に失われた時を求めて

失われた時を求めてみた。

■1975年4月
2歳〜3歳である。さすがに日常の記憶はほとんどない。しかし、京都に旅行に行ったことを覚えている。駅前のホテルの窓から、電車がたくさん見えた。新幹線が見えて嬉しかった。そのホテルに「おむつを忘れた」といってひと騒動あった。
旅行から帰った後に、家族でその話を何度もしたのだろう。その度に光景を思い出し、記憶が定着したものと思われる。ただ、記憶としてはホテルの窓と窓からの映像として残っている。
また、この頃、新幹線に乗って父の田舎に行っている。なかなか着かなくて途中で泣き出したことを覚えている。「すぐに着く」と言われたのに、なかなか着かないことが悲しかったのだ。駅に迎えに来た親戚の車から見える街灯が美しかった。だから「電気・・・」と言ったのだが、車内の電気のことを言っていると勘違いされ、「電気つける?」などと対応されて電気をつけられたことが悲しかった。そうじゃないのに。どう言ったら伝わるんだろう。この時のもどかしい感情はよく覚えている。
2〜3歳の子供というのは、かなりいろいろなことを考えていて、その感じやすい心で様々なことに悩んでいるものなのだ。

さて、この頃に見ていたテレビ番組としては以下のものがあるが、記憶にあるものがこの頃のものなのかその少し後に再放送で見たものなのか、はっきりしない。
ただ、かなり古い記憶として、「てんとう虫の歌」を見ていたこと、「ゲッターロボ」が終わったと思ったら「ゲッターロボG」が始まったことを覚えており、この期間の後半(〜9月)頃には、定期的にテレビを観ていたものと思われる。

【毎日】
11:00 ロンパールーム(4)
17:00 ママとあそぼう!ピンポンパン(8)
18:00 ど根性ガエル(4)
18:27 キッド・ボックス(12)
18:45 マンガのくに(12)
【火】
19:00 カリメロ(10)
【木】
19:00 ゲッターロボ(8)
【金】
19:00 勇者ライディーン(10)
19:30 がんばれ!!ロボコン(10)
【土】
19:30 秘密戦隊ゴレンジャー(10)
【日】
18:00 てんとう虫の歌(8)
18:30 サザエさん(8)


■1975年10月
3歳。
ガッチャマン」や「ピンポンパン」は確実に観ていた。それ以外は、再放送やこの後の時期に観たのかもしれない。
この辺りの時期が私の記憶のボーダーラインで、非常に懐かしい。何かの刺激でこの辺りの記憶が一気に蘇ってきたら、懐かしさのあまり号泣するかもしれない。(今回の刺激はそれに少しだけ近い。)

【毎日】
11:00 ロンパールーム(4)
17:00 ママとあそぼう!ピンポンパン(8)
17:30 侍ジャイアンツ(4)
18:00 科学忍者隊ガッチャマン(8)
18:00 カリメロ(10)
18:27 キッド・ボックス(12)
18:45 マンガのくに(12)
【木】
19:00 ゲッターロボ・G(8)
【金】
19:00 勇者ライディーン(10)
【土】
18:30 タイムボカン(8)
19:30 秘密戦隊ゴレンジャー(10)
【日】
18:00 鋼鉄ジーグ(10)
18:00 てんとう虫の歌(8)
18:30 サザエさん(8)
19:00 UFOロボ・グレンダイザー(8)

■1976年4月
3〜4歳。
意識としてはこの辺りから「今」につながっている。物心がついたのは3歳だといえよう。おそらく、誰もがそうなのだろうが、私の場合は、その後幼稚園、小学校、中学校、高校、大学とずっと過去を振り返り、懐かしがるのが好きな変わった子供(〜若者)だったので、記憶が多く残っているだけだ。
ちなみに今はその反動で全く過去は振り返らず、従って一週間前の記憶もほとんどない。
ジャングル黒べえ」はかなり懐かしい。確実にこの時期に観ていた古い記憶がある。
日曜日の夜は「グレンダイザー」から「母を訪ねて三千里」。そして「風と雲と虹と」は大河ドラマである。「♪あーああああああー、あああー。あーああーあああー。」という文字で書くと全く分からないオープニングテーマが好きだった。最終回は主人公の平将門(と後に知る)が弓で射殺されるという衝撃のラストで記憶に残っている。

【毎日】
11:00 ロンパールーム(4)
17:00 ママとあそぼう!ピンポンパン(8)
17:30 ひらけ!ポンキッキ(8)
17:30 ジャングル黒べえ(4)
→17:30 巨人の星(4)
18:00 サスケ(4)
18:00 マジンガーZ(8)
18:00 ミクロイドS(10)
18:27 キッド・ボックス(12)
18:45 マンガのくに(12)
【月】
19:00 元祖・天才バカボン(4)
19:00 ザ・カゲスター(10)
19:30 一休さん(10)
【火】
19:00 UFO戦士ダイアポロン(6)
19:00 サザエさん(8)
19:00 アクマイザー3(10)
【水】
19:30 忍者キャプター(10)
【木】
19:00 大空魔竜ガイキング(8)
【金】
19:00 宇宙鉄人キョーダイン(6)
19:00 マシンハヤブサ(10)
【土】
18:30 タイムボカン(8)
19:00 まんが日本昔ばなし(6)
19:30 秘密戦隊ゴレンジャー(10)
【日】
18:00 鋼鉄ジーグ(10)
18:00 てんとう虫の歌(8)
18:30 サザエさん(8)
19:00 UFOロボ・グレンダイザー(8)
19:30 母をたずねて三千里(8)
20:00 風と雲と虹と(1)

■1976年10月
ああ、もうこの辺りは完全に「今」である。いや、言い過ぎた。今と連続した時間軸の上にある。それ以前は時間軸の先が滝になっている。
この頃には続々とロボットアニメ、特撮ヒーローものが始まっている。
我々団塊ジュニア世代の成長とテレビ番組の潮流は一致している。だからたまに「俺がテレビの歴史そのものなんじゃないか?」と思う。いや思わないけど。だがたまに我々の世代は消費者としては非常に恵まれた時代に育ち、消費者としては一流なのかもしれないと思う。そして、たいした価値を生み出さずに終わるのかもしれないと思う。

【毎日】
11:00 ロンパールーム(4)
16:45 鋼鉄ジーグ(10) 
17:00 ママとあそぼう!ピンポンパン(8)
17:20 バビル2世(10)
17:30 巨人の星(4)
17:30 ひらけ!ポンキッキ(8)
18:00 グレートマジンガー(8)
18:00 ど根性ガエル(4)
18:00 恐竜探検隊ボーンフリー(10)
18:27 キッド・ボックス(12)
18:45 マンガのくに(12)
【月】
18:00 みつばちマーヤの冒険(10)
19:00 ブロッカー軍団?マシーンブラスター(8)
19:00 元祖・天才バカボン(4)
19:00 ザ・カゲスター(10)
19:30 一休さん(10)
【火】
18:00 マシンハヤブサ(10)
19:00 超神ビュビューン(10)
19:00 ろぼっ子ビートン(6)
19:30 ピコリーノの冒険(10)
【水】
18:00 ゴワッパー5ゴーダム(10)
【木】
18:00 アステカイザー(10)
19:00 大空魔竜ガイキング(8)
19:00 まんが世界昔ばなし(6)
19:30 グロイザーX(12)
【金】
19:00 宇宙鉄人キョーダイン(6)
19:30 がんばれ!ロボコン(10)
【土】
18:00 コンバトラーV(10)
18:30 タイムボカン(8)
19:00 まんが日本昔ばなし(6)
19:30 秘密戦隊ゴレンジャー(10)
【日】
18:00 マグネロボ・ガ・キーン(10)
18:00 ポールのミラクル大作戦(8)
18:30 サザエさん(8)
19:00 UFOロボ・グレンダイザー(8)
19:30 母をたずねて三千里(8)
20:00 風と雲と虹と(1)

ザ・テレビ欄

素晴らしい本を入手した。その名も「ザ・テレビ欄」という。どんな内容か全く想像がつかないと思うので説明すると、新聞のテレビ欄だけがひたすら載っているという。…ご想像の通りである。
過去のテレビ欄などは、図書館にでも行って新聞の縮刷版などを手に取れば見れはするのだが、重いし、毎日見ても変わり映えしないし、何年分も見るのも面倒だし。ということである。
この本が秀逸なのは、4月と10月(番組改編期)の特番の時期を避けた1週間を、1975年から1990年までの長期間分、ひたすらそのまま掲載しているところにある。ぱらぱらと読んで流れを見ても面白いし、じっくりと読み込んでも面白い。
かくいう私は、1ページ目から熟読である。なんという情報量。時間がいくらあっても足りないぞこれは。
実は1975年からというのが絶妙で、私は幼い頃の記憶が豊富に残っている方なのだが、まだまだ幼稚園に行く前だったこの頃の、薄暗くぼんやりとした記憶が、テレビ番組を通して蘇ってくるのだ。
夕方の5時からは、「ママと遊ぼうピンポンパン」。最後に木の中に入って好きなおもちゃを持ってくる。自分だったらなにを持ってこようか。好きなものが誰かに取られたらどうしようか。出ている子供たちは自分より年上だった。
6時からは「ガッチャマン」を毎日やっていた。薄暗くなってくる部屋。夕方にはなぜか切ない気分になった。
「サスケ」。劇画調のタッチが郷愁を誘う。この郷愁は作品の持つものか。それとも自分の記憶のせいか。
もうプルーストの「失われた時を求めて」だ。(読んでないけど。)思い出がよみがえる。家の情景。ぬいぐるみ。ミニカー。くれよん。「ずっと3歳がいい。」と言っていた。幼稚園に行くのが嫌だったから。幼稚園に行くようになれば、その後小学校に行って、そしていろいろな学校に行って、働くようになって、もう遊んでいられなくなるから。先のことは全く見えなくて、人生は無限に続いているように思えた。思えば遠くへ来たもんだ。
・・・などと都度感慨に耽っていると時間は無限にかかりそうなのだが、ビデオなどなかった我々の時代、テレビというのは確実に記憶のフックになっている。あっちこっちでフックにひっかかりすぎて、なかなか先に進めない。

「1Q84」(村上春樹)

ここ数年、読む小説は村上春樹のものだけだ。そして、こうして久々に文章を書かせるのも村上春樹だけだ。


パターンとテーマは決まっている。
孤独な主人公。彼はいつも些細な何かによってこの世界につながっている。しかし彼が立つのはいつもこの世界の狭間のような場所で、だから周りではすぐに大切な人が「向こう側」に行ってしまう。「失われて」しまう。
そこで、主人公は何らかの通路を通って(エレベータや井戸や深い森や)向こう側に行き、「悪」と戦い、大切なものを奪い返す。(あるいは失敗して喪失感に苛まれる。)悪とは絶対的な暴力であり、戦争のにおいを撒き散らすものであり、父的なものである。大切なものとは、自分と深いところで通じ合っている誰かであり、ヒロインであり、母的なものである。つまり、異世界を冒険して父を倒し、母を得る。という神話的、心理学的な個人の成長という物語の王道を、パターンを変えてひたすら繰り返しているわけだ。
しかし、そんなパターンに全く飽きを感じさせず、そもそも考えてみなければそんなパターンを意識させず、ストーリーに引き込んでいくのは見事な文章力によるものであり、「向こう側」の世界の描写の見事さ。比喩の素敵さ。物語に引き込む構成のうまさ。つい土日で読んでしまった(先週の)。

【以下ネタバレあり】
この物語で、主人公「天吾」は、小説家志望の予備校の数学教師である。今までの主人公たちと比べると普通の人ではあるが、やはり傷を抱えている。そして孤独である。彼は数学の論理的で完成された世界と、小説の文章の世界につながることで、バランスを保っている。もう一人の主人公の「青豆」という女性は、肉体の感覚と行きずりの男漁りによってバランスを保っている。彼らの周りの主要な登場人物たちも皆、傷を抱えている。それは家族にかかわるものだ。彼らは皆、両親に捨てられた、あるいは理解され愛されなかったという記憶を持つ。
この物語が今までと違って美しいのは、全く異なった場所で異なったことをしている主人公2人の人生が、過去のある一点で交差していたことが分かること。そして、その瞬間に相手を心の底から求めたことが奥深いところで自分を支えていたことに、それぞれが気づくところにある。これはなかなかに劇的で、感動的である。人はこのような他人との心の触れ合いがなければ生きていけない。しかし触れ合うのは一瞬であってもいい。そしてその一瞬さえあれば、人はこの世界になんとかつなぎとめられる。
主人公たちがこのことに気づいたのは、それが「1Q84」という世界だからだ。天吾は、「ふかえり」という「向こう側」の世界を知覚する少女の書いた(語った)物語を文章にすることを通して、世界を少し変えてしまった。それにより、青豆が引き寄せられ、二人の人生が交錯することになる。
また、自分を支えるものに気づいたからこそ、天吾は「猫の町」のような非現実的な場所、房総の老人ホームで父に会い、彼を許すことができた。これも過去にはない美しいシーンだ。(村上春樹自身の父が亡くなったことと無関係ではないのだろう。)しかし、ここで和解を果たすのは偽者の父だ。和解の場で、彼が実の父でないことが明確になる。そして真の父が誰なのかは語られず、実の母も幻のままだ。それは、この物語が未完であることを思わせる。

今回、直接的に「悪」と戦うのは青豆である。格式あるホテルという「向こう側」の世界の(ホテルの描写の見事な「異世界」感。)、カーテンを閉めた部屋という「闇の世界」で、青豆は「悪」と対決する。閉ざされて変質した凶悪な宗教集団のリーダー。しかし、対決の場において、彼は自ら死を求めていることが分かる。そして、彼が絶対的な悪ではなく、傀儡に過ぎないことが分かる。これは「ねじまき鳥」や「カフカ」のような絶対的な悪との戦いではない。真の敵は「リトル・ピープル」と呼ばれる「向こう側」の存在と、個人を超えて力を持つシステムだ。宗教集団のリーダーは自らの娘である「ふかえり」を通して、その存在の意思をこの世界に実現させたに過ぎない。そして彼は、人間にとっての悪とは身の丈を超えることだと言う。ありのままの自分を超えようとするところに無理が生じ、影が生じると。彼は世界のバランスについて語り、そのバランスを崩した自分について語っている。それは人間についてのとてもまっとうな教訓だ。彼は相対的な悪なのだ。そしてあっけなく死んでいく。だから、これもまた予告編のようなものだ。向こう側に属する絶対的な悪。悪ですらないかもしれない絶対的な存在。しかし物語の中でそれは邪悪なものを含み、そして主人公はそれと戦わなくてはいけない。
本当の戦いは、始まっていない。だから、この物語はまだ続く。(続いてほしい。)

【以下、勝手な予測】
天吾は、ふかえりの感じたものを、文章を通してこの世界に伝える役割を果たした。それは宗教集団のリーダーの果たした役割と同じものだ。天吾はリーダーの後を引継ぎ、乗り越えなくてはいけない。それは、リーダーが天吾の「父」であることを示していないか。主人公は真の父と戦い、乗り越えなくてはいけない。母は発見されるのか?あるいは発見されないままかもしれない。しかし、そうだとするとふかえりとはすでに近親相姦の関係で、そうすれば「カフカ」と同じ。天吾はすでに母を間接的に得ている。
伏線はまだ残っている。
青豆は、天吾の姿を見かけたというのに、なぜ死ななくてはいけなかったのか?彼女は、死ぬことに失敗しなければいけない。あるいは、天吾が空気さなぎの中に見た姿のように、生まれ変わらなくてはいけない。そして再会し、一緒に悪と戦わなくてはいけない。
小松氏や人妻はどこに消えたのか?リトル・ピープルによって、主人公を孤立させるために遠ざけられた、としても、そのまま放っておかれるにしては重要なキャラクターすぎる。彼らは取り戻されなくてはいけない。

カフカ」を読んだあと、物語が(村上春樹が)あまりに深いところまで行き、絶対的な悪の存在の近いところまで迫り、破綻なく戻ってきていることに驚き、そしてこんな長編は二度と書けないのではないかと思った。実際にその後は軽い短編や翻訳ばかりで、久しぶりの長編になるわけだが、しかしよくもう一度向こう側へのダイブができたものだと思う。これも走り込みを欠かさず、心身を強く健全に保っているおかげだろう。体力と精神の健全さがなければ、深いところに行って、破綻することなく、戻ってくることはできない。どれか1つか2つならできるかもしれないけれど。
それにしても、この薄い膜を一枚隔てたすぐ向こう側に存在を感じさせる異世界のリアリティ。もうダンテかスウェーデンボルグかといった感じで、見てきたのか?ということだ。まあどっちかというと「地獄」とか「煉獄」とかいったものかもしれないけれども、そんなとんでもなく危険な世界のことをぴりぴりするくらいリアルに描き、エンターテイメントとして、とんでもなく売れているということがもう、とんでもないことだ。

…とベタ誉めするのはこの物語に続きがあり、更なる冒険とカタルシスがあることを前提にしているわけだけれども。2冊で終わったら、まあそれはそれなりに完結しているけれども中途半端でカフカやねじまき鳥ほど深くまで達していないね、という感想に変わるのだけれども。

[雑」ほろ酔い

今に在ると言葉はなく。
ほろ酔いとジーンとした幸福感。
怒りも、寂しさも、違和感も、疎外感もなく。満たされている。満ちている。

モノに飽きた我が世代、我が時代。
消費に喜びはなく。むしろかすかな罪悪感。
必要なものはすぐに手に入り。

今、表面的に世界を理解して生きていくだけでは退屈で、だから多くの人は死んだ目をしている。
だからこそ「勉強」が必要で、大いなる「分からなさ」の中に分け入れば、興味は尽きることなく。
この世界を探求し続けること。―外の世界であっても、内側の世界であっても―それを敢えてする人だけが、この世界を新鮮に感じ続け、若く、輝いた目でいられるのだろう。

「崖の上のポニョ」

物語のパターンとしては、「出会い、別れ、再会する」というところで終わるはずだが、それから先が続いていく。だから物語は複雑になっていく。
宮崎氏はかなりいろいろなことを考えて作品を創る人だと思うけれども、「プロフェッショナルの条件」のインタビューなどを見ると、確実に「向こう側」からも情報を得ている人だ。だから自分が意識して考えている以上のものが作品に現れることもあるのだろう。自分でもよく分らないものを創ってしまうとか。そういう意味で、どこまで本人が明確に意識をしているか分らないけれども(恐らく半々だろうけれども)、この話は途中からは完全に生と死を巡る話になっていく。

嵐の夜、リサと宗助の別れが悲しいのは、リサが死に行くことが分っているからだ。
翌朝、崖の上の家以外は全て海に沈んでしまうが、古代の魚などが泳いでいるこの海はもう、死の世界とつながっている。
海の上で会う人々はどこか現実感がない。
避難途中の人々は大漁旗を掲げている。そしてなぜか軍隊調である。祭りも軍隊も死に近い。彼らは三途の川を渡っている途中なのだ。
そして子連れの夫婦。やはり現実感がない。避難中だというのにとてものどかだ。まだ死んだばかりで自分たちの状況がよく分っていないのだ。その中でなぜか赤ちゃんだけが不機嫌だ。唯一、自分のおかれた状況が分っているのだ。産まれたばかりで死んでしまった運命に対して、怒っているのだ。
しかし、最後に笑顔を取り戻す。生と死の間にいるポニョに理解してもらい、そして祝福を得て、笑顔を取り戻すのだ。
山の上のホテルのかんばんは水に沈んでいる。それは、ホテルがもはや安全な場所ではないことを暗示している。ホテルとそこに集まる人々の風景は、この世のものではない。天国とそこに集まる人々だ。
だんなたちも嵐の夜にすでに死んでいる。グランマーレに祝福を受けて、船の集まる天国へと向かっている。
死んだ人達は、誰もが皆同じように、水の上を一つの場所に向かって進むのだ。光ある場所を求めて進むのだ。

宗助とポニョは乗り捨てられたリサの車を見つける。荷物は残されたまま。当然、リサはここで死んだのだ。
そしてトンネル。この存在感と怪しさは圧倒的だ。まさに異界への入口。「千と千尋」と同じように、トンネルは異界への通路だ。生と死をつなぐもの。そして産道だ。「僕ここに来たことあるよ」と宗助。誰もが通ったことのある道。産まれた時に来たことのある懐かしい場所。しかしポニョは通ったことがない。だから「キライ。」懐かしさのない、ただ死へと向かう道。そして一歩ずつ、元の姿に戻っていく。
高台の公園には車椅子が並ぶ。皆、ここで命を落としたのだ。唯一生き残ったトキばあさんが、宗助たちを守ろうとする。そこにある無条件の愛。隠されていた母性。
しかし定めどおり、宗助たちは向こう側の世界に連れ去られる。世界を救うために、彼らは死ななくてはならなかった。
大きなくらげの下、水の中で歩けないはずの老人たちは子供のように走り回っている。産道を通ってたどりついた、ここは子宮の中。彼岸の世界だ。
グランマーレとリサはそこで、宗助たちのことを話し合っている。リサは幼い我が子の死を受け入れなくてはいけない。だから辛い。自分は死んでもせめて幼い我が子だけは、という個人的な願いは受け入れられない。世界を救うために、幼い命は犠牲にならなくてはいけない。
そして、生と死の間で交わされた約束。アダムとイブとなる約束。人類が死に絶え、文明の全てが水の底に沈み、古代の海に戻ってしまった地球上で、生まれ変わって、二人で全てをやり直していくという重い約束だ。人類の文明は大洪水によって一度リセットされ、ここから新たに始められるのだ。

私の情報整理法

情報整理方法の模索というのは、じきにそれ自体が目的化してしまい、しばらく何もしないと落ち着かなくなって、何か変えたくなってくるものだ。だが、幸か不幸か、今のところこのやり方で落ち着いている。


1.情報は1箇所に集める。
・A5のカバー(革)を使用。元々はロディアのメモパッド用のカバー。
・情報はA5のノート2冊(仕事用/プライベート)にまとめる。
・スケジュール管理は「超整理手帳」をはさむ。
・よく参照する資料は2つ折りにしてはさむ。
・パスワードやTODOなどは付箋にメモし、はさんだリフィルに貼る。


2.メモはロディアのブロックメモ(No11)。
・革の専用カバーに入れ、定期(スイカ)入れと名刺入れを兼ねて常に持ち歩く。(名刺交換をする機会は少ないので、数枚の名刺を持っていれば十分。)
・思いついたことはすべてここにメモする。
・必要ないものはそのまま捨て、必要なものだけ上記のA5ノートに貼り付ける。
・ちなみに風呂ではメモをしない。過去、そんなに何かいいことを思いついたことはない。風呂では本を読む。


3.情報整理は時系列。
・紙情報は「超整理法」をそのまま実践している。A4の封筒の上部分を切り取り、封筒に日付と内容をメモして1箇所(引き出し)に放り込む。使った資料は手前に持ってくる。個人の資料に関してはこの方法がベスト。容易さ、検索性、参照性のすべてにおいて、他の方法(ファイルするなど)に勝ると思う。
・進行中の案件では、複数の封筒に分けておき、終了した時点で保存・記録用として重要な資料のみを残す。この時、1案件の資料を1つの封筒に入る分量に絞るプロセスで、情報整理ができる。
・ノートには時系列ですべての情報を集める。ただ、仕事用とプライベート用は分けたい。会議の議事録のメモの横に、「ポエム:『欲望』/熱い衝動が俺の体を貫いた/俺は今荒野へと独り旅立つ/…」などと書いてあったときに、上司に「君、ちょっと議事録のコピーをくれたまえ。いやなに、君のメモのコピーで構わんよ。さあ、早くコピーを。今、私の目の前で。ほら!さあ早く!!」などと言われたときに困る。まあ当然そんなことは書いてないし、そんな状況もないけれども。
・過去の情報検索は、「100円ノートの超メモ術」(http://www.kirari.com/amz/note/)の「最終ページをインデックスとし、該当ページの同じ行に印をつける」という方法を採用。都度マークしていくと簡単で使える。


以上、ポイントはいかに手をかけずにできるか、一瞬たりとも面倒だと思わずにできるか、ということで、私にはこのくらいが限界だと思う。