他人摺り《赤陽》部分


版木一部を試した跡の残っている。画像左端真ん中より少し下、手前の建物の周り、道路部分に走る細い直線など。
乱雑な摺りである。

「小野」印拡大。
何故これを捺したのか。自分で摺ったものだからではないだろうか。他人の作品に自分の印を捺すだろうか?
藤牧の版木を使って摺った模作のようなものとして印を捺したのだろうか。版木を譲り受けたのだろうか?
他人摺りの証拠と考えていいのではないだろうか。

眞偽比較


《赤陽》

 彼方に夕日がありながら道路が不自然に光っている。《赤陽》は当初昼の景色として制作されていたようだ。しかし沈む夕日の光を見て急遽構変更したものと推定される。そのため画面下部の一部はコラージュになっている。
しかしこの他人摺りでは建物の影版も摺ってしまっている。コラージュとなった画面下部の位置を探ったのか、道路の広い部分を拡大すると、摺り損じのような跡、細い直線が数本走っている。切断した版木による跡ではないか。自動車の一部は雑に削られている。画面左下も版木の縁と思われる不自然な跡がある。
藤牧のサイン「F」の代わりに、右下角の余白に「小野」の三文判が捺されている。

(《赤陽》の現場。藤牧が目にしたのはこの景色だ。制作経緯は「藤牧義夫 眞偽」の分析を参考にして欲しい。画像○部分は鶴の湯の煙突)


《鉄の橋》

 遠くの煙突が鉄橋の茶色と同じ色になっている。多色にしたせいで空間がバラバラである。特に地面の安定感が失われ鉄橋は宙に浮いて見える。

 《城沼の冬》

 静寂の空のど真ん中に飛行機が飛んでいる。意味が判らない。

しかもスタンプ式、作品ごとに位置に微差がある。《城沼の冬》は藤牧特有の紫で摺られていたが、作品は退色して灰青色っぽくなっている。この飛行機スタンプは紫のままである。つまり後に違うインクで捺されたものだと推測できる。

 《朝靄》(昭和5年の真作は所在不明。版画同人誌「きつつき」より)

 サイン部分が太く削られ「4」の文字が追加されている!真作は高架線が朝靄で霞んでいる様子を摺りの加減で表現しているが、こちらでは版木そのままに摺られている。画面左端の橋脚線部分をさらってしまっているので高架線が切り離され宙に浮いて見える。人物部分の摺りも雑で、消しゴム版画のように潰れている。山高帽子の形も変更されているが理由がわからない。
何よりも「4.11.9ヨシ」が偽作者の表現したいところであろう。そこが一番目立っている。

 《鐵》

 比較すると橋の遠近感が損なわれ、空間の伸びやかさが失われている。あちこちの線をいたずらに太く彫っている箇所が散見される。煙突は無様に曲がっている。何のために手を加えたのだろうか。
ここに挙げた偽作が「グレーの領域」なのか?そんな馬鹿な!

駒村吉重著「君は隅田川に消えたのか」

牧義夫の版画の代表作といえばやはり《赤陽》《月》だろう。鋭い三角刀の切れ味に圧倒される魅力がある。しかし穏やかな鉄橋などの風景版画をじっくり味わって欲しい。澄み渡った空、吸い込まれるような空気感。何も墨がついていない、余白のような部分が静かに語りだしてくる。これこそ藤牧のブラック&ホワイトの究極表現ではないか。これは《隅田川両岸画巻》などの藤牧の筆の質に近いものである。
駒村吉重著「君は隅田川に消えたのか−藤牧義夫と版画の虚実」(講談社)は《赤陽》に魅かれ藤牧を知りたいという思いからとんでもない事実に出会ってしまった。その戸惑いがノンフィクション作家駒村特有の独特な時間、空間感覚で描かれている。藤牧とは一体どんな奴だったのか。磁力を放つ大谷芳久氏。闇のように現れる小野忠重の狭間で、著者は幾度となく疑問に躓きながら歩いていく。不可解な事が多すぎる。藤牧の父に対する異常なまでの思い、理由の分からない版画の改竄。過去と現在が迷路のように曲がりくねりながら少しずつ真実が明かされていく。
最後の章「蝶になったひと」では《隅田川両岸画巻》の藤牧の視線を追いかけて隅田川を歩く。藤牧のトリックに巻き込まれながらの歩みは決して迷路ではない。この水の気配の漂う静かなクライマックスには、ほっとするような柔らかい感動がある。一読をお薦めする。「藤牧義夫 眞偽」では触れることのない小野忠重の人物像も興味深い。


これは愛媛新聞に載った水沢勉氏の駒村著作の書評である。Facebookの議論とあまりに違う…「小野の人物造形に対して不満が残るが」とある。小野忠重を信頼するのは何故だろう。誰も「黒」だとは言わないが、解明された事実関係からは疑念が生じる。


 他にも藤牧について書かれた著作はいくつかあるが見るべきものはない。私が手に取った牧野将著「赤陽物語 私説藤牧義夫論」(新風社)は、根拠なく《赤陽》をキルヒナーの《ハレの赤い塔》に関連付けたり、三角刀の表現に「稜線光法」と唐突に名づけるなど、著者の思い込みに基づく意図の判らない小説だった。
この本で最もまずいのは、藤牧の甥や姪からの聞き取りを精査することなく全て載せてしまったことである。人の記憶は曖昧である。まして幼少期のそれは非常に怪しい。仮に誰もが知る画家ならまだしも、藤牧の真相は分かっていないのだから大変危険である。また吃驚するのは「ファンタジー・赤陽讃歌」という章があり、これは藤牧とその恋人洋子とのラブロマンスである。著者の思い込みが架空の物語に仕立て上げられ苦笑を禁じえない。隅田川を描くのを薦めたのは洋子だそうだ。最後は二人で夕日の海を泳ぐシーンで終わる。尚、表紙と裏表紙は藤牧版木使用の別人による多色刷りである。

藤牧義夫 羽裏《龍》3月10日まで

2月6日から3月10日まで、かんらん舎にて藤牧義夫が龍を描いた羽織が展示されています。
義兄太田豊治の為に描いたものです。推定17歳の筆。(部分)他に数点の版画、そして貴重な版木も展示されています。
小冊子「藤牧義夫 眞偽-過去は死なない 過ぎ去りもしない」¥300で購入可能です。 


(部分)


藤牧義夫は本当に「失踪」したのか?

一般に「失踪」という場合、自らの意志によって姿を消すことを意味する。
昭和10年9月2日の雨の夜、藤牧は忽然と姿を消した。
ここに同年9月15日に発行された「鯱(しゃち)」という冊子がある。
表紙には藤牧義夫の作品が使われている。紙面には他にも2枚藤牧作品が掲載されている。
発行は「失踪」後13日後である。
(画像、右下は「鯱」に掲載された文章。藤牧の「エノケン」が掲載されている)

【水沢勉 大谷芳久 小野忠重 藤牧義夫】

先日、かんらん舎で「『藤牧義夫 眞偽』-過去は死なない 過ぎ去りもしない」という小冊子を購入した。
そこには神奈川県立美術館館長水沢勉氏の信じられない言葉があった。
大谷氏の著作『藤牧義夫 眞偽』を「悪書」「悪魔の書」、学術書の体裁の「フェイク」だと言っている。これは一体どういうことだろうか。

 大谷芳久著『藤牧義夫 眞偽』という書籍がある。これは1978年に、画廊「かんらん舎」で催した藤牧義夫展において、他人の手による後摺り版画を販売してしまったかもしれないという自責の念から、現存する全ての藤牧の作品を10年の歳月をかけ、徹底して調べ上げ、その真偽を明かした500ページを超える大著である。作品の真偽を判定するには、作家の生き方、思想、信念を知らなければならないと、大谷氏は24歳で突如姿が消えた幻の画家の足跡を多方面に渡り調査し資料を発掘した。そこで明らかになったのは、それまで藤牧を紹介してきた版画界の重鎮、小野忠重による藤牧伝とは全く異なる藤牧の姿だった。
 この労作によって、2011年に藤牧の生地館林と鎌倉で開催された「藤牧義夫生誕一〇〇年展」では疑わしい作品は取り除かれ真作のみが並んだ。展覧会の主たる企画者は神奈川県立美術館館長水沢勉氏である。彼は企画の段階で、かんらん舎に来廊し『眞僞』について
書かれている通りだと思います。ついては藤牧義夫展に協力して欲しい」と大谷氏に願い出た。「真作のみの展示であれば喜んで協力する」と答え、水沢氏はそれを約束した。
「生誕一〇〇年展」は大谷氏とのダブルタッグで実現した奇跡の展覧会だと私は思っていた。ところが、である。その水沢氏がFacebookで酷評している。一体どういうことなのか?小冊子では議論で取り上げられる水沢氏の発言に対し、大谷氏が返答する形で紙面が進んでいく。
しかしそれらの発言のほとんどは既に『眞僞』において明らかになっていることばかりであった。私はこれを読んで書かずにいられないことがある。3つに絞って書いてみたい。
【水沢氏の意見について】
 Facebookでの議論は水沢氏が小野忠重を賞賛するところから始まる。それに対し『眞僞』を3回読んだという足利の画廊主三村氏は小野には信頼が置けないと書き込むと、水沢氏は小野著作には読むべきものが多々あるといくつかの著作を推す。
一方、『眞僞』については、
序文のところで感情的になってしまい、なかなか冷静に読めません
大谷さんは、なるべく自分は騙された『被害者』であるように(恐らくは本能的に)論理を誘導しています
自己弁護の書であるために、その埒外あるひとは、おそらく隅から隅まで読む事は困難な『悪書』であると思います」
まず読めない『怨』の感情のために・・・」「ぼくは全部読んだというひとをあまり信用しません
『学術』の書ではなく、『告発』の書」「更には「『魔』に憑りつかれた『悪魔の書』ともいえます
まるで博士論文を刊行したような『学術書』の体裁。でも、すべてが意識的に『フェイク(みせかけ)』」であるという。
 「悪魔の書」とはどういう表現だろうか。しかし完全に否定する訳でなく、
中途半端な『良書』よりもはるかに優れている」とか「書き手として最高峰のレベル」とも書いている。
どうあれ水沢氏は『眞僞』を拒絶しているように見える。「一〇〇年展」依頼時と、これらの発言、どちらが本音なのだろうか。
これだけ食い違う言葉が一人の人間から出てくるのを滅多に目にすることはない。これらの誹謗とも思える発言に私は強い戸惑いを感じてしまうのである。

  『眞僞』には水沢氏が書いた文章が検証されている箇所がある。1999年10月小野忠重版画館が発行した「版の繪」8号に掲載された「藤牧義夫−最後の輝き」というエッセイである。書かれたのは、藤牧作品に偽作があるなど誰も思ってもいなかった頃である。
文章は小野忠重が60年代から書き続け、定説化していた藤牧伝がベースになっている。

水沢氏はそこで藤牧が描いたという《小野氏の像》を取り上げ賞賛している。これは神田東京堂画廊で開かれた「藤牧義夫版画個人展覧会」の「目録」の裏に描かれている。Facebookで三村氏が「藤牧が描いたとは到底思えない小野忠重のプロフィール」と書いた素描である。大谷氏はこれを『眞僞』で偽作と断じている。 
時は藤牧生前の個展、藤牧の姿が消える3ヶ月前である。水沢氏は
個展を開くことなど、経済的には、夢のまた夢であったはずの藤牧の、小野への感謝の気持ちがそこには、澄み渡った表情で、素直に現れている」小野の藤牧伝にはリアリティがあったようだ。
それは新版画17号「藤牧義夫特集号」の表紙の版画の水沢氏の評にも表れている。「いつもの藤牧のユーモラスな明快さをやや欠くように思える」地下鉄の内部から出口を仰ぎ17という数字を配したこの作品、斬新さが冴え渡る素晴らしい版画だが、「むしろ、藤牧の最後の輝きは、迷いなく、力強い、この《小野氏の像》にこそ、宿っている」と《小野氏の像》賞賛している。しかしそこに書かれた事は実際には違っていた。
東京堂は無料で借りることができたし、額縁は新版画集団の備品。同人の清水氏が「内4枚は職人摺りだった」と報告しているのは、小野忠重が17号出版を早めたからだった。藤牧の体力は全く衰えていなかった。
藤牧は表紙の版画を彫り、特集号の締め切りの日には新版画集団企画の銅版画講習会に参加して3枚の銅版画を制作している。
 水沢氏の『眞僞』への拒絶反応は、まさか「目録」裏に描かれた《小野氏の像》を賞賛したことに起因しているというのだろうか。
しかし、この「目録」は極めて怪しい。私にはどうしても事実と異なる藤牧像を決定付けようとした確信犯的な代物に思えてしまうのである。「目録」には藤牧作とは到底思えない《山の風景》《畠の風景》の表記がある。これらは1930年/昭和5年作、新版画集団参加以前の作品の作品ということになっている。藤牧は昭和7年に新版画集団に参加する。これらの稚拙な作品は新版画集団に入ってから才能が花開いたように見せかけようとしたのではないか。藤牧の昭和5年の真作は、版画同人誌「きつつき」に応募入賞した《朝靄》である。似ても似つかない。
もし《小野氏の像》を未だに真筆だとするなら、この「目録」も「眞」だということになる。ということは《山の風景》《畠の風景》も藤牧の真作ということになる。


『眞僞』の《小野氏の像》の検証ページを見てみよう。これは93年に出版された「小野忠重木版画展」カタログの口絵にある、版を刷る小野の写真の部分である。口絵では下を向いているが90度回転している。《小野氏の像》と比較して欲しい。顔の角度、鼻の穴、眉毛、そして何よりも耳と揉み上げの上の髪の毛の曲線、喉もとの不自然な形など、両者はかなり類似点がある。《小野氏の像》はこの写真を参考に描かれたのではないかと大谷氏は推定する。

藤牧の描いた《太田豊治の像》と比べれば、この絵があまりに稚拙である事は一目瞭然である。署名にも感謝の意など微塵も感じられない。
もうひとつの確信犯的作品《父の像》。かんらん舎での展示図録に小野は「新版画集団参加以前に、《父の像》《山の風景》《畠の風景》また1931年昭和6年春陽会展出品作《ガード下のスパーク》があるが、いまその所在はわからない」と記す。

この《父の像》は他人作と疑うことが難しいことを前提に作られた版画である。父の姿を知っているのはその子供だけだし、藤牧が上京するのは昭和2年、父巳之七はすでに亡くなっている。藤牧が新版画集団に入るのは昭和7年である。集団の誰も生前の藤牧の父を知らない。つまり藤牧だけが描ける《父の像》に疑いを持つ者はいないのである。この疑いを持たれない《父の像》を世に出しておけば、同作風の《山の風景》《畠の風景》も当然、認知されることになる。
しかし、この《父の像》は藤牧作なのか? 新版画同人の版画家清水正博によると、藤牧は下宿に人を上がらせなかったそうである。壁面には彼が愛して止まない父の巨大な肖像画と円に配した父の絵がある。昭和9年の正月に藤牧が撮影したものである。藤牧行方不明後、父の像2点と自室にあったと思える版木も版画も行方不明である。何者かがそれらを持ち去ったのだ。当時、東京にいた姉たちのもとには新版画集団時代の作品は何も残されていない。
《父の像》はこの壁に貼られた藤牧の父の絵を元にして彫られたのだろう。しかしそこには偽作であることを自ら証明する最大の過ちが残されている。ナマコ壁の前に立っているという事は生前の父の姿だろう、しかし着物は左前になっている!死者の装束である。
敬愛する父に対し藤牧がそんな間違いを犯す筈がない。これが何よりの決定的な証拠である。《父の像》も《山の風景》《畠の風景》に似て稚拙である。
 水沢氏はこの目録と《小野氏の像》を「眞」とするのか「偽」とするのか。是非とも氏の意見を聞きたい。
目録は「偽」だが《小野氏の像》は「眞」だということはありえない。それらを「眞」とするなら《山の風景》《畠の風景》も「眞」であり、《父の像》も昭和5年作として認めることになるだろう。

【「グレーの領域」について】
 かんらん舎での藤牧展では行方不明だった《父の像》《山の風景》《畠の風景》は揃って9年後の1987年に鎌倉近代美術館で催された「1930年代の版画家たち−谷中安規と藤牧義夫を中心として展」に出品されている。藤牧を担当したのは水沢氏、小野存命中、彼が書き続けた藤牧伝が形になった展覧会である。藤牧と共に制作をした版画集団のリーダーを信じるのは当然であろう。かつての大谷氏も同じであった。しかし彼と水沢氏との違いは、大谷氏が自責の念を感じ永年の調査後、自ら総括し『眞僞』を執筆したことだ。水沢氏が『眞僞』が読めないのは、同様に責めを感じているからだろうか。そうであれば良いが、彼の言う「グレーの領域」はどうやら違うようだ。こう書いている。
 「『真偽』という白黒の混ざったグレーの領域があり、それを藤牧自身が受け入れていたと思われるフシがあることも少し証明できるかもしれません。大谷さんは、生前他人摺りという可能性を言下に否定しますが、ぼくはかなり存在していると思っています」「それをじわりじわりと証明する必要があると思っています」
 後日、大谷氏が問い質したところによると、「グレーの領域」とは「個展に並んだ作品です」という。先の目録の東京堂に並んだ作品のことだという。ということは目録を「眞」と判断しているということか。
 水沢氏の発言は具体的に何を意味しているのか。既に藤牧作として美術館が購入し、コレクションされている他人摺りや改竄作品が展示できなくなることを恐れているのだろうか。グレーもありでいいじゃないか、と。はっきり分からないから、ちょっとずつ出していきましょうよ、と何処かで誰かと話し合ったりしているのだろうか。そうであるなら『眞僞』をタブー化させておかなければいけない。大谷氏と共に素晴らしい藤牧義夫展を執り行なったことを考えると不可思議でならない。




小野忠重へのシンパシー】
 Facebookの議論で水沢氏は「死者を詰(なじ)るのは不公正のように感じてしまうのです」と書いているが「真偽」には小野を詰っている箇所はどこにも無い。あくまでも別人の手によるもの、と書かれており、その別人が誰だとは一言も書かれていない。藤牧版画は彼の親族や友人からのものを除いて、すべての出どころは小野忠重であり、紹介してきたのは小野である。触れない訳にはいかないだろう。大谷氏は慎重に事実関係を挙げることに徹している。それによって炙り出された事実が疑わしく見えるのであれば、それは小野の言動に起因する思考によるものだ。
 三村氏は「反論出来ない小野忠重氏のことに触れられておりましたが…。では、藤牧の立場はどうなるのでしょうか」と問うものの、これに対しても水沢氏は何も答えていない。彼にとって藤牧は非常に希薄な存在のようだ。水沢氏は展覧会企画や小野忠重版画館や版画全集を編んだこともあり、恩義を感じるのも分からないことはない。しかし藤牧の研究家であるならば偏重なしで考証すべきではないだろうか。「グレーの領域」という言葉は再び不確かな道を歩んでいくことになるのではないか。
 駒村吉重著「君は隅田川に消えたのか」(講談社)には小野忠重自身の画歴にも偽りがあったことが例をあげて書かれている。代表作《三代の死》についてである。小野は履歴に「第5回プロレタリア美術大展覧会(上野 東京自治会館)に連作《三代の死》を出品するも当局に撤回される」と書いた。しかし当時の出品目録には記載がない。そして2009年、町田市立国際版画美術館で催された「生誕一〇〇年小野忠重展」の図録で執筆者滝沢恭司によって精査され、こう書かれている。「ここで結論を出しておこう。以上のような検討から、筆者は《三代の死》が第5回展に出品されたとは到底考えられない。従って撤回もなかったと推測する」。これは何を意味するのだろうか。戦うプロレタリア画家という姿を年表に残したかったのだろうか。
 
 『眞僞』によって明かされた藤牧義夫のまっすぐな姿勢。尊敬する父、巳之七を慕って十五の時に編んだ「三岳全集」「三岳画集」に彼の純粋さのすべてがある。それが全作品を通じて伝わってくる。そして澱みない、時空を超えた映像のような隅田川の絵巻、その後の版画の静かな光。改竄、着色、偽伝記によって埋もれていた若い芸術家の魂は助け出され、本来の輝きを取り戻す。大谷氏は藤牧作品の本質を光の表現に見た。どこまでも澄んで美しい光に「グレーの領域」がじわりじわりと拡大し、再び灰色に煙っていくのだろうか。
そして、何よりも藤牧を侮辱する《父の像》が展示されてしまったら、私たちは芸術家の魂が紙切れ以下の存在に貶められるのを目撃する事になる。絶対にあってはならない。
 水沢氏の「(『眞偽』に)書かれている通りだと思います」「真作だけでやります」との発言は、その場しのぎの方便であり、嘘だったという事になってしまう。
彼にとってあの素晴らしい「藤牧義夫生誕一〇〇年展」とは一体何だったのだろうか。三村氏とのフェイスブックのやり取りは理解に苦しむ内容でありどう考えても不可解に思えてならない。
 

画像出典:「藤牧義夫 眞僞」大谷芳久 学藝書院、「生誕100周年藤牧義夫求龍堂、「藤牧義夫 発掘!」yfujimaki.exblog.jp
  
余談: 
大谷氏の話では、藤牧調査を始めた当時、かんらん舎は広尾にあったが、ここでは情報が集まらないと現在の銀座に移動したのだそうだ。そして一年間は他の仕事をせず、藤牧の調査に専念した。作品の画像比較にコンピュータを使う前は、ライトボックスの上に敷いた版画のコピーを7Hの鉛筆を使用し、トレーシングペーパーになぞる。他人摺りは形が甘く1時間もかからないが、真作は7時間くらいかかるという。
水沢氏は「大谷さんの労作の最大の弱点は、小野忠重側の資料を手に取ってないことです。」と書いているが、新版画集団の発行した出版物と当時の会議録、小野の出版物、日記のすべてに目を通している。また藤牧の着想がないものかと、国柱会の田中智学の宗教文献すべてに目を通す。 《月》の分析の時は夜長、月を見上げて過ごしたという。藤牧の年賀状にあった鳥のような羽の飛行機、ルンプラー・タウベがどんなふうに飛ぶのか興味が湧き、加山雄三主演の東宝映画「青島要塞爆撃命令」のDVDを購入するも、出てきたのはタウベの小型模型。それがほんの一瞬飛んだだけだった。もはや徹底という言葉が恥ずかしくなるほどにとことん調べている。藤牧がだらしない作家だったら、大谷氏もそこまでしなかっただろう。自分の手で掴み、眼で観るように藤牧の真実を探ったのが「藤牧義夫 眞偽」である。そして同人誌「一寸」の販売元、学藝書院から自費で「眞偽」を350部出版、内85部を美術館等に寄贈した。自己弁護の為にそこまでする人間がいるだろうか。
 
以下が「藤牧義夫 眞偽」が寄贈された図書館・美術館のリストである。閲覧可能か、問い合わせて是非手にとって読んでほしい。推理小説の何倍も面白い書籍である。

「藤牧義夫 眞偽」寄贈先一覧:(*蔵書確認済み)
国立国会図書館*(http://iss.ndl.go.jp/
東京国立近代美術館*
http://kinbiopac.momat.go.jp/mylimedio/search/search-input.do?mode=simp&lang=ja
東京都現代美術館*(http://www.mot-art-museum.jp/library/collection.html
国立新美術館*(http://www.nact.jp/art-library/
神奈川県立近代美術館*(http://www.moma.pref.kanagawa.jp/museum/library.html
渋谷区松濤美術館http://www.shoto-museum.jp/
目黒区美術館http://mmat.jp/
八王子図書館(https://www.library.city.hachioji.tokyo.jp/index.php) 
町田市立国際版画美術館(http://hanga-museum.jp/
練馬区立美術館(https://www.neribun.or.jp/museum.html
横須賀美術館http://www.yokosuka-moa.jp/library/index.html
東京芸大附属図書館 武蔵美美術資料図書館 多摩美術大学  早稲田大学 慶応大学図書館
 

藤牧義夫 失踪の謎

小野忠重著『現代版画の技法』ダヴィッド社 昭和33年初版発行より抜粋

牧義夫(1909-25?)と知りあったのは新版画集団創立の年だった。銀座の図案社にかよう二十四歳の彼とほとんど同年輩のなかまが集まって、深夜まで画集(自費出版)のための作品のための作品を刷ったり、ともすれば「新しい版画」を話し合う。(略) 
しかし、しだいに彼の顔から明るさが消えていくのに誰もが気づいた。ふいに訪ねた私は、あおむけに寝て、ボンヤリ天井をながめている彼をみることがあった。小学校の校長だった父がはやく世を去って、生まれた群馬県舘林には義母だけがいた。女きょうだいの末男だった彼は「家」の重荷をいつも背負っていた。(略)
右翼宗教団体に加わり、パンフレットの売込みには、かえってとぼしい自費を使いはたすほど気の弱い彼だった。(略) 
なかまで話し合った浮世絵版画家の話が糸口となり、北斎の貧乏ぐらしと「隅田川両岸一覧」が、東京の下町にほとんどすごした彼の興味をひき、版画にするための素描を目指したのだ。それまでの作品を全部ひとの手に渡してその画巻だけがいつも身近に置かれた。もう展覧会でも画壇でもない。「家」におしひしがれた貧しい彼の頭には画巻だけがあった。(略) 
わずかに寝るだけに帰る部屋、入るとバッタリと倒れる。飲まず食わずの苦行僧の狂熱におそわれて、小柄な彼の頬骨は高くなるばかりであった。それ以来視界から去った彼の骨はおそらく隅田のどす黒い水底に横たわっていると、いまも友人たちは信じている。

昭和53年銀座かんらん舎での藤牧義夫展のパンフレットに小野はこんなことを追加している。

しかし私には彼の別れがしみついている。35年昭和十年の九月にはいるそうそうだった。藤牧があらわれて、浅草の部屋を引き払った、といい、大きな風呂敷包みを二つ、ドサリおいて、これをあづかってくれという。それまで身近にあった版画の一やまと、あまり多くもない彼の読み物、どれも図版のうちにも彼の鉛筆画がのこる、村山知義の表現派やダダの本、「アトリエ」誌のプロレタリア美術特集号などをぶちまけた。そしてききとりにくい小声で、私や新版画集団の友人に対してすまなかったとか、ありがたかったとか、くりかえす。気がつくと、頬に光るものが見えたが、それが胸にこたえるほどの、こちらも年ではなかった。彼が去って、しばらくして、これから行くといっていた浅草の姉の家から「来ない」と知らせがあって、ハッと気がついたのである。・・・』 
この文章以前の著作には「それまでの作品を全部ひとの手に渡して」と何度も書いてきた小野が、急にこんなことを書くのは何故だろうか。

小野の文章に基づいて9月2日の藤牧の足取りをみると(地図参照)、下宿を引き払って大きな風呂敷二つだけを持ってDからBに来た。その後、姉の家Cに行ったことになる。しかし遺族の話その日は藤牧がA地点の太田家におり、Cの姉の家に行く、と言っていたという。そのとき大きな風呂敷包みを遺族は見ていない。2日は雨模様で、太田氏は「雨だから明日にすれば」と話したという。Dの下宿を引き払ってAに行き、BによってCに行くのは不自然である。二つの大きな風呂敷には濡れては困る版画があった。傘をささずに持っていくだろうか。

新聞記事には2日は「豪雨の予想だったが、浸水にまで至らず」とある。小野の話は真実だろうか。小野の著作『現代版画の技法』(昭和31年2月発行)の「青春の残像」にこうある。
私の家から彼の姉の家に行く途中で、彼は消息を絶った。来る時間に来ないので電話があって大騒ぎになり、捜索願いを出したりしたが、それきり彼の姿はこの世から消えた
しかし新版画集団の9月の活動記録に藤牧の捜索の記述はない。彼らは9月に2回会議を行っているが、その議題は近日に迫った版画展覧会に関するものである。
そして10月には第4回日本版画協会展に藤牧の版画が出品されている。姉たちは藤牧が生きているのではないかと驚いたという。この作品の出品に関しては「斟酌すべき事情により集団にて出す」と記録がある。藤牧失踪の件を新版画集団の団員が知ったのは11月以降だった。その間、大騒ぎなどしていない。



(小柄な彼の頬骨は高くなるばかりであった、とあるが、写真では全くそうは見えない。)


出典:大谷芳久著「藤牧義夫 眞偽」学藝書院刊 「藤牧義夫」生誕一〇〇年カタログ